ヨシュア記3章1〜17節「ヨルダン川を渡る」

 

川を渡る

 聖書物語の通例にならって「朝早く起き」ますと場面が変わって、ヨシュアは次の行動に移ります。ヨシュアはイスラエルの全軍を率いてヨルダン川を渡り、いよいよ「乳と蜜の流れる地」カナンに入ります。神がアブラハムに与えた約束がそこで実現しようとしています。「川を渡る」といいますと、世界の諸民族の間でも特別な意味合いをもっています。たとえば日本では「三途の川を渡る」と言います。仏教の教えと民間信仰が合わさって出来たのだそうですけれども、三途の川は死者の世界である彼岸と生者の世界である此岸を分ける境界線に当たります。聖書とはまるで違う信仰だと思うかも知れませんが、聖書にも似たような表現が『ヨブ記』に二カ所出て来ます。尤も、これは翻訳によって解釈が異なるのですが、新共同訳では次のように記されます。まず、『ヨブ記』33章18節にこうあります。

  こうして、その魂が滅亡を免れ/命が死の川を渡らずに済むようにされる。

もう一カ所は36章12節です。

  しかし、これに耳を傾けなければ/死の川を渡り、愚か者のまま息絶える。

「死の川を渡る」という独特の表現が、冥界へ下ることを表わします。これは文学的な表記の問題に属しますので、これらの聖句を根拠に天国論を展開する必要はありませんけれども、人が死ぬ時に「川を渡る」ことをイメージするのは世界のあちらこちらで共通することのようです。ギリシア神話の中にもアケローン川という冥界への渡しが出て来るそうです。

 もう一つ有名な例を加えれば、「ルビコン川を渡る」という格言がありますね。ユリウス・カエサルが意を決してローマに進軍した故事に基づいて、決死の覚悟をして行動することを指します。「川を渡る」ことは生死を分つ重大なこととして人々の心に思い浮かぶ出来事のようです。聖書ではヨシュアに先立って『創世記』の中でヨルダン川を必死の思いで渡った人がありました。族長ヤコブです。ヤコブは兄エサウから父の祝福を奪ってアラムにいる叔父のラバンのもとへ逃亡しました。しかし、神は常にヤコブと共にあって苦労の中にも祝福を与え、豊かな財産を持つようになりました。やがてヤコブは意を決して家族を連れてラバンの元を去り、ヨルダン川を越えて故郷に帰ります。しかし、父の家には兄のエサウがいますから、ヤコブは兄の復讐を恐れます。神はそこでヨルダン川を渡ろうとするヤコブに試練を与えます。ヤボクの渡しで夜半にヤコブは神の使いと格闘し、何としても神からの祝福をもぎ取ろうとします。それが御旨に適って、ヤコブは「イスラエル」という新しい名を与えられ、神の支えを得てカナンの地へ向かい、無事に兄との対面に臨むことができました。

 神に信頼せずに自らの力に頼ってヨルダン川を渡ろうとするならば、世の人が恐れたように、それは三途の川を渡るのに等しくなります。荒れ野で生涯を終えた第一世代はまさにそれを試みて失敗しました。しかし、新しい世代の先頭に立つヨシュアには「恐れるな」との神の励ましの言葉があります。「あなたがどこにいても私はあなたと共にいる」との約束があります。あとは意を決してモーセが告げた御言葉に従って、真っすぐ民を導いて行けばよいだけです。そうして川を渡れば、神が先頭に立って、死をもたらす敵を滅ぼしてくださいます。

契約の箱を担ぐ祭司たち

 ヨシュアの指示は役人たちによって民の隅々にまで伝えられます。一つ一つ比較はしませんが、ヨシュアの指示と行動は、すべて『申命記』に記されたモーセの言葉に従ってなされています。民の先頭に立つのは契約の箱を担ぐ祭司たちです。荒れ野を行軍する時にも契約の箱はレビ人である祭司たちに担がれて、民の行く道を正しく導きました。『民数記』10章にはその様子が次のように描かれています。

 人々は主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱はこの三日の道のりを彼らの先頭に進み、彼らの休む場所を探した。. 主の箱が出発するとき、モーセはこう言った。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ/あなたを憎む者は御前から逃げ去りますように。」 その箱がとどまるときには、こう言った。「主よ、帰って来てください/イスラエルの幾千幾万の民のもとに」33-36節)

契約の箱は、ちょうど神社の神輿のような形をしています。設計図が『出エジプト記』25章に記されていますが、神輿が神が乗る台座を表わすように、契約の箱の蓋は主の玉座として造られています。それは「贖いの座」と呼ばれて、それについて神は「わたしは贖いの座の上に、雲の上に現れる」と告げて、容易に人が近づかないようお命じになりました。さらに、箱の中には神がモーセに与えた契約の板が安置されます。このように、契約の箱は神がイスラエルと共におられることの保証となり、民の行くべき先を指し示す確かな案内役でした。

 ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、整然と隊列を組んで、主なる神を王として先頭にいただく強大な軍隊です。そして、先陣を切って戦うのは主御自身であることを契約の箱を担いだ祭司たちの姿が表わしています。民に求められるのは、その後に従うことです。主の言葉を受けたヨシュアは、イスラエルの人々に「主の言葉を聞け」と命じました(9節)。かつてモーセに率いられた民が、葦の海でエジプトに対する主の戦いを目撃したように、イスラエルの第二世代に属する者たちもまた、このヨルダン川で主の力を知り、そして川を渡った後に繰り広げられる主の戦いの証言者となります。

 ここにある二重のイメージをしっかり把握して置きたいと思います。物語の筋道は、ヨシュアに率いられたイスラエル軍によるカナン征服の出来事を描き出します。しかし、それを描き出す言葉は祭儀用語で満ちています。つまり、ここには聖所で仕える祭司を中心とした民の礼拝の姿が映し出されています。すなわち、約束を果たすために約束の地を戦いとるのは神です。そして、イスラエルの民はその神の言葉に従い礼拝をささげることで川を渡り、敵に勝利して、安住の地を受け取ります。

干上がった川床

 ヨシュアはイスラエルの人々に、主の言葉を聞けと呼びかけます。そして、語っておられる主がどのようなお方かを明らかにして、今から起こることに備えさせます。「あなたたちの神、主」は、まず「あなたたちの間におられる、生ける神」です。神はかつてモーセを通じて七つの民を滅ぼせとお命じになりました。そのようにお語りになった後、律法を残してモーセと共に姿を消したのではなく、実にその命令を果たすのも主御自身である、と言われます。御言葉は取り消されませんけれども、神は実に民の中におられて、その御言葉と共に生きて働いておられる神です。聖書に記された命令も約束も教えも、それが実際に人の間にあって実現するものではないと軽んじられたり、あるいは自分の力に頼って努力すれば実現するなどと受け取られるものではありません。神の言葉は、そのように命じられたからには必ず果たされなければなりませんし、教えられたならそれが教えられた通りに実行されねばなりません。しかし、それは、神が生きておられて私たちの間でそうしてくださることです。神の民はそれを信じなければならない。

 また、11節と13節にあるように、神は「全地の主」です。この「全地」をどう解釈したらよいかが議論されますが、この『ヨシュア記』の文脈では「カナン全土」を指すものとした方が相応しいように見えます。「地」という言葉は「天地」となれば地上全体のことになりますが、一般的には土地や国を表わします。しかし、「全地の主」という称号は「イスラエル国の神」という限定を越えて、天地の創造主であり、終わりの時には全地を裁かれる主を確かに指しています。イスラエルは、その全能者なるお方の力をヨルダン川で目撃するわけです。それは、葦の海の出来事の再現となります。7節にある通り、ヨシュアがモーセの後継者であることがこれで確認されます。そして、海を二つに割る出来事が神の創造の力によるものであったのと同じように、ヨルダン川をせき止め、川床を干上がらせる力は、創造者なる「全地の主」の働きであることを証します。

イエスが導く彼岸へ―信仰の闘いに赴く

 イスラエルの民は、こうして神の言葉に導かれて、生ける神の力によって、すべての者がヨルダン川を渡りきりました。通常であれば人を飲み込み、命を滅ぼす大水の力は阻まれて、イスラエルは生きて川を渡りました。鬨の声を上げるでもなく、血を流して剣を振るうでもなく、約束の地を自分の足で踏むことができたのは、ただ、真の神を信じたからです。そして、神がイスラエルのためにすべてを行ってくださったからです。神の真実とそれに答える人の信仰のかたちは、こうして福音と同じようにここに記されているのが分かります。旧約聖書に示された神の約束と救いの出来事の数々は、イエス・キリストの決定的な啓示へ向かって進みます。神がモーセの口を通して語った真実はキリストにあって実現します。イスラエルの間にあって戦われた主の戦いは、すべての人を虜にしている死の力に対する神の戦いです。神がヨシュアを用いてイスラエルの民を川の向こう岸に渡らせたのは、やがてイエス・キリストによってすべての人々を死の向こう岸に渡らせるためでした。神はキリストの十字架によって死を滅ぼし、復活の命を受け継ぐことができるように、私たちを救いの道へ導かれました。私たちの求められるのは御言葉を信じて主の後に従うことです。自分自身を聖別して、主のものとしてささげて、主の御業に期待するならば、たとえ「これまで一度も通ったことのない道であっても、わたしたちの行くべき道は分かり」ます(4、5節)。契約の箱を担ぐ祭司たちがイスラエルの民を先導したように、神の言葉によってささげられる礼拝が、教会を正しく約束の地へと導いてくれます。イエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けた者は、主イエスと共にすでに川を渡りました。その確信に立って、信仰の目で主の戦いを見つづけ、それを来るべき世代に証しすることが、真のイスラエルである私たちに与えられた恵みであり務めです。

祈り

 

イエス・キリストにあって、私たちに死の川を渡らせてくださった天の御神、あなたの約束された憩いの地に、私たちの受け継ぐ場所があることを確かに信じることができるようにしてください。私たちの罪との戦いを、今も生きておられる主が力をもって戦っていてくださり、行くべき道の分からない私たちを確かな方向へ導いてくださっていることに日毎に気づかせてください。あなたが共にいてくださる証を、私たちのささげる礼拝の中に保たせてくださるように、御言葉にあってあなたの声を聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。