マタイによる福音書1~6

あるがままを見つめて

 

 今朝の主イエスの御言葉は、ルカやマルコの福音書にも記されていまして、専門家たちによりますと、ここから新しい段落が始まるので前の段落とはつながりがないと、カルヴァンもそのように述べているのですが、そう読んでしまいますと今朝の箇所は読み説くのが難しくなってしまうと思います。節に、「偽善者よ」という強い言葉がありますが、これは先に学んで参りました、形式化した、表面だけの信仰深い振る舞いに注意しなさいという主の教えに続くものでして、さらに、節から節に表されていますように、ここでは「見る」行為が主題になりまして、「鳥をよく見る」「花を注意して見る」という前の段落の勧めともよく繋がります。特に難しいのは節の繋がりですけれども、これもそうした先の脈絡を踏まえれば十分に理解することができます。

 さて、「人を裁くな」と主イエスは弟子たちにお命じになっています。節と節で次のように述べられます。

 

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 

 節から節はこのことを説明する例えです。ここでは、よくある人の在り様が指摘されているので、素直に聞くことで反省が促されます。人に厳しく自分に甘い、という自分中心的な私たちのありようです。得てして世の中そういうものですから、主イエスは、そういう社会一般の在り方に人間の罪深さをご覧になって、このように指摘なさいます。

神戸女学院で教えておられた内田樹さんは、今は「呪いの時代」だと言いました。呪いの言葉がいつのまにか私たちの社会で批判的な意見を述べる時の公用語になってしまっている。「呪い」とは人の失敗をあげつらい、それを喜びとすること、と内田さんは定義していますけれども、そういう「呪い」の言葉を弱い人たちが救いを求めて呟き、被害者たちが償いを求めて吐き、正義の人たちが公正を求めて吐く。そういう言葉が実に自分自身に呪いをもたらしていることにあまりに無自覚だ、と言います。

 

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 

確かに、私たちはこのことにあまり注意を払っていなかったかも知れません。そこに示された道理は、一般社会の道徳を越えて、ただ神のみが真実をもってお裁きになることを想い起すときに、逃れようもなく私たちに迫ってきます。

 節からの例えでは、主イエスは弟子の一人ひとりに「あなた」と問いかけます。

 

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

 

「おが屑」と「丸太」の対比はかなり極端ですが、ここでは失敗を犯した側の問題ではなく、兄弟/姉妹を裁く側の問題であることがはっきりしています。つまり、「裁き」の側に立っているあなたは一体何者なのか、と問われます。特にそこにいるのが「兄弟」なのですから、その兄弟との関係はどうなのか。

 一般社会の人間関係にもこれは適用できますが、まずは弟子たちの間で、つまり教会の中でこのことを考えてみる必要があります。しかし、それは原則的なことですから、直ぐにも主イエスの意図しておられることは分かると思います。「自分の目の中にある丸太」とは、神に対して私たちそれぞれが負っている罪のことです。兄弟の罪については目敏くそれを発見するのですけれども、そして、それを何とか取り除こうとやっきになったりもするのですけれども、そういうお節介をする前に、自分自身の罪については一体どのような見積りを立てているのか。あなたも罪人、わたしも罪人、人間だれしもみんな罪人、という具合でしたら、自分の目の中の丸太には気がつかない。そうではなくて、真の裁きをもっておられる神の御前にあって、もはや自分の正しさなど主張できようもなく、罪の審判に服して死を待っている自分の、そのありのままを見ているのかどうか。その上で、兄弟の罪を問題にしているか、ということでしょう。

 

まず、自分の目から丸太を取り除け。

 

容易に裁きの座に上ってしまう弟子たちに対して、主イエスは滑稽なくらいに極端な言葉で大事なことを教えて下さいました。

 

 私たちが自分でどう見積もっていようと罪の大小は関係ありません。罪には大きい・小さいはあります。けれども、神の裁きに服するという点では、裁きを免れるほどに正しく生きている人間はこの世にはいません。では、どれほどの正しさで生きたら裁きを免れるのかということでは、主イエスは「完全になりなさい」と言われまして、御自身の模範を示されました。心と言葉と行いにおいて、聖書に示されたような完全な義を全うすることです。非の打ちどころなく、イエス・キリストのように生きることができたらよいのですが、生まれながらにして罪をもっている人間には、そうあることができません。ですから、私たちは神になりかわって誰かを裁くことは出来ません。私たち自身がいつも裁かれる側に立っているからです。

 

 目の中に丸太があって、ものが見えないでいるのは、自分自身が見えないばかりではないのだと思います。神が見えていない。目の前にいるキリストが見えていない。「見る」という行為は、聖書では物事の向こう側にある「神」を見ること、つまり信じることに繋がります。私たちが丸太を取り除いて見えるものは、その神の前に裁かれている私自身、そして、その私のために目の前に立っておられるイエス・キリストです。神は罪のために滅びに定められた私を捨て置かないで、裁きを私から取り除くために御子を世に送られて、その方にすべてを負わせて十字架に上らせました。私の命は、そうして赦されて生かされた命だということが、キリストを見て、分かります。それが見えないでいるとき、私は自分の目の中に丸太があるのに気がつかないで、兄弟の目の中にあるおが屑を気にしていました。それは、神を知らない私たちの、キリストの愛をまだ知らない私たちの、荒んだ心のありようでした。

 

 ですから、キリストが見えず、自分自身の本来の姿が見えない状態では、そこにいる「兄弟」も本当は認めることが出来ていません。口先だけで「兄弟姉妹」「同胞」と言ってみることはできるかも知れませんが、主が求めておられるのは御自身に結ばれた真実の交わりです。信頼関係が成り立っている上での正しい「批判」は「忠告」にはなりますが「裁き」にはならないはずです。

 

 主イエスは弟子たちに対して、御自身に対する信仰を問われます。これは和を保つために兄弟姉妹に対して思いあがった過剰な批判をしないというような道徳が先に立つのではなくて、神が与える赦しに対する信仰の問題です。そして、確かに赦されて今ある自分をそのまま見つめることができたならば、私たちの間からは「裁き」は取り去られる。この世にあって、人は互いに罪を赦された者として兄弟姉妹であることができます。そうして私たちはキリストへの信仰によって、この世界の呪いを取り去っていただく希望を持っています。

 

 節に加えられた「豚に真珠」との諺にもなった教えは、福音に示されたキリストへの信仰を偽善的なお飾りにすることはできないということでしょう。人間を「犬」や「豚」に例える慣習は、信仰がたえず社会的・政治的な問題を引き起こした聖書の時代に生じたものです。福音を、それを尊しとしない人々のところに安易に投げ与えたところで、目の中に丸太が入ったままでは反感を買うばかりだということは、初期のキリスト教会が当時のユダヤ社会やローマ社会で迫害を受ける中で実際に経験されたことでした。それでも、真に福音に目覚めたキリスト者たちが、十字架の赦しをもってそうした人々に近づいた時には、聖霊が働いて人々の目を覚まさせてくださったということも聖書から知らされている事実です。この諺から私たちが促されるのは、伝道へのためらいではなくて、私たち自身の信仰の吟味です。

 「人を裁くな」という主の教えをもっと実践的に深めておくことも必要でしょう。ここで言われている「裁き」は人を罪に定める「断罪」を意図していることは明らかですが、そもそもの言葉には「見分ける、判断する」という意味が含まれています。聖書の語法を探ってみますと、旧約聖書でも「裁く」とは「治める、秩序をもたらす」という積極的な意味があります。主イエスの意図は人が神を忘れて、その立場になり替わって人を断罪することはできない、とのことですが、人が社会を、また共同体を、神の御支配のもとで積極的に形づくって行く上での批判的営みが否定されているわけではありません。「裁くな」ということで、人間の罪の一切を愛でもって包み込む、それによって罪を罪として指摘しない、ということが教会では時折主張されもしましたが、それは神の義にそぐわない偏った聖書の読み方です。

 例えば、今朝の御言葉の他にもヨハネ福音書で主イエスは次のように言っておられます。17節では、

 

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

とあります。また、1247節を開きますと、

 

  わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。

 

とあります。ここから、キリスト教では愛と赦しが最も重要なのだから、批判的な言葉は一切必要ないということが言われたりもします。けれども、今引用したヨハネ福音書の言葉にしても、きちんと前後の文脈を確かめてみれば、「裁き」はもういらないと言っているのではないことが直ぐに分かります。むしろ、罪に対する裁きという点ではヨハネはそれを「闇」と呼んで他の福音書以上にはっきりと神による断罪を告げているのでして、その前提で御自分が裁きに裁きを重ねるためではなく、裁きに服した罪人の救い主となられるために御自分が来たことを告げています。教会に働く罪の指摘・批判という実践的な問題は、もう少し慎重に、聖書全体から学ぶ必要があります。

 主の言われた裁きについて、それを具体的に展開しているのはパウロです。ローマ書章でパウロはこのことを論じて次のように言います。

 

  だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

 

これは正確に主の言葉を言い直したもので、主なる神の御前で自らの罪を認めないすべての人に向けられています。誰もがその断罪のしがらみから逃れなければならない。そして、14章で続けて、その具体的な展開として飲み食いの問題が取り上げられています。キリスト者はベジタリアンであるべきと主張した仲間があったのでしょうけれども、それに対してパウロは、信仰は飲み食いではないことを明らかにしながら次のように言っています。

 

  信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人を受け入れられたからです。

 

コロサイ書の16節でも、これと同様のことが言われます。

 

  だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭や新月や安息日のことで誰にも批評されてはなりません。

 

教会では生活習慣に属するような事柄で、互いに批判し合うようなことが生じてしまう。あの人は肉を食べたからクリスチャンじゃないとか、あの人は伝統的な祭に参加しないからクリスチャンじゃないとか、そういう問題がキリスト教の宣教の途上ではよく起こりました。そういう類のことは私たちのところでもよく見られます。けれども信仰の本質に関わらない習慣的なふるまいが即、罪だと断定されるわけでもないので、主が保っておられる交わりを壊すような性急な裁きは避けるように警告されます。

 

 教会に保たれねばならないのは、思いこみや自己主張に基づく断定ではなくて、主の教えに従った正しい裁きです。尤も、その「正しさ」を皆が主張するから問題なのですが、聖書の教えに丹念に学びながら判断の基準を設けておくことが、問題を解決する知恵となります。

聖書そのものが信仰と生活の基準に違いありませんが、私たちは御言葉を生活の上に反映させていくために、信仰告白と教会法とを備えています。聖書に基づいて何を信じるべきかが信仰告白にはまとめられていて、それによって、私たちはこと信じる内容について身勝手な「裁き」を生みださないで、教会の一致を保つことが出来ます。『政治基準』や『礼拝指針』と言ったものも、同じく教会の一致のために役立てられます。さらに、兄弟姉妹の犯した罪に対して、個人個人が勝手な裁きを下すことの無いように、『訓練規定』―いわゆる「戒規」というものが教会には備わっています。それは愛のない断罪ではなく、罪を犯した兄弟姉妹が悔い改めないまま滅びに至ることの無いように、公的に罪を指摘し、悔い改めを迫り、御言葉に諭されて再びキリストに従う道に立ち返ることができるようにするためのものです。「裁かない」ということを盾にとって、そうした訓育を避けるならば、そこで主張される愛も偽善的な表面だけのものに留まってしまいます。

こうして「人を裁くな」という主の教えの根底にあるものを探っていきますと、そこには神が正しく人をお裁きになることへの信頼があります。そもそも、神の裁きとは旧約聖書では直接救いを表していました。イスラエルの民が寄る辺ない弱小の民として世界の中で虐げられていたとき、神は人の欲に基づくのではなく、天からの啓示として正しい裁きを彼らにお示しになりました。不正が横行する世の中に、神の秩序がもたらされることこそ、「貧しい者」であったイスラエルの希望でした。人間同士が互いに上位に立つために競い、互いに裁き合う世界には、内田さんが感じ取ったような呪いが蔓延しているのかも知れません。けれども、神の憐れみによる裁きが地上に現れた時に、人間の裁きには終わりが見えています。まずは自分自身の在り方に目をとめて、神の御前に置かれた、ありのままの姿を認めること。その上で、罪を赦していただいたことの感謝から、同じように赦されて兄弟姉妹の絆で結ばれた、兄弟姉妹を認めたい。互いにキリスト者とされましても、未だ聖化の途上にありますから、相変わらずお互いの弱さを責め合うということも出てきてしまいます。けれども、そういう時にこそ信じたいのは、主が私たちのために命をかけてくださったことです。「裁かない」ということの裏返しは「愛する」ということになりましょう。そこには、互いに受け入れ合いながらも、同時に健全に訓戒し合って互いに成長していく大人の教会の歩みがあります。

 神の正しい裁きを信じる教会の営みは、当然、社会に向けてのメッセージとなります。昨年(2011年)の3月11日から今日に至るまでの一年間、私たちは地震の被害が「想像を超えた」自然の威力によってもたらされたばかりでなく、多分に人災であったことを思い知らされてきました。被害にあった方々に裁きがくだったのではなく、天の裁きに無関心であった私たちの社会がその方々を犠牲にしたものと言えるのではないでしょうか。今後の恢復に向けて私たちが歩むべき道は、誰が得をするかという計算に基づく人間の裁き/判断を捨てて、人が互いに苦労をも分かち合って共に生きていく社会をどう形づくるかというような、天的な判断を求めていく他はありません。聖書にはそうした判断の基準があります。神の裁きは人を救うためのものです。世に対するその証しをしていくために、私たち自身の国や社会に対しても正しく批判的であることが教会には求められます。キリストの愛は、私たちの罪を取り除くために主が身を呈して取り組んだところに現れました。目の中にある丸太を取り去っていただいて、自分自身と社会のありのままを見つめながら、主の愛によって罪と立ち向かう者としていただけるように、聖霊の助けを願いましょう。

 

祈り

天の父なる御神、あなたがおられるのに、私たちはそれを忘れて、兄弟姉妹に苛立ち、自分をあなたの高みに引き上げてしまう弱さを持っています。主イエスがどこまでも謙ってあなたの御旨を行うために命をささげたように、私たちも真の愛に生きることが出来ますよう、憐れみを注いでください。主に結ばれた兄弟姉妹の交わりを大切にして、互いに諌め合うことのできる信頼関係をつくることができますように、聖霊なる神が私たちを御言葉によって励まし育ててください。そして、何があなたの御旨に適い、そうでないかを判別することのできる正しい批判力をも私たちに与えてくださって、私たちの社会を取り巻く呪いを祝福へと変えるための努力をなさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。