マタイによる福音書19章1-12節

恵まれた結婚

 

 今朝の御言葉では、離婚の問題が取り扱われています。このことは既にマタイ福音書の5章にある山上の説教でも取り上げられましたので、私たちに取りましては復習になります。ですが、ここではファリサイ派の人々との論争という形で、前回よりもっと詳しく述べられていますので、主イエスがなさった離婚についての教えを、より確かなものとしておきたいと思います。

 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。

主イエス・キリストの十字架による死と復活の舞台となるエルサレムへの旅が、ここで新しい局面を迎えます。「ヨルダン川を越える」ことは、旧約の故事によれば、神の選びの民が、約束された土地へ入ることを意味します。そこに待ち受けているのは兄弟な力をもった敵対勢力です。それを恐れて尻込みした世代は、砂漠を彷徨った末、新天新地を踏むことなく滅びました。しかし、神の約束を信じて勇気をもって主の戦いを戦った新しい世代は、約束どおりの土地を受け継ぐことができました。イエスの後に従った大群衆は、かつてヨシュアに率いられてヨルダン川を越えたイスラエルの民のように、約束された救いを目指してエルサレムへ進みます。ヨシュアは武器を取って戦争を戦いました。しかし、イエスの戦いはサタンとの戦いです。人々の病気を癒す働きの内に、神の力が現れます。

 エルサレムを中心にいただくユダヤの地方で、イエスの前に立ちふさがるのは、これまでのところで明らかになった、イエスに敵対するファリサイ派の勢力です。ユダヤの古い伝統を盾に、イエスの教えと働きを不当と看做して、民の中から排除しようと画策していました。ここからの歩みは十字架の死に至る受難の道程です。しかし、その向かい風の中を神の子イエスは真っすぐに進みながら、ご自分についてくる弟子たちに神の国の教えをお与えになります。その言葉が、イエスがお受けになる新天新地を受け継ぐための武器となります。

 イエスの前に現れたファリサイ派の人々は、イエスを試みるために次のような質問をしました。

  何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか

ファリサイ派の人々も、今日の私たちと同じように、聖書を神の言葉と信じて、それを生活に適応させて生きていましたから、離婚に対処する方策についても聖書の理解を求めました。「何か理由があれば」とありますが、この言葉のニュアンスからすると、何か特別な理由があってということではなくて、どんな理由であれ、夫は妻を自由に離縁することができるのではないか、ということです。

 離婚に関する律法の規定は、申命記24章に記されています。ここは開いていただくとよろしいでしょう。

 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。 その女が家を出て行き、別の人の妻となり、 次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。

ファリサイ派の人々は、このモーセの律法を根拠にして、自分たちの実践に当てはめようとしたのですが、この箇所の解釈に、およそ二つの見解があったことが知られています。モーセは、「妻に何か恥ずべきことを見いだしたら」離婚してよいと言っていますが、「何か恥ずべきこと」を字義どおりに受け止めまして、妻が不貞を働いた場合に限定して、離婚が認められる、とする立場がありました。他方、「気に入らなくなったら」という方を重視して、何であれ気に入らないことがあれば、離縁状を書きさえすれば離縁してよい、としていた緩い律法解釈の立場もありました。新約聖書が書かれたのと同時代に活躍したラビ・アキバというユダヤ教の教師は、今の妻よりももっと美しい女性と恋に落ちたら離縁して結婚すればいい、などと言った程です。現代はラビ・アキバの時代ですね。こういう、離婚は許されるのか、それとも許されないのか、という実践的な問題に対する聖書の解釈の問題に、イエスはここで答えを求められたのでした。

 そこで、イエスのお答えは4節から6節に述べられます。ここでは、創世記から二つの聖句が引用されています。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」とあるのは、創世記1章27節です。それから、5節にある「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である」―これは、創世記2章24節にあります。これらの聖句に基づいて、主イエスが教えておられるのは、モーセが離婚の規定を授ける以前に、神が創造の時点で人間に定められた結婚の原理に学ぶべきだとのことです。初めから人間は男女一対で創造されたのであって、互いに同等の価値や尊厳を保ちながら、保管し合って生きて行く存在にされている。そして結婚は、一対の男女が神の摂理によって一人の人間のように結ばれることなので、本来の夫婦には離婚はありえない、ということです。

 そうしますと、当然、先に見ましたモーセの律法に照らし合わせて、お互いどのように整合するのかという問題が起こります。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」という反論が当然出てきます。これに対するイエスのお答えは、8節でこう言われます。

 あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。

つまり、モーセの律法を人間の側での自由な離婚の許可と受け止めてしてしまう前に、そもそも結婚にかけられている神の御旨を知らなくてはならない。エデンの園に人が置かれたとき、人がひとりでいるのは良くないのを神はご覧になって、アダムの体を二つに割って造られたのが、真の伴侶となるエヴァであった。そうして、夫婦は一体になることで神の祝福を受けて、神の喜びとなることがそもそもの創造の目的でした。それが、互いに背を背け合うようになったのは、同じくエデンの園で、二人が神の言葉に背いて罪を犯したからでした。そうして神のもとから離れた、堕落した世界の中で生きて行く術として与えられたのがモーセを通じて与えられた律法なのであって、離婚を積極的に勧めることが神の御旨ではない、ということです。

 ファリサイ派の人々には、おそらく弟子たちもそうなのでしょうが、離婚の権利を確保しておくことで自分たちが受ける益のことを考えて、イエスに質問をしています。しかし、そういう自分の利益を中心にした聖書の解釈の仕方というのは、決定的な点んで読み方を誤ります。つまり、聖書の言葉を通して私たちに語りかける神の御旨を聞き損なうということです。イエスが批判されたファリサイ派の信仰的な態度は、まさにそこにありました。神の御旨は、堕落したこの世界にあって、罪に苦しむ小さな魂が、神の憐れみに触れて御許に立ち返ることにありました。モーセの律法でさえ、そのために書かれた教えなのですけれども、ファリサイ派の人々はそうした教えを永遠の命に至るためのマニュアルにしてしまって、そこに込められた生ける神の御旨を問うことなしに、自分本位な解釈と適用に明け暮れました。そうして打ち立てられた規則を守れない仲間たちは、「罪人」と看做されて捨て置かれることになりました。

 モーセの律法にある離婚の規定をもう一度よく見てみますと、モーセはファリサイ派の人々の言うように、離婚を命じているのではないことが分かります。離婚するならば離縁状を書くことを条件づけていますが、それは離縁状が無ければ家を出された妻は再婚することができないからです。再婚することができなければ、ルツ記に出てくるルツやナオミのように、女性だけで生きて行くのがとても辛い時代でした。また、離婚の規定は、新共同訳聖書が丁寧に標題をつけました通り、実は離婚の規定ではなくて、再婚に関する規定です。離縁した妻はもはや他人のものになるのだから、たとえ二番目の夫が死んだとしてももとへは戻れない、ということを定めています。ですから、離婚に関して言えば、それだけの覚悟をもって妻を出すことになるのだということを教えているわけです。主イエスのお答えは、モーセの律法に対立するものではなくして、聖書の言葉を正しく読み取る仕方でなされています。

 申命記24章から導き出される結論はこうです。

  不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。

 「不法な結婚でもないのに」と訳されている部分は、カトリック教会の意向が反映された訳となっています。確かに解釈の分かれるところですが、ここは通常「不品行」とか「不貞」と訳されます。ですから、申命記にあるモーセの教えの通りに、妻が不倫を犯した場合でないかぎり、離婚をすることはできない、ということです。婚姻関係は法的なものですから、結婚も離婚も、その法の権威によって許可が与えられるはずです。例え、世の中の制度が離婚を認めたとしても、神がその離婚を認めなければ、その夫婦はずっと夫婦のままですから、家を出された妻がどこかに嫁げば、彼女は不倫をしていることになりますし、相手の男性もまた姦通罪に問われます。この結論だけからすれば、イエスのお答えは、先に紹介したユダヤ教のラビの、厳格な律法解釈と一致するお答えです。ただ、異なる点は、神の創造に始まる夫婦の結びつきを最大限に重んじることを主イエスが求めておられることです。神の御旨からすれば、離婚は創造の祝福に反する憎むべき事柄です。

 10節に表された弟子たちの反応は、イエスに対する不満の表明のようですけれども、もし弟子たちがファリサイ派の人々と同じように、男性中心主義の、自分が優位に立てるユダヤ社会を背負っているのであれば、イエスに従って行くためにはそれを捨ててしまわなくてはなりません。創造の時点から神に祝福された夫婦のあり方は、一対一の結びつきであり、夫が妻を自由に離縁できるような偏った関係ではありません。それゆえに、結婚には互いに互いを束縛し合うという緊密な関係と責任とが生じます。当時のユダヤ社会に生きた弟子たちには、それは重荷と思えたかも知れません。しかし、それを敢えて負うことでしか、主が弟子たちにお与えになる十字架を負うことはできません。主イエスが示される愛は、罪の弱さの内にある隣人を赦して受け入れるところに現れます。パウロが言いました通り、愛とは忍耐です。

 弟子たちは結婚の重荷を背負うよりも独身であった方がよい、と言っています。その言葉を受けてイエスは11節と12節で独身の賜物について次のように語られます。

 だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。

「恵まれた者」とあるところは、「与えられた者」ということで、独身の賜物が結婚の賜物に優るというのではないと思います。ユダヤ社会にあっては結婚は義務でした。ですから、独身者は「半端者」と看做されて、一段低く見られました。12節の原文では「宦官」という言葉が用いられています。宮廷での職務に就くために去勢された者たちのことです。モーセの律法では「宦官」は共同体の仲間に入れては行けないとさえ言われていました。しかし、イエスはここで独身の賜物について語ります。生まれながらにして宦官である者もある。また、人の手によって宦官にされてしまった者もある。或いは、天の国のために献身して自ら去勢してしまう者もある。そういう独身者の生き方もあるのであって、それは各々に与えられた召しだといいます。

 今日のところで大切なのは、家族を持つにしろ、独身で過ごすにしろ、そこにはそれぞれに相応しい神の召しがあるということです。そのことを思わすに、この世の風潮に合わせて結婚を軽く見積もったり、離婚の自由を主張したり、独身の気楽さに甘んじたりすることは、どれも神の御旨ではありません。子どもたちや若者たちには、主の御前にあって健全な家庭をもつことができるように教え導くことが大人たちの役割です。結婚の危機に直面している夫婦には、安易に離婚に流されてしまわないよう、信仰者としてその家庭を支える周囲の手助けが必要です。離婚する以外に解決を見いだせなくなる場合もあります。私たちの信仰告白では、相手方の不倫と家庭放棄以外に離婚の理由は認められませんが、家庭内暴力が起こった場合など見直さなければならないケースも増えてきています。離婚の痛みを抱えた兄弟姉妹たちをどのように支えるかということも教会の課題です。また、生涯独身で過ごす道もあります。「人は一人でいるのがよくない」のですけれども、独身でいる人がかえって豊かな人間関係に恵まれる場合もあります。キリストは私たちに兄弟姉妹を与えてくださる方ですから。

 先に「赦し」についての御言葉を受けましたように、神は私たちの間に生まれる絆を大切になさいます。御子の十字架によって私たちの罪を赦して、まずご自分と私たちとの間に和解をもたらしてくださったお方が、私たちの間に作り出してくださるものが愛に支えられた交わりです。壊れやすい夫婦の絆も、神の召しをそこに確かめることができるなら、幾つもの難局を乗り越えて行くことができるのではないでしょうか。神への信仰からもたらされる恵みによって、隣人への愛に生かされる祝福に与りたいと願います。

祈り

天の父なる御神、私たちは自らの思いで、すべての人間関係を自由にできると思い込んでしまいますけれども、あなたの思いは私たちを越えて、憐れみ深く、私たちの傷を癒してくださいます。どうか、あなたがお示しになった和解の恵みを、私たちすべての人の交わりの上に注いでくださって、私たちの心と生活のうちに平和を満たしてください。あなたが結ばれた一つ一つの結婚生活の上に祝福を与えて、家庭を守ってくださいますように。また、独身を保ちながら御前に仕える兄弟姉妹たちを励まし、誰にも勝るパートナーとなってくださる主イエスが、その生活を幸いなものにしてくださいますようお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。