マタイによる福音書12章46~50節

イエスの家族

 現代における家族の重要性

 今日の社会では、家族ほど重要なものはないと受け止められています。例え死に至る病に捉われても最後まで寄り添い続ける夫婦の姿や、一度は断絶しながらも最後には信頼を回復する親子の関係や、命がけで守りたい人生の最良のパートナーは実は兄弟であり姉妹であったという物語が、今や無数にメディアを通して私たちのもとに届いています。それ程に、世の中には孤独が蔓延していて、本来なら固く結ばれていて当然であるような血の結びつきが、信頼の置けない不安定な、傷ついた状態になっている、ということなのかも知れません。暴力によって家庭から追いやられてしまった子どもたちの話や、誰にも気づかれないまま孤独に命を失ってゆく高齢者の話などをニュースで聞くたびに、私たちは何とかならないものかと心を痛めます。けれども、家族に対する愛情というような人の心の問題に、政治や教育が容易に解決を与えてくれるわけではありません。誰もが自分ひとりの生活を第一と考えて、自分のことは自分でするけれども他人のことは知らないという、身についてしまった利己主義から抜け出すことは、頭で考えるほど容易ではないと思います。人と人とを結ぶ絆の最後のものとして、人は家族に頼ろうとします。しかし、世の中の現実はその家族を信じることが出来ないほど、人と人との間は引き裂かれてしまっています。

 聖書の中でも家族は大切なものとして描かれています。そもそも人間は一対の男女として創造されたものであって、互いに等しく神のかたちを与えられた、尊厳ある者として創られたことが創世記に記されています。人間は初めから家庭を苗床として、子孫が増加する祝福によって、社会形成に向かう者として創造されました。男と女との関係は、体を分け合って造られたことに象徴的に表されているように、互いに互いを真のパートナーとして認めあいながら、二人で一つの体をもつような、切れない絆で結ばれた間柄でした。家族は、ですから、神がすべての人間にお与えになった祝福でしたし、それによって人は孤立せずに、互いに神のくださる良いものを分かち合って生きるためのものでした。

 けれども、聖書は創造の祝福を伝えた後、直ぐにも人間の堕落を伝えています。禁じられた木の実を食べ、神の言葉を無視したことによって、人間に入り込んだ罪は、固く結ばれた互いの絆を決定的に傷つけるものとなりました。そうして、エデンの園から追放されて以来、人と人との間には互いに互いを信頼することのできないようにさせる罪の障壁が立ちはだかるようになり、その傷ついた関係の中に生まれてくる子どもたちも、同じ弱さをもった罪深い人間でした。最初に造られた人であるアダムとエバの間に生まれた子どもであるカインとアベルには、兄が弟を殺す事件を通して人間社会の罪の深さを明らかにしました。

 家庭が社会生活の基本であることは、モーセの律法に記された十戒に含まれる、「父と母を敬え」との戒めからも知られています。特にイスラエルの家庭は真の神への信仰が育まれる土台です。けれども、聖書に登場する人物たちの家庭は、滅多に理想的な家族のあり方を見せてはくれません。信仰の父と呼ばれるアブラハムには子どもが生まれなかったために女奴隷によって子どもを設けて、家庭に問題を引き込みました。その後、正妻から生まれた子イサクが後を継ぎましたが、イサクの家庭でもヤコブとエサウの兄弟たちの間で争いが起こり、ヤコブの家庭でも12人の息子たちの間でヨセフをエジプトに売り払うという兄弟間の分裂が起こりました。神の僕として召されたモーセにも、兄のアロンと預言者であった姉ミリアムとの間に権威を巡る争いが生じましたし、ダビデに油を注いだ預言者サムエルも息子たちはならず者でした。ダビデは神が選んだ比類のない王でしたが、ダビデの家庭は、姦淫の罪によって子を設けるなどして、やがては子どもたちが王位を巡って殺し合うことになるほどの惨憺たる実情でした。

 聖書でも家族は重要だとされていますけれども、聖書が描き出す家族像はどれも破れを負った人間の姿そのものです。そういう中で、ルツ記に描かれたイスラエルの女性ナオミと嫁のルツ、そしてルツを妻に迎えたボアズの関係は幸せな信仰者の家庭の模範となっていて、読む者の心を和ませてくれます。

 本当に信頼のおける、心から安らぐことのできる家族を持つことは、この世に生きる私たちにとって最上の幸せだと思います。聖書もそのことはよく知っていて、家族を大切にするように私たちを促してくれます。けれども、そうした人の望みと、罪の現実との間にあるギャップに人は苦しみます。聖書は、その人間の家族がもつ弱さをも隠すことなく明らかにしてくれています。家族無くして生まれてくる人は一人もいないはずなのに、かように人と人の間の絆は破れやすく、孤立した人間が世の中に溢れかえっているのは、人間が神から離れた結果であることを、聖書は私たちに知らせてくれます。

 そのような、家庭の破れをも知っている私たちにとって、円満な家族への憧れは幻想にすぎないのでしょうか。もはや人の罪によって家族を奪われてしまった人々にとって、誰かとの確かな絆に結ばれることの幸せを望むことは無理なのでしょうか。イエス・キリストは、神からのお答えとして、そうではないということを聖書から語っておられます。

 

イエスとその家族―人となられたイエスと人々の躓き

 イエス・キリストにも家族があった、ということに驚く人もあるかも知れません。マリアによって生まれたイエスには確かにそこで生まれ育った家族がありました。両親はマリアとヨセフであったことは降誕劇を通じてよく知られていると思いますが、1355節以下には兄弟たちの名前が紹介されています。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の弟たちです。母マリアのことをも含めて、聖書はこれらイエスの肉による家族のことを詳しく報じてはいません。おそらく、父親のヨセフは早くに亡くなったのでしょう。そして、長男であるイエスは父の仕事を引き継いで、弟たちと共に家族を養うために大工仕事をしていたのかも知れません。或いは、妹たちもいたのかも知れません。聖書がイエスの家族すべての名前を挙げているとは限りませんから。しかし、こうしたことはすべて推測の域を出ないもので、福音書はイエスの家族にさほど関心を払っていません。事実として、イエスにも地上の生活を共にした家族がありました。大切なことは、神の子としてお生まれになった主イエスは、人間の家族の内に宿られて、身を低くしてお仕えになったことです。そのようなことは母マリアを除いて家の者も誰も気づかなかったに違いありません。後に弟のヤコブはエルサレム教会の指導者になりましたけれども、兄のイエスが神の子であることを信じたのは復活の後だったようです。主イエスは時が来るまで黙って、肉において与えられた家族のために仕えておられました。

 イエスの母と兄弟たちが、弟子たちを従えて神の国の宣教に出ていったイエスのもとを訪れた時、或いはマルコ福音書が伝えるように、イエスの評判を聞いて心配したのかも知れません。訪問の理由が何かということをマタイは伝えていませんが、イエスの弟子になるために来たのではないでしょう。イエスが説教をしておられるとき、母と弟たちがやって来たとの知らせがありました。そこで、互いの再開を喜ぶ感動的な場面が見られてもよいはずですが、イエスはこの機会を捕えて、御自身についての証しをなさいました。

 「御覧なさい、母上とご兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」との知らせに対して、イエスのお答えはとてもぶっきらぼうにも聞こえます。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。イエスは何か家族に問題があって家を飛び出した若者だったのでしょうか。しかし、ここでイエスが話しておられることには積極的な意味があります。今日の短い箇所は12章の終りにあたる段落の区切りに当たります。これまで主イエスは御自身の上に注がれる聖霊の力について議論され、それを信じない時代の暗さを指摘して来られました。今、イエスの家族がそこに来た時、人々は当然イエスにも家族があるものと看做していて、血のつながりという点で最もイエスに近いと思われる人々に席を譲ろうとしたわけです。けれども、そこにいて説教をしておられるのは、天の父のもとから来られた神の子キリストでした。キリストの家族とは一体誰でしょうか。地上で血を分けた家族が、神の家族になるのでしょうか。イエスはそれを否定なさいました。

 イエスが地上におられるその時に、人々はイエスの人となりに躓きます。先にも触れました1353節以下に進みますと、故郷のナザレではまさにそのイエスの家族の故に、人々はイエスに躓いたとあります。ただの人間に過ぎないイエスを見ている内は、神の国の真実は理解できない。家族であれば尚更、息子であり、兄である人物を力ある救い主と見ることは不可能でしょう。イエスの内に神の働きを見、イエスを信じて神の国がやって来たことに救いを見いだすのは、イエスを信仰の目で見る弟子たちだけに許されます。これは今の時代でも変わらない真実です。人間イエスを探究して、その高い道徳や行動力に人類に対する不変的な意義を見出したとしても、そこに神の救いは見出されません。そうした世の中の関心と、聖書が人間に告げている神の救いとは別のものです。聖書が語るのは、罪のために滅びに向かう人間を救うために、十字架による罪の贖いと永遠の命への復活を果たす御子を、この世に遣わされたことです。聖書を一貫する神の救いの御業を思わずに、人となられた神の子に近づいても、救いを得ることはできません。

 

神の家族を集めるキリスト

 イエス・キリストは荒野でサタンの試みを受け、ヨハネの洗礼を受けて公の生涯へと歩みを進めました。その時から家族との交わりは事実上断つことになったのでしょう。もはや主イエスは大工ではなく、弟子たちと共に人間を採る漁に出られました。イエスは家族を御自分が生きる拠り所とはされませんでした。では、長男として家庭を守る責任を放棄したことになるのではないかと、問われるかも知れません。けれども、イエスにはそれよりも大切な働きが初めから与えられていました。イエスは家族と絶交したわけではないことは、ヨハネ福音書で母マリアが度々登場することからも伺えます。ただ、家族への奉仕は終えられて、神の国を宣べ伝える働きのために出て行かれました。

 ガリラヤ湖畔で主イエスに召された弟子たちも同じ道を辿ってイエスの後に従いました。ペトロもアンデレも、一緒に仕事をしていた親をその場に残して、イエスの後を追いかけました。家族を捨てることは、主イエスに従うことの裏面にあることです。18節で、主イエスはついて来る弟子たちに対して、その覚悟を求めておられました。

 このように、主イエスは御自身を天の父のために聖別なさったように、この地上で結ばれた家族の絆を一旦断つことを弟子たちにお命じになります。これは一見すると、家族を破壊する行為のように見受けられます。実際、キリスト教信仰は、血縁で結ばれた地上の家族に幾つもの亀裂を作ったとも言えます。キリストを信じたが為に、家族から絶縁された兄弟姉妹がどれ程たくさんあったことでしょうか。キリスト教会の初めから、そのようなことは繰り返されて来たに違いありません。家族をとるか、信仰をとるかと迫られて、結局、洗礼を受けることのできなかった人々も多くあったに違いありません。信仰に入るときのそうした葛藤は、今に至るまで教会の中で見られます。米国のようなキリスト教国でも同じようにそうした葛藤が起こるということをある注解者が書いています。キリスト教の伝統や教養は大事にしたいけれども、毎週礼拝に通ったりするほど信仰熱心になっては困ると子どもや伴侶を諭す、世俗的なキリスト信者の家庭があると言います。しかし、主イエスを信じる信仰とは、この世で一番大切と思われる家族をも後に残して、イエス・キリストに従うことを選びとることです。

 そうしますと、キリスト教会は、家族の大切な絆を壊すカルト教団のようです。けれども、キリストは家族を破壊するために来られた神の使いではなく、既に壊れている人間の絆を修復するために地上に来られた救い主です。家族のため、家族のためと言いながら、結局は利己主義から逃れられないで家族を壊してしまいかねないこの世に来られて、或いは、既に家族を失った孤独な人々のところに来られて、人が人と共に生きる希望を与えてくださるのがイエス・キリストです。アダム以来、つまり人間の歴史の初めから家族の絆は傷ついています。家族同士、兄弟同士で血を流す程の争いをしてきたのが人間の歴史です。そこに、人と人とが結ばれてある形を新しく造られるのがイエス・キリストを地上に送られた神のお働きです。

 イエスは、手を伸ばして、言われました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とは誰か」。「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。イエスは、そこに座って、イエスの言葉に耳を傾けている弟子たちに向かって、このように言われました。イエスの家族は弟子たちです。それは、例えとしてそのように言われるのではありません。キリスト教会が「疑似家族」だと言われるのだとしたら、それはこの世の家族を基準とした考え方に過ぎません。神の目に適う真の家族は、キリストと、キリストに従う弟子たちによって形づくられます。神の国では、血を分けた家族よりも、霊によって結ばれた信仰の家族が優先されます。家族を持たないものは、キリストの弟子となることでイエスの家族に加えられます。家族を置いて来た弟子たちは、キリストに従う決心をしたことでイエスの家族に迎えられた後、神の国の福音を携えて置いて来た家族に仕えるために戻ります。人の絆はそのようにして、キリストを信じる信仰によって確かにされます。

 万物の創造主であられる神は、イエスの家族となった弟子たちの父と呼ばれます。天の父は人間と違って裏切りません。嘘を言いません。聖書に啓示された言葉には、私たちの救いに関する真理が語られています。キリストを信じて従う弟子たちには聖霊が与えられます。それは、人を愛する心として実をみます。愛に欠けのある利己主義的な生き方は、神の力によってしか変えられません。しかし、イエスを信じて、その言葉に従って生き始めた弟子たちは、家族さえ愛するのに力が及ばないことを神に知っていただいて、そうした弱さをも許していただいていて、神の支えに希望をもって、家族を初めとするすべての隣人たちの下へと送り出されます。人間の絆はそのようにして、イエス・キリストを世に送られた神によって支えられます。ですから、キリストを信じる者には、家族にも、社会にも、この地上で求められるすべての人と人のつながりに希望を持つことが許されます。

 

イエスの家族に求められるもの

 今日の最後の節で主イエスはこう言っておられます。

  だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。

イエスの弟子であり、家族と認めていただく者たちは、神の御心を行うと言われます。信じるだけで良いのではないか。信仰こそがイエスの家族に求められる唯一の条件ではないかとも思われます。確かに、イエスを信仰の眼差しで見、神のお働きを信じることが、神の国の一員とされる唯一の条件です。そして、それさえも復活の主が送ってくださる聖霊が、私たちの心の内に生み出してくださるものです。けれども、主イエスはここで敢えて「行う」ことを強調しておられます。つまり、行いの伴わない信仰のようなものが現れて来るとも限らないからです。良い行いは救いの条件ではありません。それは救いの証しです。キリストに従う者たちが、キリストのように愛の業をもって隣人に仕えるところで聖霊が働いておられます。信じるということは、こうして神の愛によって生かされることを意味しています。神を愛し、人を愛さない信仰はありません。

イエス・キリストを信じて教会に召された私たちは、イエスの家族です。そして、イエスの家族に求められるのは偽りのない信仰です。偽りのない信仰とは、御言葉に対して誠実な信仰生活を伴います。イエスの家族には神の民に特徴づけられる生活スタイルがあります。中心に働くのは聖霊による愛の業への促しですけれども、その心をもって神にお仕えする礼拝生活もあります。新しく教会生活を始めた方はそのあり方に最初は戸惑うかも知れません。主の日ごとの礼拝に出席したり、祈りをささげたり、聖書読んだりして日を過ごしながら、教会の奉仕にも駆り出されます。そうしたことは、一つひとつが私たちの信仰の証しです。それは、肉の家族に対して私たちそれぞれが社会的な義務を負うのと同じように、キリストに結ばれた兄弟姉妹が互いに負い合う責任です。

 

真の家族に支えられて地上の家族を守る

 主イエスが地上で御自分の家族に仕えられたように、イエスの家族とされた教会員もそれぞれの家族に送られています。私たちの命に取って、より根源的な関係は、キリストを介して、神と私たちとの間に結ばれた信仰の絆です。キリストは私たちのために自ら命を捧げることで、この絆を獲得してくださいました。ですから、私たちの信仰が揺れ動こうとも、私たちを選んでくださった神の御旨は変わりません。神の家族として迎え入れられた私たちは、キリストと共に家族の元にも使わされます。たとえ自分以外は未信者の家庭であっても、その家庭は神が用意されたものであって、私たちの信仰によって清いものとして神の恵みに与ることが出来ます。人の絆が潰えたと思えるようなこの時代にあって、神の愛に生かされる私たちは希望のしるしです。家族に優ってキリストを第一とすることは、家族の抵抗に遭うかも知れません。しかし、私たちの信仰に家族の救いもかかっていることを思うならば、選択を誤ることもないと思います。教会の内に、イエスの家族である証しを保ちたいと願います。キリストにあって互いに謙遜に仕え合う姿勢が、この世の家族にも良い模範となることを願います。

 

祈り

天の父なる御神、あなたはキリストへの信仰を通して私たちの家族を増やしてくださいます。どうか、この世界で家族のために傷を負った人々を、主イエスのもとに集めてくださり、互いに信頼することのできる関係の中で休ませてください。あなたの愛に憩うことが許されている私たちが、互いに尊敬し合いながら、あなたの家族に相応しく、互いに愛をもって仕えることが出来るようにしてください。そして、それぞれが御許から遣わされている家族の中でも、あなたが与えてくださった人との絆を大切に保たせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。