ヨシュア記4章1〜24節「十二の記念碑」

 

川の流れはせき止められた

 ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、神の奇跡によってせき止められたヨルダン川を渡って、遂に約束の地カナンに足を踏み入れました。契約の箱を担いだ祭司たちを先頭に川を渡るその姿は、神の言葉であるモーセの律法に導かれた民の行く末を劇的に描き出します。今やイスラエルを導く全権を与えられているのはヨシュアですけれども、ヨシュアは忠実にモーセの命令に従うことで、モーセと同じく主の僕として御言葉に仕えます。そうして、今後イスラエルはモーセの律法に聞き従う信仰によって敵に打ち勝ち、安住の地に憩うことが約束されます。川を渡り終えた民は、かつて荒れ野を旅した時と同じように隊伍を組んで、次なる目標のエリコに向けて軍を進めます。そこでまた、主なる神はイスラエルのために力を振るって驚くべき戦いを繰り広げます。

ヨシュアへの尊敬

 このヨルダン川渡渉の出来事を通して、ヨシュアの偉大さが全イスラエルの認知するところとなりました。「彼らはモーセを敬ったように、ヨシュアをその生涯を通じて敬った」(14節)とある通り、ヨシュアは掛け値なくモーセの後継者となりました。すでに民は出発前にヨシュアへの忠誠を誓っていましたが、川を渡る奇跡を通じて、「主が共におられる」ことがモーセと同じように彼の内に確認されたということでしょう。

十二の石―主の御業を記念して

 この4章で特徴的に描かれるのは、十二の石による記念碑の建立です。すでに3章12節で十二部族の代表をそれぞれ1名選び出すようにヨシュアが命じていましたけれども、川を渡った後にも同じ内容の主からの命令がヨシュアに下ります。12人が選ばれたのは、川の真ん中から石を拾い上げるためでした。命令はその通り実行されて、イスラエルが渡った川底から12の石が持ち運ばれて、川向こうの野営地ギルガルに記念碑として立てられました。このところで「石を立てた」とある表記の仕方は、昔ヤコブが石を枕に夢を見て、その場所が聖なる土地であることを知って、その石を立てて油を注いだ、という箇所にあるものと同じです。ですから、川底の小石を一つ拾ってということではなくて、屈強の男たちが大きな石を肩に担いで持ち運んだということです。それが十二個並べられて、ヨルダン徒渉の記念すべき出来事のしるしとされました。

 12の石がイスラエル12部族を表わすということでは、祭司の胸当てであるエフォドに組み込まれた宝石と同じです。そして12は部族の結束を表わします。イスラエル12部族はヤコブの子である兄弟として創世記からその名が知られます。ですが、王国時代前後には各部族はそれぞれ独自の土地を分け与えられた個別の集団として、別々の生活を営むようになります。イスラエルがいつも一致した行動するわけではないことは、ヨシュア記に続く士師記でより明瞭になります。ここでも既にヨルダン川東岸に土地を分け与えられたルベン、ガド、マナセの半部族が、一旦別行動を取ろうとしてモーセから行動を共にするよう諌められています。後にはダビデの王国が分裂することで12部族の一致は決定的に破られます。そういう中での12はイスラエル全体を表わす一致のしるしとなります。ギルガルに立てられた記念碑は、ヨシュアのもとでイスラエルが一つになり、主の力によって川を渡ったことのしるしとして人々に記憶されることになります。

 12の石を用いて何かを造るという点では、これもモーセのしたことの反復です。出エジプト記24章ではモーセがシナイ山のふもとで神との契約に臨み、そこに12の石の柱をイスラエル12部族のために建てています。それはイスラエルの結束のためであると同時に、神との契約のしるしでもありました。そうするとヨシュアの行った行為も、神の命じられたこととは言え、モーセの振る舞いを忠実に模倣する働きと言えそうです。民の尊敬はヨシュアのうちにモーセを見ていることにあります。

 もう一人、12の石を用いて祭壇を築いた人物が旧約聖書に出て来ます。それは、カルメル山上でバアルの預言者たちと対決した預言者エリヤです。バアルの預言者たちが神の名を呼ぶのに失敗した後、エリヤはイスラエル12部族を表わす12の石をとって祭壇を築き、主の名を呼ばわって真の神の力を証しました。エリヤの内にもモーセの姿が見られると言ってよいでしょう。

 ヨシュアが12の石を立てたギルガルは、その後、カナン征服の拠点となりました。9節にある「今日までそこにある」との表記は、イスラエルの歴史家がヨシュア記を記している今日のことであって、今ではそれがどこなのか正確に場所を特定することはできないようです。ヨシュア記ではギルガルが全イスラエルの中心となり、サムエル記ではそこでサウルがサムエルによって王の任職を受け、イスラエル王国が立ち上がった場所となります。預言者エリヤとエリシャの活動拠点でもあり、由緒ある聖所の立てられた町でしたが、王国時代には具像崇拝に犯されて、ホセアやアモスなどの預言者たちから糾弾されています。

 記念碑はあくまで記念碑であって、それ自体が聖性を帯びるわけではありません。しかし、そのしるしが人々の記憶を主の業に結びつけている間は、イスラエルは神のもとで力を合わせることができました。大切なのはモノではなく、主なる神の恵みの御業を想い起こすことです。その主の名のもとにイスラエルは民の一致が求められました。

受け継がれる信仰

 このことは注意深くヨシュアの言葉の中に受けとめられています。イスラエルには記念碑の建立が命じられたばかりでなく、それに合わせて子どもたちへの教育が指示されています。これは6節後半からと、21節以下で繰り返されています。記念碑によって主の御業が人々の間に記憶されて、子どもたちにもその記憶が継承されます。21節以下では、葦の海を渡った出来事も合わせて想い起こされます。こうした信仰の継承はイスラエルの民に与えられた神からの指示であり、イスラエルの世代が負う責任でした。また、そこには神の救いの御計画がかかっていることが、24節に記されます。

 それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。

イスラエルは自らが救いを経験した真の神、主への信仰を守って行かねばなりません。これは信仰のこととして当然と言えば当然です。その信仰を次の世代に語り継ぐことでイスラエルは歴史を通じて神の救いを自らのうちに確保します。同時にイスラエルは「地上のすべての民が主の御手の力強さを知るために」信仰を語り継いで行かねばなりません。そこに、イスラエルが選ばれたことの意味があります。イスラエルは神の救いを世界に知らせ、世界の諸国民が神の祝福を受けるために特別に選ばれた民です。子どもたちに救いの御業を語り伝える信仰の継承は、実に世界宣教と結びついていていることをここから知らされます。もしも子どもたちに信仰を受け継がせることに失敗すれば、神が意図されているすべての民の救いがそこで一部損なわれることになります。神の救いの御業を絶えず想い起こし、子どもたちにもその記憶を継承することは神に仕える積極的な方法です。

 この旧約の御言葉から私たちに示されているのは、キリストにあって選ばれた私たちの積極的な使命です。12の石は、黙示録が語るところの12の玉座として受けとめることができます。すなわち、キリストの弟子たちに用意されている座であって、キリストの支配が及ぶところです。私たちはイエス・キリストの十字架と復活によって、死の川を渡ったことを絶えず想い起こして、真の神をつねにほめたたえながら、これを次世代の子どもたちに語り伝えて行きます。お父さん、十字架はなんのしるし?と子どもたちに聞かれたとき、それは私たちのためにイエス様が死んでくださって、私たちの罪が赦されたことのしるしだよ、と答えます。そうして、語り継がれた信仰を通して、私たちばかりではなく、地上のすべての人々が、人を死から命に甦らせる神の力を知るようになるのが神の目的です。

 私たちの指導者は、モーセに優り、ヨシュアに優って、神が偉大な名を与えた真の救い主イエス・キリストです。イエス・キリストが御言葉によって私たちを約束の地に導いてくださることを信じて、主の後に従って参りたいと願います。その信仰の歩みにあって、主の御業を語り継ぐ子どもたちの信仰教育に、そして、世界宣教の務めに教会の一致を求めてまいりましょう。

祈り

イスラエルを水の中から引き上げた力ある御神、御子キリストの贖いによって死の淵から私たちの命を引き上げたあなたの救いが、私たちの子どもたちに、そして、すべての人々に知られるところとなりますように。そうして、あなたの御業によって、罪の呪いのもとにある世界があなたの祝福へと還ることができますように。そのために、どうか私たちの信仰を守り、主イエスの務めにつかせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。