マタイによる福音書9章27~38節

飼い主のいない羊たちのために

 

イエスの癒しに表される神の憐れみ

 今朝は、主イエスによる二つの癒しの御業が告げられています。まず、二人の盲人が、イエスによって目が見えるようにしていただきました。この出来事から私たちに伝えられているのは、先に聞きました二人の女性の癒しから教えられることと同じです。すなわち、一途な信仰によってイエスに近づく者に救いは与えられるということ。イエスはそうして求める者に触れてくださるお方だ、ということです。

当時は、目の見えない人も汚れた者と看做されて、神から遠ざけられていました。レビ記の教えに従って、身体に障害をもつ者は祭司になることが出来ませんでしたし、サムエル記下5章によりますと「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」とあります。今のように福祉が発達してはおらず、人権意識が普及している訳ではない世の中で、障害をもった人々は神からも人の社会からも見放された存在でした。

イエス・キリストはそうした人々の希望として世に現れました。二人の盲人は「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながら、イエスの後を家まで追いかけました。「ダビデの子」という呼び方は旧約聖書に約束されたメシアを指しています。この二人にとってイエスは神から遣わされた救い主でした。神殿での礼拝を通して神に近づくことのできない二人は、この時、イエスのおられる家で神に近づくことが許されました。そして、イエスならば癒してくださるに違いないと信じた、その信仰に従って、二人は目を開かれました。

このように、神は御子イエス・キリストを世に送られて、御自身の憐れみをお示しになりました。身体の不自由な人々や病を負った人々が特別に顧みていただけたのは、神の掟に従い得ず、罪の裁きのゆえに死に定められているすべての人に対する、創造者である神の憐れみが明らかになるためです。イエスはこの世の誰もが神に近づくことができるようにしてくださるお方です。救いを求めて近づいてくる誰をも拒むことはなさいません。そして、信じて救いを願うならば、イエスは御言葉によって癒してくださいます。その癒しがもつ意味は、罪が赦されて神との関係が正常に回復されて、もはや見捨てられた人間ではなくなるということです。

神の御業に対する人々の反応―驚嘆と拒絶

 イエスが癒された二人に、「このことはだれにも知らせてはいけない」と「厳しくお命じになった」理由ははっきりしません。マルコ福音書によれば、その噂が広まってイエスは公然と町へ入ることが出来なくなったとあります(1:45)。神の国の福音を宣べ伝えるお働きに支障を来たすことを憂慮されたのかも知れません。イエスの御業は救いを求める人の信仰に応じて表されるので、決して人前で宣伝するような類のものではありませんでした。心から助けを求める人を主イエスは決して拒みませんけれども、奇跡を当てにして好奇の目で集う人々の前からは姿を隠されます。

 禁止されても二人はイエスの御業を人に話さずにはおれませんでした。イエスの噂はその地方一帯に広まってゆきました。一般的に言って、イエスの御業は人々にどのように受け止められたのでしょうか。そうした人々の反応が32節から34節に加えられます。もう一つの癒しの奇跡―悪霊にとりつかれて口の利けない人が、悪霊を追い出していただいて口が利けるようになった、という出来事自体は、おそらく主イエスによる癒しの奇跡を補完的に報告しているだけでして、福音書記者の関心はその後にあります。つまり、群衆とファリサイ派の人々による、それぞれの受け止め方です。

群衆は「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と、驚きをもって受け止めています。そこには、神の手をイエスの内に見る、信仰的な眼差しが芽生えています。ただ、このお方こそメシアだとの確信が与えられているわけではありません。他方、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いまして、イエスに対する強い拒否の姿勢を表しています。神が罪人を憐れんでくださった、という出来事に全く目を塞がれています。癒しの奇跡は、ある人々にとって、神へ立ち帰るきっかけになるかも知れませんが、ある人々にとっては全く助けになりません。人に救いを実らせるのは、イエスを神の子と信じる信仰によるのであって、その信仰を導くのは神の言葉をおいて他にありません。

35節で、それまでのイエスのお働きが総括されています。イエスはすべての町や村を訪ねて行かれました。そこで為されたことは何かと言えば、筆頭に掲げられているのは、「会堂で教えた」ことでした。そして続いて「御国の福音を宣べ伝えた」とあります。イエスはユダヤ人の会堂を拠点としまして、聖書に記された神の言葉を教え、御自身と共に神の国が到来したことを告げて回りました。これが、主イエスのお働きの第一のものです。そして、その教えが具体的に実りをみる証しとして、癒しの奇跡があり、受難と復活の道程があります。信仰は御言葉を聞くことによります。

牧者不在のイスラエル―主が羊飼い

 36節に次のようにあります。

  また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

ファリサイ派の人々は、悪霊を追い出す主イエスの御業を見て、悪霊が悪霊を追い出しているのに過ぎない、と悪しざまに言いました。そこに癒されるべき人がいることには気がついていません。或いは、「汚れた者」との関係は早々に断ってしまっているのかも知れません。イエスの態度はそういう人々とはまるで違います。イエスはそこに「弱り果て、打ちひしがれている」人を認めて、「深く憐れまれ」ます。最近ではあちらこちらでよく説明がなされるので、だいぶ知られるようになってきましたが、この「深く憐れむ」という元の言葉は、「腸がちぎれる」という言葉でして、腹の底から湧き上がる深い感情を表しています。「健康な人に医者はいらない」と言われたイエスは、力を失い、世の中から見捨てられた人々に心底同情して、同じ立場に身を置くことのできるお方でした。

 「群衆」と言われていますのは、ユダヤの人々のこと、つまり旧約のイスラエルに相当する神の民のことに違いありません。その彼らが「飼い主のいない羊のようだ」と言われます。本来、イスラエルには民を導く牧者が与えられていたはずです。まずは、主なる神御自身がイスラエルの牧者であったはずです。詩編23編の冒頭に「主はわたしの羊飼い」とある通りです。イスラエルの民は、シナイ山で神と契約を結んだその始まりから、天の神を牧者として、その言葉によって養われて、歴史を歩んできた人々です。確かに、イスラエルは神との契約を破って神の御前から失われそうになる危機も経験しました。けれども、民の間から御言葉が奪われたことは無く、神が御自分の散らされた羊たちを、預言者たちを通して御許に集めようとなさっておられました。イエスがご覧になった時、民衆がまるで飼い主をもたない羊のように見えたのは、彼らの間に御言葉が失われていて、真の羊飼いである主が見えなくなっていたからに違いありません。

 また、本来ならば、イスラエルには真の羊飼いなる主の代理者として、人の羊飼いが送り込まれているはずでした。旧約の時代には、モーセという偉大な人物が主の召しによって派遣されました。神はモーセを通して、イスラエルが荒れ野を生き抜く知恵である律法をお与えになりまして、民の間に正しい秩序をもたらすようにされました。モーセは神と民との間をとりもつ働きを忠実に行って、主の群れを御言葉によって養うことに生涯をささげました。そして、王国時代にはもともと羊飼いであったダビデがイスラエルの牧者に選ばれてイスラエルの王となり、王国を信仰のもとで統治しました。ダビデの王座は永遠に保たれるとの約束を神からいただいていましたから、ダビデの王座を受け継いだ子孫たちには、主の牧者として民を治める義務がありました。イスラエルの信仰に生きている人々にとって、「羊飼い」といえばまず主を想い起し、そして、主から遣わされたモーセやダビデを思い起こすことができたろうと思います。

 イエスを取り巻いていた群衆にも、本来ならば羊飼いはあったはずです。王国時代が終わって後の時代に、イスラエルの群れを養う働きを委ねられたのは、エズラのような律法学者と、神殿を中心に祭儀を司るアロン系の祭司たちでした。民の間には昔ながらの長老たちも各部族の代表として立てられていて、後には議会を構成するようになりました。祭司や教師や長老たちのような民の指導者たちが、本来、主の羊飼いとしての役割を果たしておれば、群れが「弱り果てる」こともなかったはずです。

 かつて神は、預言者エゼキエルの口を通して、イスラエルの牧者たちに対して警告の言葉を発していました。エゼキエル書34章全体がそのために費やされています。節から節をお読みします。

  主の言葉がわたしに臨んだ。人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

このような言葉がそのまま当てはまるような有様がイエスの目の前にあったことを思います。そして、このところから主イエスが何のために主の共同体の周辺で活動されたかが分かります。先程のエゼキエル書の預言をもう少し読んでみたいと思います。11節以下です。

まことに、主なる神はこう言われる。見よ、私は自ら自分の群れを探しだし、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。〈中略〉わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。(11-15

遥か遠い昔に、モーセやダビデのような理想的な指導者のことを思い出すことは出来ても、現実の社会をリードする指導者たちは、自分の立場や利益を確保することばかりに気を取られていて、群れの中にいる一匹の羊にまで配慮するようなことは無いのが世俗的な社会の常なのかも知れません。今の日本の社会もイエスが批判された当時のユダヤ社会も問題は共通しているように思えます。その中にあってイエスは「わたしが彼らの世話をする」という神の言葉そのものとなって、失われた羊のもとへと足を運ばれた。病を癒された人たちは皆、イエスによって神に見いだされた羊たちであって、その羊たちは、「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる」と言われる神に養っていただくようにされたのでした。

 実際、モーセであってもダビデであっても、羊飼いへと召された人間であって神ではありませんでしたから、自分の弱さもあって、彼らは神と民との間で苦しみました。より良く群れを治める指導者は願えても、「羊のために命を捨てる」完全な羊飼いは人間に求めることはできません。やはり、イスラエルが昔から信じたとおり、主なる神御自身が真の羊飼いなのであって、人間はそれぞれに限界を持ちながら、謙遜に主に仕えることで羊飼いとしての役割を果たす他はありません。

真の羊飼いイエス・キリスト

 イエス・キリストは、そうした人間の罪・弱さのために、群れからはぐれてしまう羊を求めて、神の羊の群れを一つに集めて守るために世に来られた、真の羊飼いです。「わたしが養う、憩わせる」との神の言葉を主イエスが実現されます。イエス・キリストは、人々が見離した病人たちを癒されたばかりでなく、神の民が一人も失われないように、十字架に上って命を捨てられたお方です。人間の指導者には期待できない、罪人に対する深い同情と、神の子としての力をもって、この世の最も弱い者の一人にも生きる力を与えることがおできになります。教会に集う私たちは、ですから「飼い主のいない羊のよう」ではないはずです。真の羊飼いであるイエス・キリストが、私たちを聖書の御言葉をもって養い、主との交わりであるこの教会において憩わせてくださいます。私たちは一人ひとりが主に見出されて、召された羊として、ここに集っています。

キリストの御業を託された働き手

 主イエスは弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われました。いきなり「収穫」の話しになりますが、これは終わりの日の駆り集めという意味合いを持っていますが366節までの繋がりでいえば、集めるべき羊は多いが群れを牧する牧者が足りない、ということです。そのために「収穫の主に願いなさい」つまり、祈りなさいとお命じになりました。

 教会でキリストの群れを養う働きをするのは、通常は牧師だとされています。「牧師」という名前からしてそうです。前回の月例学習会で「牧師の務め」についてご一緒に学びましたが、牧師の務めは御言葉をもって教会員を霊的に養うことです。精確には『教会規程』に書かれています。そうして群れを養う務めのことを、一般的に「牧会」と読んでいますが、私たちの教会は長老主義をとっていますから、この「牧会」の働きに召されているのは牧師と長老からなる「小会」です。牧師だけでなく、長老もまた、キリストの羊を養う責任を共に負います。長老の務めについては7月の学習会で学ぶ予定ですので、そのときに詳しくお話しします。私たちは今年、教会設立を目指して共に祈ることを課題として掲げて、この半年を過ごして来ました。私たちが教会設立を果たすためには、神の民をキリストの代理者として養う働きをする長老を立てていただかなくてはなりません。既に松田長老がおられますけれども、一つの教会が立ち上がるのには牧師を除いて最低2名の長老が必要です。主イエスは、そうした働き手のために祈りなさいと言われます。この後見ますように、12人の使徒は主イエス御自身が選ばれるのですけれども、それでも祈ることを求めておられます。私たちの教会を、主イエスの牧する群れとして大切にして、一人ひとりに思い遣りをもって接することの出来るような長老を願い求めたいと思います。主イエスがそう言われたことの背景に、民数記にあるモーセの願いを想い起すことが出来ます。モーセがいよいよ引退間近で、次の世代を導く後継者を選ばなくてはならなくなった時、モーセは神に願って次のように祈りました。民数記の27章17節以下です。

主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。

この祈りに応えて、神は後任者にヨシュアと祭司エルアザルを選んで民の指導に当たらせました。私たちの願いに応えて、主は霊の賜物を召される兄弟にくださるに違いありません。今年の後半の歩みも、そのことを覚えて共に祈りながら、主に養われる群れとしての信仰生活を進めて行きたいと願います。

祈り

天の父なる御神、主イエスの御業を通して私たちに示されました、あなたの深い憐れみに感謝致します。あなたは主イエスによって群れを養う指導者たちを教会にお与えになり、一人ひとりが御言葉の恵みに生きることができるよう配慮してくださいます。どうか、その務めに相応しく牧者が整えられますよう顧みてください。そして、私たちは教会設立を果たすことが御旨と信じて、この半年を歩んで参りました。残る半年もあなたに願い求めながら、信仰の歩みを進めたいと願っています。どうか、私たちに祈る熱心をもお与えくださいますように。そして、御旨に適った長老・執事を私たちの間に立ててくださいますようお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。