マタイによる福音書9章9~13節

罪人を招くイエス・キリスト

 

聖書が語るイエス・キリスト

 ここにはイエス・キリストが弟子たちを従えて旅をしながら、人々を教えておられた時のことが書かれています。そこで、イエスはマタイという名の人を弟子にされました。ここから私たちに知らされることは、イエス・キリストは一体誰のために、何のためにこの世にお生まれになったのか、ということです。イエスは世界でおそらく最も有名な人物ですが、実際にどのようなお方であったかは聖書以外に教えてくれる書物はありません。聖書に基づいて解説している書物は数え切れないほどありますけれども、イエス・キリストのことを直接証言しているのは聖書だけです。その聖書が私たちに告げるのは、イエス・キリストは神から遣わされた真の救い主であることです。人間としてのイエスに興味をもつ人も沢山ありますけれども、聖書が語っているのは神の子キリストについてです。

 歴史家たちがイエスに関心をもちまして、その人物像や生涯を何度も研究して本を出しています。いろいろなイエス像がそこに見られますが、おおよそ聖書が直接語っているのとは別の角度で捉えようとしていますので、どれも推測や憶測の域を出てはいません。それも致し方のないことで、聖書が記すイエス・キリストは確かに偉大な人物ではありますけれども、神のもとから来られた神の子・救い主であるということは私たちの常識を超えています。しかし、それを信じた弟子たちがイエスの教えを教会に伝え、それがその通りに信じられて聖書が聖典となり、信仰の拠り所となって今日に至ります。

 イエスの人となりについては『福音書』が記しています。『福音書』はイエス伝という体裁をとっている書物です。それによれば、イエスはベツレヘムという町でマリアとヨセフというユダヤ人夫婦の家庭にお生まれになり、ナザレの町に住んで大工の息子として育ちました。成人してからは洗礼者ヨハネによって洗礼を授けられて、その後、弟子たちを集めて神の教えを広めに出かけます。イエスの新しい教えは当時のユダヤ人たちの伝統を覆すような内容でしたので、彼らからは敵視されまして、やがてはユダヤの宗教的指導者たちから命を狙われる程にもなります。そうしたことが治安を乱すことを恐れたローマ当局によってイエスは逮捕され、ユダヤ人たちから訴えられて十字架で処刑されます。「イエスが救い主だ」というのは、その十字架で死んだはずのイエスが、三日目に墓からよみがえった、と弟子たちが証言したことによります。その復活の知らせがやがてキリスト教会をつくるのでして、そこからキリスト教はユダヤ人の枠を越えて、地中海世界に広く伝られました。

 『福音書』にはこうしたイエス・キリストのことが証言されていて、その初めからイエスは神が天からお遣わしになった救い主です。イエスが処女マリアからお生まれになったことや、イエスが行った数々の奇跡は、イエス・キリストが神の子であることの証です。私たちの理解を超えたことですから、にわかに信じ難いのは当然ですけれども、それを信じるからこそキリスト教信仰もあります。ただ、そこで先ほども少し述べましたように、それを頭ごなしに信ぜよと迫ってもあまり意味はないのでして、聖書自体が奇跡信仰には注意を促していたりもします。大切なことは、そうして福音書が伝えているイエスが、一体どのような神の子であり、この地上を生きる人間の運命に何をなさったか、ということを注意深く聖書が告げる通りに聞くことです。

 イエスは弟子たちや民衆に神の教えをもたらした教師でした。けれども、イエスのなさった奇跡の多くは癒しの業でした。イエスの周りには病気を治してもらいたい多くの人が群がって、中には死んだ子どもを生き返らせていただきたいと願った人もありました。「神の子」などと言いますと、古代世界では統治者が度々そのように名乗って崇められていました。先の大戦中に日本でも天皇が現人神として奉られたことがありましたけれども、それと同じようなことです。おおよそこの世界に現れる神などというものは、古い伝統やら自分の権力を絶対化するためにそのように僭称するわけですが、『福音書』が伝えるイエス・キリストは決してそのような方ではなく、むしろその生き様は正反対です。イエスには神の力があって、それを数々の奇跡が証明していますけれども、その力をほしいままにして政治的に働いたり、世の中の高い地位を望んだりはしませんでした。イエスは癒し人であり、病気に苦しむ人に近づき、王侯貴族にではなく、民衆の間に居場所を設けられました。そういうイエスの姿の内に、私たちは神の愛を見せられます。

徴税人マタイの召し

 今朝の箇所では、マタイという徴税人がいまして「私に従いなさい」とイエスが言われますと、彼はそのまま仕事場を離れてイエスに従った、とあります。こういう小さな部分にもイエスの神の子としての力が現れています。そこにはマタイがどんな気持ちであったか、また、どんな判断をしてイエスに従ったかというようなことなど個人的な事情は一切記されません。そういうことが伝えられているのではないのでして、イエスがご自分の自由な権限でこのことをなさったわけです。注目すべきことは、このマタイが福音書に記されているのと同じですが、このマタイは徴税人であるということです。その後に続いている律法学者の言葉に明らかなように、徴税人たちとは罪人たちの仲間とみなされていた、支配者たちの仲間でした。支配者たちは同胞たちから税金を徴収する仕事ですから、それだけでもう人々から裏切り者扱いされていました。また、そういう仕事に就ていて心の荒むような仕事ですから、人々から余分な税金を取り立てて私服を肥やしたりもしていました。そうして世間から爪弾きにされていた職業が徴税人です。10節と11節を見ますと、徴税人と罪人が対で記されていますが、罪人というのもあるいは金融業者のことではないかと最近の研究では言われています。そういう人々のところへイエスは積極的に近づいて行かれたのでして、マタイもその一人であって、イエスに声をかけていただいたのでした。

 その内イエスはマタイの家にとどまって一緒に食事をしたとあります。「食事をした」との表現は、元の言葉では「寝そべっていた」とあるのでして、これは当時の習慣をよく表しています。当時のローマ社会では床生活が基本で、石の床に絨毯を敷いて、そこに卓袱台を置いて食卓を整えました。日本ですと座って食べることになるでしょうが、ローマ人たちは体を横にして、肘をついて食事をしたわけです。お行儀が悪いようにも感じますが、これは習慣の差ですから仕方ありません。ともかく、そうして横になっていただいて、ゆっくり食事を楽しんでもらうのが当時の接待の仕方であったわけです。そこでイエスはマタイの家で寝そべっていたのでして、寛ぎながら話をし、飲み食いしていた。そういう風な親密な関係がそこに生じていました。その時は盛大な宴会になったはずです。徴税人の仲間たちやイエスの弟子たちが皆集まって祝いをしていました。

 イエスはマタイを弟子にしまして、徴税人や罪人たちを分け隔てなく友とした神の子でした。イエスはヤクザ者の仲間であったと聞けば、どう思われるでしょうか。実際、そういうイエスに対する世間の目があり、ファリサイ派の人々が代わって弟子たちにこう呟いています。

  なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。(11節)

この「ファリサイ派の人々」というのは神の掟に従って清く正しい生活を志していた真面目な人々のグループです。ユダヤ人の間には、神がモーセを通じて与えた律法がありまして、それが旧約聖書の中核にあたりますが、その戒律を遵守することが彼らの信仰のモットーでした。特にファリサイ派はユダヤ人の中でも生活習慣を重んじてきた人たちで、信仰心も厚く志も立派な人たちです。例えば、安息日には歩いてよい距離まで定められていましたし、安息日に用いられてよい物も決まっていました。手に持つ物も、基本的には手提げ袋に物を入れて歩いてはならない、など、そんな風にきちんと生活が整えられていました。それは信仰によるものです。彼らの戒律の中に「罪人と相交わらず」というのもありました。旧約聖書の中にも繰り返しそのような言葉が現れますが、罪人と席を同じくしないというのが彼らの生活信条であったわけです。ですから、罪人とみなされる者の家に呼ばれて食事をするなどというのは、ユダヤ人として言語道断ということになります。こういうものが身についてきますとどういうことになるかというと、それが理屈を越えて皮膚感覚になります。差別感情にってくるわけです。私にもそんな経験があります。今日の厳格なユダヤ教徒の家庭では異邦人は罪人と教育されますので、子どもたちはそういう差別感情を刷り込まれて育ちます。エルサレムでそういう家庭と同じアパートに住んでいた友人の話ですと、階段ですれ違う度に子どもを庇うのだそうです。別に悪人ではなくて、ただのアジア人なんですけれども、「近寄るな」などと子どもは言われて躾けられている。あまり気にしていますとそういうところで生活していけませんけれども。

 ファリサイ派の人々もイエスのことを耳にしていたのでしょう。多くの病を癒したあり、貧しい人々から慕われたりしている。そういう若い立派な教師であると聞いてはいたけれども、何であんな類の人間たちと付き合っているのか、ということです。本人にではなく弟子たちにそう告げたのですから、これは陰口に当たります。もう少し後の11章にゆきますと、お前たちの主人イエスは「大食漢で大酒飲みだ」などという陰口がたたかれた様子が伝えられています。当時の立派な人々の間ではそんな悪評が立ったわけです。そういうことを十分にご承知の上でイエスは徴税人たちとの交わりを持たれました。

 そんな呟きを耳にして、イエスはこう言われます。

 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(12-13節)

イエスはここで、ご自身を医者に例えておられます。罪人たちと親しく交わりましたけれども、それは彼らの振る舞いを真似て人々からお金を騙し取ったり罪に手を染めたりするためではありません。イエスが交わりをもたれたのは、彼らが病を癒されるため、彼らの罪が赦されて、神のもとに彼らの居場所が用意されるためでした。ここで私たちは、イエス・キリストがどなたであるかを知らされます。イエスというお方は人と人との間に垣根を設けるような方ではありませんでした。人間が生み出した差別などを一顧だにしないで、そういう溝をやすやすと越えて行ってしまうのでして、社会から落ちこぼれた人の所へ出て行って、その人のために身を張るお方です。差別とか偏見とかによる社会的に不利な立場に追いやられて、そういう中で何とか身を守ろうとしている者たちのところへ、神から遣わされて全く自由に入っていく救い主がイエス・キリストです。

 ファリサイ派の人々も神の救いについては聖書から学んでいましたし、救い主メシアを待ち望む信仰もありました。13節に旧約聖書からの引用がありまして、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』と、これは『ホセア書』6章6節の言葉ですが、ユダヤ人たちの信仰に訴えておられるわけです。その御言葉の意味は、こういうことです。人々は神殿で神に犠牲をささげることに熱心で、それによって正しく宗教生活を送ろうとしているように見えるけれども、神が人間に求めておられるのは真心であって、その真心をもって神の御旨を行うことだ。つまり、弱い者を助け、貧しい者に手を貸す、という人間に対する愛を示すことが何よりも優先する、ということです。そこに天の神の御心があることを思わず、戒律を守ることそれ自体が目的になってしまうところに、神の救いは成就しません。貧しい者が憐れみを受けるどころか、律法を守る立派な人々の裁きでそれらの人々が排除されている、という新たな罪が生じているわけです。

 法を遵守することによって信仰を守ることは旧約聖書の中で命じられていることでもあって、それによって罪から離れて社会生活を立派に成り立たせていくことは尊いことなのですけれども、そうして「罪人」をあぶり出して世の片隅へと切り捨てていく、そうして自分たちだけの平穏無事を囲っていく、という社会の有り様は、神の目に適っているかどうか。そこにあるのは自己評価ですね。自分は立派にやっている。そうして自分で自分を評価して、自分を信じて救いに至ることができるなら、自分で自分の魂を救えばよい。その代わり、一つ失敗すればたちまち「罪人」の世界に転落です。

 イエスは、そういう正しい人には医者はいらないでしょう、と仰る。自分は病んでいると知っている人が医者を求めてくる。それと同じに、自分を罪人だと知るものにこそ救い主が必要とされる。だから、イエスは「罪人」のもとを訪ねて行かれます。イエスは徴税人マタイのところを訪ね、その食卓の席で寛がれました。そこに集う罪人たちは、生きることの辛さや重さを身にしみて感じている人たちです。彼らのすべてがイエスに受け入れられています。「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と仰った通り、イエスは罪人をご自分の元に招くお方です。

 ここで、マタイの家での宴会のホストは、本当はイエスであることが分かります。イエスの訪問を喜んで祝宴を準備したのはマタイに違いありませんけれども、予め彼を招いて天の祝宴を行うことにしていたのは、イエスを通して働かれる神のご計画です。ここに救いが成就したことのしるしがあります。私たちはここに語られている御言葉にあるイエスの集いの、いったいどこに自分の居場所を見出すことができるでしょうか。イエスを迎えて一緒に喜び、寛いでいる人々の間でしょうか。それとも、罪人たちの交わりを外から眺めて訝しむ人々の間でしょうか。ここで問われているのはイエスに対する私たちの信仰です。

 今日ご一緒に見ましたイエスの振る舞いを通して、私たちは神がどのような方かを知らされています。神は罪人を憐れんでご自身のもとに集め、受け入れてくださるお方です。こうして、人は神の憐れみによって救われる。自分の罪によって、また、罪深い世の中で、苦労して生きているのが人間です。そうした私たちが救われる道は、神の憐れみにすがることです。イエスを通して、神の側から私たちに近づいて来ておられるわけです。そこに罪の重荷を下ろして、人生喜びをもって生きてく道がイエスにあります。

 なかなかそういうことは人には受け入れられないのが現実です。けれども、教会に集ってこうして礼拝をささげている兄弟姉妹たちは、神に救われたことの証人たちです。ここは今朝の御言葉にありましたマタイの家と同じ場所です。ここでイエスが祝宴を開いておられます。招かれているのは、イエスに呼びかけられて喜んで集う罪人たちです。イエスはここに集う一人一人のためにご自分の命をかけて十字架に上られます。イエスは、今日出てまいりましたファリサイ派の人々のような、「妬む」人々の手によって裁判にかけられて、十字架で処刑されて、この世の中から排除されます。そのことを覚悟の上で、イエスは罪人の間に席を設けられたわけです。イエスの死は、罪人を愛し、放っては置かない神の愛の表れです。神はイエスの死を、罪人の罪のつぐないとして受け取られました。自分の罪のために死ななければならない私たちに代わって、イエスが罰を受けてくださいました。それによって、私たちは神の前に罪のないものと見なされて、完全な赦しと永遠の命を神から与えられます。

 イエスは罪人の救いのために世に来られた神の子です。十字架で死んだイエスが三日目に復活したことは、私たちがイエスによる救いを信じるための保証です。誰もがこの世で罪人の一人でしかない生涯を送ります。その果てに待つのは、罪の裁きしかありません。けれども、神が私たち一人一人に望んでおられるのは、そのように私たちが人生の終わりを迎えることではなくて、神に立ち返って、生涯を神と共に喜んで生きることです。そのために遣わされたお方がイエス・キリストです。このお方の招きに是非とも答えていただきたいと願います。

 

祈り

 み前から離れていました私たちを憐れんで、主イエスを通してみ元に召してくださるあなたの恵みに感謝します。互いに裁き合い、格付けをしながら、自分で自分の正しさを主張して止まないこの世にあって、私たちは傷つき疲れ果ててしまいますけれども、あなたは御子イエスの十字架によって、私たちをそうした暗い世界から解放してくださいます。どうか、罪の重さに耐えきれない思いをしているすべての人々に、主イエスを受け入れる知恵と勇気をお与えください。そして、主イエスと共に喜んで生きる新しい人生を、今から終わりに至るまで歩ませてください。今日ここに集いました一人一人を祝福してくださって、主イエスにある命の恵みに与らせてください。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。