マタイによる福音書9章14~17節

花婿イエスをお迎えして

 

 今朝も福音書から私たちが聞きましたのは、イエス・キリストは、罪のために神の恵みから遠ざけられた人々を、神の御もとに立ち返らせるために、世に遣わされた神の御子であることです。イエスはこの世の罪人たちの友となられて、一緒に楽しく食卓を囲んでおられました。病を癒された人々は回復を祝って、蔑まれて追いやられた人々は神に受け入れられて、イエスの食卓はいつも喜びに満ちた交わりの時でした。

花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」とイエスは言われます。イエスが罪人たちと囲む食卓は、いわば結婚の披露宴です。婚礼の中心に花婿がいます。花婿とは主イエス御自身です。主イエスが世に来られた時、罪の重荷にあえぐ人々は、花婿を迎えた婚礼の席に迎え入れられて、神の喜びを共に分かち合っていました。

「花婿」がいるならば「花嫁」がいるはずですが、聖書の伝統では「花婿」は主なる神で「花嫁」はイスラエルの民です。ですから、キリストが来られた時から、花嫁はキリストの民である教会を指しています。私たちがここでこうして主の日の礼拝を行う度に想い起すのは、私たちはいつもここに花婿イエスをお迎えして、一緒にお祝いをしていただいているということです。教会は、主イエスの招きによって集う罪人たちが、神のもとで救いの喜びを分かち合う場所です。

教会堂の中心には、大抵の場合、食卓が備え付けられています。キリスト教会はその初めから、食卓を囲んでパンとぶどう酒を分かち合う交わりを大切にしてきました。花婿である主イエスは同時にこの祝宴の主人でもあり、目には見えなくともこの場を取り仕切っておられます。罪の赦しを願う私たちは、いつでもそこに招かれた者として、罪の赦しを与えるパンと杯の豊かなもてなしを受けています。

「どうして断食しないのか」と、イエスの周りにいた信仰熱心な人々は言いました。先にはファリサイ派の人々がイエスの弟子たちのところへやって来まして、「どうしてあなたがたの先生は収税人のようなあんな人々と付き合うのか」と呟いていましたが、今回は洗礼者ヨハネの弟子たちがやって来て、イエスに直接不満を述べています。

 ファリサイ派の人々も洗礼者ヨハネの弟子たちも、ユダヤ人として身に付けた聖なる習慣を重んじていました。その一つに「断食」があります。聖書で教えられている断食は、神の裁きを免れるために心からの悔い改めを表す手段でした。ダビデが死に至る病の床にあった息子のために断食して祈ったように、それは自分の罪のためばかりではなく、執り成しのために行われる場合もありました。ルカ福音書が伝えている女預言者アンナも、民の救いを待ち望みながら神殿から離れないで断食していたとあります。人間の罪に対する神の怒りを恐れて慎ましく信仰を守っていた人々の間で、断食は重んじられていました。

けれども、イエスと弟子たちの間では断食している様子は見られなかった。むしろ、罪人たちと一緒になって飲んだり食べたりしているのが常であった。そんなことでよいのか、という非難を込めた疑問は分からないでもありません。日本の感覚でいえばイエスと弟子たちは「生臭い」のでしょう。生活習慣上での摩擦は宗教には付きものです。普通のユダヤ人たちの目から見れば、イエスと弟子たちはどうも信仰者らしからぬ様子だったようです。そこに実は信仰の問題があったわけです。

主イエスはそこで「婚礼」の例えでお答えになりました。信仰生活の表面上はどうでもよい、ということではないと思います。むしろ、主イエスはファリサイ派を代表とする当時のユダヤ人たちの振舞いを御覧になって、信仰を問うておられます。ですから問題は、どこに真の信仰を見出すか、ということになります。神の喜ばれる人の振る舞いは何処にあるのか、ということです。

「断食」が御旨に適った行為であることは、旧約聖書からも判断できます。預言者ヨナが派遣されたアッシリアの都ニネベでは、神の裁きの言葉を聞いて、王が率先して悔い改めを表明しまして、国民全体が、家畜に至るまで断食するよう布告を出しました。大変印象的な文章ですから想い起しておきたいと思います。

人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。(ヨナ3:7-9

ここに表されている断食と悔い改めは真実のものですから、それが神の御旨に適わないということはないはずです。実際、ヨナ書ではこの後に続いて、神が彼らの様子を御覧になって、裁きを下すのを中止されました。

 しかし、一方で、神の御旨には関わりのない、人の側での勝手な断食などもあることが預言者の言葉から知られます。王国時代末期に活躍した預言者たちは、語れども語れどもニネベの住民ほどにも悔い改めないイスラエルの民に対して、いよいよ裁きは避けられない旨を、次のように語りました。

主はわたしに言われた。「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。」(エレミヤ14:11-12

先のヨナ書では、ニネベの王と住民たちが、「悪を離れた」のを主はご覧になって災いを下すのを思いなおされたとあります。「断食」を見た、のではありませんでした。イスラエルの民がどんなに頻繁に断食を実行しても、祈りを厚くささげても、自分たちが慣れ親しんだ悪を少しも改めようとしない態度が一方にあるのなら、そういう都合のいい手段になり果てた「祈り」や「断食」は神に届かない、ということを預言者たちははっきり告げました。

 このことを更に明らかに述べているのはイザヤ書58章です。そこで預言者イザヤは民を代表して、主に対してこのように問うています。節、 

何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。

これに対して主は次のようにお答えになります。続く節の真ん中からです。

見よ、断食の日にお前たちはしたいことをし、お前たちのために労する人々を追い使う。

見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。

お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。

そのようなものが私の選ぶ断食、苦行の日であろうか。〈中略〉

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。

悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ

裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。 (3-7節)

「断食」とは自分の体を苦しめる苦行です。それでしかめ面をしていれば、尊大な人たちならば自分を見逃してくれるかも知れません。けれども、神が望んでおられるのは人間のように自尊心を満足させることでも、御自分の民が苦しむことでもありません。そうではなくて、真に神に立ち帰って、隣人に対する義と愛に生きるようになることが、神の御旨です。「断食」も「祈り」も、人がそのように神と結ばれて正しく実りを生みだすようになるための手段に過ぎません。

 ヨハネの弟子たちが行っていた「断食」が、そうした御旨に適わない形式主義的なものに陥っていたのかどうかは分かりません。けれども、彼らが理解していなかったことが確かにありました。先のイザヤの預言を思いだしていれば違ったかも知れません。イエスと弟子たちは当時の世間で理解されている「断食」を信仰者らしく行ってはいなかったかも知れません。ですが、かつて預言者イザヤが語った通りの「主が選ぶ断食」―御心に適った断食を見事に実践しておられました。イエスが救い主として世に来られたのは、罪に苦しむ人々にさらに苦行を科すためではなくて、彼らを虜にしていた罪の軛から解き放つためです。そのことがファリサイ派の人々にもヨハネの弟子たちにも見えていませんでした。

 断食という礼拝の手段は今でも有効に用いられます。使徒言行録でも教会が真剣に祈って伝道に出るときには断食を行ったことが記されています。主イエスは今日のところでこう言っておられます。

しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。

ここは主イエスが十字架で死なれて復活されるまでの間を指すものと思われます。心からの嘆きを神に申し述べるとき、罪を悔いる思いに浸される時、断食が慰めになることもあるでしょう。ルカ福音書が取り上げているような「わたしは週に二回断食しています」というような、自己承認を求める断食や祈りはもはや不要です。

 今朝の御言葉では、断食論争から始めて、話はもっと広く福音の真理にまで及んでいます。16節では新しい当て布を古い衣に継ぎ充てたりしないということ、17節では新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしないということが例えとして語られます。取り立ててそれを説明なさってはおられないのですが、その二つの例えで意図されることは十分理解出来ます。

 主イエスが御自身と共に持って来られたものは、全く新しいものだということです。ですから、これを受け取る者も新しくならねばならない、ということです。

 ユダヤの人々の戒律的な信仰生活は、それがいくら敬虔さの表明であったとしても、イエス・キリストが世に来られたことによって更新されます。もはや、古い儀式や制度が信仰を束縛することはありません。神に祈りを執り成す手立てとして、神殿や祭司を仲介者とする必要は無くなりました。イエス御自身が父なる神との間に立って下さるからです。一日に数回と定められた祈りや断食や、安息日に関する細かな規定が生活を縛ることも無くなりました。それらは救いのための条件ではなくして、回復された神との交わりの中で恵みを豊かに受け取るための自発的な手段となったからです。

 イエス・キリストが与えてくださる罪の赦しは、罪人を自由へと解放します。誰もが終わりの裁きまで繋ぎ止められているはずの軛は、主イエス・キリストの十字架によって壊されました。主によって与えられる自由は、聖霊によって各人と教会の交わりに実ります。誰も強いられて断食する人はいません。断食の故に裁かれる人はいません。同じことは祈りについても安息日についても言えます。赦された人は聖霊をいただいた人です。聖霊は信仰者を内側から新しくします。人が心から神を慕って、イエスに従うようになることが信仰による救いです。聖霊の恵みによって、人は自発的にキリストに従うようになります。その自由によって祈りをささげ、断食を行い、安息日を相応しく用いるようになります。この点は、私たちが自分の信仰生活を顧みてよく心しておきたいところです。

 新しいものを内に宿した新しい器とは、聖霊を宿した新しい人のことです。それは、新しい命に甦った新しい人といってよいかと思います。キリストを信じて神に立ち帰った私たちは、キリストの新しい命に生かされた新しい人間です。年齢は関係ありません。信じた時期も関係ありません。キリストは、私たちを霊において新しく創り変えるために私たちの元を訪れ、私たちを信仰者にしてくださいました。

 ですから、古い服はわたしたちに相応しくありません。古い器にも留まってはおれません。律法による、つまり業による義を求めるのではなく、キリストによる恵みの義をまとって、私たちは主の御旨に適う生活を心がけます。このことは実際面での二つの点に関わって、私たちを新しい信仰の歩みへと向かわせます。

 一つは、自分がこれまで属していた社会との関わりです。血縁関係も、交友関係も、職場も地域もすべてが関わります。私たちは、キリストの命を受けた時から、もはやこれらの関係に所有されてはいません。新しい生地は古い服を引き裂いてしまいます。ですから、これらの関係は、キリスト者にされたところからもう一度受け取り直す必要があります。キリスト者が本質的に属するのはキリストの体なる教会です。私たちは、そのキリストの体の一部として、この世の家族を与えられ、学校や職場での地人体を与えられ、地域ごとの共同生活に向かいます。そこで与えられる人との交わりの新しさが大切です。つまり、血縁関係に頼ったり、交友関係の古さや、地域の交わりに依存して生きるのではなくて、神のものとして、主イエスの御言葉を頼りに、真の義と愛を目指して生きることで、そうした地上の関係に祝福をもたらすことが、私たちの新しい生活です。

 もう一つは、私たちの教会のあり方です。新しいぶどう酒を古い革袋に入れれば、新酒が発酵する力によって古い革袋は破裂してしまいます。だから、新しいぶどう酒は入れないことにする、ということではもはや教会ではなくなりますから、いつでも教会は聖霊の促しによって器を新しくする準備が必要です。私たちの教会が標榜する「改革派教会」とは、ヨーロッパにあっては最も保守的な教会の名称ではありますが、その意図するところは「御言葉によって絶えず自己改革を行う教会」ということです。時代に即さなければ化石化してしまうなどということがよく言われますが、そういう時代に即した刷新が優先するのでもありません。教会は御言葉を常に新しく読み続けます。聖書のすべてが理解されているわけではなく、また、聖霊はいつも新しく生きた言葉を私たちに示してくれます。その時に、どのように「器」を新しくすることができるか。福音の本質をきちんと弁えているかどうかが、それぞれの時代の教会に問われます。ユダヤ人の信仰の古い身体を脱ぎ捨てたキリスト教会は、「伝統的」と称して古い部分を残したりはしませんでした。聖書に適い、その実際の適用がキリスト教会でも同じように保持されると判断された部分は、形を変えて、或いはそのまま教会にも受け継がれました。けれども、時代や民族を越えて普遍性を保ち得ないような古い習慣や、隣人愛へと向かうキリストの義の実践をかえって阻害すると思われるような福音の本質と関わらない要素は捨てられました。教会に必要なのは、そうした福音の本質との関わりで教会の在り方を検証していくことです。いつ必要になるのかではなくて、いつもそうし続けることが必要です。それが、御言葉に従うことの、また、御言葉に従った教会を建てることの実質となります。

 教会は新しい命によって、活性化された命を生きています。それは、個々の信者にとっても同様です。古い身体は朽ちていくだけです。私の体も、人間関係も、社会も、地域も、国も、古びてやがては朽ち果てます。永遠に変わらないのは神だけであり、イエス・キリストが私たちの命として、永遠の命を保っておられます。この新しさを私たちは自らの信仰の内に、いつも活き活きと保つものでありたいと願います。

 さて、これから聖餐式を行います。花婿イエスをここにお迎えしてお祝いすることに致しましょう。十字架で死んだ花婿は、再び甦って、私たちの断食を解いてくださいました。主の死を記念すると同時に、再び来られる主の栄光をも仰いで、食卓の前に集いましょう。

 

祈り

天の父なる御神、罪に束縛された古い身体から私たちを解き放って下さり、キリストと共に生きる自由を与えられたことを心から感謝します。未だに残る古い衣を、どうか勇気をもって脱ぎ捨てることができるように、聖霊なる御神の助けをお与えください。今から共に聖餐式に臨みます。私たちに先だって、あなたがここへ来て下さったことに感謝して、聖なる食事の恵みに与らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。