ヨシュア記20章1ー9節「逃れの町」

 

逃れの町の設置

 イスラエル12部族への土地の分割がなされた後で、部族の境界線には依らない特別な町の指定がなされます。この20章では「逃れの町」が設定され、続く21章では領地を持たないレビ人の町が指定されます。

 「逃れの町」に関する規定は、2節に「モーセを通して告げておいた」とありますように、律法の中に含まれています。出エジプト記21章、民数記35章、申命記4章と19章が「逃れの町」の取り決めをしています。それらによりますと、神はヨルダン川を挟む東西の領域に、それぞれ3つずつの町を選んで指定しています。西岸の地域では、ケデシュ、シケム、ヘブロンと北から南に並びます。東岸の地域では、ベツェル、ラモト、ゴランと、今度は南から北へ並びます。合わせて6つの町が「逃れの町」に指定されました。

血の復讐

 「逃れの町」とは、3節で説明されている通り、「血の復讐」を逃れるための町です。「血の復讐」は古代オリエント社会に共通する古い掟ですが、旧約聖書の中でも認められています。創世記9章5以下に記されているのがその原則です。神は洪水を生き延びたノアとその家族に対して次のように語っています。

 あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。

人間の生命の尊厳を最大限に訴える、聖書の大原則がここにあります。「目には目を、歯には歯を」という同害法は一般によく知られていますが、それはつまるところ「命には命を」ということでして、何人も人の命を奪ってはならない、命の代償は命をもって償うべし、との厳格な掟です。

 「血の復讐」はまた、「血族の復讐」でもありまして、通常は殺された者の家族に復讐が許可されます。いわゆる「仇討ち」ですけれども、それによって流された血の贖いが果たされて、共同体の汚れが清められることになります。「復讐」と訳されていますが、原語では「血の贖い」です。逃れの町がレビ人の町であったり、大祭司が絡んで来たりするのは、そこにも宗教的な意味合いがあることを示しています。

 親族を殺された者の恨みは、その理由如何に関わらず復讐を求めるかも知れませんが、聖書は意図的な殺人と過失によるそれとを分けます。故意の殺人には酌量の余地なく血の復讐が実行されます。家族にその意志がないとしても、共同体には殺人者の命をもって贖うことが求められます。しかし、過失によって血が流された場合には、死罪は適用されません。例えば、民数記の規定によれば「人を殺せるほどの石を、よく見もせずに人の上に落とすかして、人を死なせてしまった場合」、あるいは申命記では「隣人と柴刈りに森の中に入り、木を切ろうとして斧を手にして振り上げたとき、柄から斧の頭が抜けてその隣人に当たり、死なせたような場合」は、殺される理由はないとされます。

 そのように過失致死による罪は死刑を免れて、「逃れの町」で身柄を拘束されることになります。血の復讐がそうした人に及んで、また新たな血が流されないように匿うための処置です。

 「逃れの町」の規定は、イスラエルにあっては捕囚前まで効力があったろうと言われますが、ここから教えられることは、イスラエルの嗣業の土地では罪の無いものの血を流してはならない、ということです。流血は神の土地を汚します。民数記35章33節以下にはこうあります。

 あなたたちは、自分のいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができない。あなたたちの住む土地、わたしがそこに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしがイスラエルの人々のただ中に宿っているからである。(33—34節)

復讐が復讐を呼んで無制限に血が流される事態を避けねばならないと人は考えますが、イスラエルは嗣業の土地を受け継ぐ心得として、ここにある神の御旨を覚えておくようにされました。

主を逃れ場とする

 6つの逃れの町は、イスラエルの東西南北どこからでも駆け込めるような場所に上手く案配されて設置されています。おそらく、そこにはレビ人が奉仕する聖所が置かれていただろうと思われます。出エジプト記21章では、「逃れの町」という言葉は出て来ませんが、14節には「人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる」とあるところから、もともと祭壇の置かれた聖所には「逃れ場」としての機能があった様子です。例えば列王記にはそのような例が二つばかり見出されます。列王記上1章50節では、王位の簒奪を計ったアドニヤがソロモンの復讐を逃れて「祭壇の角をつかんだ」とありまして、2章28節によればアドニヤに与した将軍ヨアブが同じように「祭壇の角をつかんで」追っ手から逃れようとしています。そうしますと、「逃れの町」はまさに罪を犯した者が赦しを求めて「主のもとに」逃れてゆく場ということになります。

 主のもとに逃れる、とは詩編にもよく現れるイスラエルの信仰の表明です。例えば、詩編37編にはこう歌われています。

 主に従う人の救いは主のもとから来る/災いがふりかかるとき/砦となってくださる方のもとから。主は彼を助け、逃れさせてくださる/主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。(39-40

ダビデの生涯と重ねれば、サウルや息子のアブサロムの手からあちらこちらへと落ち延びて行った逃避行のときに、主が身を隠す場所をいつも用意してくださったことなどが思い起こされます。しかし、イスラエルの嗣業を思い起こせば、そこに「逃れの町」が備えられて、罪のない者の血が無闇に流されることのないように、神が守ってくださることの証しが常にありました。

永遠の大祭司

 逃れの町に身を寄せた人は、過失ではあっても人を殺めてしまったのですから、その償いを何らかの形でしなくてはなりません。故意に起こした犯罪ではないことが認められれば復讐はもはや禁じられますけれども、償いを果たすためには町に留まらなくてはなりませんでした。しかし、逃れた者が拘束される期間は限定されます。その時の大祭司が死ぬまでと定められています。ですから、逃れの町に身を置いてから三日後に大祭司が死んだということになりますと、彼はそれで償いを果たしたことになり、自分の町へ帰ることができます。何故、大祭司が死んだときなのか、ということには説明がありません。おそらく、それは大祭司の務めが、民の罪の贖いをすることであったことと関わるのだと思います。レビ記に定められたヨベルの年が、50年目の奴隷の解放をもたらしたように、大祭司の死は民の罪と汚れを贖うものと認められ、服役している者たちに特赦を与える機会とされたのではないかと思います。イスラエルの中にあって流された血は、大祭司の命と引き換えに償われ、清められたと認められたのでしょう。

 こうしたイスラエルの信仰を背景にして、ヘブライ書ではキリストの祭司の務めが私たちの救いとして告げられています。

 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。(5章1節)

と、その職務が紹介された後、手紙は次のように述べています。

 この方(イエス・キリスト)は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。

主イエス・キリストは、御自分の民のために、ご自身をただ一回で果たされる犠牲としてささげられて、罪の贖いを成し遂げてくださいました。その贖いによって許されない罪はありません。すべての罪人たちは主イエスの十字架を逃れ場としてその下に集い、大祭司イエスの贖いによって「血の復讐」から解放されます。

主の復讐

 イスラエルに与えられた嗣業の土地では、神の義が保たれなければなりませんでした。そのため、殺人という最高度の犯罪については血の復讐が許可され、それによって土地と共同体の贖いが計られました。人の情けに訴えての取り決めではなくして、これは罪に対しては神が報いる、という神の義の表明です。ですから、人が情に駆られて、怒りと恨みを抱いて、仇の血を流すことを、無制限に神が許可しているわけではありません。人間は放っておくと際限なく復讐に走る、ということは創世記4章24節で「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と言い放った「レメクの歌」に表明されています。パレスチナとイスラエルの戦闘が悪化していますけれども、イスラエルの少年3人が誘拐され殺害された事件をきっかけにして今やミサイルの応酬となりまして、イスラエル側の無差別爆撃でガザ地区の住民が90名以上命を失っています。イスラエルの市民は必ずしもそのような報復攻撃を願ってはいないようですが、「レメク」が指導者になりますと手がつけられなくなります。

 レビ記19章18節は有名な聖句で、こう告げています。

  復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

ダビデが仲間のために食物を調達しようとして、カルメルのナバルの下に使者を送った時、ナバルはダビデを「逃げ出した奴隷」と罵って、何も与えようとしませんでした。その屈辱に報復するためにダビデは兵を送ろうとしましたが、ナバルの妻アビガイルは夫を執り成してダビデを思いとどまらせ、怒りを収めました。そのときダビデは賢明な女性アビガイルをたたえてこう言いました。

 イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。(25章32−33節)

そもそも復讐は神に背いて罪なき人の血を流す者に対して神がなさることです。イスラエルに悪をもたらしたアハブ王の家に対して、主は預言者を通じて次のように告げました。

 わたしはイゼベルの手にかかったわたしの僕たち、預言者たちの血、すべての主の僕たちの血の復讐をする。(列王下9章7節)

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(ローマ12章19節)とパウロも復讐心に囚われないように教会に勧めています。社会秩序を保つために殺人罪は法によって裁かれますが、それによってすべての人の復讐心が収まる程、人間の裁きは完全ではありません。しかし、すべてをご覧になっている神の裁きは完全ですから、罪のない人の血を流す罪に対しては必ず正義の裁きが下されます。

 キリストの教会は、未だに流血の罪から逃れられないこの地上に建てられた、逃れの町です。ここに逃れて、罪の赦しを乞うならば、主の報復は十字架の故に取り去られます。流血の汚れから私たちが清められるのは、悔い改めによる他はありません。私たちひとり一人ばかりでなく、この世界が神に立ち返って生き延びてゆくために、主の十字架の立つこの教会へとすべての人々を招いていることを覚えたいと思います。

祈り

 

 イスラエルの民の間に逃れの町を備え、あなたのもとにある赦しと清めとを示しておられました天の父なる御神、罪なき者の血を流し続けるこの世の罪に対して、あなたご自身が血の復讐をなさるならば、この世界は滅びる他はありません。どうか、主の贖いが示された教会を逃れ場として、人々があなたの赦しを受け、あなたの義に立ち返ることができますように、憐れんでください。世界で今も失われゆく小さな命をどうかお救いください。