神の民のアイデンティティ~旧約から新約、そして現在へ~

 

講演Ⅰ 神が働くということ

 

序.なぜ教会へ行かなくてはならないのか

 

 今回の講演は「なぜキリスト者は主日ごとに教会へ行かなくてはならないのか」という問いから始まります。講演のテーマは修養会を準備された先生や兄弟姉妹から出されたものですが、最近みなさんの中には教会に行かなくてはならない理由が分からなくて教会から遠ざかっている兄弟姉妹たちがあるとのことです。おそらく、それは教会の青年たちや学生たちばかりが礼拝生活に揺らぎを感じているのではなくて、洗礼を受けて現住陪餐会員として登録されている教会員がなかなか主日礼拝を守れない状況がある。そこで毎週の礼拝をきちんと守ることが重荷になって来ていて、よく考えてみるとどうしてそうしなければならないのか実はよく分からない、ということに気がついた、というようなことではないか。本当は、礼拝に集えない個別の理由がある筈ですから、こうした問題には個別にお話しした方がよいのですが、そもそも教会とは何か、礼拝を何故行うのか、という基本的な事柄はすべての教会員に知っていて欲しいことです。

 

 そこでまず、聖書に基づく答えを簡単に述べておくことにします。なぜ教会に私たちは集うのか。それは、神が、キリストに結ばれた者たちを召し集めて教会を立て、そこで世の終わりまで御自身の御業をなさるから、です。要点は、私たちの内に本来の根拠があるのではない、ということ。かつて教会に行ったことがあるという、ある御婦人が、所詮、教会はおしゃべりのためにあるんじゃない(そんな処へわたしはいかない)と厳しく批判されたことがありました。確かに、そう見えるところがあるかも知れません。また、教会の中でよく見られることは、先生のお説教が素晴らしいからこの教会に来ているという方があって、その牧師が余所へ移ってしまいますと、またその人も何処か余所へ行ってしまう、ということが起こります。「私が教会へ行く理由」は実に様々なのでしょうけれども、信仰者が教会に集い、主の日ごとに礼拝をささげるということは、神が私たちを教会に集め、礼拝において私たちとの最も緊密な交わりを保たれるということで、神の主体的なお働きによるものです。毎週、主の日に礼拝に通うのも、そうしないと私たちの信仰が保てないとか、そもそも教会がそれでは維持できないとか、そういうこちらの事情でそうすべきだと定めているのではありませんし、教会に行けばいいことがある、慰めが与えられる、というような私本位の理由が第一にあるのではありません。そうではなくて、神がお命じになっているので私たちは喜んでそれに従います。私たちの側から言えば、ですから、私たちを御自分の民として御許に集める、その神の御業に自分自身をささげるかどうか、神の招きに応えるかどうか、ということが信仰において問われます。

 

 もし、御言葉に聴き従う、という信仰がないのであれば、応えようもないと思います。求道者の方々は、多くの場合、そもそも信仰を持たずに教会を訪ねてくる訳ですから、自分の内に何らか理由を持っていて、その背後に働く聖霊の促しには気がついていません。ですが、信仰者は、少なくとも洗礼を受けるときにそのことを聖書から教えられているのですから、後は信じて従うかどうかです。

 礼拝に来る、来ない、という問題は、ですから「何故、来なければならないか」という理屈以前に、神の御業の故に教会があるんだということを信じるかどうか、そもそもキリストを私の救い主であり、私の牧者として本当に信じているかどうか、というキリスト信仰そのものの問題ではないかと思います。

 

 信仰の入り口は、キリストの福音を素直に受け入れるところから始まりますが、そこから聖書全体を通じて知らされることは、創造から終末まで三位一体の神が生きて働かれるとのことで、教会は旧約の時代から神の民として、いわば神の伴侶としてこの世界で共に生きて行くよう定められたのです。その民の一人であるとの自覚から、ウェストミンスター小教理問答の第1問に挙げられた究極のキリスト教人生観を表す、「神の栄光を表し、神を永遠に喜ぶために生きる」との告白も生じて来ます。

 

さて、この講演一では、「神の民」という概念を手掛かりにして、神が教会を建て導かれる過程を、創造から終末まで辿ってみることにします。聖書全体を扱いますから、ここでお話しするのは概略に過ぎませんけれども、今後皆さんが聖書を読んで理解する時にある一定の視座を提供することにはなると思います。

 

1.旧約聖書における神の民

 

 この世界に関わる神のお働きの最初は天地創造です。そこは神の民が生き・増え・広がる舞台となります。創世記第1章では人間の創造が最後の段階に行われて、人間は神にかたどって創造され、男女一対を基本として、地上を治める権限が委託されます。この段階では「民」という言葉は出て来ません。まず種が蒔かれた、ということになるでしょう。重要なのは神が地上の生物と人類全体とに祝福を与えておられるということと、完成された世界は「極めて良かった」と評価されて、神の喜びに値した、ということです。

 

 創世記2章へ進むとエデンの園での出来事が記されます。そこは神の庭であって、神と人間との交わりが無垢な状態で保たれていました。最初の人であるアダムとエバはそこで善悪を知る木の実を取って食べてはならないとの掟に従っていましたが、蛇に唆されて御言葉に背き、園を追放されます。ここで、豊かな水の源であり中央に二本の木を備えたエデンの園のイメージは、聖書の最後にあるヨハネ黙示録の終わりに近い部分で、来るべき終末の新天新地の姿に受け継がれていますので、確認しておきましょう。221節以下です。

 

 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

 

創造時のエデンの園と同一ではありませんが、それは神の僕たちの都としてグレードアップして完成された姿を表します。

 

こうした枠組みによって聖書を読み進めて、「神の民」の変遷を辿れば、それは神に創造された人間が、アダムとエバから始まって、終末の僕たちにまで至るのを見ることになります。

 

さて、神による「民」の形成は創世記12章にあるアブラハムの選びに始まりますが、その前の11章に興味深い記事があります。1節から9節にある「バベルの塔」の話です。ここで初めて「民(アム)」という語が出て来ます。6節を見ますと「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話している」とありまして、洪水以降、再び増え広がった人間がひと固まりの「民」と呼ばれています。ただ、この時点での「民」は特別な意味で神が彼らを「一つの民」にしたわけではない。世界に人類が拡散し、それぞれの地域で個々の民族となる以前の人間がひとまとめにされている。10章に所謂「民族表」と呼ばれる分布図が描かれますが、これはむしろバベルの事件の後の状況を表すものです。そこで一つの言葉を話す一つの民が、「有名になろう」との目的で天にまで届く塔のある都を建設しようとする。「天にまで届く塔」を建てるとどうなるかというと、天と地が結ばれて行き来することが可能になり、神の都がそこに出現することになります。また、「有名になろう」と翻訳されているところは、元の言葉では「自分のために名をつくろう」ということで、「名をつくる」または「名をなす」というのは単に有名になって認知度が広がるということではなくて、神人として崇められた古代の英雄たちのように永遠に名を残すという意味がある。つまり、一つの民が神の都を自分たちの手によって建設することで神に等しい名を持つようになることが意図されている。バベルとはバビロンのことですから、文明の発祥地である古代メソポタミアの中心的な都市の一つです。そこに代表される人類が自らの力で神に等しい一つの民になろうとする。これを神が阻止されて、人類は世界に散らされることになった。そうしますと、アブラハム以前には、人間は自分の力で神の都を創ることはできず、神の民にはなれない、ということがまず11章で語られていることになります。では、どのようにしてなるのか、という話が12章から始まります。

 

バベルの塔の話は人類全体を扱う原初史の終わりに位置していて、次にまた全世界が視野に入ってくる新約への橋渡しになりますから覚えておきたいところです。これはまた後ほど触れることにしたいと思います。

 

バベルの塔の事件以降、人類は言葉を違えて世界に離散して住まうことになるのですが、その散っていく動きの中にアブラムとその家族の姿があります。そのアブラムの出立は神が自由に彼を選んで次のように命じたことによります。

 

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 

ここでアブラム、すなわちアブラハムに与えられている約束はまず、「大いなる国民とする」ということです。つまり、神は地上を旅する一人の男を選んで、そこから御自分の民を造られる。「国民(ゴイ)」という語は、先程の「民(アム)」と並行して用いられる同義語ですが、「民」が主に血縁を基礎とする家族的な集団を指して、後にはイスラエルに専ら適用されるのに対して、「国民(ゴイ)」は言語や宗教を共有する政治的社会的集団を指して、後には異邦人を表すようになる語です。「大いなる国民にする」とは、ですから、周辺の国々との比較が念頭にあるわけで、その中にあって強大な国民・国家となる、と言われている。

 

 そして「名を高める」とありますが、これは先程の「バベルの塔」の話にありました「有名になろう」に対応して、「我々が名をなそう」とバベルの人々が述べたのに対して、ここでは神が「あなたの名を大いなるものにする」と言われます。神がアブラハムを選んだ目的は、彼を御自分の僕として祝福し、彼の子孫を「大いなる国民」とし、その名を大いなるものとして諸国に知らしめることにありますが、更に加えて、アブラハムを祝福の源として、「地上のすべての氏族が、彼において、祝福される」というヴィジョンが与えられる。すなわち、アブラハムから開始される神の民の選びは、一つの民が神の祝福を受けて「大いなる国民」にまで発展すれば目的を達するというのではなく、さらにそこから地上のすべての民族がその名において祝福を受けるところまで及んで初めて完結する。神の祝福がすべての人類に及んだのは創造の時点でしたが、その後、神の罰を受けて全世界へと散って行った人々が再びその祝福の中へ帰って行くために、神がアブラムから始めて「民」を造り始めた。ここから聖書は族長たちの物語によって神の約束が成就する過程を描き出し、エジプトではもはやファラオを脅かすほどの一つの大きな民にまで成長します。

 

 アブラハムの子孫の内、神の祝福を受けてエジプトで発展するのはヤコブの家族でした。神はヤコブに「イスラエル」との名を与えて、彼の子孫にその名を受け継がせます(創

32:29, 35:10)。出エジプト記の冒頭では、総勢70人であったヤコブの家族がもはや数え切れないほどの大きな民に発展しており(1:7,9,12,20)、神の祝福の力が民の増加を押し留めようとする地上の勢力を凌駕する様子が伝えられます。ここに神の僕モーセが登場してイスラエルの民をエジプトから導きだし、シナイ山での神との契約に臨むのですが、モーセが神の召命を受ける場面で、神はイスラエルを「わが民」と呼びます。310節、

 

 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。

 

7節も参照していただければよいと思います。そして6章で、神がイスラエルを導きだすのは、先祖たちとの約束に従って彼らにカナンの土地を与え、そして「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」為であると知らされます。この表現は、神と民との間で契約が結ばれることを意味します。

 

 イスラエルがモーセと共に葦の海を渡り、シナイの荒れ野に辿りつくと、神はシナイ山でモーセに語りかけて次のように言われました。

 

 ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。(出19:3-6)

 

神との契約の下で、イスラエルの民が「神の宝」であるといわれ、「祭司の王国、聖なる国民」と呼ばれます。これは神の民の根本を形づくる定義となるので重要です。まず、「すべての民の間にあって、私の宝となる」とありますが、これは「すべての民の中から、あなたがたを選んで宝とする」という神による選びを表します。この「宝」という呼び方については、申命記ではより明確に選びと結びつけられて次のように言われます。申命記76節、

 

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。

 

このように申命記では「宝の民」という表現が独特で、既に「宝」となっている状況で語られます。詩編で触れているところも見ておきましょう。1354節、

 

主はヤコブを御自分のために選び/イスラエルを御自分の宝とされた。

 

「ヤコブ」をイスラエルの呼称とするのは創世記の古い伝承に基づく預言者たちの語法で、それらは同じものを表していて、「選ぶ」ということと「宝とする」ということがこの並行法では同義とされているのが分かります。ですから、「宝の民」とは「選ばれた民」とのことで、それはイスラエルが神の所有物として特別に大切にされた宝であることを意味します。

 

 「祭司の王国、聖なる国民」はほぼ同じことを別の表現で言い表したものですが、「祭司」で強調されるのは、神と人との間に立つ仲介者としての役割です。祭司は民の中から選ばれて、清められて、民のために犠牲をささげたり、神の託宣を取り継いだりして、聖所で務めを果たします。それと同様に、イスラエルは諸国民の間にあって聖別されて神に選ばれて、神の祝福を周囲に取り次ぐ役割を果たす、ということでしょう。申命記には、これと同等の役目についてモーセが語った次のような箇所があります。45節から8節、

 

 見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。 6 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。 7 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 8 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。

 

これらの旧約の言葉を受けて、新約でもペトロがこれを教会に適用して次のように述べています。ペトロ一29節、

 

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 

神の民はその成立の初めから神の宣教の業に従事する務めを与えられている、と言えるでしょう。

 

 「聖なる国民」も、「国民(ゴイ)」という先に触れた語に注意すれば、諸国民の間で特別に神のものとして区別された国民という意味ですから、そこで他の諸国民との関係が意識されて「祭司の王国」と同じような表現であると分かります。申命記では「聖なる民」という表現が専ら用いられています。

 

 さて、イスラエルがまさに神の民となる瞬間は、シナイ山の麓で契約を結んだ時です。これはいつもイスラエルが立ち戻るべき、神の民のアイデンティティーを確認する場所だと言えるでしょう。契約締結の場面は出エジプト記19章に始まって、間に契約の書を挟みながら、24章まで続きます。後にモーセがこの時のことを申命記で振り返って次のように述べています。910節、

 

 主は、神の指で記された二枚の石の板をわたしにお授けになった。その上には、集会の日に、主が山で火の中からあなたたちに告げられた言葉がすべてそのとおりに記されていた。

 

ここに「集会の日」という言葉が出て来ますが、「集会(カハル)」とはまた神の民を特徴づける語彙の一つで、これをギリシャ語に訳しますと「エクレシア」となります。後に新約聖書ではこれが教会を指す語として定着します。一般的には何らかの目的で召集された集団を指しますが、イスラエルに適用される場合は、礼拝のために集った会衆を指したり(歴代下20:5, 30:25, ネヘミヤ 5:13, ヨエル2:16)、「契約に基づいて集会に参加することが許された民」という程の意味合いで、イスラエル全体を指したりします。申命記で言う処の「集会の日」の出来事が、まさにその集会を成り立たせている訳ですが、主なる神がイスラエルをエジプトから導き出された後、シナイ山の麓で民に御自分を顕わされ、モーセを介して契約の言葉を与えて、民と契約を結ぶことによって、イスラエルを正式の御自分の民とされた、ということです。ここにイスラエルは「主の集会」として、その初めの集会の日を思い起こしながら、契約に定められた諸規定を守り、つまり、神の言葉に聴き従うことによって、「祭司の王国、聖なる国民」の務めを果たしながら地上を旅して行きます。

 

 ここまで、いかにして神の民が地上に出現するようになったのか、旧約の律法(五書)に基づいてその大枠を述べました。更に詳しく探るならば、出エジプト記の終わりからレビ記・民数記・申命記に記された諸規定を具に学ばなくてはなりませんが、この律法の中に神の民イスラエルのアイデンティティは余す処なく表明されています。現に旧約聖書のみを正典としてもつユダヤ教徒は、この五書を繰り返し学ぶことによって自分たちが神の民であることを確認しながら信仰生活を保っています。

 私たちはと言えば、既に見て来たところで、主イエス・キリストがお建てになった教会にも多くの部分が当てはまることに気がつくだろうと思います。新約聖書の記者たちは、旧約聖書に記された神の御言葉と、主イエス・キリストに顕わされた神の御業を重ねながら記していますから、それは当然のことです。旧約のイスラエルから新約のキリスト教会へ、神の民は一貫して、神の定めた計画に沿って歩みを進めています。新約の教会についてはまた後で触れますので、もうしばらく旧約聖書から神の民の道行を見ておきたいと思います。

 

 イスラエルはシナイで主なる神と契約を結んで「神の民」となり、その後の歴史へと進んで行きます。その道行は既に申命記で予告されていたのですが、そこには二つの方向が示されていました。それは、契約に忠実に従うならば祝福を得て土地に長くとどまることができる、しかし、契約を破って御言葉に従わないのであれば呪いによって滅びる、ということでした。そしてイスラエルが選んだ道は、実に後者となるわけです。聖書にある律法の文面を見る限りあり得ない選択ですけれども、信仰を守る闘いを避けて、豊かな土地の生活に馴染むことに流されていった結果、神の民は呪いへと突き進んでいってしまいます。

 

 ただ、本当にイスラエルが滅びてしまえば、そこでアブラハムの選びから始まった神の救いの計画は途絶してしまいます。民の堕落にも関わらず、神がその先をどのように用意されたか、ということに聖書の記述は関心を集中します。

 

 ヨシュア記では、モーセの後を継いだヨシュアが民の指導者になり、イスラエルの第二世代を約束の土地カナンへ導きます。出エジプトを経験した第一世代は、モーセをも含んで、約束の土地に入ることができませんでした。それは、彼らが神の約束に信頼せず、荒れ野の導きにも不平を言ったからでした。新しい世代はカナンの土地を獲得して部族ごとに居住地を分配され、ヨシュアと共にシケムで契約を結んで、神の御前に民として結束することを誓います。しかし、ヨシュア記の記述をよく見ると、この第二世代もまたモーセが申命記において告げた神の掟に完全に服従したわけではないことが分かります。13章から19章にかけて土地の分配について詳細に報告されていますが、時折そこに、カナンの原住民が残っていることが隠さず記されています。例えば、1520節以下にある、ユダ族が受け継いだ土地について報告されている箇所では、終わりの63節に、

 

 ただし、ユダの人々はエルサレムの住民エブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの人々と共にエルサレムに住んで今日に至っている。

 

とあります。申命記によれば、71節以下、他では、次のように命じられています。

 

 あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、2 あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。

 

もう一つこれと、ヨシュア記1610節にあるエフライムに対する土地分配の記述を比較してみましょう。

 

 彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている。ただし、彼らは強制労働に服している。

 

こうして土地の征服が未完了であることが、続く士師記においては民の堕落を招く原因となります。

 

 士師の時代は、イスラエルの民が螺旋を描きながら混迷の深みに落ちて行きます。その概要が2章に記されていますが、それによりますとヨシュアの世代は信仰の継承に失敗して、次の世代は地元の偶像崇拝に走ってしまった。そこで契約違反を咎めた神は、周辺の諸民族にイスラエルの民を引き渡すのですけれども、彼らの叫びを聞いて憐れみ、救済者として士師をお立てになって彼らを救助されます。そして、その士師が存命中はイスラエルには平和が保たれますが、死んでいなくなるとまた偶像崇拝が始まって、敵の手中に落ちてしまう、という堕落と救済のサイクルが士師記には当てはめられていて、しかも、士師たちも含めて、イスラエルは堕落の深みにはまって行きます。終わりにはベニヤミン族がソドムとゴモラに比較されるほど酷い行為に及んで、イスラエルの間で戦争となり、一つの部族が失われる寸前にまで至ります。

 

 主の民は、確かに神の憐れみの対象として存続してはいますけれども、この士師記に見られるサイクルが、聖書が記すイスラエルの歴史そのものをよく物語っています。

 

 サムエル記の冒頭に登場する預言者サムエルは、王国成立前夜に活躍した、モーセにも比較され得る民の指導者です。このサムエルの下でサウル王が誕生し、イスラエルは王国時代へと突入します。「あなたを大いなる国民とする」というアブラハムへの神の約束は、その成就を目前にしています。

 けれども、そこにも主の民の側に問題がありました。彼らは周辺諸国に対抗する為に、特に海側から勢力を伸ばしてきたペリシテ人に対抗する為に王の擁立を神に求めますが、主なる神の御言葉によって統治される十二部族には人間の王はいらない、と神は預言者を通じて語ります(サムエル記上8章)。しかし、民はそれを受け入れないで、王による過酷な支配が始まるとの警告にも耳を貸さず、結局神がそれを赦すことでサウル王の下、イスラエル国が誕生します。王国時代にはサウルが退けられた後にダビデが登場し、このダビデのもとでイスラエルは真の統一を果たして、神の約束は一旦成就します。しかし、今述べましたように、王国成立には神の約束の成就という肯定的な側面と、神の民の不服従という否定的な側面が表裏一体となっています。

 

 イスラエルの歴史に突如として登場するダビデもまた、神に選ばれた僕として民のもとに遣わされます。サウルがイスラエルの正当な血統と承認手続きの上で王に即位したのと違って、ダビデは名もない牧羊業者の末息子に過ぎないところを、いきなりサムエルに見出されて王となった、いわばシンデレラ・ボーイです。羊飼いダビデが主の民を養う牧会者とされたのは、御自分の民を契約の下に保たれる神の配慮によるもので、ダビデには預言者ナタンを通じて永遠の王座が約束されました(これを「ダビデ契約」と呼びますが、サムエル記上7章にあります)。ダビデはその約束を賜った時、神に感謝の祈りをささげて次のように述べました。

 

 主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。 23 また、この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、名をお与えになりました。御自分のために大きな御業を成し遂げ、あなたの民のために御自分の地に恐るべき御業を果たし、御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました。 24 主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。 25 主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。 26 『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。僕ダビデの家が御前に堅く据えられますように。(22-26)

 

ダビデの生存中、神の約束が果たされてイスラエルは統一王国を保ち、神の栄光を周辺諸国に輝かすことができ、続くソロモンが王座にある時には念願の神殿をもエルサレムに建立することができました。神は人の建てた家に住まわれることはありませんけれども、エルサレム神殿は神が民と共におられることの証であり、そこで務めを果たす祭司たちが罪の贖いの犠牲をささげて、神と民との間を保っていました。

 

 しかし、イスラエル王国はソロモンが周辺諸国の神々を国家に導入した罪が元になって次の世代には南北二つの王国に分裂し、互いに隣接してはいましたけれども、それぞれ別の道を歩んで堕落と壊滅へ突き進んでいきます。最後に北イスラエル王国は、紀元前722年に世界史上最初の帝国といわれるアッシリアの登場によって解体せられ、その後も暫く王座を保った南ユダ王国も紀元前587年に続いて起こったバビロニアによって滅ぼされます。

 

 イスラエルの王国時代に、神の民は偶像崇拝の罪によって士師記に暗示されたような闇の中を突き進みますが、そこで新たな神の僕たちが民の中から起こされます。それは武具を纏って敵と戦う士師たちとは異なって、神の言葉によって民の罪を告発する審判預言者たちの登場です。北王国も南王国も自分たちが選びの民であることに安住してしまって、御言葉に従って神との契約に忠実であることを怠るようになり、信仰の垣根を崩して他宗教の侵入をその文化とともに安易に受け入れてしまいました。それは神の目からすれば「姦淫」に相当することで、神は激しい怒りをもって預言者の口を通して語り、もはやイスラエルは「わが民でない」と断言します。ホセア書の冒頭では次のように記されています。

 

 主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。… 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。主は言われた。「その子を/ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく/わたしはあなたたちの神ではないからだ。」

 

預言者ホセアは売春婦であった女性、もしくは、姦淫を犯した妻を娶るように神から命じられます。それは、偶像崇拝に走ったイスラエルに対する神の思いを身をもって民に伝えるためでした。そして、彼女から三番目に生まれた男の子には「ロ・アンミ」と名付けよと言われます。その名の意味は、「わたしの民ではない」ということ。「あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」という契約関係がもはや破れたことを示します。

 

 北王国で活躍したアモスやホセア、南王国でのイザヤ、ミカ、エレミヤらの働きにも関わらず、民は結局悔い改めて神に立ち返ることはなく、かえって預言者たちを迫害して、終わりの裁きを招くことになりました。審判預言者が告げていた通り、もはや王国は地上から消滅しました。

 そうするとここでもまた、神がアブラハムに与え、ダビデに与えた契約が頓挫してしまう危機が訪れたことになりますが、預言者たちの語った言葉は「神の民」の像を一新するための新しい内容を伴っていました。その一つは、「残りの者」に対して神が憐れみを注がれる、ということです。預言者ミカは46節で次のように語ります。

 

 その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め/追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を/残りの民としていたわり/遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに/主が彼らの上に王となられる。(6-7節)

 

イザヤもまた、神が行動を起こされる終末的な「その日」について次のように語ります。

 

 その日が来れば、主は再び御手を下して/御自分の民の残りの者を買い戻される。彼らはアッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた者である。 12 主は諸国の民に向かって旗印を掲げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放されていた者を引き寄せ/ユダの散らされていた者を集められる。(11:11-12

 

王国は滅びてもイスラエルの民は世界各地に分散して生き延びていました。南王国を滅ぼしたバビロニアは、ユダの人々をバビロンへ捕えて連行して行きましたが、まだエルサレムには残された人々がありましたし、捕囚地でも信仰の自由がある程度保たれていました。この残りの民が、罪を悔い改めて神に立ち返り、改めて御言葉に従って生きるようになることが、続く神の民の未来を指し示しています。

 

 捕囚後の時代になりますと「残りの者」は、バビロン捕囚からエルサレムにやって来た帰還者たちを指すようになります(ハガイ1:12,14, 2:2, ゼカリヤ8:6, 11-15)。預言者ゼカリヤは、エルサレムに帰ってきて神殿の再建に取りかかった民に向かって、次のような主の言葉を告げて励ましています。

 

 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して/以前のようではない、と万軍の主は言われる。平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び/大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者に/これらすべてのものを受け継がせる。ユダの家よ、イスラエルの家よ/あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが/今やわたしが救い出すので/あなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。

 

 神の民の存続は、こうして神の裁きを生き延びた残りの民の信仰いかんにかかっているとも言えますが、もう一つ、その信仰に関することで重要なのは、預言者たちを通して語られた、神の直接的な介入についてです。それは神が民に与えられる「新しい契約」です。エレミヤ書30章と31章は、神による民の赦しと回復を告げているよく知られた箇所です。その3131節以下にはこうあります。

 

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。主はこう言われる。太陽を置いて昼の光とし/月と星の軌道を定めて夜の光とし/海をかき立て、波を騒がせる方/その御名は万軍の主。これらの定めが/わたしの前から退くことがあろうともと/主は言われる。イスラエルの子孫は/永遠に絶えることなく、わたしの民である。

 

エレミヤと同時期に活躍した預言者エゼキエルもまた、新しい契約について次のように語っています。3624節以下、

 

 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

 

 神と民との間で結ばれる契約は、いつも神の側から民の側へと進んで与えられる言葉に基づいています。それ故、神と民との関係は「恵みの契約」によって結ばれているといいます。かつてモーセを通して与えられた契約の言葉は、イスラエルの民が真の神を知らぬ世界にあって、神の祝福を受けながら、「聖なる国民」として神を証して生き抜くための導き手として、彼らに与えられたものでした。しかし、旧約の歴史が私たちに教えてくれるのは、人にはそれを全うする力がない、ということです。それだけ罪に染まっており、誘惑に弱くて、放っておけば滅びを招いてしまう。そこで契約の恵みの中で、神が最後に約束されたことは、神が民の頑なな心を柔らかくし、悔い改めさせ、新しい霊をそこに置かれる、ということ。そうして、血縁に頼ってでもなく、何かに強制されてでもなく、心から神を信じ愛する思いで、自由に御言葉に従う民が出現する。そうすることによって、神の永遠の計画は途絶えることなく世の終わりに向けて未来を目指します。

 

 新約でのイエス・キリストの出来事は、このイスラエル=神の民に対する新しい契約の成就として実現されたもので、さらにそこから神の祝福が世界に及ぶために、キリストにあって教会が選ばれて神の民とされることを伝えています。それについては続く講演二でお話しすることに致します。

 

祈り

 

万物を支配なさる天の御神、旧約聖書を通して知らされるあなたの民の歩みは、なんと光栄に満ちており、しかし、なんと困難に満ちた道程であったことでしょうか。人の罪はあなたの言葉には堪えることができず、むしろあなたの不名誉に安易に流されて自ら滅びに傾いてしまうことを思います時に、私たちはキリストを信じて、神の民に召されたと知らされましても、その重さについぞ歩みが止まります。けれども、あなたの契約は確かで揺るぎなく、私たちの小ささ弱さを越えて、私たちの内に働き、あなたの言葉が私たちを強めてくださると、御言葉から知らされています。どうか、その恵みによるあなたのお働きを信じることができるようにしてください。神の民としての証を、教会がしっかり保つことができるように励ましてください。あなたの祝福が、私たちの交わりを通して、周囲にも光を放つものになりますように、どうぞあなたの御旨を、私たち一人一人の上に、そして教会としての交わりの上に、実現してくださいますようお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 


講演Ⅱ キリストの教会

 

 昨日は旧約聖書に見られる神の民イスラエルの歩みを辿って、神が御自身の民に託されたものは何か、そして、歴史を歩む民の実情はどのようであったか、さらに神が新しく示された契約においては、人間の内側からの変革によって神の民を再結集し、世界の諸民族をそこに招かれる、という未来について見てまいりました。続いて今日は、新約聖書に移ります。

 

2.キリストの教会

 

 福音書の中で、主イエス御自身は「神の民」についてはっきりとは語っておられません。主イエスの宣教はもっぱら「神の国」に関するものでした。「神の国」とは「神の支配」を表し、また神の支配が及ぶ領域を指しています。新しい契約に基づく共同体は、この神の支配に服する人々によって形成され、神の支配を告げ広めて、その領域を広げる宣教の働きに従事します。この関連で、主イエスは神の国について語る中で、神の民にも触れている、ということはできようかと思います。

 

 しかしながら、主イエスが教会についてはっきりと言及している箇所が、マタイ福音書に2箇所だけ現れます。まずは1618-19節でこう述べておられます。

 

 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

 

カトリック教会はこの発言をとって教会はペトロの使徒性に基礎づけられると主張しましたが、プロテスタント教会は先の16節でなされたペトロの信仰告白の上にこそ教会は立つとこのところを解釈して今に至ります。もう1箇所は1817節です。15節からお読みしておきましょう。

 

 兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

 

ここではもはやペトロの名はなく、教会そのものに鍵の権能が与えられています。

 

 このどちらの箇所にもある「教会」という呼称は、新約における神の民を表します。原語では「エクレシア」ですが、旧約での「集会(カハル)」に相当して、主イエスによって選ばれた新しい契約の共同体を指します。

 

 ここで旧約との関連をみて置きますと、福音書は主イエスのお働きを旧約の成就として語っています。マタイ1524節で、主イエスは、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言っておられますし、106節でも12人の弟子を派遣される際に、異邦人のところへ行かず、「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われます。他の福音書でも表現は違いますけれども、例えばルカ福音書の冒頭では洗礼者ヨハネの誕生に際して、天使が「彼はイスラエルの多くの子らをその神である主の下に立ち返らせる」と告げていますし、幼子イエスが神殿に奉献される場面でも、イスラエルの慰めを待っていた老シメオンが主イエスを見て、「あなたの民イスラエルの誉れです」と神をたたえ、またマリアに向かって「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ」ていると語ります。

 

 そして私たちが聖餐式の制定の御言葉によく取り上げます最後の晩餐の場面では、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われて、主イエスが選ばれた弟子たちと共に食卓を囲む席で、新しい契約が結ばれる記念すべき食事をされたことが知らされています。

 

 これらが意味する処は、キリストの教会が正式に「神のイスラエル」「神の民」とされたということです。これについてはパウロを初めとする使徒の書簡からも支持が得られます。まずガラテヤ書616節でパウロは、割礼を受けたユダヤ人だからイスラエルなのではない、と次のように述べています。

 

 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

 

他にもヘブライ書49節で使徒は教会に対して「神の民」と呼んでいる箇所がありますし、ペトロの手紙一210節では、

 

 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

 

とホセア書の預言を引用しながら教会に語りかけています(ホセア2:25)。

 

 以上のような基礎の上に、つまり、キリストの教会が旧約の選びの民であるイスラエルの正当な後継者であるということの上に、その他、神の民である教会の特質について、新約聖書は幾つかのことを述べています。

 

 パウロは神の民を言い表すのに「キリストの体」に喩えます。そこでは微妙に異なる二つの用法がありますが、一つはローマ書125節ですとか第一コリント書1016節に表される仕方で、最も端的にそれが表明されているのは第一コリント書1227節です。

 

  あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 

これに対して、キリストが頭であって、教会はその他の部分を構成する、という喩えもあります。今お読みしませんけれども、コロサイ書の219節に代表的な例があります。この「キリストの体」という暗喩でもって表されるのは、神の民の命とキリストの命とが緊密に結ばれているということ。コロサイ書33節の言葉で言いますと、神の民の命は復活して天に昇られたキリストの命と一つであって、新しい命に蘇るのを待っている。

 

 次に、教会はよくキリストの花嫁と喩えられます。マルコ福音書の2章では主イエスが御自分を「花婿」といっています。これは旧約の預言者の伝統から来るもので、イスラエルの民は主なる神の妻と言われました。一箇所だけ紹介しておきます。イザヤ書545節から、

 

あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる。わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したがとこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。

 

パウロは家庭に関する勧めをする中で、夫婦の関係をキリストと教会の関係に喩えてもいますが(エフェソ5:21f.)、黙示録における終末のヴィジョンでは小羊の花嫁として教会は輝かしい装いで登場します(21:2,9, 22:17)。

 

 またこれも旧約から受け継いだものですが、教会が「神の家族」と呼ばれることがあります。ホセア111節では、イスラエルは主なる神の息子と言われます。マタイ福音書12章の終りで主イエスが次のように言っておられます。

 

 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。(49-50節)

 

 パウロはそこから教会の人々に対する接し方についてテモテに勧めをする中で、教会員を家族のように思って接するようにと命じています(テモテ一 5:1)。さらに至るところで神は民に対する父親として表されています(コリント二6:18, エフェソ3:14)。

 

 「家族」に関連して「神の家」という表現が用いられる場合があります。家族と家とが明確な区別がされない例もありますが(ヘブライ3:2-6)、旧約の語法にならって「家」が「神殿」を指し、もっぱらその建物がイメージされる場合もあります。つまり、教会は神がそこに住まう家だ、ということです。代表的な例はエフェソの信徒への手紙219節以下です。

 

 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 

 他にも旧約から受け継がれた表象としては「神の群れ」「神のぶどう園」などがあります(レジュメ参照)。

 

 さて、主イエスと使徒たちが旧約のイスラエルからの連続線を保っているのは、彼らがユダヤ人であったことを考えても納得のいくところですが、異邦人をも含んで教会が世界共同体として発展していく中で、未だそのように言えるかということは問題となります。そして、パウロがこれに取り組んで、ローマ書の中で論じています。

 

 ローマの信徒への手紙228節以下で、パウロは神の民の資格については、外見上の、つまり肉の問題ではないと論じます。

 

 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなくによって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 

 つまり神の民になるのは内面の信仰によってその資格が神から与えられるものである。4章へ進みますとアブラハムを引き合いに出して、彼こそ信じる者の父であって、信仰者は彼の子孫と看做される、と論じます。この問題については、さらに9章で再び取り上げられて、6節以下では「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。…すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです」と言っています。つまり、彼がここで主張しているのは、神の民、真のイスラエルは、イエス・キリストを信じて集う普遍的エクレシア=キリストの教会である、ということです。パウロはこの主張を他の書簡でも行っています。

 

 エフェソの信徒への手紙2章で明らかにされるのは、もはやユダヤ人も異邦人もなく、キリストを中心とした新しい契約共同体として、神の民は一つであるということです。

 

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

 

ここには旧約聖書に示されていました回復する神の民イメージが新約の中で刷新されて映し出されています。そして、ヘブライ書2章では明瞭に、エレミヤの預言した新しい契約がイエス・キリストによって成就したと告げられています。

 

 さて、新約における神の民に関する記述を辿ってここまで来ましたが、教会や信仰共同体について言うべきことはまだまだ沢山あります。礼拝との関わりですとか、倫理の問題ですとか、宣教というテーマを取ってもまた別の論じ方が出来ます。また、黙示録を中心に終末の教会についてももっとお話しすることができるはずです。

 

今回は、聖書から示される教会のビジョンとして、あともう一つだけ加えたいと思います。それは、使徒言行録に記されています聖霊降臨の出来事についてです。復活なさった主イエスが弟子たちの目の前で天に昇られた後、弟子たちは主のお命じになった通りエルサレムに留まり、約束された聖霊が与えられるのを待っていました。そこへ聖霊が下ったと2章で報告されています。聖書を開いていただけるとよいのですが、この教会が誕生する経緯を語る中でキーワードとして作用しているのは、まず1節にある「一つになって」という表現です。これをさらに辿って行きますと、44節に「信者たちは皆一つになって」とありまして、さらに46節では「毎日心を一つにして神殿に参り」、47節では「こうして主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」と締めくくられます。つまり、聖霊降臨による教会の誕生は、主が聖霊によって民を一つに集められる、という御業であったということ。ここにも主なる神がイスラエルの民を一つにして再興される、という預言者のヴィジョンが反映されています。

 

さらに、ここには旧約から新約にかけて一貫する神の救いの計画が、ドラマティックに展開しているのを見ることができます。昨日少し触れましたが、それは創世記11章にありました「バベルの塔」の出来事と関わります。バベルの塔の話は文明を築き上げた人類が自らの力で一つになろうとして神に挫かれ、世界に離散した話でした。そこでアブラハムが選ばれて、一つの民が神の導きによって形づくられていく旅が始まったのですが、それがイスラエル民族となり、国家となり、残りの者となって、新約の時代に入り、キリストを通じて、民族を越えた信仰者の共同体である教会に辿りついた、ということを今まで見て来ました。そこでどのように教会に辿りついたかをパウロのように論じるのではなくて、出来事として記すのが使徒言行録2章です。

 

キリストの十字架と復活によって罪人の贖いが果たされ、すべての人がキリストにある赦しを受け取って神の国に至る道が開かれました。そして教会が世界へと広がり、すべての者が神のもとへ立ち返る始まりに、エルサレムに集う小さな群れに起こったことは、聖霊を受けた弟子たちが、それぞれほかの国々の言葉で話しだした、ということでした。これに驚く人々の言葉が7節以下に続きますが、そこに挙げられる国々のリストは、創世記10章にある民族表、世界に散って行った人々の分布図にほぼ重なります。かつては文明の力で一つになろうとした人間の試みは失敗に終わりましたが、選びの民の長い旅の果てに神は御自身の御業をもって世界の民を一つにする、ということを聖霊を受けたキリストの教会において実現されたのを、ここに見ることができます。バベルにありましては、言葉の相違は意思の疎通を阻むためでしたけれども、神はその相違をむしろ世界の隅々まで御自分のものにするためにお用いになったのであって、彼らは全ての民族の言葉で「神の偉大な業」を語り、神に栄光を帰した、のでした。これはまだ世界の民が神のもとで一つになる、という終末的な事態の開始に過ぎませんけれども、ここに私たちは人の思いを越えて進む神の御業を知らされるのでして、教会に連なる私たちもまたその只中にあることを教えられます。私たちの教会は、神が聖霊によって世界の民を一つにしようとされる動きの中に生き、存在している、ということです。

 

3.教会と今日の私たち

 

 こうして旧新両約聖書から私たちに知らされていることは、教会は神の働きによってこの世に存在し、神の民として生きるように召された人の群れである、ということです。新しい契約の共同体として、私たちには罪の赦しが与えられていますし、永遠に神と共に生きるキリストの復活の命が約束されています。キリストに結ばれて、私たちは神の子であり、神の宝とされており、教会もまたキリストにあって「祭司の国・聖なる国民」とされて、世界に神を証する役割をいただいています。

 聖書は、こうして教会の根拠と、私たちの信仰の根拠を差し出してくれています。まずはそこが確認できれば、ひとまずこの講演の役目は終わります。あとは幾つか具体的なことを補足として述べさせていただこうかと思います。

 

 もしかすると、この中には目に見える教会に躓いて、信仰生活が嫌になってしまった兄弟姉妹がいるかも知れません。およそ、人が教会から離れて行く理由はそんなところだと思います。ですが、ここで覚えておいていただきたいことは、今回学びました通り、教会の存在根拠は神にあるのでして、私たちにとって教会は、信じるべき対象である、ということです。ここは誤解も生じやすいので注意が必要ですが、目に見える教会、人間の組織集団に過ぎない教会を信ぜよ、ということではありません。カトリック教会ではほぼそれに等しいことを主張されると思いますが、私たちのプロテスタント信仰では、今回も聖書で見て来た通り、教会の本体はキリストへの信仰で結ばれた霊的な交わりとして成り立つものであり、人間の目には捉えきれない実体を持っている、ということです。見える教会がまったく表面的なものに過ぎない、ということではありませんが、見える教会には罪ある人間として当然の躓きや弱さがあります。それでも、「人は独りでいるのはよくない」と言われた神が、この地上に聖徒の交わりを与えて、一人ひとりをそこに召されて民をつくるのですから、私は私の信仰によって教会で生かされている、ということを自分でしっかり保つことが大切です。

 

 また、日本に伝えられたキリスト教信仰は、19世紀の敬虔主義の流れと日本的心情とが影響してか、内面的で、情緒的、個人的なのが特徴です。教会が制度をもつということがなかなか理解されないところがあります。現にそういう自由な教会が幾つもありますから、そういう外からの影響が私たちのところにも及ぶ可能性もあります。しかし、私たち改革派教会が大切にしていることは、聖書を基準にして出来る限り神の御旨に添った教会を建てるということで、旧約のイスラエルの民から新約の使徒たちの教会に至るまで、今日のものと同じではなくとも、職制や礼典を欠いた神の民はありません。むしろ、神が民に与えた礼拝制度、私たちの理解では御言葉と礼典ですが、そして職務制度、牧師・長老・執事といったものは、絶対化することはしませんが、神が備えてくださったものとして尊びます。

 

 そして、そうした制度的な教会の活動と密接な結びつきを持っているのが、礼拝と奉仕と宣教という教会独自の働きですが、これを非日常的な、私たちの普段の社会生活と切り離された特殊な領域と考えないことが大切だと思います。礼拝は信仰者の生活の中心を形づくるといいますが、それはどういうことかといいますと、日曜日を中心の生活のリズムが組み立てられるという、外面的なことが先に立つものでもありません。そうではなくて、主の日の礼拝の中で、私たちは礼拝の言葉、特に説教と聖餐を通して、そこに確かにおられる神と対面します。そのリアリティこそが礼拝が本来目指すものですけれども、そこで得た、神の御前で私は生かされた、そして世に遣わされた、という信仰による自己了解、神の御前で今日も生きるという感触を伴う決意、を日々保って生きる、というところに礼拝中心の生活が現れます。日毎の礼拝生活を形づくるのが主の日の礼拝だと簡単に言ってもいいのですけれども、そうしますと形式の問題にすり替わる恐れがありますから、少しややこしい説明をしました。ですから、確かに礼拝に参席している最中には非日常的なものがやって来ますけれども、礼拝する姿勢が日々の生活から失われることはありません。むしろ、それを日常化することが大切です。奉仕と宣教についても同じことが当てはまります。それは、教会の具体的な活動としては確かに特殊な働きですが、奉仕するということは、教会の内外の為に、つまり私たちそれぞれが隣人に対してなすべき配慮と献身を表しますから、日常生活と密接に結びついています。神の民の一員として、神に仕え、隣人に仕える、ことの実践には、公私の区別や聖俗の区別はないと思います。

 

 宣教についても同じで、教会のトラクトを配ったり、伝道集会などのイベントを企画することも確かに大切な宣教の働きですが、福音の宣教は私たちの日常生活においてなされます。存在においてなされる、といいてもよいと思います。私たちの福音に生かされている日々の現実が、触れあう人々に感化を与え、福音に目を開かせる、ということは実際にいつも起こっていることです。この、礼拝・奉仕・宣教ということで何が言いたいかというと、それらの一見特殊な教会の働きは、私たち個々のキリスト者の日常生活と切り離されてはいないものであって、むしろ、それらの霊的次元としていつも私たちから離れないものだ、ということを知っていただきたいと願いました。これがないと、信仰生活と、学園生活などの社会生活が二元化し、とどのつまりは教会がだんだん重荷になったり、おまけになってしまったりします。

 

 そこで、最後に纏めますと、今回は「神の民のアイデンティティー」というテーマでお話しさせていただきましたが、それはとりもなおさず、キリストにあって教会に結ばれた私たち信仰者のアイデンティティであって、私たちの人生の、私たちの魂の一番深いところは、キリストにあるのだ、ということです。例えば、民族・国家の問題を考える時にも、私たちは何よりもまず日本人だなどという前に、私たちはまず、キリスト者であり、神の民の一人である、ということが最も根幹にあります。私たちの民族性は神から賜物として与えられたものであって、それをどうよく用いるかは、神の御旨を聖書に正しく訪ね求めながら、判断してかなくてはならない。それが創造主であり、唯一のお方である神の真実を覆い隠すようなものであれば勇気をもって否定しなくてはなりませんし、それがむしろ神の創造を見事に映し出すものであれば、未だ聖ならざるものを聖なるものとして神に差し出せばいい。私は日本の文化や精神性については後者の立場をとるものです。

 

 つまり、キリストに生きるものとされた私たちは、御言葉に従って神を愛し、人に仕える、というキリスト教信仰に基づく人生観をしっかり保っていかなくてはならない。教会から離れてそうした人生を歩む、という発想はそもそも聖書にありません。「人生観」という言葉がしっくりこないならば、先にお話ししたような、日常生活の中で神と人に仕える、といいなおしてもいいと思います。神の民を一つにしようとの三位一体の神のお働きは、今も、絶え間なく、続いています。私たちはその中に、多くの兄弟姉妹と一緒に生きるものとされている。

 

 これがもし、重荷と感じられるようであったら、教会に来るとか来ないとかの問題ではなく、先ず、キリストを信じるのかどうか、自分の信仰そのものを問い直す必要があるのではないかと思います。福音に生かされるという現実は、実は他人から説明される必要のないものです。それは、キリストと共に私が今生きている、私が今幸せであれどうであれ、喜んでいようと苦しんでいようと、それが現実である、ということは、本当はなかなか動かせないものです。実際、教会が重荷と感じられることはあると思います。奉仕ばかりでなくとも、結構しんどい人間関係があったりしますから。でもそこで問われているのは、実は自分自身の信仰なのだと思います。たぶん、突き詰めがまだ甘かったり、祈りが本物でなかったりするのだと思います。そういうことは、自分にしか分からないのですね。傍から見てどうこういうのも限界がありますし、往々にしておせっかいに過ぎてしまいます。ここには契約の子も多いと思いますけれども、親の信仰に任せては駄目なんですね。親は自分を愛してくれるかも知れませんけれども、親の信仰が私の魂を救ってくれるわけではないでしょう。私が今、神に生かされている、キリストと共に生きている、という現実に自分が目覚めなくては、「神の民」などというアイデンティティの所在もうっすらとぼやけたものでしかなくなってしまいます。もし、そういう状態にとどまっていて悩んでいる兄弟姉妹がありましたら、どうぞ本気で信仰を求めてください。神は求める者には必ず扉を開いてくださいます。祈りましょう。

 

祈り

 

愛なる天の御父、2回に亘ってあなたの御言葉から、私たちが何者であるのか、あなたの教会は一体何であるのか、あなたの目指しておられるものは何であるのかを、共に学ぶことができ感謝を致します。「神の民」と呼ばれるには、あまりに力なく、あなたの聖なる御性質に近づくことのできない私たちですけれども、主イエスと結ばれて、私たちは真実にあなたの顧みの下に置かれていることの、大きな恵みに感謝します。どうか、私たちがあなたの恵みによって民とされ、教会に召し集められたことを心に留めて、兄弟姉妹との交わりを喜ぶことができますように。そして力を合わせて一つとなり、あなたの御業に仕えさせてください。ここに集まっているのは、これから世に出ようとしている若きあなたの民です。豊かな祝福によって彼らをあなたの計画の只中に送り出し、あなたのご栄光を表す器としてくださいますように。御言葉に従って、あなたの御旨を訪ねながら、自由に、大胆に、召しを受けることができますように。あなたの憐れみを希います。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。