マタイによる福音書7~12

神の恵みに生かされる

 

 福音書記者マタイが記すところの、主イエスによる山上の説教からこれまで学んできました。冒頭の5章にある八福の教えでは、この世で小さくされた貧しい者たちに主イエスが幸いを持って来られたことが伝えられました。そして、主は弟子たちに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義をお求めになりまして(5:20)、天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさいと教えられました(5:48)。人を蔑まず、復讐をせず、敵をも愛する愛をもって人に接し、地上の富に惑わされないで天に宝をもち、惜しみなく施しをし、日々、命を養われていることに感謝して明るく過ごしなさい、と主は言われました。何より信仰に偽りがあってはならず、偽善を避けて、率直な心を天の神に打ち明けて祈るようにと、『主の祈り』を弟子たちに与えてくださいました。山上の説教で説かれたこうした教えは、律法と預言者、すなわち、聖書全体から教えられているところの神の御旨を明らかにするものでして、主イエスによって信仰の道へと招かれた人はみな、心を貧しくしながらもこの救いに至る道を喜んで進みます。

 「完全な者となれ」「敵を愛せ」とは途方もない要求に思えますが、自分は貧しい者、小さな者に過ぎないと自覚する本当の弟子たちに対して、主はいたずらに無理難題をふっかけたのではなくして、弟子たちがそういう者であることをよく知っていて、あえて狭き門へと押しやられます。自力で完全になれないから貧しく謙遜にさせられる他ないのでして、神はそれでお前は駄目だと見限るのではなくして、善き羊飼いである主イエスのもとに群れを集めて、進むべき道を辿らせてくださいます。

 そこで、今朝の御言葉は、「求めなさい」と言われます。無理だ、駄目だ、頑張るのなんか偽善だ、と開き直ったり、諦めたりするのではなしに、「探しなさい」「門をたたきなさい」と弟子たちを励まされます。

 「求めよ、さらば与えられん」―有名な文句ですから、あちらこちらで引用されて言葉が独り歩きしている向きもあります。経済的に豊かになったキリスト教世界でも、熱心に祈り求めれば会社の経営者になれるとか、あなたも人生に成功する、などと安易なコピーが宣伝されたりもします。ある注解者が言うとおり、それは「無邪気なエゴイズム」に過ぎないのでしょうけれども、聖書がそれを奨励しているわけではないと思います。

「求めても」与えられない場合もあります。主イエスは十字架におかかりになる前に、ゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と苦しみながら祈りました(26:39)。けれども、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と加えて、神の御旨をこそ求めました。パウロもまた、肉体に病を得て、その苦痛が取り去られるように「三度、主に願った」とコリントの信徒への手紙の中で述べていますが、それに対して主から与えられた答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」とのことでした。苦しみの中で助けを願うことは、なにも「エゴイズム」ではありませんけれども、「求める」ということは自分の願望を何でもかんでも無節操に口にすることとは違うでしょう。

何を神に求めるのか、という点では、ここでは何も限定されていませんから、あまりに狭く考えずに、自分の必要をも含めて、神の御旨に適うことを求めればよいのですが、山上の説教の文脈からしますと、すぐ前にある6章の終りで、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えられています。そうすれば、他のものはみな加えて与えられる。主の祈りも合わせて想い起すことが出来ます。わたしたちの必要については、わたしたちが願う前から神は御存じである。だから、こう祈りなさい、と言われて、御国を求める願いと、わたしたちの必要を願い求める、主の祈りが与えられました。最初にお話ししましたように、山上の説教で語られた教えは、神の御支配のもとで完成されます。神の国と神の義を求める具体的なあり方は、ここまでの全体でよく示されてきています。それこそが、罪人でしかないわたしたちが生きる道である、と主はお示しになりました。それを、求め、探し、戸をたたき続ける。

 カルヴァン他の注解者は、ここでは祈りの姿勢が問われているとしています。わたしたちは祈ることについて、非常に不注意で怠惰なので、主は同じことを違う言葉で三度も述べて強調したのだ、とカルヴァンは言います。ルカによる福音書にある並行箇所を見ますと、それに相応しい例えがついています。11章ですが、主の祈りの教えに続いて、主イエスは友人にパンを求める例えを話されます。旅行中の友達が尋ねて来たのだけれども、出してあげるパンの蓄えがない。それで、近所の友人のところへパンを分けてもらいに行くのだけれども、もう夜遅いからということで門を開けてもらえない。けれども、しつこく頼めば、友人だからというのではなくて、うるさいから何でも分けてくれるだろう。まして神は、求めるものに良いものを与えてくださる。だから、求めなさい。

 信仰のない祈りは遊びに過ぎない、とカルヴァンは手厳しく述べます。単に回数や時間の長さではなくて、真剣かつ熱心に祈ることは、主のゲッセマネの祈りが何より雄弁に語っています。そのような祈りがわたしたちに求められていることは確かでしょう。神の国を求めないでいられるわたしたちの心は遠く父から離れています。だから、祈りに熱心さを加えるために、祈れば与えられるという約束が与えられている。

 祈りは信仰の鍛錬だ、とカルヴァンはいうのですが、わたしたちはもう一度マタイの文脈に戻ってみましょう。

  だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(8節)

 

「求める」「探す」「門をたたく」という三重の表現は、強調と言えばその通りですが、この背後には預言者エレミヤを通して語られた、次のような主の約束があります。エレミヤ書2912節以下です。

 

そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。(12-13節)

 

かつて不信仰によって国を失い、遠くバビロンに捕囚となったイスラエルの民に対して、神は預言者を通して「平和の計画」をお示しになり、裁きに服した民に未来への希望を与えました。「求めよ」「探せ」との重複する表現は、単に祈りの熱心さを鼓舞するための強調というよりも、悔い改めの時の到来を告げる合図です。今や真の主であられるイエス・キリストが来られて、弟子たちの目の前に姿を現わしたのですから、願いはそこで聞かれています。

祈りは聴かれる、という確信については聖書の中で度々表明されます。同じマタイ福音書の中では、1819節で主が教会に対して次のように約束しておられます。

 

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

 

また2122節でも「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とありまして、マタイでは一貫して、疑わないで祈り求める信仰が述べられます。

今年の年間標語に併せて選んだ聖句はヨハネの手紙一14節でした。

 

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。

 

教会設立という私たちの願いも、それが本当に御心に適うことであれば、神に叶えていただけます。「求めなさい」と言われるとおり、大切なことは私たちがそれを心から願うことができるかどうかでしょう。そして、それが心から主にささげられた私たちの献身の証しとなれば、その願いは既にかなえられたとさえ言えます。

 「祈りはすでに聞かれている」という、この確信を自分のものとすることこそが主イエスが弟子たちに求めておられることでしょう。そして、これも山上の説教で繰り返し述べられていることですが、私たちにとって何より大切なのは、主イエスを信じる弟子たちと天の父との信頼関係です。

 

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。(9-11節)

 

パンと石との比較は形が似ているから分かるけれども、魚と蛇はおかしい。だからきっとこの魚はウナギに違いない、と真面目におかしな解説をしている注解者がありましたが、それはどうでもよろしいのだと思います。たとえ自分が悪人だったにせよ、自分の子供に悪いものは与えないだろう―このところ、必ずしもそうとも言えませんが、親の常識に訴えてそう言われています。悪人ですらそうなのだから、まして、完全なる父は、私たちの求めに対して誠実に、また愛情をもって応えてくださる。これは先にお話ししました通り、子どもの言うなりになるということではないわけです。エフェソ書にもありますように、神は「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」でして、たとえ願いどおりにならなくても、確かに私たちにとって最善のものを用意していてくださる。

 山上の説教の要点はここにあるといってよいでしょう。天の父をどこまでも信頼すること。そのお方が私たちにとってどこまでも良いお方であることを信じること。祈りの確信についての表明も、善き業についての促しも、すべてはそこにかかっています。

「求めなさい」と言われるのは、そこに与えようと待っている父がおられるから。「探しなさい」と言われるのは、天に宝を蓄えておられる父がいるからでしょう。確かに私たちには、そういうものを求めない、探さない、戸を叩こうとしない鈍さがあります。それで、どんなに高い理想を言葉で示されても、夢だ幻だといって、いわゆる「現実」の無力感の中から動けない。けれども、天の父は決して黙っているお方ではないわけです。イザヤ書の中には「母なる神」も出て来ます。4915節にこうあります。

 

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。

 

「門をたたきなさい」―「門」という言葉は元々ないのですが―「ノックしなさい」ということ。尋ねなさいということと同じですが、これにしても私たちが熱心に戸をたたくばかりではなくて、神が尋ねてこられるということがある。黙示録20節にこうあります。

 

  見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

 

私たちが求めたり、探したりするのに先立って、神が失われた私たちを求めておられた。失われた子羊を探して、善き羊飼いである主イエスが私たちを尋ねて来られた。天の父との絆の回復がすべての始まりであり、終わりであるといってよいでしょう。

「だから」と12節が続きます。

 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 

「律法と預言者」とは旧約聖書全体を指します。つまり、聖書の心は、その前半の一句にある。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。「黄金律」と一般に言われています。この言葉だけを取り上げますと、主イエスがそう言われたよりもずっと昔に、そう述べた賢人があったといいます。ソクラテスがそうですし、ユダヤの著名なラビも似たようなことを言っています。旧約外典に含まれる『トビト書』という書物の中には「自分が嫌なことは、ほかのだれにもするな」と言われています。他のだれがそのように言ったとしても、「黄金律」はそれが独り歩きするときは意味を失います。例えば、聖書の言葉にしてもラビの言い方にしても、人の嫌がることをしない、自分がして欲しいことを人にする、ということだけであれば、人間社会の横の関係を気にして生きる、というだけに収まってしまう恐れがある。最初に触れました「無邪気なエゴイズム」でしかなくなる恐れがある。例えば、自分は会社で密かに賄賂を受け取っているのだが、これは人に知られたくない。だから、同僚が同じことをしていても、彼も知られたくないだろうから、それは決して口外しない。自分が嫌だとか自分がして欲しいとか、それを基準にして物事を判断するだけでしたら、少しも倫理的ではないわけです。ですから、聖書の文脈が大切になります。「だから」とこの黄金律が導かれます。つまり、天の父が何でも叶えてくださるのだから、御旨に適った良いものをもって応えてくださるのだから、あなたも天の父と同じように、人にも良いことをしてあげなさい、ということです。基準は実に自分の願望にあるのではなくて、天の父の良さにあります。これこそ、律法と預言者である。聖書から導かれる倫理の基本です。

 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というレビ記19章の言葉や、ローマ書にある「人を愛する者は律法を全うしているのです」というパウロの言葉(13:8)もここに集約されます。神に愛された者として隣人を愛すること、といいかえることもできると思います。

 「完全な者となる」とは実に、聖書から教えられる神の愛に生かされる者への約束です。主イエスはそのために私たちを御許に召してくださいました。私たちは主イエスの十字架と復活を信じて、その恵みに生かされて、何でも天の父に求めることが許されています。何をどう求めたらよいのか、私たちの生活の中では様々です。いつも御旨を問いながらの選択をする他はありません。しかし、たとえそこでわたしの選択が間違ったとしても、天の父に祈り願いながら示された道には、「良いもの」が期待できます。

 

祈り

天の父なる御神、あなたは私たちに主イエスをくださり、十字架の尊い犠牲によって私たちの罪を赦し、あなたの子としてくださいました。そのことを真っすぐ信じる信仰をお与えください。そして、あなたの良き御旨を信じて、主の御言葉に従って、私たちの暮らす場所で良いものを生み出させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。