マタイによる福音書13~23

命に至る狭き門

 

 今週、私たちは受難週を迎えます。主イエスの十字架を想い起さずには、復活をお祝いするイースターに辿りつきません。神の御子イエス・キリストの十字架と復活は、互いに結びあった一連の出来事でして、信仰者に約束されている新しい命も、まず自分の罪と死を思わずには、真実に自分を生かすものとはならないでしょう。

私たちには口には出さなくても、それぞれに負っている悩みや痛みがあると思います。個人的に心に責めを負うのではなくても、人の罪ゆえのしがらみの中で重荷を負わされていたり、気づかないところで人を傷つけたりしながら、いつかは死ななくてはならない人生の最中にあります。

そういう私たちを神は憐れんで、御子を世に送ってくださいました。御子イエスの十字架は、死に定められた私たちに対する、父なる神の愛の証しです。主イエスは父の御旨のままに、私たちに命を与えるために、御自分のすべてを投げうって十字架への道を行かれました。そうして、罪人が神にあって生きる滅びない命に生きるために、率先して「狭き門」をくぐったのは主イエス御自身でした。私たちは聖書に差し出されているイエス・キリストを通して、命に通じる細い道へと招かれています。

「山上の説教」の終わりに際して、主イエスは愛する弟子たちを、迷わずにしっかりついて来なさいと励まします。天国に至る道は、主イエス御自身が切り開いてくださいました。それは人が自分では見出すことの出来ない、エデンの園への帰り道です。「道」は「教え」と捉えることが出来ますが、それは人生の方向を導く生き方でもあります。「門」はその入り口です。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」。この世には多くの「門」があり、できるだけ多くの人がそこを通れるように広々とした通り道を備えた教えがある。それは宗教であったり思想であったり、時代の価値観に即したライフ・スタイルであったりすることと思います。けれども、主イエスが弟子たちにお命じになるのは、「狭い門から入りなさい」とのことです。大勢に流されてはいけない。周りの人たちがみんなそうするから大丈夫だという保証はない。神の真実へと導く命の道は一つであり、その入り口も一つしかない。人生楽して天国へいけるというような安易な道は、結局は神の救いを逃して滅びに至る他はない。未信者ならばともかく、弟子たちにもそう言われる必要があるということは、弟子たちがそうした安易な選択に流されてしまう危険があったからでしょう。

「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか」。「狭い」「細い」という言葉は、例えに合わせて見かけのこととして訳されますが、それらの言葉は本来「辛い」「厳しい」という信仰の故の困難を予想させる言葉です。そうしますと、どこか遠くの岩山に敷かれた険しい山道でしょうか。そこに小さな山門が建っている。人通りの少ない山道では岩陰から獣が襲って来るやもしれない。イエスが辿って行かれた受難の道はまさにそのような険しい道でしたが、それが神が備えたもう信仰の道である。

旧約の詩編では時々、「広い道」を肯定的に述べている箇所があります。例えば、詩編84節、

 

いかにさいわいなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。

 

御言葉に従う道を説く詩編11945節では、

 

  広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。

 

と、心が神の内に解き放たれて、自由に広い場所を歩き廻る信仰者の姿が描かれます。神の言葉が与えられて罪から解放された人の心のあり様や信仰ゆえの自由な生活様式を考えれば、キリスト者には広い道が示されているといえます。けれども、それは信仰の道を見極めない人々が誰もが進んで選びとるような安楽な道とは違います。「広い道」「広々としたところ」とは神が備えておられる約束の内に示された領域でして、旧約聖書に例を取れば主がアブラハムに約束されたカナンの地、真の信仰の内に見えてくる希望の到達点です。

 主イエスは山上の説教を通して、主御自身が歩まれる「幸いな道」について説き明かしてくださいました。それは聖書の律法に示された天の父の御旨を完全に満たす、信仰者のあり方です。この世の貧しい者たちが、虐げられた者たちが、神の国の祝福に相応しいと宣言されて、敵をも愛する神の愛に生かされる、主イエスの弟子として生きる道へと送り出されます。「狭き門より入れ」と主は私たちを、信仰の細い道へと導かれます。それは、危険に晒されながらも守られる、力が及ばないけれども助けられて、確かに目標へと向かう、信仰者の辿る道程です。

 問題は、この世の「広い道」へと誘う、誤った教えが弟子たちを惑わす危険があることです。「偽預言者に注意せよ」と、主は言われます。これは、マタイ福音書では終末の徴の内に数えられています。24節以下に置かれた終末の教えに関する記事は、今朝の箇所とも深い関連があります。主イエスは、世の終わりを心配する弟子たちに対して、次のように言われました。

 

 人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(413節)

 

こうした世の終わりに関する教えは、主イエスが天に昇られた後、教会のすべてに相当するので、一つの時代を特定することは出来ませんけれども、逆に私たちの時代もまさにここに表された終末に相当します。ここに描かれたような世の終わりの緊迫感からしますと、キリストへの信仰とはまさに「狭き門」を通るというのに相応しいと思われます。そこで、今お読みしましたところに「偽預言者」に対する警告が含まれているわけです。

 「預言者」という賜物もしくは職務が、神の言葉を霊において受け取って人々にそれを正しく伝える為に、神が召された僕だとしますと、「偽預言者」とは神の言葉を偽って、人間の願望を満たすために、神に召されていないのに勝手に語る者、となるでしょう。これは旧約の時代から預言の真偽を巡って問題とされました。国家が国際関係において危機的な状況にあった時、一部の預言者たちは王や民衆に阿って国家の安泰を説き、戦争での勝利を預言しました。しかし、エレミヤのような真の預言者たちは、神の裁きを曲げずに告げて、民衆から孤立しながらも神の言葉に命をささげました。事の真偽は、当面あきらかにはなりません。誰が本物で誰が偽の預言者か、などという区別は民衆にはできませんでした。その判別の原則としては、後になって見れば分かる、という歴史の啓示を待つという方法がとられました。

 マタイが記すところの主イエスによる判別法は、そうした預言者の教えを踏まえてのことでしょうが、それを一歩進めた倫理的な判別法となっています。あなたがたのところに、狼が羊を装ってやってくる、それが偽預言者だとのことですが、それを見抜く手立ては、「その実で彼らを見分ける」ということ。つまり、良い木が良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶとの原則に立って、その実を見分ける。「実」とは何かと言えば、21節以下の主題と結びついて、端的に「行為」のことです。

 主イエスは、旧約の律法に啓示された神の御旨を説き明かして、御自身の掟をこの山上の説教で弟子たちにお示しになりました。それは具体的な諸項目に及んでいましたけれども、その全体を集約するものが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という黄金律でした(12節)。それは、言い換えますと、神が私たちを愛したように、私たちも人を愛する、という隣人愛になります。実による判別とは、ですから、愛による判別になります。そして、愛とは行為です。

 今日の教会における「偽預言者」の問題とは、今朝の御言葉に即して言うならば、信仰に基づく判断基準の問題です。人は宗教的の装いに大変弱いということがある。そのことが21節以下の最後の段落で取り上げられています。「主よ、主よ」という呼びかけの言葉は、旧約聖書で頻繁に用いられる祈りの型です。ヘブライ語の聖書では「主なる神よ」などと訳されてしまう場合がありますけれども、これがギリシャ語に訳されますと、「主よ、主よ」となります。21節では、「わたしに向かって」と主イエスが言われていますから、これが後の教会に向けて語られたものであることははっきりしていますが、「イエスさま、イエスさま」といつも言っていれば信仰深いということにはならない。祈りに代表される信仰的な行為の偽善という問題は先の章で指摘されてもいました。

 また、22節では「預言」「悪霊の追い出し」「奇跡」という、特別な霊の賜物による行為が列挙されています。これは、使徒の時代には実際に行われていたことで、それ自体がここで否定されてはいません。けれども、それらは良い木から生じた良い実の内には入らない。命に至る道にはそうしたものは必ずしも要請されない。そうではなくて、良い「実」とは、主イエスが御言葉において示された「天の父の御心に基づく行い」であって、その良い実によって真の預言者が判別され、真の信仰が見分けられ、命に至る「狭き門」が見出される。信仰生活の実際では、兄弟姉妹の目の中にある塵を気にする前に自分の目の中にある丸太を取り除けと言われますから、互いに裁き合わないように、木の実を見分けるんだとやっきにならなくても良いのですけれども、私たち自身が耳を傾ける言葉について、それによって私たちの内に実る実りについて、真剣に吟味するときに基準となるのは、それが天の国に入るのに相応しい、天の父の御心なのかどうか、ということです。そして、それが、行いとして、生活として、実っているかどうか、ということを主は問うておられます。

 命に至る道は、言葉と行いが一つになって神の愛を生きることだ、と主は弟子たちに教えられました。今朝の箇所の終わりの部分からしますと、たとえキリスト者でなくとも、その愛の実践に生きる者は、信じていると告白していても実践を欠いた者よりも、天国に近いということではないでしょうか。神が私たちのために用意された救いは、私たちがキリストの道を直向きに生きるところに実ります。うわべに惑わされず、心と言葉と行いにおいて、父との関係を深めつつキリストに従ってゆく事が、終末の裁きに向かうキリスト教会の実質となるはずです。門の狭さ、道の細さは信仰の歩みの上にふりかかってくる様々な困難を指します。たとえ、今、初代教会のような迫害を私たちが被っていなくとも、キリストへの信仰が蔑にされる今日では、目に見えない緩やかな圧迫が絶えず私たちの生活の上に及んでいます。また、そうした信仰の苦難は教会の連帯を通して共有されます。「狭い門」がもし見えないのだとしたら、それは信仰が自分一人の問題に終始しているせいかも知れません。自分の教会のことしか考えていないからかも知れません。けれども、父の御旨を尋ねて周りを広く見回せば、私たちとは違って、愛の欠如に苦しんでいる兄弟姉妹が幾らでもいることに気がつきます。狭き門、キリストの辿られた十字架の道は、キリストを信じる私たちすべてが招かれている困難な道程です。しかし、その困難を覚えてこそ、信仰の真実が自分にも周囲にも証しされます。愛の無いところに愛を生み出す努力がなくては、私たちの信仰はいつも不確かで、いつしか道を外れてしまうかもしれません。キリストの十字架によって贖われた者として、自分の十字架を背負いながら、父の愛された子として、愛することに信仰の真実を見いだしていくことができるように、共に祈り求めてまいりましょう。

 

祈り

御子をささげるほどに私たちを尊んでくださる天の御父、信仰の険しい道のりに臆する以前に気がつかないことさえある私たちですけれども、主イエスは私たちに先だって受難の道を辿られ、私たちが経験する悩み苦しみの中にこそ本当に信仰が問われ、確かにされることを、お示しになりました。御父の御旨に適った思いと言葉と行いを私たちの生活の内に実らせてください。それに気づかせてくださって、より一層あなたへの愛を確かにして、天の国に至る道を兄弟姉妹と共に辿らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。