マタイによる福音書2534

本当に配慮すべきこと

 

 前のところで主イエスは、「あなたがたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われまして、弟子たちに、神と富という二人の主人に仕えることはできないのだ、と教えられました。富による支配、マモンの力はわたしたちの経済生活ばかりでなく価値観をも左右するほど社会に深く浸透していますけれども、主イエスは弟子たちを選んで、御自分のもとに召されることで、その束縛から解き放ってくださいました。

 今朝の御言葉はその続きになります。金銭や富と同じく、やはりわたしたちの日常を捕らえて離さないものがある。それは食べる、飲む、着る、という消費生活そのものです。もちろん、そうしたことはわたしたちが生きる上で不可欠の営みですから、それ自体が罪だというのではないでしょう。しかし、そうした自分の体に対する配慮が生活のすべてになってしまうような生き方ができてしまうところが、この世の中なのだと思います。おそらくそれは、経済的に豊かであろうと貧しかろうと、同じことがあり得ます。豊かであれば富を増やしたり消費したりすることに忙殺されることがありますし、貧しければ明日の生活が気がかりで何とか仕事にありついてお金を手に入れること以外は考えられなくなります。経済至上主義で成り立って来た現代のわたしたちの社会で、「人間」を定義づけるならどんな言葉が相応しいだろうかと考えて、それは「消費者」だと言った社会学者がありました。豊かでも貧しくても、誰でも、自分が生きることで精一杯になってしまって、モノのやり取りの中でしか自分を位置付けられなくなってしまいます。

 だから、「思い悩むな」と主イエスは言われます。モノに気を取られていて、もっと大事なものを見失ってはいないか。あなた自身を見失ってはいないか。

 「思い悩む」とは古い翻訳ですと「思い煩う」とありました。そのことで頭がいっぱいになってしまうこと、といっていいと思います。例えば、聖書から例を挙げますと、ルカ福音書の10章に「マルタとマリヤ」の話がありますね。あの場面で、姉のマルタは主イエスと弟子たちを家にお迎えして、その接待で手一杯になって不平を洩らします。そうしますと主イエスが彼女に向かって「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。

また、パウロがコリントの信徒への手紙一の中で、「思い煩わないで欲しい」と教会に勧めをしています。32節以下ですが、こんな風に言っています。

 

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。

 

その後、女性に対しても同じように言っていますから不公平はありません。

 このように「思い悩む」とは特に悩むわけではなくて、気遣いのこと、前のところで聞きましたように、心の在処の問題です。主イエスは「天にその場所を設けなさい」と先に言われましたが、今日のところではまず、「鳥をよく見ろ」と仰います。

 ただぼうっと眺めるのではなくて「よく見る」のがポイントです。じっと見つめて、観察する。ただ目で見るのではなくて、そこにあるのが何かをよく考えてみる。わたしが勝手にそんな解説をしているのではなくて、これは聖書の言葉づかいから学べることです。

先週も開いた箇所ですが、マタイ福音書の19章に金持ちの青年の話がありました。そこで、主イエスは「金持ちが天国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と言われまして弟子たちは仰天するのですが、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と主はお答えになりました。その時に、主イエスは弟子たちを見つめながらそのように仰った、と書いてあります。つまり、それは物事を見抜く目で見るということ。弟子たちを見て、「ああこれはわたしの弟子たちだなあ」と主はぼうっと思ったのではなくて、神の憐れみのまなざしで彼らを見つめておられた。

旧約聖書のサムエル記上16章に、預言者サムエルがダビデを王に選ぶ場面が出て来ますが、そこで主なる神がサムエルに向かって次のように言います。節です。

 

 主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける(これはダビデの兄のことです)。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。

 

人は神のように見ることはできませんけれども、主イエスは心によって人を見ることがおできになる。

 それと同じことが人にも求められるということが別の箇所から明らかにされます。もう一箇所だけ引きますと、イザヤ書51章で、神は預言者を通してイスラエルの信仰者たちに「見なさい」と呼びかけています。そこで何を見よと言うのかといいますと、それは実際にあるものを観察せよというのではなくて、よく想い起して考えなさいということと結びついています。節だけお読みします。

 

天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。

   天が煙のように消え、地が衣のように朽ち

地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても

わたしの救いはとこしえに続き

わたしの恵みの業が絶えることはない。

 

実際に人が天に向かって目を上げても空が広がるだけですし、高いところから下に広がる大地を見渡しても大地が横たわっているだけです。しかし、そこで見るべきは、この世の在り様の背後に隠されている神の救いの御計画であり、恵みによる救いを実行しようとなさっている神の憐れみの心です。つまり、人は神のように物事を見抜く眼力を備えているわけではないのですけれども、信仰者というのは、神から信仰を賜っているのでして、その信仰によって見えない神の心を見ることができるようにされる。神の思いを知ることができるようになるわけです。

 主イエスは「空の鳥をよく見よ」と言われるのは、そういう聖書の脈絡においてです。神を全く知らない人に向かって言っているのではない。キリスト者である弟子たちに向かってそういっています。つまり、信仰のある、心の目をもって、鳥を見よ、ということ。そうしますと、何が見えるのか。

 

種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。

           だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。

 

という事実です。神がそんな小さな鳥の命を養っておられるではないか、ということ。28節以下にある「野の花」の場合も同じように言われます。野の花がどのように育つのか、「注意して見なさい」。この「注意して見る」という言葉は先の「よく見る」とは別の語ですが、意味するところは同じです。例えば、どんなふうに見るのかと言えば、創世記24章でアブラハムが息子のイサクに嫁をもらうことにして、僕を故郷へ遣いに出します。そうしますと、僕は旅立ちまして主人の故郷へ辿りついて井戸端に座って相応しい女性が現れるよう祈ります。そうしますと、リベカがやってくる。自分が祈り願った通りにリベカが親切に振る舞うのを、僕はじっと見つめている。彼女の振る舞いの中に、彼の祈りに対する神の答えを期待して胸を躍らせながら見つめていたのでした。先程お話ししたことと、ですから、同じです。ただ、目に映るものを追うのではなくて、そこに神の御業を見る。「野の花」の成長に見るのも、そこに顕れてくる、命を育む創造者の恵みの業です。

 「野の花」のイメージを少しだけ補っておきます。自由で良いとも思うのですが、今は丁度それに相応しい季節ですから。ここでの「野の花」は複数形です。ですから、自然のお花畑のイメージです。古い訳では「野のユリ」となっていたかと思います。近年の研究では「ユリ」と特定できそうもないということで「花」になっていますが、聖書の舞台となっているパレスチナ地方の草花ですと「アネモネ」ではないかとも言われます。正確にはそうではないんだそうですが、ちょうど今頃はパレスチナは花の季節です。枯れ果てた野原や砂漠に、雨季の水分をたっぷり蓄えた種が芽を吹いて、あるとき一斉に真っ赤な花を咲かせます。それは、まるで死んだ世界に命が甦ったとも思える光景ですので、その小さな赤い花は復活の象徴とされて今に至ります。「野の花」に過ぎませんから、いってみれば雑草です。その一つの花の色の鮮やかさと、登場ぶりの見事さからすれば、イスラエルの歴史上もっとも栄えた時代の王であったソロモンも適わない。主イエスは、「空の鳥」を見つめ、「野の草」に目を止められて、神の恵みに包まれた世界の中で生きておられたことが、こうしたところからよく分かります。

 わたしたちには、見えなくなってしまったものがある。それが、わたしたちはよく見えていないのだと思います。

 求道中の西谷さんが野鳥・野草観察のオーソリティであることは皆さんご存じだと思います。時々お話しを伺いまして、わたしもこの近所を散歩に出かけるようになりました。なるべく目に留まる自然に注意しながら、ものをよく見るためにスナップ写真を撮ったりもしています。ある時、馳谷川沿いを散歩中に西谷さんにばったり会いまして、鳥の観察の仕方や野草の見分け方など、少しばかり手ほどきをしていただきました。そこで思わされたのは、いかに自分がものを見ていないかという事実でした。いつもは全然気がつかないで通り過ぎていた草むらの中に、実は神戸ではここにしかない在来種の野草がある、とか、そうした一つひとつの草花に固有の名があるとか、普段は気にかけないで歩いていた散歩道が、そのときから、まるで違ったものに思えるようになりました。神が呼び出された命にはそれぞれ固有の名があって、どんな理由でそこに生息していても、それぞれに与えられた場所で、命を謳歌している。わたしが見ていた世界と、西谷さんが見ていた世界はまるで違っていたようです。

 そもそも、「空の鳥」「野の草」をのんびり眺める余裕もなく、毎日が追われるように過ぎていくのを感じている人も多いかと思います。そういうところにわたしたちの「思い悩み」の元凶があるのかも知れません。主イエスは、そういうわたしたちの状況をよくご存じで、わたしたちの注意力を本来向かうべきところに差し戻してくださいます。「空の鳥をよく見なさい」と、「野の花を注意して見なさい」と、声をかけて言われます。そんな小さな命にも、神の配慮が十分に注がれているでしょう。そうしたものを、害鳥だとか雑草だとかいって無価値なものにしてしまうのは人間の勝手だけれども、神はその役に立たないと見捨てられた小さな命にも配慮を欠かさずに大切に育ててくださっているでしょう、と。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。そういうことを、ついぞ思わないで、自分の事ばかりであくせくしているわたしたちは、「信仰の薄い者たち」に違いありません。

 もうひとつ見失っている大切なものがあります。それは、「わたしたちの天の父」がおられるということ。「主の祈り」が教えられた箇所で、すでに聞いたことですけれども、神に祈ると言いますけれども、わたしたちはキリストと共に「天の父」に祈ることができます。つまり、それを知らないでいるから、自分のことで精一杯になってしまう。父を知らないということは、相手にしていないということですね。単に知識がないということではなくて、関係を断っているということ。父の立場からすれば、それは何と恩知らずな、また、手の施しようの無い愚かということになるのでしょうけれども、天の父は人間と同じではありませんから、この世に対する憐れみを捨ててはいませんし、御子イエスを送って、そうしたわたしたちが父のもとへ帰る手立てをも講じてもくださいました。

 わたしたちが天の父を無視して自分の必要のためにあくせくしている一方で、「あなたがたの天の父は、あなたがたの必要をすべてご存じだ」と言われます。わたしは父には何の世話にもなっていない、と突っぱねることは人の間には見られますけれども、神の御前にそれはあり得ません。わたしは生まれてくるのもここまで生きてくるのも、天の父が養ってくださったからこそ今ここにいます。その養いに与ることは甘えではありません。むしろ、人を頼りにするのではなく天の父に頼るならば、この世界で人はより自立的に生きることとなると思います。そして、天の父に養っていただくということは、父なる神の善き御旨に信頼することを意味します。主イエスはこう言っておられます。

 

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(33節)

 

それが、父の御心であって、神の国と神の義を実現するために今も神は働いておられます。その神の御業に自分自身を委ねること。その中で、わたしたちは見失っていた自分を取り戻すのですし、無駄に自分を生かすためにあくせく働くことはなくなります。神の国は、モノの支配からわたしたちを解き放つ神の力です。それは、キリストの十字架と復活によって贖われた命が新しく生きる場所です。ただ無味乾燥な時間がだらだら続くだけの人生は終わって、神が生きて働くこの世界にわたしの進む道が備えられます。キリストによって天の父のもとへ戻って来た信仰者の生き様は、空の鳥のように、野の草のように自由で、明日の心配を希望に変えていただいて、その日の命を精一杯生きる者となるはずです。

 信仰の薄い者たちよ、あなたがたの天の父がどれほどあなたのために配慮しておられるかよく考えなさい。自分で見て、確かめなさい、と主は励ましてくださっています。宗教改革者のカルヴァンも今日の箇所でこう教会に呼びかけています。不信仰という思い煩いから解き放たれて、神の摂理に憩おうではないか。神がわたしたちを養ってくださることを信じて、その約束を抱きしめようではないか。

 

祈り

天の父なる御神、わたしたちを日々養ってくださっている恵みに感謝します。そのことを忘れて、自分一人でやっきになって生きる悩みを増幅させてしまう愚かさを御前に恥じるものです。けれども、主が共におられて、わたしたちをあなたの恵みにいつも引き戻してくださいますから、わたしたちは命を育むあなたのお働きに少しでも用いていただきたいと願います。どうか、わたしたち一人一人があなたの目的に適う、わたしらしさを取り戻し、それを貫くことができますように、そうしてあなたのご栄光を求めつつ、神の国を目指して献身してゆくことができますように、わたしたちの信仰を強めてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。