マタイによる福音書9章1~8節

罪を赦す権威

 

 主イエスが山上の説教を語り終えられた時、人々はその教えに非常に驚いた、と記されていました。それは、主イエスが、人々の教師でありました律法学者たちのように語ったのではなく、権威をもってお教えになったからでした。

世の中には人の道を説く様々な教師たちがいて、それなりに説得力のある教えを説いてくれます。今では書店に行けば、図書館でもインターネットでもいいのですけれども、その中の好きなものを自分で選びだすことができます。主イエスが弟子たちと共に地上を歩まれた時代も同じようでした。ユダヤの人々を取り巻いていたのは、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派など様々な流派に分かれた聖書の教えであり、またギリシア文化に影響された新しい書物も次々に登場しました。それらの何に権威を見出すかは聴く者次第です。権威は必ずしもその言葉を発する者の立場が保証するものではなく、その内容が信頼に足るものと評価されて人々に認められます。そうでないとすれば、何がしかの権力が作用して人々に無理やり権威を押し付けているだけになります。

人々が耳にしたイエスの言葉には、この世の教師たちとは違う響きがあって、イエスの権威が民衆たちの間では感じ取られました。もしこれが、実質のない、形ばかりの権威を帯びた語り口でしたら、イエスはとんだ山師だということになります。今でしたら、上から目線を嫌う若者たちにはまず聴いてもらえないでしょう。或いは時代の英雄を待ち望む人々からは歓迎されるかも知れません。世の中の閉塞感を背景にして、現代でもそういう居丈高な政治家たちが案外もてはやされたりします。しかし、人々が認めたイエスの権威は、世の中の立場が保証するものでも、人々の同意を必要とするものでもありませんでした。それを十分に人々が理解したわけではなかったでしょうが、その言葉の内に感じ取られたのは、天の父なる神が御子イエスにお与えになった特別な権威でした。そして、その実質を証言するものとして、後に癒しの奇跡が続いています。特に百人隊長の僕が癒された出来事では、主イエスの言葉に権威を認めた彼の信仰によって、僕の病が癒されました。イエス・キリストがもっておられるのは、創造者である天の父の権威によって、心の貧しい者を幸いにすることができる力であり、死に服する人間に命を与えることのできる力です。

 今日の9章に先立つ8章では、更に二つの出来事を通して主イエスの権威が明らかにされています。イエスは嵐を静め、人間の生命に脅威をもたらす自然をも支配するお方であることが示されています。また、人間を狂わせ、墓につなぎ止めている悪霊を滅ぼすことで、この世の悪をも制圧なさる方であることが証しされています。病気や災害や悪霊が、死の力をちらつかせて人の命を脅かすこの世にあって、主イエスはそれらのものが、恐れるべき最後のものではないことを、自らの業を通して教えておられます。真に人の命を左右するのは天の神です。ですから、人が本当に恐れるべきは神の裁きであり、その裁きを免れて救いを得るのも神次第です。それについては昔から預言者たちが語っていたのですけれども、言葉だけでは容易に信じようとしない人間の為に、御子イエスが人間として世に来られて、神の権威を顕わされて、その裁きと救いとを実行されました。

 今日の箇所で語られているのは、中風の人の癒しです。先に主イエスに癒していただいた、百人隊長の僕もまた同じ病でした。「中風」とは日本語に置き換えた時の病名ですが、元々は「麻痺」を指しています。身体が麻痺して動けなくなってしまった人です。主イエスによる癒しの記事には、肉体が健康を取り戻したことばかりではなく、魂が癒されたことを表す象徴的な意味が含まれています。それは、旧約の預言者たちの言葉の成就であって、約束された神の救いが実現したことを表しています。見えなかった目が見えるようになるということ、聞こえなかった耳が聞こえるようになること―こうした感覚器官の回復は、魂が癒されて神との関係が回復するようになったことを指します。歩けなかった人が自分の足で立つようになること―これも神がその人を信仰によって立ち上がらせてくださって、神の御前を歩むことができるようになったことを指します。そうしますと、「麻痺」が表すのは神との関係が全く絶たれた状態だといえます。自分から神に近づくことができない状態です。つまり、それが、神の御前にある罪人の本来のあり様です。

 今日のこの出来事は、マルコ福音書の2章とルカ福音書8章でも取り上げられています。そちらでは中風の人の仲間たちがいかに苦労してその人をイエスのもとへ運んだかということが丁寧に書かれています。イエスのおられた家は人が満杯で、彼らは容易に近づくことが出来なかったので、屋根に上って天井をはがしてそこから床ごと吊下ろしたとのことです。仲間たちのそういう熱心さを見ますと、そこからは救いを必要とする仲間の為に骨を折る信仰者の交わりを、主が評価なさっていると言えるかと思います。つまり、教会の伝道の働きです。それを心に留めておくことはよいと思いますが、マタイはそのところを思い切り省略しまして、2節の最初の一行で済ませています。ですから、中風の人は彼を連れて来た仲間たちの一人と見た方がよいのでして、身動きできないでいる床の上の人は、連れ立って一緒に来た仲間たちの魂の状態を表しています。彼ら一同は、イエスなら、このどうにもならない状態を何とかしてくださる、と信じて、その仲間をベッドごと運んで来ました。そうしますと、イエスにまっすぐ救いを求める彼らの信仰を主はお認めになりまして、寝たきりの人は自分で床を担いで家に帰ることができました。「家に帰りなさい」と言われたのは、もう終わったから出て行きなさいということではありませんでして、あなたが本来居るべき生活の場所へと戻りなさいと、送り出していただいたということです。

 さて、今朝の御言葉の焦点は、病の癒しによって罪の赦しが告げられている点にあります。旧約聖書では病が時に神の裁きの手段として用いられます。例えばサムエル記下24章では、ダビデが図らずも神の御旨に背いてしまって罰を受けなくてはならなくなったとき、彼には三つの選択肢の内から一つを選べと言われます。その三つとは、飢饉、疫病、剣つまり戦争でした。この三つは申命記28章に記されている呪いの言葉と対応していて、主なる神と契約を結んだ民が、真の神への信仰を捨てて他の神々と姦淫を犯した時、その三つの災いがあなたがたを滅ぼすと警告されています。病気はそのまま罪を犯したことの証拠とはなりませんけれども、癒されない病は、まさにヨブがそうであったように、その人が何か罪を犯したことの徴ではないかと看做されました。

 今日に至る医学が明らかにしましたように、人が病気になるのは病原菌などの物理的な作用が身体に及ぶからで、しかるべき処置を行えば軽い病なら収まります。ですから今日の私たちは、病気を治したければ病院へ行けばよいわけです。病気ばかりではなく何か不幸が身に起こったときに、すぐに「天罰」だとか、何か自分が悪いことをしたためだとか、決めつけるのには注意が必要です。聖書が私たちに告げる「罪」は病原菌とは異なります。

 むしろ、私たちの命を脅かすような災いに見舞われた時に気づかされるものが私たちの罪です。具体的な罪が原因で災いが降りかかることは、人にも分かる様な因果関係で生じますけれども、例えば先日茨城県で竜巻による大きな被害がありましたが、それがそこに住む方々が特別に何かしたからではないでしょう。人の命の行方については、人の側でどう予想しても仕方がないことで、人それぞれの運命は神が定めておられます。平穏無事に長生きする人もあれば、若い時分に志半ばで取られる命もある。まだ生まれずして母親の胎内で死んでしまう命もある。これは、神が定めておられる人の命のあり様そのものです。ですから、聖書の中でも時々訴えられていますが、悪人でも長生きするということはあるわけです。

 聖書で教えられている救いは、肉体よりも魂に関わる問題です。「体ではなく魂を殺すことのできるお方を恐れなさい」と言われる通り。神がキリストを通して私たちにお与えになる救いは、不幸に遭わないとか、健康でいられるとか、身体の状態や社会生活が安定するというようなことに直接関わるのではなくて、死によって私自身が永劫に失われるという命の行方についての問題に関わります。そして、死んで失われるのが人の魂ではなくして、罪の裁きによって、神から永遠に見捨てられる第二の死が待っている、ということが、私たち人間が救いを必要とする理由です。この人間の根源に関わる魂の問題を真剣に考えないと、聖書の教えはすべて空疎になります。イエスは病を癒された。けれども、わたしの病は癒されない、というような失望が待っているだけになります。

 主イエスが病気の人を癒されたり、悪霊を追い出されたりしたのは、そうした人の苦しみを神が見過ごしにされていないことの証左です。けれども、それらはすべて、より根源的な人間の問題を解決するためのしるしとして現わされたものです。その根源的な問題とは、罪です。罪には、日頃現実に行っている現行罪があります。神の御旨に適う善いこと・正しいことは聖書から知ることが出来ますが、その御旨に反する思いや言葉や振る舞いが、時を選ばす私たちの生活には生じます。その一つひとつを罪だと数えることは出来ますが、さらにその大元には、私たちの魂を捉えている原罪があるわけです。それは、神から切り離された状態、神の御言葉を受け入れることが出来ない麻痺した状態です。悔い改めた信仰者であってもそういう麻痺した部分はどうしても残ります。ですから、誰もが自分の罪のために魂の裁きに直面しています。愛と正義によって真の平和を求めておられる神の前で、それを無視して生きている魂が神の怒りに値することは、洗礼を受ける前に私たちがいつも確認を求められることです。

 そのようなわけで、病気であることが罪であるわけではありません。また、この世で味わう不幸が裁きであるとも限りません。むしろ、それらの災いによって、私たちの罪の所在があきらかになる。生活が無事平穏で、何も問題無く過ごしている間は、罪のことなど考えないものかも知れません。死んだら自分がどうなるか、ということもおそらく真剣には考える間もないのだと思います。けれども、何か不幸が起こったとき、自分の命のことが突然重大事になります。自分ばかりではなくて、周囲の関係者にそういうことが起こる場合もあります。前の教会におりましたときに、小学校に通う子どもの友達が交通事故で亡くなって、その御両親の嘆き様があまりに酷かったので、自分の子どもがもし同じような目にあったら自分はどうなるだろう、と真剣に考えて教会に来られた家族がありました。しばらく教会へ通われて家族5人揃って洗礼を受けられましたけれども、それまでの期間、最初に来られた時から殆ど休むことなく礼拝に出席されて信仰生活を送られました。動機が真剣だったからだと思います。親御さんにしてみれば、お子さんの死という問題に正面から向き合わざるを得なくなった。そこで、聖書の言葉を真剣に聞くようになった。罪ということも、そういう処で捉えて行かないとなかなか分からないと思います。

 イエス・キリストは、神がそういう罪に囚われた人間を御覧になっていて、憐れんでくださって送られた、救いそのものです。神は御子イエスによって、人の罪を赦すことにされました。罪人に対する神の憐れみは聖書の初めから記されていて、それが神の永遠の御旨なのですけれども、その具体的な方法はイエス・キリストが来られたことで誰もが知ることのできるようになりました。イエス・キリストが十字架にかかって死ぬという方法です。罪のないお方が罪人として裁かれて、神に見捨てられて死ぬのです。ですから、このお方には罪を赦す権威があります。権威という言葉に含まれる上からの力というニュアンスは見逃せませんが、権限でも権利でもいいと思います。最終的には責任を取ることができない人の権限で「赦す」などと口にするのではなく、誰もが口をはさむことが許されない神の権限でもって、御自分の命と引き換えに、人の罪を赦されます。ですから、主イエスによる赦しは絶対です。その赦しを信じて受け取る者は、神の御前に赦された人間です。それは、単に神に造られた被造物には終わらず、主イエスと同じように神の子どもとして、父である神に愛され、養われる命を回復していただけます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」―この親しい呼びかけは、まさに父なる神御自身の言葉です。

 さて、問題は、この罪の赦しが人の側で受け入れられるかどうかです。罪による人間の麻痺した状態は、まさにこの点で明らかになります。この出来事を見ていた律法学者は心の内で「イエスは神を冒瀆した」と思いました。罪を赦す権限をもっておられるのは天の神より他はありません。それをイエスが横取りしたように受け取ったわけです。彼は主イエスが中風の人に告げた言葉づかいを敏感に察知しています。そして、人間には罪を赦す権威はないことを正しく知っています。通常、犯した罪に対しては、それに相応しい犠牲のささげものを携えて神殿に上れば、祭司によって赦しが与えられるはずでした。しかし、そうした所定の手続きをも越えて、勝手に赦しを与えてしまうようなイエスの言葉は横暴に聞こえたことでしょう。ましてや、イエスをただの人間としてしか見ていない律法学者にとって、イエスの言葉が冒涜的に聞こえたとしても不思議はありません。

けれども、イエスは既に民衆の間で数々の癒しの奇跡を行っていました。また、山上の説教を通して、旧約聖書に記された神の御旨を大胆かつ明快にお示しになりました。真に自らを貧しい罪人と認めて、神の救いを求めていたならば、イエスに近づいた群衆と共に、そこに神の御子を見ることができたかも知れません。しかし、彼は民衆の上に立つ教師であり、御言葉の管理者として自らの権威を自負していたに違いありませんから、イエスの上に成就している神の言葉に目が開かれることがありませんでした。イエスの権威は、彼の目の前で、中風の人の癒しとして証されました。ですがそうしたことも、彼にとっては目を覚ますきっかけにはなりません。主イエスによる罪の赦しは、罪の裁きにし真剣に悩む中で、救いを求めている人々でなければ受け入れることができません。そうでなくては、自分と同じ人間として来られたイエス御自身に躓いてしまいます。これは、当時のユダヤ人ばかりの問題ではなく、今日の私たちの間でもそうです。イエスを神の子と信じる信仰無くしては、罪の赦しは私たちのところに届きません。権威ある者としてお語りになるイエスの言葉は、この世の中に信仰と不信仰の分裂を呼び起こします。

 救いを求めてイエスの周りに集った人々は、今回の癒しの奇跡に驚いて、「恐ろしくなった」とあります。神の御業に触れた時の人の反応です。そこには信仰の芽生えがあります。先のガダラでの出来事では、多くの豚が崖からなだれ落ちて死んだのを目撃した人々が同じように恐れたのですが、それは真の悔い改めに結びつく恐れではなく、今の自分の生活が脅かされるを恐れたためだ、ということをみました。異邦人であるガダラ人たちには、罪の問題はそれ程深刻には受け止められていなかったということです。けれども、旧約聖書の預言者たちの言葉から神の裁きについて学んでいて、今自分が置かれている辛い境遇に、赦しと癒しとが必要と願っているユダヤの人々の間では、恐れが賛美に繋がりました。「群衆」とは、イスラエルの民を指すことを前にも見て参りましたけれども、この出来事に触れた群衆は、真に力のあるイエスの権威に驚いて、神を賛美しました。彼らが見たのは、自分たちの上にも及ぶ、罪の赦しであったからです。

 その8節に記されている言葉遣いには注意が必要です。「人間にこれ程の権威を委ねられた」とありますが、この「人間」という言葉づかいは複数形です。「人々に委ねられた」と読むべきところです。神は人となられた御子イエスに罪を赦す権威を授けられ、それを使徒たちを通じて教会に委託されたことの含意をここに読みとることができます。カルヴァンはそれを注意深く、教会に託された使命は罪の赦しを証言することで、罪を赦す権威は飽くまでもキリスト御自身にある、と区別します。それは、キリストの主権に対する真の信仰無くして、教会が制度として罪の赦しを与えることができると錯覚することが無いようにとの配慮によるものでしょう。中世の教会はそのように罪の赦しを制度として考えて、いわゆる「免罪符」の発行にまで及びました。それは、罪の赦しが何らかの功徳によってもたらされる、例えば、新しい教会堂を建設するために献金をする、というようなことで罪が赦される、という考え方です。キリストは御自身の主権をもって、救いを求める者には誰にでもその信仰に答えて赦しを与えてくださいます。もはや、ユダヤ教の律法に定められた神殿での所定の諸式も必要ありませんし、何らかの功績が前提になることもありません。求められるのは、律法学者のようにイエスを一介の知恵の教師と看做して、神の子として主がもっておられる権限を軽んじることなく、罪に対する裁きに服した自分が、本当に救っていただきたい、神の御前で自由に生きることができるようにしていただきたい、と願って、何としてでもその言葉をいただきたいと主イエスに近づいてゆく一途な信仰です。それさえあれば、神に対して麻痺したような魂であっても、主の憐れみによって、確かに救っていただけます。罪を赦していただけます。そのことを教会は、洗礼という礼典を通して、真の悔い改めを告白した兄弟姉妹に対して、証しすることができます。本来ならば天の神のみが知る罪の赦しが、教会に見える形で備えられているのは驚くべきことです。そして、それを私たちも信仰をもって受け止めることが大切です。

主イエスの言葉に信頼して、罪の赦しを信じる私たちは、もう、死んで滅びる自分の運命に怯えなくてよいようにされています。主イエスの御言葉をよすがとして、神から来る善いものを人生の内に期待して、そうして神のもとに帰ることができます。そういう赦された命を地上の生涯を終えた後、私たちには主イエスと同じ復活の体が約束されていて、私たちの生涯はそこで本当に完成します。

現実の生活においては、病は取り去られないかも知れません。災いが私の生活のすべてを奪う危険が無いとも限りません。事故や病気で歳若くしてこの世を去らねばならないかもしれません。けれども、神はそういう私たちの罪を許していてくださって、そういう私たちを子として愛していてくださって、私の魂、私の存在をそれだけで評価してくださっています。欲に突き動かされますと辛い思いも募りますが、何もなくとも神はキリストとわたしを一つに結んでいてくださって、しかも同じくキリストに結ばれた兄弟姉妹をわたしの周りに与えていてくださって、そういう交わりの中でこの世での命を全うさせてくださいますから、慰めがあります。希望があります。そして、善いものをこの地上の生涯の中に生みだすための力ある御言葉を、主は私たちの近くに備えていてくださいます。

 神の御前で人を真に赦すことがおできになるのは主イエス・キリストです。人は人を赦すことができないかも知れません。負わされた傷がその間柄の内に生涯残ってしまうかも知れません。けれども、神は人を赦して下さいます。そのために御子を送ってくださる程、神の赦す心は広く大きいのです。私たちのために十字架にかかってくださった主イエスに感謝して、今赦されている恵みを確かに受け止めて、御言葉が導いてくださる方向に、また今日から歩み始めたいと思います。

 

祈り

天の父なる御神、あなたが御子に与えておられる権威は、今や天にあって全世界を覆っています。私たちの罪を赦し、聖霊によって世界を滅びから守られようとするあなたの御旨が、私たちの信仰を通して世に現わされますように。罪の赦しを日毎に受け取って、あなたの子として、善き御旨を自由に大胆に行わせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。