ヨシュア記19章1ー51節「御国の嗣業」

 

土地分配の完了

 シロの幕屋を前にして、くじによってイスラエルの残りの7部族に土地の割当がなされていますが、ベニヤミン族については先の18章が記しておりましたので、この19章では残りの6つの部族の割当が記されます。並んだ町の名前についてはよく知られたものも散見されますが、ここにしか現れない地名も多くあります。そうした地名に何か特別な意味が込められているわけではありません。土地の分配に当たっては、主が父祖たちに約束された通り、ヤコブの子らにもれなく嗣業を分け与えた、ということがこの地名のリスト全体で明らかにされています。そして、18章の終わりにありましたように、彼らは神から賜った嗣業の土地を、各々でこれから受け取りに出かけます。

各部族の所領ーシメオン

 ベニヤミンに続いて土地を割り当てられたのはシメオン族です。ヤコブの12人の子らにあって、シメオンはレアから生まれた次男に当たります。レアは妹のラケルに夫の愛情を奪われて苦しみましたが、ラケルに優って息子に恵まれます。創世記29章33節では二人目の息子シメオンが生まれた時にこう言っています。

  主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった。

「主が聞いてくださった」というのが、シメオンの名の由来です。シメオンは後に三男に当たる弟のレビと共に、妹のディナが陵辱された復讐にシケムの町を剣で滅ぼしたことがありました。そういう彼らの気性から、父ヤコブは世を去る前に息子たちを祝福する中で、「シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具」と述べています(創世記49章5節)。

 シメオン族に割り当てられた土地は、巻末の地図を見ていただいても分かりますように、ユダの領地の内部にあります。町名のリストにはネゲブ沙漠の中にある「ベエル・シェバ」という有名な町の名があります。旧約聖書ではイスラエル全国を表わす際に「ダンからベエル・シェバまで」という言い方をしますが、その最も南方に位置づけられる町です。ベエル・シェバは族長たちがその名を付けたとされる古い町です。創世記21章によればアブラハムがペリシテの王アビメレクと契約を結び、誓いを交わしたことに因んでベエル・シェバ、つまり「誓いの井戸」という名がつけられたと言います。また26章ではイサクが父アブラハムと同じように振る舞ってその名をつけたとされています。

 4節に「ホルマ」の名が挙げられていますが、ここは士師記1章によれば元は「ツェファト」と呼ばれるカナン人の町で、ユダ族とシメオン族がそこを聖絶して「ホルマ」(絶滅)という名をつけたとあります。尤も、これには民数記21章に、モーセの時代に既に聖絶されていたとする重複記事があります。

 「以上13の町」とありますが、数えてみると14あります。ベエル・シェバの次にある「シェマ」という町を取ればいいのかも知れません。原語では「シェバ」と書いてありますので、書記の誤りで入り込んだ可能性があります。

 7節は4つの町で何も問題が無いように見えますが、ヘブライ語の本文では「アイン、リモン、エテル、アンシャン」の4つで、「タカン」という町の名はありません。これはギリシア語訳聖書を参照しながら、15章にあるユダの町のリストなどとの調整を計った結果です。

 こういう細かいことを説明する理由は、聖書とはどういうものかについてのある程度専門的な知識も持っていませんと、聖書の「霊感」ですとか「無謬性」という教理についての理解も半端なものになりかねないからです。聖書は神の言葉として誤りなく私たちを真の神知識に導いてくれます。また、聖書は聖霊を受けた聖徒たちがその神知識を伝達するために書いたものに違いありません。私たちはこの聖書に新しく何かを加えることはできませんし、そこから何かを取り去ることもできません。しかし、聖書は確かに人間の言葉で書かれたものですし、霊感を受けた人々の知性や技術が用いられています。そして、聖書が伝えられてゆく過程では、それが書き写されて伝達されねばなりませんでしたから、私たちが用いているのは聖書の原本ではなくてすべて写本からの翻訳です。そういうところで誤植などということも聖書には起こっていますから、注意深い読者は幾つかの翻訳聖書を読み比べて、時々違いがあるのに気づくと思います。

ゼブルン

 さて、ゼブルンはレアから生まれた6番目の息子で、ヤコブは彼の子孫が海辺の民になると預言しています。ガリラヤ湖の西側にあたる地域で、アシェル、ナフタリ、イサカル、マナセと4つの部族に囲まれています。13節に「ガト・ヘフェル」という町の名がありますが、ここはアミタイの子ヨナの出身地として知られます(列王下14章25節)。ヨナはガリラヤ出身の預言者であったわけです。

イサカル

 イサカルはレアの5男ですからゼブルンのすぐ上の兄に当たります。南側でマナセの領地と接していて、17章の記述によればイサカルの領地の中にある幾つかの町はマナセのものとされています。地図にあるメギドなどはマナセの町です。また、イズレエル平野は農業に適した豊かな土地であって、アハブ王が欲しがったナボトの葡萄畑もそこにありました。18節に「シュネム」という町の名が見られますが、ここは預言者エリシャが或る裕福な婦人の息子を甦らせた町としても知られます(列王下4章12節)。イッサカルの土地は、エリヤ・エリシャなど北イスラエルの預言者たちが活躍する舞台でした。王国時代にはイサカル族からアヒヤの子バシャが北王国の王位についています。

アシェル

 アシェルはヤコブの正妻の子ではなく、まだ子がなかったレアのために召使いのジルパが生んだ子でした。「なんと幸せなことか」と言ってその名が付けられたとありますが、旧約聖書で「幸いなるかな」と言う時に用いる「アシュレー」という言葉がこの「アシェル」と共通します。ヤコブもその祝福の中で「アシェルには豊かな食物があり、王の食卓に美味を供える」と述べました。

 イスラエルの最も北部に位置する地中海に面したこの地域は、良好な港に恵まれていて、ティルスやシドンというフェニキアの都市に隣接しています。旧約聖書ではアシェル族の活躍はあまり知られていませんが、ルカ福音書の初めに出て来る、神殿で救い主と出会った女預言者アンナがアシェル族の出身だと紹介されています。

ナフタリ

 ナフタリはラケルの召使いビルハが生んだ子で、ダンの兄弟です。申命記に終わりにあるモーセの祝福では、「ナフタリは主の恵みに満ち足り、その祝福に満たされ、湖とその南を手に入れる」と言われており、その通りにガリラヤ湖の西岸一帯を分け与えられています。

 リストにある36節のハツォルは、ヨシュア記でもこれまでに登場しています。11章によればハツォルは北の盟主としてカナンの大軍を率いてヨシュアと戦いますが、イスラエルはこれを打ち破って聖絶を果たしました。尤も、この19章の文脈は士師記の4章へと続きまして、そこではナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクが現れまして、女預言者デボラと共にハツォルの王ヤビンとその将軍シセラに立ち向かって勝利を得ます。

ダン

 ナフタリと同じくラケルの召使いの子であるダンの名は「裁き」を意味します。父ヤコブによれば「ダンは道端の蛇、小道のほとりに潜む蝮」(創世記49章16節)ですから、あまりイメージはよくありませんけれども、規模は小さいけれども侮れない知恵と力を持つとされます。ダンの部族からはアヒサマクの子オホリアブが出ます。モーセに命じられた幕屋の製作に際して、ベツァルエルと共にそのデザインと加工を担当したアーティストです。

 ここに挙げられているダンの町々は後に士師のサムソンが活躍する舞台であってペリシテの領地に接する南部の地中海岸に分布しています。それらとは別に、47節にあるレシェムの町は、いわゆる「ダンからベエルシェバまで」のダンに当たり、イスラエルの最も北部の町になります。このレシェムの占領については、士師記18章で「ライシュ」の町の占領として別の形で伝えられます。そこでダンの部族がどんな悪行を働いて土地を得たかを読むことができます。ヨシュア記に続いて記される士師記から知られる土地取得の物語にはイスラエルが堕落してゆく暗い影がさしています。

タラントを用いて

 こうして、イスラエル12部族への嗣業の割当が定まりました。彼らにはこれを神から分け与えられた財産として代々受け継ぎ、そこに真の神への信仰を通して神の栄光を現すことが求められます。この分配の仕方をみますと、ヨセフの子らやユダのように広大な領地を与えられた部族があり、他方ではダンやベニヤミンのように僅かな土地しか与えられていない部族もあります。人間的には不公平な配分にも見えますが、ここは籤によって割当が定められたということですから、神がそのように賜物を分け与えた、ということですので、イスラエルの誰もが不服を申し立てることはできません。むしろ、数に応じて分け与えたとも言われていますから、そこは神の目から見た公平さが実現していると受けとめるべきでしょう。

 ここにある賜物の差異には目を留めるべきことがあるように思います。神はイスラエルの兄弟それぞれに応じた特別な嗣業を用意されました。一つ一つの部族はそれを用いて、よく生かして、神の御旨に適った土地にしてゆかねばなりません。それが、イスラエルを奴隷の家エジプトから導きだされた目的でした。主イエスはこのことを「タラントのたとえ」を用いて、教会にも当てはめておられます。ひとり一人に与えられた賜物は違います。それを比較して、不服と感じて、その賜物を封じ込めてしまうようなことでは、与えられた賜物さえ取り上げられてしまいます。求められていることは、それを生かすことです。小さいから、少ないからと不服を言わずに、誰もが自分に与えられているものを十分に生かして、神に喜ばれる生活を造り上げることが、罪の裁きから救っていただいた私たちの召しです。そういう異なる賜物を持った私たちが、一つの主の名の下に力を合わせる時に、神の民が一つの神の国を造ります。

祈り

ご自身の約束を忠実に果たしてイスラエルに嗣業の土地を分け与えられた天の御神、主イエス・キリストを通して、私たちにもその恵みに与らせてくださり、天の嗣業を約束されましたことを感謝します。私たちにはこの地にあってもあなたから与えられた分前があり、それをあなたの喜びとなるように用いてく務めがそれぞれに与えられています。どうか、私たちひとり一人の人生に、その内にある、家庭に、仕事に、教会生活に、あなたのご栄光を求めることができるように、私たちの毎日を聖霊によって清め、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。