マタイによる福音書28章1〜20節

すべての民を主のもとに

 

マタイ福音書から受けた恵み

 私たちが『マタイによる福音書』から学び始めましたのが2011年の10月9日からでしたから、それからおよそ2年が過ぎました。先に学んだことは忘れてしまうのが私たちの常であるかも知れませんが、たとえ忘れてしまっても身になっている、ということもあります。この2年間、私たちはマタイ福音書の御言葉によって養われ、信仰の歩みを整えられてきました。それが今日、教会設立という具体的な実に結びついたのは大きな主の祝福に違いありません。その恵みを覚えて、午後の設立式に臨みたいと思います。私たちひとり一人の信仰も、私たちが互いに結びあうキリストの体である教会も、まず神が聖書を通して私たちに呼びかけてくださり、それを私たちが心を開いて聞くところから始まります。実際、そうしてキリストを信じて従って来た私たちですから、これからも主の言葉を信頼して、共に教会の歩みを進めてゆきましょう。今朝、私たちが聞きましたマタイ福音書の終わりには、主イエスの復活と、弟子たちに与えた宣教命令とが記されています。ここに教会が決して失うことのない喜びの源泉があります。私たちがいつどんな状況にあっても変わらない主の約束があります。ここにある主の言葉を胸に受け止めて、主イエスの後に従って行く決心を新たにしたいと思います。

復活の告知

 それは「週の初めの日」の出来事であった、と福音書記者たちは告げています。「週の初めの日」とは、私たちが今こうして礼拝をささげている日曜日のことです。昔のイスラエルは創造の秩序に基づいて神の安息を祝うために、週の七日目に当たる土曜の安息日に会堂に集まりました。それはメシアの到来を待ち望む、イスラエルの変わらない信仰生活のサイクルでした。しかし、新しい時代の到来に際して神はそれに相応しい日を用意されました。週の初めの日に、神は天地を創られた創造の力を発揮して、人の命を闇に封じ込める墓石を取りのけ、御子イエスを復活させました。イエスの復活は、罪のために死んだすべての人に向けてのしるしです。

 旧約聖書の詩編に「死者の歌」とも呼べるような嘆きの歌があります。詩編88編です。詩編の中で最も暗いこの歌は、次のように歌います。

  わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。

  穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ

  汚れた者と見なされ/死人のうちに放たれて/墓に横たわる者となりました。

  あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています。

  あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。

(4〜7節)

  あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり

  死霊が起き上がって/あなたに/感謝したりすることがあるでしょうか。〔セラ

  墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。

  闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか。

(11〜13節)

  愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。

  今、わたしに親しいのは暗闇だけです。(19節)

罪に定められた人の死はかくも悲惨で、墓の中には神の慈しみも及ばない。すべての人の交わりから断ち切られて、孤独に闇の中に放り込まれてしまう。イエスが十字架で背負っていかれた死は、実にこのようなものでした。

 「あなたが死者に対して驚くべき御業をなさるだろうか」と詩編は訴えましたが、神は預言者エゼキエルを通じて次のように告げました。

 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル書37章12〜13節)

神が旧約の民イスラエルに語った約束は確かです。神は闇の中へ葬られてゆく人の定めに新しい夜明けを用意しておられました。神は陰府に下った御子イエスを復活させ、キリストの栄光をお授けになりました。神は御子イエス・キリストに、人の命の行方をお委ねになりました。御子の内にある復活の命が、イエスの御手から教会を通してすべての人に差し出され、分け与えられてゆく、新しい時代がこうして始まりました。週の初めの日に、私たちは共に集って、このことを祝います。死者をよみがえらせた神の力を思い起こして神をほめたたえます。キリストに現れた新しい命の誕生を喜びます。そして、その命に生かされる今を確認し、その命を分かち合うために、主のもとから派遣されます。

二人のマリア

 主の復活を最初に目撃したのは二人のマリアでした。社会では重要な地位が与えられていなかった女性たちには、キリストのもとで大切な役目が与えられます。それは、神に顧みていただいたことの証言者としての役目です。二人のマリアはそれぞれの体験からしても主の救いの証し人です。マグダラのマリアはイエスによって悪霊から解放され、イエスと共に陽の当たる道を歩み始めた女性でした。もう一人のマリアは、マタイの記す文脈からして、イエスの母マリアに違いありません。かつて天使がマリアのもとを訪れ、その身に宿る子が救い主であるとのお告げを受けました。そして、その子の生涯の終わりに、マリアは復活の告知をも天使から受けて、イエス・キリストの証人として教会に送られます。

 二人のマリアは復活の告知を受けて走り出します。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」と、預言者イザヤがかつて告げていた時がここに始まります(527節)。二人の心の内には恐れと喜びがあります。神の言葉を真実と受け止めた人の内に起こる感情です。天地を揺り動かすお方の前に進みでるのは恐ろしいことです。しかし、救い主に出会うことは喜ばしいことです。二人はイエスの墓の前で、天使から伝えられた神の言葉を聞いてそれを信じました。そして、言われた通りに福音を携えて駆け出します。私たちはここにキリスト教の集会の原型を見ています。

 主イエスはその途上で二人に出会ってくださいました。「おはよう」という挨拶は何か唐突な気がします。日本語に相応しい挨拶の言葉が選ばれてこのように翻訳されていますが、元のギリシア語のままですと「喜びなさい」です。元のままの方がよいように思います。「おはよう」としたことの意味は、おそらく、その日常的な挨拶による親密さにあるのでしょう。復活したイエスは、二人のマリアが日頃から接していた親しい先生に違いありませんでした。復活によって真の救い主であることを証明なさっても、イエスは近くにいて親密な関係に留まっていてくださいます。近年、プロテスタント教会が礼拝式を見直す中で、礼拝の始まりに司式者と会衆との間で挨拶を交わすことがなされます。古い礼拝の習慣ですが、復活の主に出会った週の初めの日のことを思い起こす手だてでしょう。そうした取り組みが私たちのところにないとしても、主の日の礼拝は、主イエスが私たちに出会ってくださる場所です。

イエスの大宣教命令

 「ガリラヤに行け」とイエスは弟子たちにお命じになりました。ルカ福音書ですと宣教の出発点はエルサレムですが、マタイ福音書はガリラヤを起点としています。マタイの伝えるエルサレムは「祭司長たちと長老たち」の罪のために滅びに定められた都です。それは旧約の歴史に表わされた古い都と同じもので、やがて神の審判が下って破壊されてしまいます。エルサレムの指導者たちにもイエスの復活は報告されています。二人のマリアが目撃したのと同じことを番兵たちも見ていたからです。しかし、番兵たちにも報告を聞いた祭司長たちや長老たちにも「恐れや喜び」は生じません。兵士たちにはイエス復活の知らせよりも金銭の方が魅力的でした。祭司・長老のグループは初めから信じていないのでしょう。こうして、ユダヤ人たちの間では「弟子たちがイエスの死体を盗んだ」ということになっている、とマタイがこの文書を書いた時の状況を伝えています。

 こうしてマタイが記すエルサレムの山は真理に閉ざされています。復活の主イエスはそこではなく、ガリラヤで弟子たちとお会いになります。「ガリラヤ」はイエスと弟子たちの故郷であり、中央のエルサレムとは違う「田舎」でした。ペトロはイエスの裁判が行われる祭司の庭で、その方言が聞きとがめられて危うく正体がバレそうになりました。そして、ガリラヤは異邦人へと開かれた地方でしたから、中央から見れば汚れた地域です。「ガリラヤ」は、こうしてイエスが共におられる場所を示しています。壮麗な神殿に飾られた、金と権力が渦巻く中心からもはや神は語られません。預言者エゼキエルがかつて幻で見たように、主の栄光はエルサレムの山を去ったのであって(1123節)、主の教えは別の山で弟子たちにもたらされます。

 復活の主イエスが山の上を指定されたのは、そこでかつて教えられたことへと弟子たちを導くためでしょう。「イエスが指示しておかれた山」と書かれていますが、これの意味するところは、「イエスが掟を与えた山」であって、山上の説教がなされたかの山を指している、との解釈があります。おそらく、この「山」が意味しているのはその通りであろうと私も思います。ユダを欠いて十一人になった弟子たちは、ガリラヤで復活の主イエスに出会い、膝をかがめてイエスを礼拝しました。「疑う者もいた」とマタイは書いています。イエスの復活をにわかに信じることの出来ない弟子たちもあったようです。復活を疑ったトマスのことはヨハネ福音書が記しています。弟子たちの皆が初めから確信に満ちていたわけではないのです。けれども、イエスは彼らを再び集めて、確かにお会いになりました。ガリラヤで会える、と伝え聞いた言葉を信じてやってきた弟子たちをそのまま受け入れて、彼らを御自分の使徒に召されます。イエスの「大宣教命令」と呼ばれている、18節からの最後の言葉は、この短い言葉で教会のすべてを語っています。

 第一に、教会は「天と地の一切の権能を授かった」復活の主イエス・キリストのもとに建てられます。イエス・キリストは身を低くして罪人である私たち兄弟であり友となられましたが、キリストは教会の頭であり、天地万物を治める王としてほめたたえられる神です。イエスに近づいていただく私たちは、恐れと喜びをもってその言葉に従います。

 第二に、教会はすべての民をイエスの弟子とするために世に出て行きます。「民」とあるところは「異邦人」が意図されていますから、「すべての民」とはあらゆる国柄の人々です。どのように出て行き、どのように弟子とするか、が後の歴史で問われます。キリスト教会が地上の政治的な権力と結びついてからは、この宣教命令が暴力的に実施されたことが今では反省されます。しかし、世界にキリストの教えを広める働きが間違っているわけではありません。「すべての民をイエスの弟子とする」ことは、神がすべての民にキリストによって救おうとしておられることを意味しています。神の目の前には滅びてよい命は一つもありません。たとえキリストに敵対する力が世に働いて「イエスの死体は盗まれた」などと言いふらしたとしても、そのように神に背いて失われる世界を憐れまれたからこそ御子が世に送られました。キリストにあって人を愛する道は平坦ではありません。しかし、敵をも愛するようにと山の上で教えられたイエスが、私たちをすべての民のもとへと送ります。

 「弟子としなさい」と主はお命じになっています。「言い広めなさい」ではありません。主の復活のよき知らせを聞いた二人のマリアは伝令となりました。しかし、それは始まりに過ぎません。イエスがお命じになったのは「すべての民を弟子とすること」です。どのようにして弟子とするのかについては、続けて次のように言われています。

 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

洗礼を授けることと、教えることです。洗礼は旧約の割礼に代わって教会に与えられる契約のしるしです。父と子と聖霊の名によってすべての信者に洗礼が施されます。それはイエス・キリストのもとにある罪の赦しと永遠の命の約束が、神の名によって保証されていることのしるしです。人は洗礼を受けてキリストに結ばれた新しい神の民の一員になります。そして、主イエスの弟子となって、主の教えに学び続けます。

 学ぶのが先か、洗礼が先か、という議論もここから生じますが、イエスの弟子たちがそうであったように、イエスの教えに学び続ける中で確信が与えられ洗礼が授けられます。ですから、洗礼を受けるために学ぶのでもなく、洗礼を受けたから学び始めるのでもないはずです。弟子は先生の言葉に学び続けます。通常の師弟関係であれば優秀な弟子が師匠を乗り越えることもあると思います。しかし、天と地の一切の権能を授かった主イエスの教えを乗り越える弟子は現れません。むしろ、洗礼を受けて三位一体の神の名に結ばれたキリスト者は、イエスの弟子として生涯、その言葉に学び続けます。

 では、何を学ぶのかと言えば、イエスがお命じになったすべてを守ること、です。山上の説教へ立ち戻って、イエスが何を教えておられたかを思い起こしたいところです。神の国と神の義を第一に求めなさい、とありました。全身全霊をもって神を愛することと、自分と同じように隣人を愛することが律法の中心であることも教わりました。また、見せかけだけの偽善には救いがないということも、ファリサイ派との議論の中で学びました。どれをとってもイエスが弟子たちに教えたことは、神の国での人間の生き方です。学んだことを頭の中に蓄えておくだけの知識ではなくて、生き方です。命のあり方です。イエスの教えに学ぶとは、イエスの生き方をまねる、ことでしょう。弟子たちは度々、「小さな信仰のものたち」とイエスから叱責されました。十字架の際には逃げ出してしまうような、ふがいない弟子でした。それでもイエスは弟子たちを愛し抜かれて、御自分について来なさいと、私の言葉を守りなさいと、何度でも言葉をかけてくださるのです。そういう弟子たちが歩むイエスの道へと人々を招き入れて、一緒に歩き始めることが、イエスが命じておられる伝道です。私たちが大切にしている教理も神学も、小難しく思われるかも知れませんが、それはすべて教会として私たちがキリストと共に歩む道であり、キリスト者の生き方であることを改めて心に留めておきたいと思います。

結.インマヌエルに生かされる教会

 マタイ福音書のみならず、他の福音書でも、そこに描かれている弟子たちの姿のうちに私たちは自分の姿を見出します。主イエスを復活させた神の力を疑う者があり、互いの評価を競い合うような場面さえありました。そういう小さな信仰にある私たちを、主は弟子と認めてくださって、宣教の尊い務めを与えておられます。たとえ、私たちが躓いても、主イエスは弟子である教会にこう約束しておられます。

  私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

これはかつて、預言者を通してイスラエルに語られたインマヌエルの約束です。イエス・キリストこそ、私たちから離れることのない真の神です。「いつも」とは「すべての日々にあって」ということ。信仰の歩みの中では喜びが感じられないような日も度々です。教会に不和が生じて、礼拝に行くのも嫌になってしまうような時期も教会の歩みの中にはあります。先の月報でT執事が証しを書かれて、教会の歩みも平坦ではなかったとありました。教会生活が長い兄弟姉妹は皆よくご存知のはずです。それでも間違いなく言えるのは、そういう私たちの過ごしてゆく教会の日々に、主イエスが共にいてくださる、ということです。それが、教会に与えられている主の約束です。世の終わりまで、というのですから、決して見放さないということです。この約束を忘れないでいたいと思います。今日から私たちは西神教会として歩き始めます。同じ洗礼によって結ばれた兄弟姉妹たちと、主イエスの教えを大切に守って教会生活をかたちづくって参ります。私たちは共に主イエスの弟子として、これからも弛まずイエスの教えてくださった聖書の御言葉に学んでゆきます。この20年間の歩みを通して、主イエスは私たちの弟子仲間をこのように増やして祝福してくださいました。これからもそうしてくださるに違いないと信じて、神の国の門をここに開き続けてゆきたいと思います。復活の主イエスに出会う仲間が、またこれからも起こされますように祈り続けて参りましょう。

祈り

御子イエスを死者の中から復活させ、主イエスを信じる私たちに新しい命を賜る天の御神、今日までマタイ福音書の御言葉に学び続けることができましたことを感謝します。願わくは、私たちが主の教えを心に留め、それを日々の生活に生かすことができますように、聖霊の助けをお与えください。主イエスが地上でそうであったように、あなたの愛をもって隣人の傍らにおらせてください。西神教会の今日までの歩みをあなたが支えてくださったことを感謝します。どうか、今日からも世の終わりに至るまで主イエスが私たちから離れずにいてくださることを信じさせてください。そして天の御国に至る救いの道を、この場にあってあなたが示し続けてくださり、主イエスの弟子として歩む兄弟姉妹を御自身のために増し加えてくださいますようにお願いします。午後にもたれる教会設立式の上に、あなたの祝福をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。