ヨシュア記8章1〜29節「アイの滅亡」

 

再度の挑戦

 イスラエルの思い上がりとアカンの契約違反によってアイの攻略に失敗したヨシュアでしたが、アカン一族の犠牲によって主の怒りは収まり、改めて約束の土地を巡る戦いが開始されます。二度目の出撃に際しては、主の言葉が前もってヨシュアに告げられます。そこで確認されるのは、これが主の戦いであり、アイの攻略は神の力によって成し遂げられることです。神の命令に従う信仰が、この戦いを成功に導きます。

 いつも繰り返しになりますけれども、ここに描かれた戦争の記述は、イスラエルの歴史家が民族の過去の歴史を振り返ってそこに神の御旨を見るためのものです。エリコもアイも、考古学者たちが明らかにした歴史像と聖書に描かれたそれとは一致していません。紀元前2千年にも遡る太古の歴史的な出来事を今日の文書や映像のように精確に記録する資料は聖書をも含めてどこにもありません。歴史家たちによれば、ヨシュアが登場する時代にはエリコもアイもすでに城壁はなく、廃墟となっていただろうと言われます。「アイ」という名前自体が「廃墟」を意味します。聖書が、歴史をそのまま伝えていない、という事実は、私たちの古い聖書信仰を揺るがせにするかも知れません。しかし、聖書が自然科学について今日の私たちの常識とは違うことを語っているのを信仰の内に受け入れているのと同じように、歴史の記し方に関する聖書のあり様も私たちの信仰を変えることはありません。私たちの聖書信仰とは、聖書に従った信仰ですから、聖書があるがままを受け入れて、それによってキリストに従う信仰です。昔は聖書が偽るはずがない、などと議論をしましたけれども、聖書が偽ったり誤ったりしているのではなくて、私たちの受けとめ方が完全ではないのです。それは、教会の逃れられない定めですから、いつでも新しく聖書を読み直す謙遜な姿勢があればよいことです。

 エリコの戦いのところでも説明した通り、ヨシュアに率いられたイスラエルの全軍がカナンの諸民族を滅ぼして土地を獲得するくだりは、「だからその土地は今でもユダヤ人のものだ」などと主張できる根拠とはならない、救済史の中で理念化されたメッセージです。それは、神が約束を果たされて選びの民に安住の地を与え、罪の故に呪われた世界に救いの拠点を築き、人類への祝福を回復させる、というプログラムの中に置かれた一コマです。この理念化されたプログラムを「選民」を自覚する者たちが、手前勝手な論理によって実際の戦争に応用したり、優越意識をもつことは、アイの攻略に失敗した最初のイスラエルの過ちに等しいものです。

 エリコもアイも、神の怒りによって滅ぼされる悪です。実際にそこに住む人々がどんな犯罪を犯していたかなどということは問題にされていません。この戦争で描かれるのは、真の神に戦いを挑む罪ある人間の世界が、神の裁きによって滅ぼされる出来事です。ですから、それは終末的な意味ですべての人々に、イスラエルにも異邦人にも、神の義と裁きを伝えるのが目的です。神の憐れみによらないで、人間の義を求める限りは、誰一人救われる者はない、とパウロが語った通りのメッセージがここから語られます。

アイとベテル

 この8章の記述の中で、アイと一緒にベテルへの言及が数カ所なされているのが不思議なところですが、実際にはベテルには焦点が置かれていません。ベテルとアイは実際に2キロ程しか離れていない近隣の町で、聖書では度々対になって記されます。ここでもそうした習慣的なものが働いていると見てよいでしょう。実際、カナンの土地にあっては、ベテルもアイもモーセの律法の前では同じ運命を辿ることになります。ただ、「神の家」という名であるベテルは、族長ヤコブに因んでイスラエルの聖所が置かれた場所です。それ故に、廃墟となって今日に至る、と伝えられているアイとは別の扱いになっているのかも知れません。

 創世記12章によれば、ベテルとアイはアブラハムがかつて逗留して祭壇を築いたことのある場所です。神はアブラハムをカナンの地へ送り出し、あなたの足の踏むところのすべてが子孫のものとなる、と約束しました。ベテルとアイの攻略は、申命記におけるモーセの命令ばかりでなく、アブラハムとの約束が果たされる機会、という意味をも併せ持つものとなります。

待ち伏せ

 アイに対する二度目の戦いには、一つの戦略が立てられます。それは、2節で神が与えた知恵でもあります。エリコの戦いに比べれば、アイの戦いは実際の戦争らしい戦争です。その戦略は、おそらく古代の戦術としては古典的なもので、敵を砦から導き出して、不在となったところを伏兵が襲うというものです。今度は慢心したのはアイの王であった、ということになるでしょう。

 待ち伏せをする、という兵法はあまり潔い戦い方ではありません。聖書では「待ち伏せ」は敵がイスラエルを陥れる卑劣な方法として大抵は描かれます。その意味では、ヨシュアに与えられた知恵は効果的であるとはいえ、実に人間的でもあって、その分神は人間に妥協的に働いている、という見方もできます。ともかくこの戦いは成功して、アイに対する聖絶が実行されました。これと同じ戦法が士師記20章で再現されます。ベニヤミン族のおぞましい犯罪に対して、他の部族が制裁を加える話で、イスラエルによるギブアの攻略に際して、アイの戦いと全く同じ方法が取られます。

 アイの戦いについてもう一つ特徴的なのは、これが、出エジプト記17章に記されたアマレクとの戦いを踏襲していることです。そこでは戦いの先頭に立ったのはヨシュアでしたけれども、モーセが神の杖を手にして丘の頂に立ち、戦闘が行われている間中、その手を挙げ続けていました。その意味は、神の力を表わす杖が表示されることで、その戦いが神の戦いであることを示すことです。モーセが神の杖を手にして掲げた時、エジプトに災いが下り、イスラエルの目の前で海が二つに割れました。モーセの後を継いだヨシュアは、そのモーセの姿に倣って、再び敵との戦いに臨むよう命じられました。つまり、そこで神が力を振るってくださる、とのことです。

 モーセと違っているのは手にした武器です。「投げ槍」という訳が一応定着していますが、最新の辞書によりますと「短剣」または「三日月刀」ではないかとも言われます。王が輿に帯びる権威の象徴だとのことです。「三日月刀」ですと『アラビアのロレンス』を思い出しますが、案外そんな場面が想定されているのかも知れません。

許された罪

 こうして、ヨシュアはアイの都を神の力によってに打ち破り、モーセの命令に痛がって聖絶(ヘレム)を実行しました。アイの王は「木にかけられた」とあります。敵の王に対する当時の処刑方法であったのかも知れませんが、聖書では申命記で次のように記されています。

 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。(21章22—23節)

この処刑方法と死体の処置の仕方は、イエスの十字架にも適用された方法です。罪人たちの王は処刑されて木に架けられ、神に呪われて死んで、その日の内に葬られます。

 また、アイに対する聖絶の実行方法は、エリコの場面とは若干異なっていることにも気がつきます。なんと、イスラエルには略奪がゆるされています。その略奪の故にアカンとその一族が滅びたはずですけれども、このアイの戦いでは聖絶の掟が緩くなっているようです。これは、申命記でもすでに見られる食い違いです。申命記13章にある聖絶についての掟は次のように記されます。

 その町の住民を剣にかけて殺し、町もそこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし、家畜も剣にかけねばならない。分捕り品をすべて広場の中央に集め、分捕り品もろとも町全体を焼き払い、あなたの神、主に対する完全に燃やし尽くす献げ物としなければならない。その町はとこしえに廃虚の丘となって、再び建てられることはない。主が激しい怒りをやめ、あなたに憐れみを垂れ、先祖たちに誓われたとおり、憐れみをもってあなたの数を増やされるように、その滅ぼし尽くすべきものは何一つ手もとにとどめてはならない。(16—18節)

これは、ヨシュアがエリコに対して行った完全な聖絶の場合です。しかし、申命記には他の箇所で次のようにも書かれています。

 我々の神、主が彼を我々に渡されたので、我々はシホンとその子らを含む全軍を撃ち破った。我々は町を一つ残らず占領し、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くして一人も残さず、家畜だけを略奪した。それだけが、我々の占領した町々の戦利品であった。(2章33—35節)

モーセがヨルダン川の東で、滅ぼされるべきアモリ人の王シホンに対した時に行った聖絶では、家畜の略奪が戦利品として許可されました。また、3章6節以下では次のように記されています。

 我々はヘシュボンの王シホンにしたように、彼ら[バシャンの王オグ]を滅ぼし尽くし、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くしたが、家畜と町から分捕った物はすべて自分たちの略奪品とした。

同じくアモリ人の王オグを滅ぼした時には、家畜ばかりではなく他の略奪品も許可されています。そして、申命記で戦争に関する掟が述べられる箇所では次のように述べられます。

 あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。(20章13—17節)

アイの町はカナン人に属する町でしょうから、人間は略奪品とすることができませんが、先のアモリ人に対する態度と同等の処置が適用されている、と看做すことができます。ヨシュア記8章の脈絡で言えば、アイの聖絶もまたモーセの律法に正しく従って行われておりながら、アカンの罪が続く段階では神の赦しの中に取り込まれて、たとえ同じ行為が繰り返されても、それがイスラエルの裁きにならないような配慮が神の側でなされた、と見ることができようかと思います。神の救いの御計画は、人間を無視した形で杓子定規に勧められるものではなくて、救いが救いとして示されるために神の義は貫かれるのですけれども、人間の罪深さ・弱さを受け入れる神の顧みの中で、まさに人間の歴史として紡ぎ出されて来るものと言えましょう。これも繰り返しヨシュア記から学ぶところですけれども、神に敵対する人間の王は呪いの木にかけらる定めにあったところが、やがて、その呪いを神の子が引き受けて、人間からは取り去ることが神の深い御旨であったわけです。私たちはそうして、キリストに示された憐れみによってしか救われないということを、繰り返し心に刻むよう御言葉によって促されています。

祈り

天の父なる御神、真に義であられるあなたの御前にあって、滅びる他は無い私たちに対して、あなたは限りない憐れみを注いでくださることを、御子キリストによって知ることができます幸いを感謝します。どうか、そうしてあなたに救っていただいた身として、私たちがあなたの御前に真に悔い改める思いをもって、主イエスと共に日々を過ごすことができますように、導きをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。