御言葉・奉仕・礼拝―いつもキリストと共に―

 

テモテへの手紙二314-17

 (だが)あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

 

講演一 聖書に学ぶ

 

神の御前に生きる私

 初めまして。神戸改革派神学校の牧野といいます。神学校は牧師を育てる学校です。今年は6名の入学者が与えられて、全部で27名の神学生がこの4月から一緒に学ぶことになります。やがて皆さんの中からも神学校に入学する人が出ることを期待します。今、伝道者が足りないのです。

 

キリストの福音を伝える仕事に自分の生涯をささげることは、易しいことではないかも知れませんが、これほど必要とされる尊い仕事もありません。自分も将来どうかと、是非とも考えてみてください。こうして修養会に集ったということは、教会が嫌いなのではないでしょう?皆さんの人生がかかっている教会です。これを皆で支えて、キリストのお働きのためにささげていくのが牧師の仕事です。そのために自分たちで何とかしようと思うことは、皆さんに相応しいことです。

 

 神学校への招きはまた後ほどどこかでさせていただくことにして、今回のお話の主題に入ります。皆さんにお話しようと準備したことは、これを中心に生きていけばよい、信仰生活の基本線についてです。三つのことをお話します。そして皆さんがこれから、将来どのような道を選んでゆくとしても、皆さんの毎日が、イエス・キリストと共に歩む生活になるように、と願っています。

 

 お話しするのは三つのお勧めですが、第一に、聖書に学び、自分で考えるということです。第二に、祈りつつキリストと共に働くことです。そして第三に、礼拝に生かされること。これは、いわばキリスト者の自分発見の道程です。私が思うに、皆さんに共通するこれからの目標は、神の御前に生きる自分を発見することです。自分探し はキリスト者には相応しくない、と思う人もいるかもしれません。自分、自分、と言っていると、何か自己中心であるかのような感じもします。けれども、自分自身をきちんと見出さないでいると、将来、自分が何者であるのか、はっきりしないまま彷徨う人になってしまう可能性があります。「彷徨う」のはロマンチックなことではありません。神の御前にある、ということが分からないで、いたずらに時を過ごすということです。おかしなことかも知れませんが、教会に通っていてもそういうことが起こります。これは、人から「あなたはクリスチャンだ」などと言ってもらっても仕方がないのです。私は今、確かに神の御前で生きている、と自分で分からないと意味がありません。自分を越えて、自己中心ではない、キリストのものとして生きる自分を生きるためには、まず、きちんと自分自身を見出しておかなくてはなりません。そのために、三つのことを今からお話しようと思います。

 

聖書は自分を映す鏡

 

 パウロが言いました通り、「信仰はキリストの言葉に聞くことから始まり」ます(ローマ10:14)。キリストの言葉は聖書です。私たち信仰者は、キリストの言葉である聖書によって、神の御前に生きる人間として創られます。

 

 皆さんは、自分のことを最もよく知っているのは、自分自身だと思いませんか。何故かといえば、自分はいつも自分と共にいたからです。そして、外からは見えない、自分の心を最もよく知っているのも、親や友人よりも、自分に違いないからです。私は年中そんなことを考えます。人は私のことをいろいろ言うけれども、私のことを一番よく知っているのは私ではないか、と。

 

 けれども、本当に私は、自分のことをよく分かっているのでしょうか。自分の顔さえ自分自身の目では見ることができないのが人間です。鏡に写してみなければ、ですが。そして、人は誰しも、自分自身を外側から見つめることがどれ程難しいかということを世の中で経験します。私たちが経験する多くの失敗は、自分自身を正しく見ていなかったことから起こります。「裸の王様」は最後に自分が裸であることに気が付いたのでしょうか?

 

 宗教改革者のカルヴァンは、自分を知るためには、まず、神を知らなくてはならない、と言っています。つまり、鏡に写してみなければ分からないのですね。鏡は、そこを覗き込む私たちに、「あなたの姿はこうだ!」とありのままの姿を映して見せます。そして、「私」という人間の全体像を写して見せてくれる鏡が聖書です。自分自身を知るためには、聖書が告げるところの神のもとへ出かけていって、そこに自分自身の姿を映してみることです。すると、そこに見えてくる自分の姿があります。それは、神によって創られた私であり、神の御前で罪を犯した私、またキリストの十字架によって罪を赦していただいた私です。万物の創造者である神を知ることと、神に創られた人間のひとりである私を知ることは、切り離すことのできない関係にあります。

 

 こうして、自分探しの第一歩は、聖書の言葉に聞くことです。皆さんには既にそうして育った経験がある程度備わっていることでしょう。しかし、聖書の言葉を聞くのには、これで完璧と言うことはありません。私たちは、神についても、自分自身についても、完全な知識をもつことはできません。聖書はいつでも今、新しく聞かれることを待っています。そして、私たちは聞くたびに、神の新しい御旨を知らされ、今まで知らなかった私たち自身の新しさにも気づかされます。

 

 聖書から与えられる神について、そして人間についての知識は、完全ではないにしても、それで神の御前に生きるのに十分な内容を備えています。ですから、私たちは聖書から学ぶことを第一に、キリスト者としての歩みの方向性を確かにすることができます。

 

聖書の読み方 ―「息子の犠牲」という主題を通して

 

 具体的なこともお話したいと思います。聖書に「学ぶ」ということは、ただ流して読むこととは違います。あるいは日課として、毎日少しずつ御言葉に触れるようにしている方々もあるでしょう。それも大切なことですが、皆さんのような時期には、自分でよく考えながら読むことが大切です。聖書を読んで理解する時に障害となるのは、安易に分かったつもりになってしまうことです。確かに教会学校で聖書の物語には親しんできた経験もあると思います。けれども、教会学校で聞いてきたお話は、聖書の大筋と教理の大枠に過ぎません。そこから次のステップに進んでください。聖書を丹念に読むことを学ぶと、私たちは思ったほど、聖書について知ってはいなかったことに直ぐに気が付きます。

 

 先学期の期末試験に、神学生に出した聖書クイズを一つ紹介しましょう。年生の『旧約概説』という科目を私が担当していますが、そこで作った問題です。難しい言葉はひとつもありません。例えば、こんなクイズです。分かったら、皆さんも答えてみてください。

 

 自分の子どもを神への犠牲としてささげる、という記事を、旧約聖書から3箇所挙げなさい。

 

誰か答えてくれますか?(応答)

 

まず、すぐに思い浮かぶのは、創世記22章に記されている、アブラハムがイサクをささげるという出来事です。信仰の父アブラハムは、既に心の中では息子をささげきっていましたが、最後の場面でイサクは犠牲となるのを免れて、神の用意なさった雄羊が代わりとなります。

 

次に挙げられるのは、士師記11章にあるエフタの娘の話です。エフタはイスラエルの士師としてアンモン人と戦い、勝利を収めました。しかし、戦いに出る前、神に誓いを立てて、もし自分が無事に帰ってくることができたら、家から迎えに出てきたものを主に犠牲としてささげます、といいました。そして、無事に家に帰ってきたところ、エフタを迎えに出たのは彼の一人娘でした。この結果にエフタは打ちのめされますが、主に向かって誓ったのですから取り返しがつきません。娘もそのことをよく承知で、自分が犠牲になることを引き受けました。

 

三番目の例は、イスラエルによる実践ではなく、隣国のモアブの王によるものです。列王記下3章でモアブの王メシャがイスラエルの支配に反抗し戦争が始まります。モアブに対してイスラエルはユダ、エドムと合流して戦いに望みますが、預言者エリシャを通して主なる神の助けがあり、モアブ人はイスラエルの前から敗走します。そこでモアブの王は追い詰められて、最後に彼がとった手段は、城壁に上で自分の跡取りである息子を焼き尽くすいけにえとしてささげることでした。このところで聖書の記述は不思議な記し方をしています。モアブの王が息子を犠牲にささげると、「イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き揚げて自分の国に帰った」とあります。この一節は解釈の難しいところなのですが、「激しい怒り」というのはおそらく主の怒りでして(ゼカリヤ7:12参照)、モアブの王による犠牲が実際には効果を及ぼしたことを意味するものと思われます。

すでに三つの例が挙がっていますから余分になりますが、もう一つ加えておきますと、ユダの王国時代に、エルサレムでは人身供養が行われていたことが、列王記やエレミヤ書に記されています。エレミヤ書7章では、預言者が次のように主の裁きを告げています。

 

まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。

 

子どもを祭壇で犠牲にして神にささげる、という恐るべき礼拝行為は、古代フェニキアの宗教の習慣として知られています。フェニキアとイスラエルとの関係は、ソロモンの王の交流がよく知られていますが、後にアハブ王の妻イゼベルがフェニキアの王女であったこともあり、文化的宗教的な影響を強く受けたのでしょう。王国時代のイスラエルは地元のカナンの宗教の影響下にあり、更に海外の洗練された文化による浸食も受けて、国が繁栄する一方で本来の主なる神への信仰が歪められてしまいました。エルサレムでも、ヒンノムの谷で子どもたちの犠牲がささげられていたというのはモーセ以来の主への信仰を知る者からすれば衝撃的です。

 

子どもを犠牲として神にささげること、特に跡取りとなる長男をささげることは、古代オリエントの世界では最高度の信仰の表れでした。古代人たちが野蛮人だと決め付けるのは早計です。勿論、今日では考えられないことでしょうが、古代においても子どもの命が大切であることには代わりがありませんし、まして長男はかけがえのない跡取りです。国や民族がぎりぎりの危機に陥った時、止むに止まれず最後の手段として選ばれたのが、この長男の犠牲という方法でした。それによって、人は神の助けを願ったのです。

 

クイズでは、これらの箇所が3つ指摘できれば正解ですが、ここで挙げたテキストは「子どもの犠牲」という礼拝に関わる主題で一つに結ばれて、聖書の物語の脈を作ります。旧約の人びとの間でも、子どもの犠牲は最高度の信仰の表れであることは知られていました。そこで、アブラハムに対する「イサクをささげよ」との命令は、理由がはっきりします。最も尊いものをささげよ、との命令で、アブラハムの信仰が、周囲にも分かるような形で示されたのです。そして、アブラハムはその命令に黙って従います。アブラハムは周辺民族の諸王にも劣らない、神への恐れを知る、信仰者でした。しかし、神はそこで、子どもの犠牲の実践を禁じます。イサクに向かって刃物を振り上げた彼の腕に対して、「その手を下ろすな」との命令が天使によって告げられます。信仰は最高度のささげものが要求されます。しかし、「殺してはならない」のです。神はイスラエルの周辺世界の実践を、御自分の民からは取り除かれました。

 

旧約聖書にみられる「子どもの犠牲」という主題の脈は、新約聖書へと流れ込みます。人は子どもを犠牲にささげてはならない、とのメッセージが旧約にはありますが、それはただ人からその方法を取り上げたのではなくて、神がそれを肩代わりなさる。神が、ご自身の御子を、人のために、犠牲としてささげる、という逆転が新約では行われます。十字架による御子イエスの犠牲です。神は人から犠牲を求めるお方ではなく、人のためにご自身をささげるお方として、新約聖書では主イエスの出来事を通して語られます。

 

皆さんがキリスト者であるのは、皆さんのご両親がキリスト者であったからではありません。また、皆さんがキリスト者になりたいと思ったことに一番深い動機があるのでもありません。神が御子を犠牲にささげて、皆さんを代わりに買い取ったのです。皆さんはキリストと同じほど大切なものだと神に認めていただいたのです。だから、皆さんはキリスト者になれるのです。

 

受難節に合わせて、聖書に学ぶ一つの例を挙げました。これはいわば連想クイズです。聖書で互いに関係があると思われる箇所を繋ぐ訓練です。教会では、聖書の勝手な解釈はいけないと教育されますから、思いつきでいろんな御言葉を繋げて、意味を汲みだしてはならないのではないか、と思われるかも知れません。けれども、これは訓練ですから、自由に試みて構わないと思います。大切なのは、それが正しい連想であるのかどうか。その結びつきの背後に、どんな信仰が一貫しているのか、と後々までよく考えてみることです。或いは教会の友人たちと議論してみることです。新しい発見がまだあるかも知れません。

 

カテキズムへの習熟

 

 さて、聖書に学ぶ近道はカテキズムに習熟することです。これは皆さん、自覚しているでしょうか。ウェストミンスター小教理問答や、最近では中部中会が作成した『子どもカテキズム』がありますね。名古屋教会の木下先生がお書きになった『中高生のための教理入門』もよく用いられています。これらは、聖書とは別の書物としてありますけれども、内容は聖書の教えそのものであることは言うまでもありません。キリスト教の教理は聖書の教えのエッセンスです。「三位一体」という教理にしても、聖書の教えをそのまま保って神のことを言い表そうとすると、そういわざるを得ないのです。三つであるのに一つとは理屈に合わないではないか、と言われても、理屈に先立って聖書の啓示があるので仕方がないという側面があります。

 

 カテキズムは、聖書の要約であり、聖書の教えの中心です。ウェストミンスター小教理問答の第3問にありますように、聖書には神ご自身についての自己紹介と、神の御前に生きる人間の生き方が記されていて、これをよく整理して信仰生活に適用することができるようにしたものが、カテキズムですね。また、カテキズム/教理というのは歴史をもっていて、教会に生きた人々が長い年月をかけて聖書に学び続けて、祈り続けて、自己吟味を重ねた上で結晶化した言葉が「教理」という定式化した言葉になっている。カテキズムというのは聖書解釈の実りなのですけれども、簡単にこれを覆すような新しい解釈は出てこないのです。ですから、私たちは、まずカテキズムをよく学び、理解することで、聖書に習熟することができます。

 

 これを怠りますと、いくら聖書を読んでいても、具体的な問題に解決が与えられないということになります。適当な聖書箇所を自分で引いてきて、一時的に「これが答えだ」と救急手当をしておくのに過ぎない、という読み方になります。けれども、先にカテキズムには歴史があるといいましたように、カテキズムに結晶した聖書解釈には、すでに議論されてきた問題に対する答えが含まれています。カテキズムという教理の体系を学んでおけば、大抵の問題には答えが出るものでして、また、たとえ直接の答えが見つからなくても、そこから自分で解答を導き出すことができます。

 

 もっとも、カテキズムでも答えることのできない問題もあります。代表的な問題は、何故神は人に罪を犯させたのだろうか、という、神の聖定の意図そのものを問うような問題です。これには論理的な解決は見出されず、神の自由の中にあるものとして、私たちは「知らない」ことに留まる他はありません。ですから、カテキズムがあれば聖書は要らない、というような逆転も起こりません。カテキズムは骨組みです。人間が精神だけで出来ているものではないように、聖書も肉を伴っている全体として存在します。カテキズムは聖書のエッセンスであり、それは聖書解釈への入口です。そこから更に、神の深い御旨を悟るために、聖書そのものへの習熟へ向かうことができます。

 

第一講演のまとめ

 

 聖書に学ぶことが、神の御前に生きる私を見出すための第一歩です。学ぶ場所は、礼拝の中で、説教を通して学ぶことが筆頭に挙がるでしょう。しかし、現実は、一人で聖書を読むとき、聖書研究会などで共同で学ぶ時が多いのかも知れません。聖書に対する学習意欲は、知る喜びによって支えられます。聖書の言葉づかいでは、知ることは愛することにつながります。「あ、それ知ってる」という程度の知識は、生きた知識ではありません。知ることとは、その対象に没頭することです。私たちはなぜ、御言葉に学ぶのか。それは、そこから知らされる神と人とを愛するためです。勉強は人間を頭でっかちにする、という一つの面があるにしても、それは安易なものの言い方です。私たちが知るべき知識は神から来るものですから、喜んでそれを受け取ればよいのです。実践の問題については次の講演でお話します。

 

 また、教会には聖書を専門に研究する人も必要とされます。牧師は確かに聖書の専門家ですが、その牧師に精確な知識を供給する神学者や聖書学者の働きがあります。ですから、牧師の道とは異なるかも知れませんが、それもまた尊い神のお働きへの奉仕です。聖書を大切にする改革派教会ですが、聖書研究者は多くありません。皆さんの賜物はまだ隠れていますから、それを明らかにするためにも、聖書の研究を志す方が現れることを待っています。

 

 

講演二 キリストと共なる生活

 

ルカによる福音書1025-37

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

キリストと共に働く

 

 最初に触れましたように、この二回目の講演では、キリストと共に働くことと、礼拝に生かされる、という二つのことを順にお話します。先にお話したことに合わせて、これらの三つが信仰生活の基本線としてどれも欠かせないことを、皆さんに訴えたいのです。

 

 聖書の学びは、御言葉に聞く私たちを造りかえる、神が本来の主体である働きです。精確に言いますと、天の父なる神が、聖書の言葉を用いて私たちをキリストの僕に相応しく造りかえるために、聖霊が御言葉と共に働いて、私たちの内なる心を照らし、主なる神への信仰を目覚めさせて、神についての正しい理解と、神の御前に生きる私たちに、相応しい自己理解をもたらしてくださいます。その御言葉を通じて働く聖霊のお働きは、私たちの立ち居振る舞いと結びつきます。動きは心から始まりますが、必ず言葉と行いへ続きます。

 

 よく、知識ばかりでは駄目だ、行動が必要だ、と言われます。それは人間の知識、人間の言葉に関して言えることで、聖霊が神の言葉を人に作用させるとき、それが知識だけに留まることはありません。例えば、「隣人を愛しなさい」という言葉がある。知ってはいるのだけれども、愛せない自分がある。それは、まだ神の言葉がきちんと私に届いていないからです。「隣人を愛しなさい」という命令に、人間は逆らうことができません。その命令は神の力をもって人を動かします。「愛する」経験がないと、それがどういうことか判らないでいるかも知れません。けれども、それは本当に知らないのではなく、それが愛だと気づかないだけであることも考えられます。神のことばと御業を十分に知ることなくしては、それを愛だと呼ぶこともできませんから。

 

 さきほど、ルカ福音書から善きサマリヤ人の譬えを読みました。サマリヤ人のなした救済の行為はキリストの御業を表します。しかし、この譬えが語られた目的は、サマリヤ人の振る舞いを通して「隣人となる」愛の道へと人びとを招くためです。キリスト者はここに、誰かの隣人となるべく召しが与えられています。この御言葉は、私たちの行為と直接的に結び合っています。私たちがサマリヤ人よりも、強盗に襲われた旅人や、傷ついた人を見過ごしにする冷たい信仰者たちに、自分自身を見出すことと思います。それが誤った読み方だとは思いません。けれども、最終的には、やはり「隣人となった」サマリヤ人がキリストの模範と示されている限り、私たちはそこにも自分を重ねてみることが求められています。そして、それは不可能なことでしょうか?民族差別の行われている只中で、サマリヤ人が敵であるユダヤ人を助ける行為は奇跡的ともいえます。しかし、それは主イエスが墓から甦った復活ほどに不可能な出来事とは思えません。何らかの打算ではなしに、心の底からかわいそうだと思って倒れている人に駆け寄り、手を尽くして命を救おうとする人の姿は、災害の現場に駆けつけたレスキュー隊員の姿にも重なるではありませんか。或いは、道路に飛び出そうになった子どもを、「危ない」といって抱きとめる母親の姿には、何の打算も働いてはいないでしょう。愛の行為はそのものとしては単純です。

 

 キリスト教は行いを救いの条件とはしていません。プロテスタント教会は「恩恵のみ」「信仰のみ」という原理から、特にカトリック教会の功徳の教えを遠ざけます。しかし、善き業はキリストの御業の本質としてキリスト者にとって重要です。私たちは、善き業を通して神の愛を知ることが出来ます。先に挙げたような母親やレスキュー隊員には善きサマリヤ人の譬えがよく分かるはずです。自分のしたことが「隣人となる」愛の行為だ、と主イエスに認められたのですから。もし皆さんにも誰かを助けてあげた経験があるのなら、それは、主イエスがともにおられた証拠です。ふつう世の中では、憐れみ深い行為など日常茶飯事だといわれるなら、その通りかも知れません。しかし、その善い行いが誰にでも分け与えられた良心に基づく、一般的な恵みに過ぎないとするならば、つまらない発想です。キリストは聖霊において自由に働きます。御言葉にご自身を示され通り、愛の業においてキリストは人と共におられます。

 

 神を真に知ることと、人間を真に知ることは、聖書から学んで行動するところでより確かに達成されます。愛の業に挫折するような経験も、また行いから学ぶことの一コマです。自分は善き業が身に着いていると知らず知らずの内に自信満々になってしまうことが信仰者にはよく起こります。それは単に自分が隣人に与えた損害に気づいていないだけのことです。「できなかった」と素直に認めることは、聖書が語る「正しい者はいない」との御言葉や(ローマ3:10,etc.)、人間の不完全性の教理(小教理82)を身をもって体験することになります。

 

 大切なのは、聖書の御言葉をそうして自分の生活の中で確かめることです。慈善の業を実行しよう実行しようと焦るよりも、まず、今ある生活を聖書の言葉と照らし合わせてみること。善い事への促しは内側からやってきます。そう、自然にできる、もしくは、そうせずにはおれなくなります。そして、できないでいる自分を責めないこと。これが一番難しいことかも知れません。

 

 私たちは自分の罪の故に、知識にも行いにも欠ける者です。善も悪もない、中立からの出発ではありません。マイナス無限大からの出発です。隣人をも自分をも責めるのは、その点を見誤っている自己中心です。自分発見の途上において、おそらく誰もが、この自己中心の問題にぶつかって悩みます。けれども、キリストの愛に気づかされるならば、本当の自分の発見とは、自分を失うことだと分かります。キリストの愛は、相手を生かすために、自分を与えてしまうことだからです。

 

そして、愛することは喜びです。真の喜びは愛されることではなくて愛することです。キリスト者として生きることは、この愛する喜びに生きることに他なりません。「愛される」ことばかりを強調する今は、自分自身の中に自分を見失っているように思われます。愛は無言でもよいのです。真に愛するのであれば、十字架へ向かうキリストのように言葉は必ずしも必要ではありません。

 

礼拝に生かされる

 

こうして今までの二つのことで描いてみたのは、御言葉に学ぶことと、御言葉を生活において確かめること、によって私たちの信仰生活の全体を捉えようということでした。どこにいても、何をするにしても、皆さんが将来どんな道を進むにしても、この二つは変わらない生活の中心です。けれども、この二つではどうしても欠けてしまう大切な要素があります。それは、教会です。聖書に学び、それを実践することでだけでよいのであれば教会は要りませんね。けれども、ここは私たちの必要という自分中心の視点から離れて、神の働きから考えねばならないところです。神が教会を創ったのです。神が世界の諸民族の中からイスラエルを選び、ご自身の民とされたので、そこで神と民の交わりからなる神の国を前もって示されました。キリストの教会は、御子イエス・キリストを通じて、イスラエル民族を超えた、すべて信じる者からなる共同体として、新たな神の民とされました。ですから、キリストは教会の頭である方ですから、キリストを信じる者たちは必ず教会と結ばれることになります。

 

そして、教会は礼拝共同体としてこの世界に存在します。他にもいろいろな要素があろうかと思いますが、教会が教会であるところのしるしは礼拝です。そして、礼拝には、御言葉と礼典という要素が必ず備わっています。

 

礼拝は、先に述べた信仰生活に模範的な像を与えてくれます。それは、信仰生活の本質といえますし、本来の神と人との交わりが示される場所といえば出発点、また、私たちが信仰生活の果てに辿り着く最終的な目標です。礼拝は、地上にあっては不完全なかたちに留まりますが、神と人との本来のあり方を最も鮮やかに映し出してくれます。

 

私たちは日常生活で御言葉に学び、証しの生活を送りますが、罪の故にくたびれますし、いつしかキリストと共にあることも不明瞭になってしまいます。6日間の労働は、それくらい過酷です。けれども、そこに、神の御前に進み出る、主の日が必ずやってきて、その日には礼拝に招かれて、再びキリストにお会いして、私たちは神の子として神との交わりを回復されます。

 

礼拝のイメージを、聖書から受け取っておくとよいでしょう。例えば、礼拝は、神と人間とが最初にまみえたエデンの園のようです。園の中央には命の木が植えられていました。人はこの木から取って食べればよかったのですが、蛇に唆されて「善悪を知る知識の木」へ向かってしまったのですね。その選択の失敗が決定的な堕落を招いて、人は命の木に近づくことはできなくなりました。ところが、教会には命の木が再び生えているわけです。多くの人のイメージしたような葉の生い茂る林檎の木ではありませんけれども、十字架という実に貧しいかたちをした木が教会には立っています。そして、間違いなく、これが罪人に改めて差し出された命の木なのですね。この木の実、すなわち、十字架の罪の赦しを受けとった罪人は、皆赦されて、復活した主イエスにある、永遠の命をいただくことになる。私たちはその実を受け取りに礼拝に帰ってくる罪人たちです。

 

また礼拝は、モーセが律法を受け取ったシナイ山です。イスラエルの民が神と契約を結んだ最初場所であり、そこで、十戒の板を初めとする律法を民は受け取りました。まさに、その契約の言葉である聖書を受け取りに、私たちは礼拝へ集められるのですね。私たちもまた、罪からのエクソダス(脱出)を経験した者でして、キリストによる新しい契約を通して、神の民としていただきました。そこで、キリストの言葉である説教と礼典をいただくために礼拝に集います。

 

そして、礼拝はエルサレム神殿の立つシオンの丘を映し出します。シオンの山では世の終わりの祝宴が開かれる、と預言者は語りました。例えば、イザヤ書25章です。

 

万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手はこの山の上にとどまる。(6-10 節)

 

礼拝には食卓がつきものです。シナイ山でもそうでしたが、神と契約を結ぶ儀式には食事が欠かせない要素でした。終末における祝宴にも食卓を中心とした交わりがシオンで開かれます。その祝宴は、死の悲しみが完全に拭い去られる慰めの祝いです。このイメージは、さらに黙示録に描かれる、天の都にも結びついています。

 

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネ黙示録21:1-4

 

礼拝は、この天上の都の面影を映す、終末の喜びと慰めが与えられる時です。私たちはこの礼拝の場所で、神の御前にある自分本来の時と場所を確認して、日常生活に送り出されます。

 

私たちのささげる礼拝の特徴は言葉の交流にあります。神と民とが言葉を介して交わりをもちます。礼拝式を構成する要素を並べてみても、その特質ははっきりしています。「招きの詞」を通して、神が会衆を礼拝に招いてくださいます。会衆はその招きに答えて賛美をささげます。そして、礼拝に相応しく受け入れていただくために罪の告白をします。神は率直な告白を受け入れてくださって罪の赦しを宣言してくださいます。罪を赦された民は信仰告白をもって神の民としての一致した信仰を天と地に向けて表明します。続いて、聖霊が会衆の心を照らして、神の言葉に聞く耳を供えてくださるよう祈りがささげられ、今日の御言葉が朗読されます。説教が聖書の御言葉を今日会衆が生きるための養いとして語り、御言葉を受けた民は、世界に向けて開かれた主の食卓の周りに集います。世界の救いのために民による執り成しの祈りがささげられ、神はキリストの十字架と復活のしるしである命のパンと杯を分け与えて、終末の祝福へ向けて民を養い、世へ送り出されます。神への献身と世界への奉仕の第一歩として献金がささげられ、主イエスの派遣と祝福の言葉が皆さんの一週間の歩みを覆います。

 

こうして、私たちの礼拝は言葉による礼拝であって、神と私たちとの間で言葉を交し合うことで、私たちは神の御前に生きることを体験的に確認します。御言葉が生きる現場もまさにここだと言えるでしょう。礼拝式では聖書の言葉が相応しい場所で神と民との間で働いています。

 

「主の日の礼拝を守らなければならない」とよく言いますね。けれども、ここはよく理解しておいてください。それは本来の言い方ではありません。主の日の礼拝を通して、神が私たちの信仰を守ってくださるのです。礼拝は神の恵みです。神が私たちと共にいてくださることの証がそこにあって、信仰を通して、神は私たちの集る場所に存在してくださるのです。神がそこに来られるのに、私たちがいないなんてことがあるでしょうか。キリストがそこでご自身の身体を差し出しておられるのに、私たちは他所で何をするというのでしょうか。「守らなければいけない」と言わなければならないのは、その礼拝の事実にまだ気が付いていないからでしょう?しかし、それが分かれば、もう言わなくていいのです。

 

聖書に学ぶべきことは、礼拝を通して身体を通して理解されます。また、世界で私たちがとるべき行動は、礼拝において仕える姿勢として、私たちに体験され、理解されます。こうして、聖書で学ぶことと世界でキリストと共に働くことは、礼拝の中で実現されて、私たちはそこで、神の御前にある自分を神から受け取ります。

 

これがそのようなものとして実感されるのには時間がかかるのかもしれません。聖霊の働く時は私たちの側では計れませんから。一人ひとりに固有の時間が定められているのでしょう。けれども、これはキリスト者の人生を形作る骨格です。聖書と愛の業と礼拝と、この三つの間で、私たちは神を知り、人間を知り、神の御前に生きる自分を見出します。

 

おわりに

 

キリスト者の信仰生活の基本線として、三つのことをお話しました。私たちが覚えて取り組むこととしてお話しましたが、これは実際は、神のお働きであることを最後に心に留めてください。私たちの信仰の要は、私たちがどうあるかであるよりも、神が何をなさるかです。私たちが善くあろうとか、清くあろうとか、忍耐しようとか、自分自身に動機をもつと信仰生活はどうしても自己中心となり、結果的に裁きを生みます。自分を責め、隣人を責め、モノを創るよりも破壊してしまいます。ですから、神の働きにいつも心を向けてください。神は、私たちにそれぞれの日常生活を通して、善き業をなそうとしておられます。神の救いの業が私から隣人へ、教会から周囲の町々へ、世界へと広がるのは、私たちを通してです。どんな小さな働きも、隣人への愛にもとづくものならば、それは聖霊の促しによるものです。私たちに必要なのは、人間が留めることができない、その神の働きに自分を委ねることです。それが、世の終わりの創造の完成に続いていきます。皆さんに分け与えられている賜物は、主がお入用なのです。それを豊かに用いて、神の御前で喜んで生きるキリスト者として、これからの選択をなしてください。

 

 最後の最後に、伝道者への招きをさせていただきます。将来への選択は、慌ててする必要もないと思われるかもしれませんが、早くに定まっていれば十分な備えができます。皆さんの年齢で、将来牧師になろうと志すのに早すぎることはありません。これは主の召しによるものですから、主イエスが私を招いておられるとの確信が与えられませんと適わないことなのですが、しかし、その召命を受ける前から準備しておくことは十分可能です。二つの準備が必要です。

 

一つは信仰の問題です。キリストに罪を赦された喜びを実感できるような信仰を求めてください。何となく神さまは生きておられるんだなあということではなく。また、カテキズムを全部覚えている、ということではなく。そして、二つ目は、今為すべき勉強をしっかり修めておいてください。講演の中でも触れましたように、牧師は礼拝を司る働きです。教会の伝道の働きには幅広い活動がありますが、牧師になるためには言葉を用いる基礎的な訓練が不可欠です。口下手であるとか、人付き合いが苦手という性格はあまり問題ではありません。それは、また変わりますから。けれども、長い時間、机に向かってものを書いたり読んだりすることは、今から皆さんが培っておかなくてはならない習慣です。大学まで進む人が多い時代ですから、受験もありますし、そうした必要は既に皆さんもある程度自覚しているのではないかと思います。好き嫌いは別として。ですから、今から勉強を諦めてしまわないで、いろいろなことに興味をもつようにして、将来に備えていてください。

 

勉強が全てではないのは本当です。牧師以外にも伝道の働きはあります。けれども、最初にいいましたように、牧師が不足なのです。皆さんの献身が求められています。どうぞそれを自分のこととして、真剣に考えていただきたいと思います。

 

それから、神戸に来るような機会がありましたら、是非とも神学校を見学に来てください。見るだけでも皆さんの意識が変わると思います。また、もっと具体的に何をして備えたらよいのか、どういう進路をこれから選んだらよいのか、何を学んだらよいのかと、考えることもあろうかと思います。そういう時には、是非相談に来てください。私のところに連絡してくれても構いませんし、皆さんの教会の牧師や、中高生会担当の先生方に尋ねてみてください。お祈りします。

 

天の父なる御神、罪の故に御前に善をなしえない私たちでありますけれども、御子を送って私たちを贖うほどに世を愛され、私たちを子として恵みの中で養ってくださいますことを心から感謝致します。どうか、御前に集いました若い兄弟姉妹たちを、尊い御言葉で養ってくださり、日毎の生活の中であなたの愛に気が付かせてくださり、礼拝の喜びへと招き続けてください。志を高く保って、あなたの導いてくださる未来へ向けて、大胆な選択ができますように。願わくば、宣教の尊い使命を分け与えてくださって、あなたの教会を導く者たちを、ここから送ってくださいますように。一人ひとりをあなたが顧み、主イエスの僕として、進む道を守り、祝福してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。