詩編119編1-16節「御言葉は私たちと共に」

 

はじめに

 神戸改革派神学校の夏期信徒講座が、こうして東京で行われるようになりましたことを感謝しています。かつては神戸の神学校に泊まって夕べのコンサートや交わりなどもありましたが、こうして東京で開催されることでより多くの兄弟姉妹に学びの機会が備えられましたのは私たちの教会に相応しいことではないかと思います。また、今回は神学研修所との協賛でこれを行います。教職養成の大会的な働きは神戸改革派神学校が担っておられますが、研修所もそれを幾らか補いつつ、教師相互のまた会員の兄弟姉妹も交えた形での神学的研鑽を積むために今日まで用いられています。日本キリスト改革派教会がいつでも時代に相応しく主の務めに就くことができるように、私たちが力を合わせて神学の研鑽を続けることにも熱心でありたいと願っています。

今回は袴田康裕先生から、先生が専門になさっている『ウェストミンスター信仰告白』の学びを共に致します。ちょうど大会の憲法委員会でもウェストミンスター信条の教会公認訳の作成を進めているところで、先日の大会では小教理問答が承認されましたから、次は信仰告白の検討に入る段階です。そのことも含めて袴田先生がお話くださると思いますが、これによって、日本キリスト改革派教会が、より聖書の御言葉に忠実に歩む道が備えられると期待しています。立派な信条があれば聖書は要らないのではなく、立派な信条が確かであるからこそ、聖書の御言葉にも熱心であれると信じるのが私たちの教会の信仰であるはずです。講演に先立って、この礼拝では、詩編の御言葉から神の言葉への熱心について聞きたいと願っています。

アレフベート歌

 『詩編』は古代イスラエルの信仰を歌う共同体の讃美歌であり祈祷書です。そこから今日の教会が受ける益は計り知れません。もちろん、それが聖書の一部なのですから、『詩編』の御言葉を通じて私たちは神の真実に導かれます。特に『詩編』に親しむことで、私たちは新約聖書に啓示されたイエス・キリストのことを深く知ることができます。

119編の主題ははっきりしていて、御言葉に従って歩む信仰の道を、嘆願の祈りや感謝・告白の詞にのせて歌います。本編は1編と併せて「知恵の詩編」に分類されますが、『詩編』の古い編集段階では元々119編で閉じられたとも考えられます。つまり、最初の1編では「いかに幸いなるかな」と主の教えに従う道の幸いが歌われ、『詩編』全体を歌う生活に会衆を誘う導入部を果たしているわけですが、終わりの119編は再び最初の主題に立ち戻りながら、主の御言葉への情熱を歌い込むことで道の完成を目指します。

キリストによる突破

 この詩が全体として見たところ「嘆願の祈り」の形式を保っていることは、同時に民が常に未だ完成されない信仰の途上にあることを示しています。主の道は御言葉の啓示によって開通したのですが、信仰者は人生の道中にあって主の支えを必要とします。呼びかけられている「幸い」は、祈りつつ、支えられながら、なおもその道の上に留まる人々の上に実現します。この幸せをもたらすのは、開かれた道の上を明るく照らしている御言葉の光です。御言葉には何が神の義に適い、何が滅びに至るかが明瞭に示されています。したがって、この道を行くためのただ一つの条件は、その道が開かれたことの喜びを知ることです。

わたしはあなたの掟を楽しみとし/御言葉を決して忘れません。(16節)

脅かされて強いられてではなく、赦されて喜んで従う神の道。デートリッヒ・ボンヘッファーは、これを「律法への解放」と表現しました。完全な律法は罪人である私たちには、断罪をもたらす越え難い障壁と映ります。しかし、イエス・キリストが十字架にかかり、律法のくびきを破壊されたことによってこの壁は突破され、われわれはすでに赦しを得て、完成を祈りながらこの道を行くことができるようになりました。私たちが、この「突破」を信仰によって経験するならば、119編の長い詞は、間違いなく「われらの信仰告白」として私たちの唇に上るものとなります。

アレフ

 今述べたように、詩の冒頭は主の道に歩む人の幸せを歌います。『マタイによる福音書』にある山上の説教で主イエスが人々に語った「幸い」がこれに続いています。『詩編』が歌う幸いは、モーセの律法に忠実に従う生活をする中で、神の義しさに生かされていると実感するところの幸いです。他方、主イエスが告げる幸いは、神の掟に躓きながらも、その罪のゆえに心に貧しさを覚えて救いを求める人の幸いです。それが幸いなのは、その罪を知り、救いの必要を知る人々こそ、心を開いてキリストの救いを受け入れることができるからです。私たちは、モーセと主イエスの、あるいは旧約と新約のこの二つの違いを、全く別のものと考える必要はありません。旧約の掟はすべて正しく神の言葉です。しかし、主イエスはそれが実際に私たちの信仰によって生きられるものとなるように、自ら執り成しをして、私たちに適用してくださいます。私たちはキリストの恵みによって聖霊を受けます。そして聖霊を受けたとき、私たちは自分の義によってではなく、主イエスの義によって、ここに歌われた信仰をもって積極的に主の道を進むことができます。

 『詩編』の最初に置かれた1編では、主の教えを愛し、神に従う人は、流れのほとりに植えられた木のように健やかで生き生きとしていると歌われます。その幸いを知る信仰者は、そうして神の言葉に生活の確かな指針を得ています。それが自分で為し得るとの自負心がその人を支えているわけではないことは、119編の祈りからわかります。「わたしの道が確かになるように」「どうぞ、お見捨てにならないでください」と祈りつつの歩みです。御言葉によって私の人生が健やかに豊かになるかどうかは、神の憐れみにかかっています。

ベト

  どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。(9節)

一人の人間として自立する過程において、人は人生の指針をどこから得るのか。親から教わったこと、様々な書物から学んだことなどを基にして、若者は社会で出会う人々や物事を通して人生経験を積んでゆきます。しかし、そうして蓄えた知識や経験が必ずしも自分を助ける手立てにならないこともまた、困難に直面して知るようになります。私たちの国では将来に希望がもてない中高生が多いと言われますが、大人たちの混乱した振る舞いが、彼らから信じるべきものを奪ってしまっているのかも知れません。

 聖書の教えは明瞭です。「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきか」。つまり、幸いな人生に向けて、私はどこから歩みを始めたらよいのか。その答えは、「あなたの御言葉どおりに道を保つことです」。それが、神がイスラエル民族を通して教えられた、救いに至る人の道です。また、その真実を、長い歴史を通して、イスラエルの人々は確かめて来たのでした。若者はその教えを目上の人たちから受けてきたのに違いないと思います。もらったものですから、始めから確信などはないはずです。しかし、まず、そこから始める。聖書の御言葉がある。その教えに触れながら幸いを尋ね求めて行けば良い。

 神がイスラエルに聖書をお与えになったのは、この世に生きるすべての人々が、真の幸いを得るためです。それは他の何にも代え難い、私たちの命のための宝物です。そのことを若い人たちにこそ知ってほしいと、この詩が訴えるところには、私たちも共感することができるのではないでしょうか。教会でよく聞くのは、もっと早くキリスト教に出会えていればよかった、との高齢になってから洗礼を受けた方々の感想です。人それぞれに時がありますから、それがいつであってもキリストに出会えたことが祝福ですとお話しするのですが、若い時に聖書を学んでいればとは率直な思いでしょう。そこに青少年に対する私たちの伝道・教育の熱心の根拠もあるわけです。

  どのような財宝よりも/あなたの定めに従う道を喜びとしますように。(14節)

「定め」と言われる御言葉は、どのような財宝よりも尊いものです。けれども、世の中に満ちた富への誘惑は、私たちの生活に強くのしかかってきます。その誘惑に負けて主の道を踏み外してしまえば、神がここに約束されている幸いは遠ざかってしまう。この辺りが世間のものの考え方と信仰の道の違いでしょう。

 御言葉を何よりも尊い宝とし、それに学び、それを語ることは、喜びであり、楽しみだと告白されています。聖書を学ぶことは心躍るようなことです。神の真実を知り、私たちが神から愛されているとわかることは、嬉しいことに違いありません。そして、そうした御言葉に私たちの思いが集中してゆくことは楽しいことに違いありません。その喜びと楽しみをこれから皆さんと一緒に分かち合ってゆくことができればと心から願います。また、そこに新しい方々も加えられて、一緒に救いの神をほめたたえてゆくことができると信じてまいりましょう。

祈り

聖書の言葉によって私たちに生きる喜びを与え、恵みによって命を養ってくださる天の御神、私たちに御言葉を学ぶ熱心をたえず起こしてくださり、主イエスと共に日々を歩む健やかさと楽しみとを御与えください。これから夏期信徒講座の学びにつきますけれども、どうか袴田康裕先生の講義を通じて、共に集う私たちがキリストの教会として相応しく、一つの体を造ってゆくことができるように、私たちを御言葉の上に固く保ってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。