マタイによる福音書24章1−35節

最後まで耐え忍ぶ

 

 キリストによる救いを待ち望む時代、それが終末です。終末の教えを通して、私たちは今や明らかになったイエス・キリストの救いを自ら選び取って、様々な困難な状況の中でも神に依り頼んで生きる、信仰の道を示されます。私たちは、今朝から三回に渡って、マタイ福音書から終末に関する御言葉を聴きます。主イエスが十字架におかかりになる前に弟子たちにお話になった説教です。

 24章の冒頭には、イエスがこの教えをお語りになった状況が述べられています。イエスは毎日エルサレムの神殿に詣でて弟子たちに教えたりファリサイ派の人々と議論をしたりしていました。この日もそうして一日を過ごされて、夕方になって神殿を出て行かれたようです。おそらく、オリーブ山の反対側にあるベタニヤまで帰られるのでしょう。その日の議論は神殿についての議論でした。神への愛を失って、形ばかりの宗教施設になってしまったエルサレム神殿とそれを取り巻く人々に対して、イエスは容赦のない裁きを告げました。38節では、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」とエルサレム全体に対して語っておられます。弟子たちにとってもこれは衝撃的な言葉であったと思います。エルサレム神殿はユダヤ人の誇りであり、信仰のよりどころでした。村へ帰って行く道すがら、オリーブ山を登る坂道からは、壮麗な神殿の姿がよく見えます。そこで弟子たちが神殿の建物を指さしたのは、「どうです、ご覧下さい、この見事な神殿がどうしてそんなことになりえましょうか」とでもイエスに言いたかったのでしょう。しかしイエスのお答えは、その神殿が徹底的に破壊し尽くされる、というものでした。

 この問答をきっかけに、イエスは弟子たちに終末に関する教えを語り始められます。オリーブ山の上に出ますと、エルサレム神殿の全体がよく見渡せます。夕陽を背景にして、黄金の神殿が照り輝いている美しい風景がそこに広がります。腰を下ろして、黄昏時のエルサレムを見下ろしながらの説教です。そこで聴いた御言葉とともに、それは弟子たちにとっても忘れることのできない風景となったに違いありません。この福音書が書かれた時には、もう神殿はそこにありませんでした。主イエスの予告通り、エルサレムは神殿ごとローマ軍によって破壊し尽くされてしまいます。

 弟子たちの関心は、そんな終末がいつ来るのか、またどんな兆候があって自分たちはそれを見分けることができるのか、ということでした。おそらく弟子たちは、エルサレム神殿が破壊されるというような恐ろしい出来事と、世の終わりとを一つことと考えていたようです。また、その時にはイエスが再臨なさる、ということも聞いていました。イエスがそこで教えてくださる世の終わりは、そうした弟子たちの思い違いを訂正しながら、その時の弟子たちばかりでなく、その後の教会にも必要な教えでした。神殿の破壊はまもなく起こるけれども、それと同時に世の中が終わってしまうのではなくて、それは終末の時代の始まりに過ぎない。そこから苦難の時代が始まって、最後の最後に主が来られて世を終わりになさる。そう教えられました。

 イエスは、世の終わりがいつ起こるか、という具体的な時間についてはお話しになりません。36節をみますと、主イエス御自身も知らないと仰っています。ただ、終わりの事柄の順序を今日の箇所では明らかにされます。まず5節から14節で、世界が終末に向かう兆候について述べられます。そして、15節から28節では、その中で神殿が破壊されるという出来事が起こることが暗示されます。そして最後の段階として、29節から31節で主イエスの再臨が話されます。こうして世界が終わりに向かう一連の流れが明らかにされますが、「いつ」という時点は分かりません。弟子たちが尋ねたように、それを知りたいのが人情かも知れませんが、終末の教えでまず大切なことは、世界が終わるというその時については、何年何月と指定できないことです。そしてイエスが教えて下さる終末の教えの中心にあるのは、そこで弟子たちが、また、この教えを学ぶ私たちが、どのような姿勢でイエスが来られるのを待っていたらよいか、ということです。

 終末の徴を述べるところで、14節までに7つの兆候が挙がっています。最初から順に並べて見ますと、「偽メシア」「戦争」「飢饉」「地震」「迫害」「分裂」「世界宣教」となります。これはキリストが再臨なさる直前に、この順序で事が起こると言っているのではありません。そうではなくて、こうした事柄の一つ一つが、キリストが来られることの徴になります。

 「偽メシア」が登場するということでは、すでに新約聖書の中にそれらしき記述が幾つかあります。例えば使徒言行録の8章には、シモンという魔術師がサマリヤの人々をたぶらかしていた、とありますし、テサロニケの信徒への手紙二の2章を見ますと主の日がすでに来た、と言っている人々がいるとパウロが書いています。また、紀元2世紀初頭のパレスチナでは、シモン・バル・コクバという人物が登場して、ローマに対して再びゲリラ戦を挑んで一躍ヒーローとなります。その当時の高名なユダヤ賢者であるラビ・アキバもまた、彼をメシアと見なしまして、ユダヤ共同体は最終的な自滅の道を突き進んでいってしまいます。「バル・コクバの乱」と呼ばれたこの反乱は、70年に神殿が破壊されたときよりも更に徹底した破壊でもって報いられまして、ユダヤ人はエルサレムから完全に締めだされる結果となりました。

 では、偽メシアがそうして現れたから、すぐにキリストが再臨されたかというとそうではありません。現に、その後も世界の歴史はそのまま続いて今日に至ります。むしろ、メシア・キリストを自称する人物は、その後も歴史の中で現れ続けました。

 私自身にも忘れられない体験があります。大学1年生の頃、同じ学科に所属していたある友人と宗教の話になりました。私がクリスチャンであることを明かしますと、その友人は、ああ自分もだ、と言います。大学生活が始まって、同じ信仰を持った仲間を見つけたことで、私は大層嬉しく思ったのですが、続けてその友人がいった言葉が衝撃的でした。「もうキリストが来られたのを知っているか」というのです。何の話か見当もつかないまま、今度その友人が通っている「キョウカイ」にいって話を聞いてみることにしました。初めは何かの宣教団体かと思っていたのですが、そこに出かけていって分かったことは、「キョウカイ」とはいってもチャーチではなくてアソシエーションでして、「統一協会」という名前だとその友人から教わりました。

 こういう例は現代の日本の社会でも数限りなくあるのではないかと思います。偽キリストの時代は、かつてキリストが地上に来られて以来、現在まで絶えることなく続いています。

 同じように、戦争にしても、飢饉や地震についても、これは私たちの暮らす現代社会にもそのまま見出されます。つまり、イエスが言われた終末の徴とは、イエスが復活されて天に昇られた後、教会が建てられていく時代そのものの特徴です。教会は、その初めから、終わりの時代に産み出された、終末を生きる共同体です。イエスがそれらの災害や問題を取り上げて、それを終末の徴とされたのは、一つには、それらにきちんと向き合うように、と言うことです。戦争や地震が起これば否応なく巻き込まれてしまいますが、そうした出来事は運命だとか偶然だとか、仕方のないことなどと言わないで、それを終末という主イエスの教えと結びつけることが肝要です。8節を見ますと、それは「産みの苦しみ」だとあります。つまり、この世に起こってくる様々な災害が、教会の経験する陣痛に例えられます。そこで何が生まれてくるかというと、救われる魂が産み出されます。その信仰に基づいて新しい教会が産まれます。

 イエスが終末の徴について語られたもう一つの意図は、4節のところで最初に語られた言葉に端的に表れています。「惑わされるな」ということです。偽預言者や偽メシアに対する警告は、続く5節と、また23・24節にありますが、26節の言葉で言いますと、「人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」。これは偽りの言葉に騙されるな、ということばかりでなく、他の兆候についても言えることです。例えば、6節「慌てないように気を付けなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。戦争や地震があっても、まだ終わりではない。むしろ、そうした様々な終末的な出来事に直面しながらも、落ち着いて事をよく見定めて、キリストを静かに待っていることが大切です。

 一般的にいって終末思想というものは世の人々を惑わす力をもっていますし、時折社会に破滅的な影響を与えることもあります。先程例に挙げました、紀元2世紀に起こったバル・コクバの乱などはユダヤ人の歴史における典型的な一例です。しかしイエスはそうした終末思想のあり方には反対します。むしろ教会は、落ち着いて、静かにキリストの来られるのを待っているべきだと教えておられます。終末的な出来事の中にその兆候を見て、やがて神が終末をもたらされることを悟ることは大切ですが、だからといって、教会に集う私たちが浮き足立ってはなりません。

 弟子たちがイエスに終末の徴について尋ねたのは、おそらくその時を見逃すことがないようにという思いだったに違いありません。つまり、自分たちの知らないところでキリストが来てしまっていたら大変だというようなことです。正確な日付を知りたい、というのも同じ動機に基づくのかも知れません。私たちもまた同じような疑問を持つかも知れません。イエスのお答えは、その心配はないとのことです。27節に、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」とあります。どこにいても、誰にもそれが分かります。キリストが再び来られるときは、29節以下にありますように、天体が揺り動かされるときですから、誰もそれを知らずにはおれません。特に神を愛する者たちは、そのとき天使たちによって呼び集められると言われます。神が私たちを放っては置かれません。ですから、見逃したらどうしよう、などと考えるのは無用な心配事です。

 むしろ、心に留めておくべき事は、無花果の木を見て夏が近づいたことを人が悟るように、終末の徴をみて、キリストがいつでも来られる準備をしていると知ることです。今見てまいりましたように、終末の徴は私たちの生きる時代の特徴です。キリストが世に来られてから今日に至るまで、主イエスはいつでも来る備えをしておられます。今というこの時代にあって、私たちは世の終わりを知らされています。つまり、天地は滅びる、この世界は神の心一つで行方が定まるのであって、私たちが絶対と信ずべきものではない、ということです。むしろ、終末のことを考えて、決して滅びない神の言葉を思い起こして、それを頼りにすることを私たちはいつも覚えていなくてはなりません。

 最後に、もう一つの兆候について目を留めて置きたいと思います。「分裂」とあります。10節から12節のことばです。「多くの人が躓き」ですとか、「多くの人を惑わす」などと「多くの人」と言われていますが、これは教会に属する多くの人を指しています。教会の中の多くの人が躓き、惑わされ、そして「愛が冷える」といいます。この世に起こってくる様々な障害にぶつかって、教会の内部における人間関係が揺り動かされる。躓きがおこり、裏切りがあり、憎み合うようにさえなってしまう。そして不法がはびこり、つまり教会から神の正義が失われて、愛が冷え込む。キリストがお建てになった終末の教会は、決してエデンの園ではありません。むしろ、社会が抱え込んでいる人間関係をそのまま映し出すような有様です。神を信頼して全く動じないでいることのできる教会などはありません。そこで「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とイエスは言われます。そういう弱さと欠けを担った人の交わりであっても、やはり、神への信頼を失わずに、最後まで信仰を保つ人は幸いです。私たちもそうでありたいと心から願います。「愛が冷える」などということにならないように、聖霊の助けを祈りたいと思います。この愛とは、教会に集まる仲間同士の愛でもありますけれども、それは神への愛、キリストへの愛でもあります。どちらにしても信仰に基づく愛です。神が与えて下さる恵みとしての愛です。人から愛されることを求める愛ではなく、キリストが十字架で教えて下さった、相手にささげる愛です。それは、躓きがあり、裏切りがあり、憎み合うような対立の中で、神の愛のうちに留まって、相手を赦し、受け入れることの中で表されます。それを、慌てず、惑わされず、日常の中で忍耐しながら続けることが、教会がキリストの再臨を待つ姿勢です。私たちが忍耐して、罪の力に抗って、互いに愛し合う教会を建て上げるところに、また新しい兄弟姉妹が加えられます。私たちは教会で、そういう産みの苦しみを共に経験してゆきます。その信仰の営みの中に主イエス・キリストは必ずやって来られます。私たちは弛まずに、礼拝を中心にした落ち着いた信仰生活を守りたいと思います。

祈り

私たちの主イエス・キリストに世界の終わりを委ねておられる天の父なる御神、私たちを惑わし、慌てさせる出来事が多いこの世の中で、私たちがあなたを信頼して動かず、互いに愛する交わりを堅く保ち続けることができますように、聖霊をお送り下さり、あなたの恵みによって私たちの信仰と愛を燃え立たせていて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。