ヨシュア記2章1〜24節「遊女ラハブの信仰」

 

モーセの轍

 『ヨシュア記』においてはモーセとヨシュアの関係を捉えておくことが重要です。ヨシュアがモーセの後を継いだのはその通りですが、互いの役割には決定的な違いがあります。モーセは立法者であり、ヨシュアは実行者です。いわば、「モーセ」は神の言葉であり、「ヨシュア」はその言葉に従う民の代表である王です。そうした関係は、『申命記』と『ヨシュア記』という書物の間にも見られます。今朝は触れませんでしたけれども、1章に出て来ました神の呼びかけは、実はそこで初めて出て来た言葉ではありません。モーセの後継者にヨシュアが任命されることにしても、「強く雄々しくあれ」などの言葉にしても、既にモーセ五書の中に記されています。1章は、ですから『ヨシュア記』の序文として、ヨシュアの召命に関する記事を要約したものです。そのように、ヨシュアはその言葉においても行動においても、モーセの轍を踏んで行きます。これは『ヨシュア記』を学ぶ上の前提として覚えていただくとよいと思います。それは、アブラハムの後をイサクが辿ったように、あるいは、エリヤの後をエリシャが辿るのとも共通します。ヨシュアはモーセの後を辿って、神の御旨を果たしてゆきます。

 ヨシュアは三日したらヨルダン川を渡るとの指令を宿営全体に告げました。「三日間」とは備えの期間を典型的に表わすもののようです。16節を見ますと、斥候の二人が三日間身を隠していますから、そうするとヨシュアに報告するにも間に合わないことになってしまいますが、そうした数合わせは聖書の話には意味が無い場合が多くあります。ヨシュアがエリコを偵察させるのは、モーセの事例と並行します。かつてモーセはカナンに12人の斥候を送って様子を伺わせたことがありました。カナンは「乳と蜜の流れる地」であることが確認されたのですけれども、カナンの住民の軍事力を前にイスラエルの民は怖じ気づきました。それで、荒れ野の40年となったわけですが、その時の12人にヨシュアが含まれていました。ヨシュアはカレブと共に進撃を主張した僅かな勇士でした。そして新しい世代に移り変わってヨシュアが指揮をとることになり、改めて斥候をカナンに送ることになります。「エリコとその周辺」と訳が付けられていますが、「エリコとすべての土地」というのが原文ですから、斥候の目的はこれから進軍するカナンの全土についての情報得ることが含意されています。もはや斥候に大人数は要りません。二人だけなのは、モーセのときの反省もあるのかも知れません。また「二人」いれば証言が成り立ちます。そして、この二人と遊女ラハブとの間で物語は進行します。

遊女ラハブ

 聖書で遊女が積極的な働きをすることは珍しいことではありません。それが汚れた身分であることはそうですが、それだけに神の憐れみの対象にもなります。時折、旧約聖書に見られる性の奔放さを面白がる注解がありますが、そうした理由で「遊女」のことが取り上げられているのではないと思います。預言者たちは堕落したイスラエルを遊女と呼びました。イスラエルは本来、主なる神の伴侶として選ばれた民で、「若いときの妻」とさえ言われます。しかし、イスラエルは偶像崇拝の罪によって堕落します。預言者たちは、それは姦淫の罪だと指摘しました。主人を捨てて、別の主人に走ったのです。その罪に対する神の裁きは激しい憤りとなって預言の言葉に表わされて、歴史の上では国家の滅亡という形で実現します。そういう姦淫の妻、または遊女となったイスラエルを、神は捨てきれないで、むしろ憐れんで、許して、悔い改めを受け入れます。ですから、遊女に対する憐れみ、とは、単に身分の低い者の味方ということではなくして、罪人を憐れむ神の本質の表示となります。タマルが遊女のふりをしてユダとの間に子を儲けて称賛されたり、ラハブが申命記に基づく真の神を告白したりするのはそうした聖書の脈絡があるからで、マタイ福音書の冒頭にあるイエスの系図に二人が含まれるのはそのためです。

 もう一つ、ラハブには重要な役割が与えられています。ラハブは知恵ある異邦人です。エリコの王は彼女の手玉に取られます。その彼女の知恵と勇気によって二人の斥候は命を救われます。他方、ラハブを含めてエリコはソドムと同じように退廃した町とされているようです。かつてソドムにいるロトの家を訪れた神の遣いを引きずり出そうとした住民のように、また、士師記19章にあるベニヤミンの町で行われた恐るべき犯罪とも状況は似ています。「ラハブ」という名前には異教的な響きがあります。それは古代の言葉では女性を表わす隠語であった、という研究もありますが、聖書の脈絡では「タニン」と並んで詩編などに登場する海の神話的な怪獣です。遊女であるラハブの境遇を推し量って同情的な評価をする注解もありますが、むしろ、妖艶な遊女として倫理的に外れていることと異教性がここでの特徴だと言えます。そういうイスラエルからして疎外された存在が、ヒロインに選ばれていることがこの説話のメッセージです。

 『ヨシュア記』の文脈で言えば、これからエリコはイスラエルによって殲滅させられます。ラハブがその専門用語を使って10節で述べているように、エリコはヨシュアによって「滅ぼし尽くされる」わけです。これは後でそれが主題となるところで詳しく学びたいと思いますが、原語では「ヘレム」と呼ばれる行為です。新改訳聖書でこれに「聖絶」という訳語を付けたのが今日ではだいぶ認められて来ています。「ヘレム」とは完全に滅ぼし尽くして神にささげる宗教的な戦闘行為で、イスラエルに特有のことではなく、古代民族の間で見られた信仰です。『ヨシュア記』はこのヘレムのために聖書の躓きとも言われます。それはよく考えなければならない問題ですが、この2章で確認できるのは、聖書自身がその問題に気づいていて留保を置いていることです。エリコのヘレムは既に定まっています。そのところへイスラエルの斥候がやって来る。すると堕落したエリコを象徴するような遊女が知恵によってイスラエルの命を救う、ということが起こる。そして、この話が伝えるのは、彼女がヘレムを免れる、という結論です。

契約の恵み

 9節から14節にかけてのやりとりで契約が交わされます。イスラエルと異教徒との間で交わされる契約については、後の9章にもギブオン人との契約という形で再び取り上げられます。ラハブはまず、カナンの住民がおじけづいている、と知らせます。これは主なる神が、カナンの土地をイスラエルに与えることのしるしとされます。神は「おじけるな」とヨシュアを励まし、他方、カナンの住民をおじけさせています。そして、申命記で思い返されている主の御業がラハブの口から語られます。その神の御業に触れて、11節後半の信仰告白がこう述べられます。

  あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。

十戒の文句に相当するこの告白はまぎれも無く真実なイスラエルの信仰です。そして続く要求もしくは主張は「誠意には誠意を」という訴えとなります。この「誠意」という言葉は原文では「ヘセド」といって、契約関係における誠意・忠誠を表わします。上から下へのヘセドであれば、憐れみ・慈しみ・恵みとなります。ですから、神と人の関係であれば「愛」とも訳することができる重要な語です。14節では、これが「誠意と真実」と対になって出ていますが、この「誠意と真実」=「ヘセドとエメト」は聖書の慣用句であって「愛と真理」とも訳されます。遊女ラハブは自らの信仰と誠意によって真の神へ立ち返った異邦人であって、その信仰と誠意によって一族の救済を願い出ます。そして、それがここでは受け入れられています。

 ラハブに与えられた誓いのしるしは「真っ赤なひも」でした。このしるしが持つ意味は色々と議論されますが、一つにはラハブの遊女らしさであろうと思われます。「緋色の糸」は金の糸とならんで豪華絢爛な衣装に用いられます。また、「真っ赤なひも」は雅歌にも出て来て、それが恋人の唇に喩えられています。ですから、まさにラハブに相応しいしるしだといえます。しかし、ここには別の象徴的な意味が二つ程あるのではないかと伺えます。一つは、この「緋色の糸」はモーセが建造した幕屋の素材の一つであることです。また、『レビ記』に指示される清めの道具の一部としても用いられました。聖所にあって「緋色の糸」は聖別のしるしです。そして、多くの注解者が想像するように、窓枠に結ばれた赤いひもが生み出すイメージは、家の門の鴨居と柱に塗られた小羊の血のことです。つまり、このエリコで主の過越が再現されようとしている。これは、モーセの道を行くヨシュアの業に相応しく、また、エリコをヘレムによって滅ぼすという業はまさにエジプトにくだされた審判と並行する主の業となります。もとよりヘレムの掟は、『申命記』においてモーセが命じたことでした。ヨシュアに求められるのは律法に忠実であることです。

 こうしてラハブの家に起こるのは、異邦人の救いのためになされる新たな過越です。ここに示されているメッセージは新約に方向付けられる重要なものです。神はイスラエルの民族の敵を何の憐れみも示さないで絶滅させられるのではありません。ヨシュアによるカナン侵攻は民族的な侵略戦争を歴史的に正当化するようなこととは違っています。これは、神の契約に基づく人類の救済計画の一コマとして記されたメッセージを運ぶ物語です。ラハブは神への信仰とそれを証しする人への誠意=ヘセドによって一族の救いを獲得します。もはや民族の壁は破られます。人が救われるために必要なのは、神の裁きを聞いた時、真剣に神の力を恐れて助けを求め、神と人に誠意を尽くすことだ、と物語は告げています。それが遊女であろうとも、異教徒であろうとも、真の神はその信仰によって滅びの中から人を救い出してくださる。そして、家族をも救ってくださる。こうしたメッセージが、既にここから語られます。

 「真っ赤なひも」は、ですからイエスの十字架に続きます。遊女ラハブをも救う神の憐れみは、イエス・キリストの十字架によって全ての人に注がれます。私たちの誠意と御言葉に示された神の誠意と真実とが向き合う時に、人の命を死から救う神の約束は確かに果たされます。

祈り

天の父なる御神、あなたはイスラエルの昔から憐れみ深い方であることを告げ知らせておられ、罪人の命を幾つも救い上げて来られました。御子キリストの十字架と復活によって、今やすべての人に向けて示されたあなたの赦しと命の約束を、どうか素直に信じて受け入れる心をお与えください。まさに滅びようとしている魂が、どうか主の十字架を見上げて永遠の命に結ばれますように、あなたの誠意を心に留めさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。