旧約聖書における「神の義」/牧野信成教師

 

はじめに

 この度は皆さんの勉強会に呼んでいただいてありがとうございます。メールでやりとりをする中で、皆さんがとても熱心に聖書や神学に関心をもって取り組んでおられるのを知って感銘を受けています。このパンデミックの最中で私たちも大変な不自由を強いられていますが、こうして青年会の取り組みを続けることにさらに聖霊の励ましと祝福がありますようお祈りします。

 今回は「旧約聖書における義」というテーマをいただきました。これは「旧約聖書の中心は何か」という話になりますので、私にも手に負えないほどの大きなテーマになりますが、改めて勉強してとても有意義であったと初めにお伝えしておきます。

 まず、今日のお話しの概要を、先に送りました資料で確認していただきました。「翻訳聖書による説明」とありますように、これは日本聖書協会から出された「新共同訳」もしくは「聖書協会共同訳」の巻末にある「用語解説」によるものです。およそ皆さんが教会で用いている聖書はこれであろうと思います。新しい「聖書協会共同訳」もこの部分は「新共同訳」と変わっていないようです。ここには聖書における「義」の概念についてと、「正しい者」についての説明がありますので、読んでおいていただければと思います。

 それから今日のお話しの基本的な筋道は牧田吉和先生がお書きになった『改革派教義学5救済論』の中にあります、「旧約聖書における『義』の概念」という短い記事に沿っています。これも併せてお読みいただきたいと思います。

1 旧約聖書における「義」という語

 さて、本論に入ってまいりますが、新共同訳で「義」という言葉で検索をかけてみてもすべての箇所はヒットしません。先ほどの説明にも書いてありますように「義」という言葉は文脈に合せて多様に翻訳されますので、日本語では網羅しにくくなっています。そのあたりのことも踏まえて、「聖書協会共同訳」では古い翻訳である「義」に戻している箇所もあります。

 旧約聖書の「義」について調べようと思ったら、どうしても必要なのはヘブライ語の原典に戻って調査することです。ヘブライ語では「義」のことを「ツェデク」または「ツェダカー」と言います。また、これらを基にした「義とする」「義である」を意味する動詞もいくつか見られます。さらに、「義人」を意味する語は「ツァディーク」といいます。複数形では「ツァディキーム」です。

 そこで、この「ツェデク」「ツェダカー」が何を意味するかを調べなくてはならないわけです。聖書ヘブライ語の辞典にも載っていますが、聖書の文脈を見ながら、それが何を意味するかを逐一検討しなくてはなりません。

 先に皆さんにお配りした資料の中に、新共同訳から抜粋した聖句のリストがありますが、これでおよそ全体を網羅できているはずです。聖句の中に赤で指定してある語がありますね。これはすべて「ツェデク/ツェダカー/ツァディーク」とある部分です。そうすると、日本語での訳がばらばらであることが分かると思います。一番初めにある創世記6章9節を見ますと、「ノアは神に従う無垢な人であった」とありますが、ここにある「神に従う」が「ツァディーク」です。つまり「義人であった」ということです。義人であるということは、神に従う人のことです、という説明的な訳になっているわけです。先に挙げた「解説」にある通りです。それから、創世記18章で、ソドムの滅びを巡ってアブラハムが神と議論をする箇所ですが、ここでアブラハムは「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と問いかけます。まさかそんなことは正しいあなたがなさらないでしょう、と。ここにある「正しい者」とあるのが「ツァディーク」(義人)です。ここはより一般的に悪人との対比の中で「正しい人」と訳されているわけです。ですから、「正しい」と言っても、神に従う信仰的な意味での正しさと、より常識的な理解による「正しさ」とが同じ語によって現れてくるので、このような訳し分けが必要になります。

 さらに「新共同訳」に特徴的な訳を挙げてみますと、申命記33章21節に、「主は恵みの御業を行い、イスラエルのために裁きを行われた」とありますが、ここにある「恵みの御業」というのが「ツェダカー」です。ですから、ここは「主は義を行い」と訳することもできます。「義」を「恵みの御業」と訳する例は、「詩編」や「イザヤ書」で頻繁に見られます。

さらに、「義」という言葉が頻繁に表れるのは「箴言」です。そこで例えば、箴言の8章20節を見てみますと、「慈善の道をわたしは歩き、正義の道をわたしは進む」とありまして、この「慈善」が「ツェダカー」という語です。「箴言」では、一般社会に現れてくる道徳的な行為もまた、神の知恵に属するのですが、そこでなされる「慈善」、つまり、貧しい者、弱い者を助ける行為もまた「義」とみなされます。

 このように多様に展開する「義」という言葉の概念の根本に迫ろうと、さまざまな学者が議論を重ねてきていますが、牧田吉和先生は、ドイツの著名な旧約学者フォン・ラートの見解を紹介して次のようにまとめています。

 旧約の中において人間のあらゆる生活関連にとって『義』(ツェダカー)ほど中心的な意味をもつ概念は他に全くない。この概念は人間と神との関係のみならず、人間同士の取りとめのない争いというような関係に対する基準、否、人間と動物、自然環境との基準でさえある。ツェダカーはそのまま最高の生価値として、すなわち、あらゆる生命が秩序ある状態にあるとき、依存しているものとして言い表すことができる。

 義(ツェダカー)は人間の生活の全領域に関わる事柄で、特にそれが神との関りで重要性を持ってくる。その義によってもたらされる正しい秩序によって、人間、動物、自然、被造物全体が支えられている、そういうものだといいます。旧約聖書全体の中で、「義」という言葉が中心的な重要性をもつのは、「義」が神ご自身に由来する性質であって、その「義」を神がこの世に与えておられるからです。

 

2 律法と義

 今日、およそコンセンサスが得られているのは、フォン・ラートも指摘する次のことです。つまり、「義」は関係概念であって、これを一様に法的な絶対的な正義とみなしてはならない、ということです。ですから、聖書の「義」は単純にイコール「正義」ではない。まず、私たちが当たり前のように考えている「正義」の概念をまずよく検討してから聖書の文脈に当てはめてみなくてはならない。

 『旧約聖書神学事典』にある並木浩一先生の説明によりますと、日本で「義」という言葉が聖書で用いられるのは、神と人との縦の関係を表すのに便利であって、人と人との横の関係には「正義」を用いて区別する、とのことです。また、ギリシャ哲学を援用して区別すれば、縦横関係の一体的な正しさを表すには「義」を、法理念的に反省された正しさには「正義」を用いることができる、といいます。

 語法の上で注意する点としてはフォン・ラートも並木先生も一致して、近代西欧の中で成立した法理念的な「正義」の捉え方をそのまま聖書に適用してはならない、としています。ですから、「義とは何か」と問いながら、聖書の神と対面する中で、それを確立してゆかねばならない。これはそのまま、イスラエル民族の歴史だといえます。

 イスラエルの歴史に即していえば、イスラエルは初めから「義」について明瞭な理解をもっていたわけではありません。「正しい」という言葉は使っていたでしょうけれども、何が正しいことかと言えば、例えば、エジプトで奴隷であった時には、ファラオの命令に従うことが正しいことであったでしょう。けれども、そこでイスラエルはモーセを介して神と出会ったのでして、その神による救いの出来事の中で「義」とは何かを知るようになりました。その初めとなるのが「律法」ですけれども、律法を通して、イスラエルは神との契約関係に入って、その神との関係の中で「義とは何か」「正しいことは何なのか」を、歴史を通じて学び取ってゆきました。

 だから、研究者たちが注意を呼びかけているのは、初めから絶対的な真理である義はない、ということです。神の御計画の内にはそれがあるのでしょうが、それを被造物である人間は知り尽くすことはできない。神の自由なイニシアチブの中で、御言葉を通して、その都度聞いて学んでいく他はありません。

 しかし、全く分からないのではなくて、神は御言葉によって人に語りかけて来られるお方です。それは天地創造の初めからそうですね。天地創造の段階で「義」という言葉は現れてきませんけれども、初めに神が創造された世界は人間も含めて「極めて良かった」のですから、神がご覧になった世界はさながら「義に満ちた」世界であったのでしょう。ところが人間が堕落し、世界も一緒に堕落してしまいます。そこから、義は回復されねばならないもの、救いによって獲得せねばならないものになりました。そこで、神はアブラハムを選び、イスラエルを選んで、世界に義を取り戻すための救いの道を備えられた。それが聖書に明かされる神の永遠の御計画であった、ということになります。

 ですから、「義」ということで問われるのは、それが神と人との間で、また人と人との間でどのような状態を保つことか、というような関係における内実であって、初めから絶対的なルールを設定して計られるようなものとは違います。こういうものの捉え方はギリシャ哲学にも相通じるところがありますから、文献表に挙げておきました岩田先生の本なども参照していただくとよい理解が得られると思います。

 さて、神は創造して地上に置かれた人間に初めから言葉を与えておられましたけれども、イスラエルの民が神の義を決定的に学ぶきっかけは出エジプトの後のシナイ山での契約です。それは、神と人との関係を明らかにすると同時に、イスラエルの民が地上で生き抜いていくために必要な法的な関係の基礎となりました。シナイ契約の綱領ともなる十戒では、まず神が名乗りを挙げて、ご自身がイスラエルを救う主であることを知らせます。そこから、この教えを聞く人々の位置づけがはっきりします。神は恵みによって救うお方であり、その教えをいただく人々は神の言葉に聴いて生きる主の民となります。その契約関係の中にあってこそ、何が正しいか、何が正義であるのかが明らかにされます。

 秋田稔先生はその論文の中で「律法は徹頭徹尾、神の恩恵の下なる倫理を表現したもの」だといいます。そして、「イスラエルの民においては、法・道徳・宗教が最初から契約ということを中心に離れがたく、否、本質的に結合している」。

 そのような背景にあって、先ずは「義」とは「契約への真実」だと言われます。契約にあって主導権をもっておられる神は「義」であり、この契約の神との関係が真実であることが「義」となります。そして、このような神との関係は、同時に律法を介して人間同士の関係へと展開しますから、人間関係においても「義」であることが求められてきます。具体的には律法は民の間での裁判でも機能しますから、ツェダカーは「裁き」を意味するミシュパートと深い関係のある言葉として数多く聖書に出てきます。お渡しした聖句リストにある青色で指定した語の多くは「ミシュパート」です。イスラエルにあっては「裁き」は神のもので、その際に基準となるのが律法ですから、この点に集中すると「義」は合法性に傾きます。しかし、「契約における真実」ですから、神がその真実にしたがってイスラエルに恵みを施す場合には「義」はもう一つの重要な語「慈しみ」(ヘセド)に近くなります。これも聖句リストで探してみてください。

さて、そうすると「律法とは何か」とまたその内容についての問いが出てきますが、これはモーセの律法を実際に読んでいただく他はありません。先日、坂井孝宏先生のガチコミを聞いていましたら、モーセに関して「申命記」のお話しをされていて、次は「レビ記」だと言っていましたけど、ごくごく大雑把な掴みだけでしたので、一つちゃんとした説明を加えておきたいと思いました。「律法」という語も教会独特の用語ですが、要は法律ですよね。けれども、やはりこれも区別をするために日本語で「律法」という語を編み出したのだと思います。聖書ではこれを「トーラー」といいます。申命記の他、詩編119編にも頻繁に出てくる言葉です。「トーラー」とはいきなり法律や掟を意味するのではなくて、本来は「教え」ほどの意味です。それが「戒め」「掟」「裁き」など他の語と密接な関係を保ちながら「神の掟」としての内容を深めていきます。

旧約聖書だけを聖書と認めるユダヤ教では「トーラー」という語で聖書全体を意味する場合もありますが、主にそれは旧約聖書の最初の5冊をそのように呼びます。しかし、内容を見ると、実際に法に属する部分は創世記には殆どありません。出エジプト記20章でモーセがシナイ山で十戒をいただいた後で、詳細な掟が示されますが、そこを開いていただくと新共同訳では「契約の書」という見出しがついていますね。このように五書にはモーセの律法の塊が幾つかに分かれて含まれています。その一つ一つに特徴があるので、それらを区別しながらまとまりとして学んでいかないとなかなか学びづらいのではないかと思います。

そこで、簡単に紹介しておきますと、第1のものは出エジプト記2022節~23章で、これは「契約の書」と呼ばれます。これに出エジプト記3417-26節の小グループを加えることができますが、こちらは「小契約の書」といいます。「契約の書」という名称は247節に出てきます。そこではモーセが民に「契約の書」を読み聞かせたとあり、それが2022節以下の部分と理解されたためにそうした名称が研究者にも用いられています。

次に挙げられるのは、レビ記と民数記を含む最も大きなグループで、それらが主に祭儀への関心をもつところから「祭司法」と呼ばれます。範囲は出エジプト記25章から31章、35章から40章(これは先の部分の反復)、レビ記全体、民数記1章から10章、そして、25章から30章です。特にレビ記の17章から26章だけは言葉づかいが独特なので「神聖法典」と呼ばれて区別されることもあります。

最後に3番目のものとして申命記法が挙げられます。これは申命記12章から26章の部分です。

こうした法令集は、五書の文脈ではこれらの並行する法集成が無作為に寄せ集められているのではなく、シナイからモアブに至る旅の文脈に配列されていますが、祝祭日の規定ですとか重複するテーマがときおり見られます。民数記では世代交代がなされてイスラエル12部族が発展してゆく様子が描かれて、それに従ってモーセの律法も更新されるわけです。ですから、律法であってもイスラエル社会の現実に合せて変更がなされることがある、ということです。絶対的な真理が一括してモーセに啓示されたわけではありません。神が義の真実が、その都度民の必要に応じて恵みとして示され続けたのが律法です。

このように実際に律法を確かめてみると、非常に煩瑣な、専門度の高い内容になっているので、これを実践に生かすためには「それでは律法の中心は何か」という問いが出てきます。そこで主イエスがお答えになって、神を愛することと隣人を愛すること、とまとめられたのは福音書が証しするところですね(マルコ12:28-34他)。神を愛する、とは神と人という縦の関係で正しくあること、また隣人を愛するとは人と人との間で正しさを保つことですから、主イエスはこのとき神の義をわかりやすく説かれた、ということにもなるでしょう。

3 預言者と義

 さて、イスラエルには律法が与えられて神の義を知ることができたわけですが、その教えの中心は主に祭司たちに向けられていて、祭儀(礼拝)を正しく行うことに力が注がれました。しかし、神の義を学ぶにはそれでは不十分であったことがわかります。礼拝は神との関係を保つうえで欠かせないことでしたが、そうした宗教はイスラエルの周辺でも同じように行われていて、律法による神の義はもっと人間同士の関係の中で確認されねばならないものでした。そこで重要は働きをしたのは、モーセの後の時代に神に召されて御言葉を語った預言者たちです。

聖書には多くの預言者たちが登場します。モーセがそのひな形とされていますが、預言者は祭司と同じく聖なる務めとして民衆から尊敬を受けて、時には王の側近として王宮の専門職として働くこともありました。ダビデの側で神に仕えたナタンのようにです。彼らは王の側近として政治的な判断にもアドヴァイスすることが出来た重要な役割を与えられました。もとより、預言者たちをその務めに就かせるのは主なる神の召しによります。単なる知的なエリートではなくして、モーセのようにイスラエルに御言葉を伝えるために主に召された僕たちが預言者たちです。ですから、彼らの語る言葉はいつでも王の気に入るとは限りませんでした。むしろ、時代が悪くなると預言者たちは鋭い批判の言葉を王と民衆に語り告げました。ここに旧約聖書の預言書の大きな特徴があります。そしてイスラエルの民は預言者たちの言葉を通して「神の義」についての理解を深めることになります。

預言者たちが語った「義」はバビロン捕囚という出来事を境に大きく変わります。バビロン捕囚とは、神に背いたユダ王国が歴史に下された審判によって、バビロニアとの戦争に敗れ、国を失った出来事です。紀元前6世紀の出来事でした。戦争に敗れたユダ王国の主な人びとは、土地を離れて遠くバビロンへと連行されて、そこで生涯を過ごさねばなりませんでした。これを「バビロン捕囚」と言います。列王記下の終わりやエレミヤ書を読むとその経緯がわかります。

捕囚前の預言者たちは、イスラエルの人々が真の神への忠誠を失って、土地の宗教や外国の神々を拝むようになり、社会的にも律法とはかけ離れた不正義が横行するのを見て、民の罪を暴露すると同時に神の裁きをあからさまに語りました。こうした預言者たちを「審判預言者」と呼びます。アブラハム・ヘッシェルはマルティン・ブーバーと同じ「ハシディズム」の流れを汲むユダヤ教の神学者ですが、旧約聖書を学ぶ上で有益な本を幾つか記しています。森泉弘次先生による翻訳が幾つも出ていますから、一読をお勧めします。中でも『安息日(シャバット)』と『イスラエル預言者』が重要です。ヘッシェルは『預言者』の中で、イスラエルでも周辺諸国と同じように祭儀(礼拝)は何より重要ではあったが、預言者サムエルの次のような言葉が語られていたことをまず指摘します。サムエル記上15章22節です。

主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。

これは王に選ばれたサウルが、サムエルの告げた言葉に背いた時に与えられた神の裁きですが、ここに神への服従がいけにえにまさる、という義のあり様が示されます。審判預言者たちは、この信仰の線に従って、「献げ物と讃美歌によって礼拝する権利が人間にあるという考え方に疑問符を付し、神に仕える第一義の道は、愛、正義、公正によるものと主張し」たのでした。

そこで審判預言者として最初に登場するのは預言者アモスです。アモスは職業預言者ではなくて、テコアの羊飼いだと紹介されていますが(714節)、彼は民に対する神の激しい怒りを身に帯びて、神の裁きを告げました。アモスが活躍した時代は、紀元前8世紀の、北のヤロブアム二世と南のウジヤの時代で、イスラエルの民がソロモン以来の繁栄と平和を享受した時代でした。町は栄え、指導者たちはこぞって贅沢な暮らしを始め、王の宮殿は酒宴に明け暮れました。他方、民衆の間では格差が広がり、貧しい人々は顧みられず奴隷として二束三文で売り買いされるようになり、公正な裁判も失われて、国はもはや正義と公正を保持してはいませんでした。神はアモスを通じて、そのような社会に対するあからさまな嫌悪感を示されます。

おとめイスラエルは倒れて/二度と起き上がれない

自分の国土に捨てられて/助け起こす者もいない。 (52節)

これが記されている五章にはイスラエルの祭儀に差し向けられた批判が見出されます。その当時の人々は必ずしも不敬虔には見えませんでした。決められた祭を守り、祭壇には規定通りの穀物や動物をささげていました。人々は神への賛美を歌い、今の幸せは神様のおかげと喜ぶ自分なりの信仰をその時代のイスラエルも保っていました。しかし、アモスは、そうした礼拝を喜ばない、とする神の拒絶を伝えます。

 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。

たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても

穀物の献げ物をささげても

わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。

お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。

竪琴の音もわたしは聞かない。  (521-23節)

礼拝は厳粛であったかも知れません。祝祭は華やかで、献げものは上等な品々であったことでしょう。賛美は美しく、人々は歌に酔いしれていたでしょう。しかし、このとき、神はそうした礼拝を全面的に否定します。どうしてかといえば、そこに神の求めておられるものがなかったからです。人の目には幾ら素晴らしく見えても、神はその礼拝に集う人の心をご覧になります。神が求めているのは、祭り/礼拝という出来合いの作品ではありません。神が求めるのは、ご自分を慕い求める、人の魂です。神は心のささげものをこそイスラエルに求めました。

アモスが告げた御言葉の中心は次のような524節です。

正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。

これは新共同訳による翻訳ですが、聖書協会共同訳ではこうなっています。

公正を水のように/正義を大河のように/尽きることなく流れさせよ。

こちらの方が、原語が分かりやすくなっています。新共同訳では「恵みの業」とあるところが原語では「ツェダカー」です。これを聖書協会共同訳では「正義」に変えています。新共同訳の初めにある「正義」は「ミシュパート」という語です。これは聖書協会共同訳では「公正」に変えています。

「ミシュパート」という語は、裁判官が下す裁きを意味します。ですから、この語は、公正、規範、法令、正当な権利、法律などを意味する言葉です(ヘッシェル)。一方、これと並行句になっている「ツェダカー」は最初に紹介したように「義」を表す言葉です。このミシュパートとツェダカーはよく対になって出てきます。その関係については、ヘッシェルがこう説明しています。

合法性と義とは同一ではないけれど、両者は常に一致していなければならない。つまり義は合法性のうちに反映されていなければならない。聖書で用いられているミシュパート(公正)とツェダカー(義)の二語の意味上の差異を厳密に確定することは、きわめてむずかしい(両語はともに、しばしば同一概念の変形として用いられることが多い)。とはいえ、公正は行動様式を表し、義は人格的な質を表しているらしい。

申命記の中にこういう掟があります。申命記2410節から13節です。

10 あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。 11 外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。 12 もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。 13 日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう

13節はリストにも挙げている聖句ですが、この「報いを受けるであろう」が原文では「あなたに義があるであろう」もしくは「あなたが義となるであろう」という表現です。つまり、ここに神が人に求めておられる義のかたちがある、と見ることができます。これについて、ヘッシェルはこう述べています。

義は公正を超える。公正は厳密、厳格で、各人にその分に応じて報いるのに対して、義は慈愛、親切、寛大を含意する。公正が形式、均衡状態であるのに対して、義は実質的な、関連的な意味をもっている。公正は適法性を意味しうるのに対し、義は虐げられている人びとに対する灼熱の共感を連想させる。

アモスとその後の審判預言者たちは、こうして神の裁きを語る中で、隣人に対する義を強く語りました。それと同時に、礼拝の価値は絶対的なものではなくて、その隣人愛いかんによって決まるものであり、不道徳が蔓延れば、神聖な礼拝とて形式主義に堕落すると指摘しました。ヘッシェルはこの預言者たちの言葉を次のようにまとめています。

いけにえ(礼拝)の壮大さ、厳粛さが、神にとって憎むべきものとはいわないまでも、第二義的重要性しかもたぬものと宣告され、かわって親切な行為、寡婦と孤児の物質的必要対する配慮、そして平凡きわまる日常の些事こそが天地の主が要求されていることだと宣言されたのである!

預言者が公正と義にこだわるのは、もとをたどれば、不正の現実について彼らが鋭く意識しているからである。預言者の特質は、不正と圧迫に対する彼らの仮借ない暴露にある。社会的、政治的、宗教的悪についての的確な理解にある。

古代イスラエルは、「権利と義務とを区別しなかった」。そして公正を意味するヘブル語ミシュパートは、一個人が要求できるものと、彼が他者のために行わなければならないこととの双方を意味していた。言いかえると、それは権利と義務の双方を意味していたのである。

要求権と責任、権利と義務双方を含む人格間的関係としての公正は、聖書に従えば、神と人間の双方にあてはまる。その根本的な意味におけるミシュパートは、人と人、神と人との間に結ばれた契約を、すなわち両者の真の関係を維持するのに役立つすべての行動を指す。

アモスをはじめとする審判預言者たちが告げた通り、堕落した北イスラエル王国も南ユダ王国も相次いで国を失う結果となりました。それは神との契約が断たれたと思われる絶望的な結末でしたが、預言者を通してお語りになる神は、それで選びの民イスラエルを見限ったわけではなくて、捕囚の中にあっても言葉をかけ続けました。

バビロン捕囚の前後には偉大な預言者たちが名を連ねます。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルです。今日はそのすべてを紹介する時間はありませんが、ここではイザヤ書だけに触れておきます。イザヤもまた初期の活動は審判預言者でしたけれども、敗戦・捕囚の経験を通して新しい救いの預言を始めます。「慰めよ、我が民を慰めよ」で始まる40章からの預言です(ここは研究者の間では「第二イザヤ」と呼ばれます)。この救済預言で顕著なのは「神の義」が「神の救い」と同義に用いられることです。

意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ/以前から述べていたかを。それは主であるわたしではないか。わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は/わたしのほかにはない。(イザヤ45:21

主なる神は、聖なるお方であって、イスラエルの罪に対しては峻厳な審判をもって義をお示しになりました。269節にはこうあります。

あなたの裁きが地に行われるとき/世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

神の裁きを通して、世界は神の義の厳粛さを学ぶことになる。しかし、続いて起こるイスラエルの救いは、彼らをして異邦人の光とし、神の救いを地の果てにまで伝えるものとなります。そこで知らされる神は万物の創造者である神が、歴史をも支配なさる方であって、ご自分の民を贖う方であり、ご自分の義をもって民を救う救い主であることです。

新共同訳はイザヤ書のこのあたりでは頻繁に「ツェデク/ツェダカー」を「恵み」と訳出しています。

主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。(42:6

天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。(458

天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。(51:6

こうして、神の救いが神の義であり、神の義は神の憐れみであることがわかりました。旧約聖書で知らされる神ははじめから一貫して義の神ですが、今や人を義とすることがご自身の義であるとされます。

裁きの座であなたに対立するすべての舌を/あなたは罪に定めることができる。これが主の僕らの嗣業/わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。(54:17

こうして人の義は、主の僕らが神から与えられる義となり、義である神は義とする神、救いの神であることが明らかにされました。

イザヤ書5213節から5312節は、受難節の礼拝にもよく朗読される「苦難の僕の歌」です。その中の一節に次のような言葉があります。

彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。(53:11

この「苦難の僕」が誰であるかは旧約研究における永遠のテーマですが、キリストを主と信じる私たちにとってははっきりしていて、福音書が証しするようにこれはイエス・キリストのことだと受け止めています。けれども、旧約聖書そのものをよく理解するためにそうした答えを一旦留保しておくと、これは歴史の苦難を負ったイスラエル民族が一人の人に喩えられている、と考えることができます。そうして、イスラエルに属する一人一人が、この御言葉から神に選ばれた自らの定めを受け取って、神の御前に苦難を背負った義人として生きる、ことへの召しを意味します。人間の不義は神の義を前にして裁かれる他はありません。それが徹底されれば人類はあの洪水の時と同じように滅びる他ありません。しかし、神は、国々の不義をご自身が選んだ一人の「僕」に背負わせて裁くことになさいました。ここに神の義が貫徹されると同時に、神によって人が義とされて生きる道が開かれています。

 

 捕囚期を経て、神の義は共同体に対する要求から個人に対するものへと変わります。このところで重要な御言葉を語ったのは預言者エゼキエルです。エゼキエル書の18章をしばらく読んでみましょう。

18:1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。3 わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。4 すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。 19 お前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。20 罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。:21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。

どうして、個人の責任がこのように強調されねばならないかと言えば、そもそもイスラエルに罰が下って国を失う羽目になったのも先祖の不信仰が問われたからです。しかし、その罰としての刑罰を子どもたちが負わねばならない状況にある。それでは救いがないわけです。子どもたちからすれば、自分たちの責任ではないだろうと神に問いたいところです。しかし、そこには律法の成就があって、例えば十戒にも「先祖の罪を子に報いて三・四代に及ぼす」と言われていました(出エジプト20:5)。けれども、捕囚の罰を受けたイスラエルに対しては、一人一人の責任を問う、と神は語ります。さらに、悪人であっても、悔い改めて義の道に立ち返るならば「生きる」と、神の憐れみが語られます。

4 義の到来~新約へのアプローチ

 イスラエルにあって人々は神によって建てられた王が、神の御旨にかなう義を行うことを期待しました。それがメシアの役割でした。列王記上10章で、シェバの女王がソロモン王のもとを訪ねて来た時、ソロモンの知恵に驚愕した彼女はイスラエルの神をたたえてこう言いました。

あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。9 あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正(ミシュパート)と正義(ツェダカー)を行わせられるからです。

 こうしてイスラエルが待ち望んだ王は、貧しい者や弱い者のために力を尽くす責任を負う義の王でした。詩編72編は、神の義をもって治める理想的な王の像を描きます。

王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。(4節)

王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。(12節)

弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い(13節)

不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。(14節)

 イスラエルにおいて民を治める王には、このような責任があり、義なる神はご自身の義とすることを行うように僕を選んでその任に就かせました。歴史から学ぶことは、その責任を負える王は僅かであったという事実ですが、それは信仰の問題として、主ご自身が義による裁きを民に与えてくださることを求める祈りに表されます。さらに、主はそれに答えて、預言者を通じて、主の僕たる王の到来を告げたのでした。

 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。(イザヤ書5048節)

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリヤ書99節)

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。(マラキ3:20

こうして、神の義に生かされたいと願った真のイスラエルは、神から来る義のメシアを待ち望んで新約の時代に臨みます。そして、イエス・キリストに出会った弟子たちは、そのお方を通して、神の義をいただくことができたのでした。パウロが次のように語った通りです。

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(コリントの信徒への手紙二 5:21

イエスは弟子たちに「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えました。それは民の祈りに応えた神の答としてイエスと共に世に来たのでして、それを信じて受け入れた教会の民は、神の義と神の国が実現するために召された救いの証しです。義は私たちの内側から自然に生まれるものではなくて、神が私たちに聖霊を与え、御言葉によってすべてのものに向かわせて下さるところに生じる、救いの恵みです。今、私たちの世界はかつてのイスラエルのように義に飢え渇いているのではないでしょうか。政治・宗教・自然・科学、あらゆる領域で公正さが激しく求められます。コロナ・パンデミックの中で、いのちが格付けされてしまう状況に直面して、私たちが生きるための義が試されています。いかにして、私たちが義に生きるかは、私たちの命の問題として、さらに神の召しに答える信仰の道として、特に問われている問題ではないでしょうか。

 

補.神義論という問題:ヨブ記

 終わりに「ヨブ記」の問題に簡単に触れておきます。本来ならば「ヨブ記」から展開される「神議論」は、一つの講演全体を費やしても足りないほど大きな問題です。ですから、ここでお話しできるのはホンの入り口です。まず「神議論」という語について説明します。聖書辞典などを開いていただくと記事が読めると思いますが、文献表にあるクラウス・フォン・シュトッシュによりますと、「神議論とは、全知全能の善なる神を信じている人が、意味の見出せない苦しみに直面したとき、果たしてその信仰は正しいかどうかを議論することです」、と分かりやすく説明しています。より簡潔に言えば神議論の問題とは、「神がいるなら、この世にはなぜ悪が存在するのか」と考えることです(シュトッシュ、1頁)。ヨブ記はまさにこれをテーマに論じています。

まず、ヨブは冒頭の1章1節で紹介されているように「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていました」。ここで「ツァディーク(義人)」という言葉遣いはありませんが、この表記は「義人」の定義を満たしていると思いますし、続く4節、5節のふるまいはまさに彼が日常的に正しく生きていたことを証しします。しかし、彼には予想もしなかった災難が次々と襲いました。それは、サタンと神との間で行われたやりとりが原因でした。もちろん、そのことをヨブは知るよしもありません。サタンはヨブが義人として信仰を保っていられるのも神の祝福という御利益のためでしょう、と神を挑発するような発言をして、それに対して、神はヨブの命には手を付けてはならないと命じながら、すべての災いを及ぼすことをお許しになったのでした。これが、義人ヨブが苦しまねばならない理由でした。ヨブはそのところで、苦しみに直面しながらも見事に信仰を言い表します。これによってサタンの敗北は明らかでした。

 しかし、これはヨブ記の序文に記されたことで、ヨブ記の本論は3章から、ヨブがサタンの働きによって皮膚病を得て、苦しみが極まったところから、そしてヨブの友人たちとの議論によって始まります。そしてヨブはついに自分の苦しみは不当だと神の正しさに訴え始めます。ここにヨブ記の神議論が始まるわけです。

 ヨブ記の神議論については、文献表に挙げました並木浩一先生による『「ヨブ記」論集成』が深く広範に論じてくれていますから、詳しく学ぶためにはこれを読んでいただきたいと思います。また、先に引用しましたクラウス・フォン・シュトッシュの本は「現代の神議論」という副題がついていますように、これを現代の問題として論じる上では欠かせない論考となるでしょう。ここでは、どちらも紹介する余裕がありませんので、N.T.ライトによる『悪と神の正義』に紹介されている神議論の扱い方だけ触れておきたいと思います。N.T.ライトの評価については、各教派でさまざまに議論されていますが、文献表に挙げました牧田吉和先生の本にも簡単に紹介されていますので参照されたいと思います。

 N.T.ライトは上記の本の第2章で「神は悪に関して何をなしうるか?不正な世の中、正義の神?」との題を掲げて、神議論に関する旧約聖書の読み方について独自の提案をしています。その議論の初めにこう述べています。

旧約聖書が語っているのは、神が悪について何を言っているかではなく、悪について神には何ができるか、神が何をなさっているか、そして将来には何をしてくださるだろうかだ。旧約聖書に関する限り神議論は、後世の哲学の観点では表されておらず、神と世界の物語、特に神とイスラエルの物語に表されている。(59頁)

そして、議論を進めるに当たって、次の前提を踏まえる必要があるとして、旧約聖書の大枠に関する三つの段階を次のように設定します。

① 旧約聖書の全体は、小さな蝶番で支えられた巨大な扉のようなもので、創世記12章のアブラハムの証明を要にしている。これは創造主なる神が、創世記3章(人間の反逆とエデンの園からの追放)、創世記6章、7章(人間の邪悪さと洪水)、創世記11章(人間の傲慢さ、バベルの塔、そして言語の混乱)に明らかになった問題に対処するためになしていることに見える。

② その内側に、私たちは二次的な問題を見出す―つまり、アブラハムの子孫であるイスラエルが、約束の担い手でありうるのに、彼ら自身が問題の一部になってしまうということである。これは、父祖たちの物語から出エジプトに至るまで、モーセからダビデまで、イスラエル王家の紆余曲折を経てついにイスラエルの捕囚に終わるまで、巨大な叙事詩的物語によって明らかにされていく。

③ そしてその中に、私たちはさらに第三次的な問題を見出す―つまり、神に反抗したのは単に人類という種のレベルのことだけではなく、自らの役割を果たすことができなかったイスラエル民族だけでもなく、人間として、あるいはその中のイスラエル人としての個々の人も、罪深く、偶像を崇拝し、心が頑なだということである。

 旧約聖書全体の歴史物語を、創世記12章を要にして読む、というのはこれまでも「聖書神学」という分野で時々提案されてきた読み方です。創世記12章というのは、神がアブラハムを召して、約束を与えてカナンの地に送り出す場面ですが、そこで神がなした約束は聖書全体を覆う重要なものです。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。

 実際、この後の歴史の中で、イスラエルの民が生じ、王国が生じるわけです。そして、「地上の士族はすべて、あなたによって祝福に入る」という終末的なビジョンも与えられていますから、ここは新約の黙示録までをカバーする大きな約束と読むことができます。この大きな枠組みの中にすべての物語が含まれて、そこにさらに二つの段階を見出すことができる。まず②ですが、そこに選びの民イスラエルの初めから終わりまでの歴史が組み込まれている。「イスラエル」は創世記でヤコブに与えられた名称ですが、それが出エジプトによって大きな民となり、シナイ山で主なる神と契約を結んで一つの民族となり、やがて、ダビデの時代に統一王国を実現し、最後はバビロン捕囚によって国が滅びる、という一連の巨大なストーリーです。

 さらにその内側に、第3段階として、罪を犯した人間のストーリーが、アダムとエバに始まる人類から、神に選ばれた民であるイスラエルとして、また、神に背いた個人として、旧約聖書の各所に現れてくる。こういう物語の構造を踏まえて聖書を読んでいくと、個々の話と全体とが上手くリンクしながら、その意味を探ることが可能になります。

 この物語によって当該のテーマについて旧約聖書は何を語っているかというと、地上に存在するようになった「悪」に対して、神がアブラハムに与えた祝福の約束に対して、いかに忠実にふるまったか、ということです。そのことを旧約物語の流れに応じてライトは簡潔に説明してくれていますが、時間がありませんから、後は皆さんに自分で読んでいただくことにして、ヨブ記を中心に記されているところだけを今日は紹介しておきます。

 ヨブ記の読み解きに関してライトが着目するのは、まずヨブ記そのものを論じるのではなくて、イザヤ書40章~55章にかけて-これを聖書研究では「第二イザヤ」と呼びますが―特にその53章に現れる「苦難の僕」とヨブとを比較することをしています。そこで第二イザヤの重要性を次のように表しています。

 もし不正な世界での神の正義を理解したいのなら、こここそ見るべき場所だと、預言者は言う。神が有徳な者に褒美を、邪悪な者に罰を配分することは、途中経過として非常にしばしば見出されるが、神の正義は単にそれだけではない。神の正義は、救済の、癒しの、修復的正義(Restorative Justiceである。正義の神は創造主なる神であり、ご自分の創造の最初の計画をまだこれから完成なさるのであり、その正義は、単に不調な世界の均衡を取り戻すことだけを意図しているのではなく、そもそも最初に造った被造世界に、命と可能性に満ちた豊饒と輝かしい感性をもたらすことを意図している。そして、ご自分の似姿に造った人間を通して、より正確に言えば、アブラハムの一族を通して、この計画を妥協なく必ず完成しようとしていることには変わりない。

 そしてイザヤ書53章に苦難の僕が登場します。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。(3-7節)

 この僕はイスラエル追放の運命を共にしていますが、彼はこのようにして多くの人々の罪を背負うことになりました。この捕囚という「追放」の定めは創世記3章にある楽園追放の陰にあります。僕は神との契約に対する誠実さとその苦難によって上記の「修正的正義」を体現します。

 旧約聖書で、不正な世界における神の正義の中心に描かれるのは、不誠実なイスラエルに対する神の誠実さです。そして、さらにその中心にいるのが苦難を負った主の僕です。イスラエルの運命を担った彼の姿が、新しい創造に向かう人類の歩みを先に進ませる。この僕はイスラエル自身であって、また、神から遣わされた新しい使者でもあります。そして、彼は王でもあって、他の者が決してできないことを成し遂げる王です(53:10)。

 こうしたイザヤ書53章にある苦難の僕の姿を押さえておいて、ヨブについて論じるのですが、ライトはもう一つそこに加えてダニエル書7章にある「人の子のような者」について論じています。ここはまた、皆さんに後で聖書を開いていただくことにして、ライトがヨブ記について論じるところへ進みましょう。

 ライトはヨブ記の特質を6点にまとめて紹介していますが、その最後の6点目でこう述べています。ヨブと主の僕は大変よく似ている。苦難の僕もやはりヨブのように無実であり、彼はヨブのように不平を言ったりもしない。彼もまた、痛みと絶望だけでなく屈辱を受けている。聖書正典全体のより大きな文脈でみれば、ヨブ記全体がゲッセマネの悲惨な光景を先取りすると読めるかもしれない。ゲッセマネでも、被造世界そのものが暗くなり、怪物たちが無実の人物を取り囲んで迫ってくる。そして、その人物はそれらすべての意味を問うている。こう読んでみると、ヨブ記が福音書への橋渡しとして重要な役割を担っていることもまた見えてくるわけです。

 まとめとして、ライトが悪の問題への旧約聖書の取り組みとして挙げるのは次の4点です。

① 悪の力の具現化としてのサタンは、それほど重要ではない。悪の起源は神秘のままである。

② 悪に関しての人間の責任は一貫して明らかである。これについての理論はまったく与えられていないが、すべての人間は、この問題を共有しているように見える。神はある民族を選んで世界を正そうとしているが、その民族自体、深く欠点を負った人間たちからなり、そのことによって彼らは第二・第三段階の悪の問題を生じさせ、今度はそれらの問題が取り組みと解決を要するのである。イザヤ書53章の不思議な、黙した人物だけが、罪なく正しくあり続けた人物といわれて私たちの前に立っている。

③ 人間が行う悪は、被造世界が囚われの身になっていることと分かちがたく結びついている。これは応報論の問題では済まない。むしろ、創造主に対する人間の反抗から被造世界自体の乱れにまでさざなみのように広がっていく出来事の連関が、網のように入り組んでいる。同様に、人間たちが正されるとき、世界は正されるだろう。地震や他のいわゆる「自然災害」については何の理論も差し出されていないが、疑いもなく、預言者たちはそれらを天から送られてきた警告と理解して納得していたのであろう。

④ 旧約聖書は決して哲学者たちが求めるような、あらゆる事物が整然と説明されているような安定した世界像を私たちに与えようとはしていない。旧約聖書の世界観は、いかなるときも、宗教的人間はこのように信じているに違いないと多くの懐疑主義者たちが思いなしているような、つまり、神が巨大な機械の全能の管理指導者で、その機械をしかるべく作動し続けさせることができるはずだというような、単純な世界像に堕すことはない。私たちにその代わりに差し出されているのは、より奇妙でより神秘的な世界像である。不正な世の中の内なる、神の正義の計画の物語である。

この計画は、今ある世界を一掃して何か代わりのことをしようとするのではなく、むしろ今ある被造世界を正そうとすることにある。そのため神は、今ある人間たちを通して働く決意をなさる。彼らが心に思うことが悪いことばかりであるにもかかわらず、である。そして、イスラエルがアブラハム以来、従順の行為に劣らぬほど多くの間違いを犯してきたにもかかわらず、イスラエルを通して働く決心をなさるのだ。

この第4の点において、私たちは、少なくともパターンとあらすじにおいて、どれほどぼんやりとあいまいにであろうとも、旧約聖書のクライマックスとして現れてくる物語に私たちを導く道標を見出す。人類の罪深さが神を心から悲しませる瞬間、僕が侮辱され拒絶される瞬間、ヨブがどうしてこのようでなければならないのかと神に問う瞬間は、ついに海から上がってきた獣たちの力に向かおうとする人の子(ダニエル書)が孤独と恐れのうちに跪いた時へと集約する。ゲッセマネの物語とナザレのイエスの十字架刑の物語は、新約聖書では、神が悪についてなさることの物語の奇妙な結末、そして神の正義が人間の肉体をとり、足をゲッセマネの園の泥で汚し、十字架で手を血だらけにした時に起こったことの物語の奇妙な結末に見える。この世界での神の行為の多種多様な両義性が、イエスの物語に集約する。

 

 

最後はライトの引用のままで紹介しましたが、旧約聖書の中では神議論に回答はないと言われますが、聖書正典の大きな枠組みでは、まさに新約聖書におけるイエス・キリストがその回答として与えられます。正義と不正義とが相まみえるこの地上の歴史にあって、神の御計画の中に悪が存在することには不明な点がありますけれども、聖書は確かに「神は義である」と語り続け、詩編は神の義を賛美し続けるのでして、それを信じて、悪に勝ち、呪いを祝福に変えることを、神はキリストに託して働き続け、私たちを教会に召しておられます。

〈講演レジュメ〉

 

序 翻訳聖書による説明

・『聖書 新共同訳』「用語解説」

 義(ぎ)(24)頁 

 神の属性、また人間に対するかかわりの特徴を表す概念。「神が義である」とは、神がその聖である本性や自分の立てた約束に誠実であり、誤謬を犯したり、法を破ったりすることはありえないという意味(申32:4、詩119:137)。「神の義」は、人間とのかかわりで不正や罪の裁きと罰における神の正しさ・公平、場合によっては救い・助け・恵み・憐れみ・勝利・繁栄などの意味を含む(士5:11、サム上12:6、エレ9:24、ヨブ36:2以下参照)。新約聖書では、神が人間にお求めになるふさわしい生き方、神の裁きの基準を意味することが多い(マタ5:206:331ヨハ3:10、ヤコ1:20参照)。特にパウロ書簡では、「人間を救う神の働き」、その結果である「神と人間との正しい関係」を意味するが、キリストによる贖いと必然的に関連し、人間が義とされるとは、神の前で正しい者とされることであり、「救われる」とほとんど同義である(ロマ3:21-26)。

 

正しい者(ただしいもの)34)頁 

 神との正しい関係にある人間。聖書では「正しい」という言葉は、本来、神について用いられ、単に道徳的・社会的正義といった価値を意味するものではない。神は正しい神であり、人間にも正しさを要求される。しかし、人間は神の律法に背いて、神との正しい関係から堕落してしまい、人間の力だけでは、これを回復しえなくなった。預言者たちは、これが来るべき救い主(メシア)によって実現されると教えた(イザ53:11)。人間が正しい者とされるのは、神の救いの働きにより、キリストを信じる信仰による(ロマ35章)ので、世界の全ての人がその恵みにあずかることができるようになった(ロマ5:18)。

 

1 旧約聖書における「義」という語

  ヘブライ語צדק :ツェデク、ツェダカー、ツァディーク צַדִּיק/צְדָקָה/צֶדֶק

新共同訳では文脈によって訳語が異なる

2 律法と義

  神との契約における義(参考:秋田稔論文)

  律法=トーラー

五書における3つ(4つ)の法集成

①契約の書:出エジプト記20-23章、(小契約書34章)

②祭司法:出エジプト記25-31章、35-40章、レビ記(神聖法典17-26章)

民数記1-10章、25-30

③申命記法:申命記12-26

3 預言者と義

  アブラハム・へシェル『イスラエル預言者』より

社会正義を求める神:義と裁き(ミシュパト)

    義と救い

4 義の到来~新約へのアプローチ

  イスラエルの王に求められた義

  詩編72編:理想的な王の像

補 神義論という問題:N.T.ライト『悪と神の正義』より

 

≪参考文献≫

牧田吉和『改革派教義学5救済論』(一麦出版社、2016年)113160頁。

並木浩一「義」、東京神学大学神学会編『旧約聖書神学事典』(教文館、1983年)、6368頁。

石田友雄+K.Koch「義」、『旧約新約聖書大事典』(教文館、1989年)、348頁。

G.フォン・ラート『旧約聖書神学Ⅰイスラエルの歴史伝承の神学』荒井章三訳(日本キリスト教団出版局、1970年)、492506頁。

勝村弘也『旧約聖書に学ぶ―求めよ、そして生きよ』(日本基督教団出版局、1993年)、6685頁。

A.J.ヘッシェル『イスラエル預言者 上』森泉弘次訳(教文館、1992年)、377418頁。

<ヨブ記と神議論について>

N.T.ライト『悪と神の正義』本田峰子訳(教文館、2018年)、55-92頁。

クラウス・フォン・シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか―現代の神議論』加納和寛訳、(関西学院大学出版会、2018年)

並木浩一『「ヨブ記」論集成』(教文館、2003年)。

岩田靖男『いま哲学とはなにか』(岩波新書、2008年)。

岩田靖男『人生と信仰についての覚書』(女子パウロ会、2013年)、104120頁。

越川弘英『旧約聖書の学び』(キリスト新聞社、2014年)。

 

<論文>*インターネットでダウンロード可

秋田稔「旧約聖書における義―『教育とキリスト教』の問題に関連して―」国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 = Educational Studies (2), 37-68, 1955-11-20

 

樋口進「旧約聖書における『正義』」神戸教育短期大学、研究紀要第1号、20203月。