ヨシュア記12章1ー24節「平和への展望」

 

戦争の集結

 ヨシュアにあるカナン征服の完了が11章23節で告げられていました。

  ヨシュアはこうして、この地方全域を獲得し、すべて主がモーセに仰せになったとおりになった。ヨシュアは、それをイスラエルに各部族の配分に従って嗣業の土地として与えた。この地方の戦いは、こうして終わった。

イスラエルの父祖たちに対する、土地を与えるとの約束がこのようにして果たされて、御自身が選んだ民と約束を裏切ることのない神の忠実さが証しされます。ヨシュア記の記述では、イスラエルの戦いは一息に進められたように読まれますけれども、11章18節では、ヨシュアとカナンの王たちとの戦いは長い年月に亘って行われたもので、その苦労の果てにようやく平和が訪れたことが知らされます。

 イスラエルはそもそも安住の土地をもたない民でした。出エジプト以来、厳しい荒れ野の中を、主なる神に従うことができるかどうかを試されて、旅を続けました。そのような中で人々は度々神に不平を言い、ファラオの支配を懐かしむこともありましたけれども、主の僕モーセに励まされて、「乳と蜜の流れる地」を目指しました。荒れ野を旅するイスラエルは、この地上で罪への様々な誘惑に晒されながら人生を歩む私たちの見本です。この世で生きる人間に神は安住の地を約束しておられて、聖書の言葉によって導いておられます。目的地に達するために私たちに必要なのは信仰です。神の約束を信じて、ひたむきに聖書の言葉を頼りに生きて行く私たちと共にあって、神は人間の罪と戦ってくださいます。そして最後には、神の手によって真の平和が訪れます。

 モーセの律法に忠実であったヨシュアのもとでの土地征服はここで一先ず完了して、イスラエルには安住の土地が与えられ、各部族に所有地が分け与えられます。これは、後のイスラエルがいつも心に留めておくべきモデルです。ヨシュアによる土地征服の完了は、神が御言葉をもって人の罪と戦い、神の国の平和をお与えになるとのメッセージを、世の終わりに至るまで発信し続けます。

征服された土地

 12章はイスラエルが征服したカナンの地図を正確に描こうとして11章を補完します。聖書の巻末にある地図(新共同訳2、3)を見ていただくと分かりやすいと思います。まず、1節から6節では、ヨルダン川の東側に獲得された地域が示されます。これはルベン、ガド、マナセの半部族に配分される地域で、すでにモーセの時代に闘い取られています。その戦いの詳細は、民数記21章21節以下や申命記2章24節以下に記されている通りです。その地域はヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが治めるアモリ人の国でした。モーセは神の言葉に従って、イスラエルの進軍を阻む二人の王を打ち破り、町々を滅ぼし尽くして、すべての土地を占領しました。

 4節に、バシャンの王オグはレファイムの生き残りと言われていますが、「レファイム」とはカナンの先住民で巨人であった伝説の部族です。申命記3章11節にはこうあります。

 バシャンの王オグは、レファイム人の唯一の生き残りであった。彼の棺は鉄で作られており、アンモンの人々のラバに保存されているが、基準のアンマで長さ九アンマ、幅四アンマもあった。

「アンマ」とは旧約の尺度で、肘から中指の先までの長さですから、45センチから50センチになります。そうしますと、オグの鉄の棺(あるいは長椅子)は長さ4.5メートル、幅2メートルの巨大なものです。

 ヨルダン川を境にして東側の地域は、こうして主の僕モーセの時代にイスラエルに獲得されました。「主の僕モーセが与えた」と6節に明記されているのは、それが神の律法による嗣業の割当だということを強調するためでしょう。

 ヨルダン川西岸の地域は、このヨシュア記が記して来た通り、ヨルダン川を渡ってカナンの地に侵入したヨシュア率いるイスラエルの民によって征服されました。北の境は「レバノンの谷にあるバアル・ガド」とありますが、皆さんの地図で見れば「ダン」とある点の北側にある点線の上辺りです。ヘルモン山の麓です。そして、南の境は「セイル途上にあるハラク山に至る地域」とありますが、これは丁度地図の一番下の線あたり、死海の南にもっと下っていく方面です。8節は、その領域の地形的な説明と民族の分布を典型的な表現で表わしています。「山地」から「ネゲブ」まではそれぞれ特定の地域を指すものでもありますが、少し補っておきますと、「シェフェラ」とは平野のこと、「アラバ」とはヨルダン川に沿った渓谷のこと、「傾斜地」は山の裾野、「ネゲブ」は南部の沙漠地帯です。パレスチナの地形は、中東だからといって沙漠ばかりではありませんし、農業に適した平野部や牧畜に適した山地もあります。四国ほどの面積の内に、山あり谷あり平野ありの豊かな自然が広がります。地中海沿岸特有の乾燥した地域ではありますが、冬には山地で雪も降りますし、現代ではヘルモン山でスキーも楽しめます。

 そこに繰り返し組で登場する6つの民の名前があがります。これに「ギルガシ人」を加えると「7つの民」で典型となりますが、大抵は6つの民です。彼らは歴史から姿を消してしまった民族です。中には他の民族に同化して生き延びた者たちもあったでしょうが、固有の民族としてはもはや名を残していません。イスラエルが彼らを滅ぼしたと、神がそれを命じられたと聖書は書き記すのですが、それを受けとめる私たちは、神の裁きの厳粛さの前に置かれます。先日、ある家庭集会で神の選びについて語り合う機会がありました。そして、多くの兄弟姉妹たちが神の普遍的な愛の中で落ち着いてしまっていて、選びの厳粛さについては考えたことが無いようでした。神は愛の神に違いありません。しかし、神が創造された世界そのものを憐れんで注いでくださる恵みで、魂が救われるわけではありません。罪に対する裁きは厳然としていて、そこから悔い改めることのない魂に救いはありません。もしも、悔い改めなくても神に愛されているのでしたら、この世でいい思いをした人が最後まで勝つという人生観が成り立ちます。神の救いは、この世界の不正義の中で苦しむ人間の魂が、神にあって救われて守られることを意味します。聖書は単なる気安めの福音を語ってはくれません。日本人がこのまま人類の歴史に残るのかどうかということも神の裁きの前で問われる、ということを日本の教会がどれだけ意識していることでしょうか。

征服された王たち

 9節以下で、征服されたカナンの王たちの名がリストアップされています。全部で31人と数えられます。その数に特別な意味があるとは思われませんが、詳細をきちんと数え上げて完了したことを確認するのは祭司的な細やかさなのかも知れません。この中にはヨシュア記の中で実際に登場した町の王たちもあります。筆頭にあげられるエリコ、ベテル、アイはヨシュアが最初に聖絶を行った都でした。また、ここにはこのリストの中だけで知られる町もあります。13節の「ゲデル」などがそうです。全体としてはヨシュア記が記して来た通り、南部から北部の地域へと一つ一つの町が挙げられます。23節にある「ガリラヤのゴイム」が最も北にある地域として挙げられますが、新改訳聖書ではここは「ギルガルのゴイム」となっています。「ギルガル」という地域は何カ所もあって、ヨシュア記ではイスラエルが陣営をはったヨルダン川沿岸にも同じ名前の町がありましたが、そこはエリコに近い南部に当たります。そこでこの部分のギリシア語訳を見ますと、「ギルガル」ではなく「ガリラヤ」になっています。「ガリラヤ」はヘブライ語では「ガリル」となりますので、発音が似ていますから、これはギリシア語訳の方がオリジナルであろうと判断して、新共同訳では口語訳と同様に「ガリラヤ」という読み方を選択したのだろうと思います。また「ゴイム」というのも町ではなく、ガリラヤ湖の西側の丘陵地帯を指します。「ゴイム」はまた、ヘブライ語では「異邦人」という意味もあります。「異邦人のガリラヤ」と言うユダヤ人の伝統的な言い回しの古さを思わせます。

 これは地名のリストというよりも、王のリストです。その名が挙げられていないことは、彼ら個人に関心があるのではなく、その町の統治に関心があるからだろうと思われます。つまり、異邦人たちの王による支配がこうして終わりを告げ、主なる神による統治がこの地方に始まることをこれは意味します。イスラエルは約束の地に導かれて、真の意味でこの世の支配から解放された、神の支配のもとでの国づくりに生きる命が与えられた、ということです。

神の国への展望

 イスラエルを取り巻く国々の王が、イスラエルの王の支配に跪くというビジョンが、最大限に実現するのは、ソロモン王の時代です。列王記上5章には次のように記されています。

 ソロモンは、ユーフラテス川からペリシテ人の地方、更にエジプトとの国境に至るまで、すべての国を支配した。国々はソロモンの在世中、貢ぎ物を納めて彼に服従した。(1節).ソロモンはティフサからガザに至るユーフラテス西方の全域とユーフラテス西方の王侯をすべて支配下に置き、国境はどこを見回しても平和であった。ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。(4−5節)

ソロモンの時代に実現したと聖書が記すのはヨルダン川ではなく、ユーフラテス川西方の全域に及ぶ帝国と呼べる程の広がりをもちます。そして、その支配のもとで国々は平和に暮らし、「ダンからベエルシェバまで」のイスラエル全国の国民は豊かで平穏な暮らしをした、とあります。ヨシュアによるカナン征服は、そうした神の支配によって実現される平和をイスラエルを中心に描くものです。そこに「イスラエル中心」という民族主義があり、それがここに描かれる平和像に陰りをもたらすであろうことも十分予想されます。実にその民族主義が人間中心に展開されるとき、イスラエルの政治も社会も泥沼化して国家が滅びに至ることは、この後の「歴史書」が記す通りです。しかし、私たちはここに一つの幻を与えられます。それは、罪ある人間の支配の目論見が打ち砕かれて、神の裁きに服した統治がこの世の中に現れたとき、この世界に平和が造り出されるとのヴィジョンです。イスラエルは自身の長い歴史を通してそれを経験してゆきます。偶像崇拝によって己のしたいように振る舞った王たちが神の裁きによって打ち砕かれて、心からの悔い改めをもって神に立ち返るという経験を通して、神の支配、特に御言葉による支配の尊さに目覚めさせられます。そして、その支配を実現するメシアを待ち望んで、イエス・キリストの時に臨んだのでした。キリストの十字架によって、地上のすべての王の上に、神の裁きが臨んだ今、真の支配はイエス・キリストのもとで完了します。キリストによる支配は、霊による支配として、信じる者たちの上に実現します。未だ力による支配に頼るこの世界に、神の支配がキリストへの信仰を通して、神の国を生み出します。罪からの救いを願うすべての人々が待ち望んでいる平和は、キリストへの信仰にかかっています。私たちは聖書にあるヨシュアとイスラエルの姿のうちに、歴史に表わされる人間の定めの厳しさを見て取りますけれども、同時にそこに希望も示されています。私たちは御言葉の宣教によって神が戦われる戦いを知らされて、そのために召されたイスラエルです。神がキリストにあって生み出してくださる平和を信じて、召されたところにしたがって、福音の証しに生かされたいと願います。

祈り

天の真の御神、あなただけがこの世界に造り出すことのできる平和を、どうか私たちの生きるこの時代にも見させてください。あなたの裁きを畏れず、己の貧しい知恵と計算によって、見せかけの平和で装おうとする指導者たちに、御旨に適った正しい道をお示しください。キリストの十字架に示された、恵みによって実現する平和と愛とをあなたの御旨の内に固く信じて、私たちにも相応しい選択をなさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。