マタイによる福音書26章17-35節

最後の晩餐の席で

 

イエスに定められた時—除酵祭

 今朝の御言葉は、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画等でよく知られています、主イエスと弟子たちによる最後の晩餐の場面を、マタイが伝えている箇所です。ダヴィンチの絵は皆が正面を向いて椅子に座って食卓の席に着いていますが、実際は、寝そべって食卓を囲むのが当時の習慣です。20節も原文では「イエスは十二人と一緒に横になっておられた」と書いています。

 場面はともかく、格好がどうであったかよりも、それが「過越の食事」であったことを確かに伝えています。それは「除酵祭の第一日」の夕方のことでした。「除酵祭」は「過越祭」とも呼ばれる旧約の律法に定められた祭です。除酵祭は1週間続きますが、その期間、イスラエルの民は酵母を入れないパンを食べます。今日でもユダヤ人は、「マツォット」と呼ばれる過越用のパンを用います。これはその期間だけ売りに出される特殊なパンで、パンというよりもクラッカーに近いものです。粉を焼いて固めただけなので、味も素っ気もありません。なぜ、そんな不味いものを食べなければならないのかと言えば、出エジプトの時の苦労を思い起こすためです。主なる神がエジプトに災いを下されたとき、裁きを免れたイスラエルは急いで身支度をしてそこを出て行かねばなりませんでした。その時のことを出エジプト記12章39節がこう記しています。

 彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。

イスラエルが神によって救われた原点を思い起こすためのパンですから、それは単に食事を楽しむためのものではないわけです。マツォットには苦菜を添えます。苦く苦しかった奴隷の日々をそうして思い起こします。

 過越の食事はその除酵祭の一日目の夕方に行われます。ほふられた小羊の肉が家のもの全員に振る舞われます。家族を呼び集め、特別な食事の用意をし、定められた手順で御言葉や祈りを交えながら食事が進められます。最後の晩餐もそのような準備から始められます。「わたしの時が近づいた」と主イエス御自身がホストになられてすべての準備を弟子に命じられます。弟子たちは命じられた通りのことを忠実に果たして、指定された場所に過越の食卓を整えました。

最後の晩餐

 最後の晩餐は、こうして主イエスが弟子たちのために整えてくださった過越の食事の席です。29節にありますように、それは主イエスが地上で弟子たちと共にされた最後の祝いの時となりました。この日のことが記念されて後の教会では聖餐式が行われます。主イエスは一度弟子たちのもとを去って行かれます。その日のことを弟子たちは忘れてはなりませんでした。イスラエルのために神が用意された過越は、主イエスによる弟子たちのための新たな過越となりました。それは弟子たちの間で記念されて、代々に受け継がれて今日に至ります。

 この新しい過越の意味を、主は食事の最中で弟子たちに教えておられます。26節から28節にかけての部分です。マルコもルカも、ほぼ同じようにこの言葉を記していますけれども、今、私たちが聖餐式の中で読み上げる「制定の御言葉」がここにあります。かつて神は、砂漠を旅するイスラエルに天からのパン「マナ」を与えて、その命を養われました。しかしイエスは、「取って食べなさい」と御自分の手からパンを裂いて分け与えて、「これはわたしの体である」と言われます。神はイエスの体によって弟子たちを養ってくださることを、こうして心に留めなさい、ということです。後に教会は、どうしてパンがイエスの体なのかと哲学的に複雑な考えをするようにもなりました。しかし、ここでイエスはそんな難しいことを言っているとは思えません。イエスの体と血が、弟子たちの命を養うということは、この後に起こる十字架と復活の救いを指しています。イエスが御自身の体を神の小羊として十字架の上にささげられ、そこで流された血によって、救いを求めるすべての人の罪が赦されるものとなる。そして、神に赦されて復活の希望に生かされる、という救いの出来事が、この主イエスの過越の食卓で思い起こされます。

 イエスはパンに続いて、杯をとって弟子たちに渡して言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。この言葉はかつてイスラエルの民がシナイ山の麓で主なる神との契約を結んだ時にモーセが語った言葉に似ています。イスラエルの民が神との和解のささげものを祭壇でほふった後、モーセは契約の書を民に読み聞かせて、犠牲の動物の血を民に振りかけてこう言いました。

  見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。

(出エジプト24:8

つまり、主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちとの間に新しい契約を結んだ、ということになります。ですから、教会が使徒たちから受け継いだ聖餐式は、主の十字架と復活の御業を思い起こして、神の御前で結ばれた契約を確かに心に留めるための、新しい過越の食卓なのです。

ユダの裏切り

 最後の晩餐の席について、私たちが第一に記念しなければならないのは、そこで弟子たちのために御自身の命を与えると言われた、主の言葉です。しかし、それと同時に福音書が伝えるのは、そこにいた弟子たちの姿です。食事の席についた十二人のうちの一人は裏切り者のユダでした。ユダはすでにイエスを見限って、銀貨三十枚で祭司長たちに売り渡す算段をしていました。そして、何食わぬ顔で他の弟子たちと一緒にイエスの食卓についていました。

 イエスはユダの裏切りを承知しています。その上で、弟子たちに仲間の裏切りを明かされました。ユダが裏切ったと名を挙げて摘発するのではなく、その裏切りの心を自分で問うように弟子たちに訴えました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(21節)。弟子たちは非常に心を痛めて、「まさか自分では」と問い始めたとあります。このように、最後の晩餐の席は、イエスから弟子たちの信仰、つまり主イエスに対する忠実さが吟味された場所として弟子たちの間で記憶されます。

 「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」とイエスは言われました。それは直接ユダを指していたと告げるのはヨハネ福音書ですが、他の福音書は弟子たちひとり一人の逡巡を取り上げます。ユダ自身がとぼけて「先生、まさかわたしのことでは」と他の弟子たちに倣って口を挟んだのですが、主イエスは「それはあなたの言ったことだ」と言葉の責任を本人に問い返すだけで、ユダがそうだとあからさまに言いはしませんでした。もっとも、「先生」つまり「ラビ」と呼びかけるユダの言葉に彼の信仰がよく表れています。他の弟子たちは、「主よ」と呼びかけました。イエスに対して「ラビ」と呼びかけるのは、マタイ福音書では大抵、イエスの言葉尻を捉えようと伺っていた敵対者たちでした。「人の子を裏切るその者は不幸だ」(24節)とイエスは言われます。これは、先に主イエスに敵対するファリサイ派の人々に向けてイエスが語られた嘆きの言葉、呪いの言葉と同じです。「あなたがた偽善者は不幸だ」とイエスは彼らに言われました。ユダはもうそちらの陣営に移ってしまっています。

弟子たちの決意と躓き

 他の弟子たちの信仰に対する吟味は、過越の食事が終わって後にも続きます。一同はオリーブ山に出かけましたが、そこで主イエスは弟子たちの躓きを予告しました。食事の席で、主イエスはユダの裏切りを予告して、弟子たちの信仰を吟味されましたが、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と、今度は弟子たちそれぞれの躓きを直接彼らに予告しました。「躓き」とは信仰が揺さぶられることです。悪くすれば、信仰を失ってしまいます。特にペトロについては、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告されます。この「知らないと言う」というのは言葉の問題ではなくて、「関係を断つ」という意味です。そうであるならば、ペトロを初めとする他の弟子たちも、イエスに対する忠誠という点ではユダとさほど変わらない結果となります。

 イエスの言葉はただの推測による予告ではなくて預言ですから必ずその通りになります。しかし、弟子たちはイエスの見込みに猛反発をしました。弟子の筆頭株であったペトロは勇んでこう答えました。

  たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません

こんな言われ方をすれば他の仲間たちの立つ瀬がありませんが、そんなことはお構い無しの、ペトロの個人的な情熱がよく表れています。また、他の弟子たちと一緒に「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、主イエスに対する命がけの忠誠を述べています。ユダとは違って、気持ちの上では決して嘘ではないのだと思います。

 主イエスはこの弟子たちの思いをどう受け止められたのでしょうか。この時の主の思いは直接語られていませんが、すでに食卓の席で、その思いを知っていながら、パンと杯を弟子たちに与えられたのだと思います。イエスは弟子たちのために命をささげる覚悟です。その主イエスの覚悟は、その場かぎりの気持ちなのではなくて、神と心を一つにして、神の定めに身をささげた、イエスの弟子たちに対する愛による確かなものです。

 しかし、弟子たちはイエスのようではありませんでした。弟子たちの信仰はイエスの十字架に直面して篩にかけられます。彼らは実際に自分たちの身に及ぶ死の危険にさらされて、また、十字架刑という恥に直面して、そのままイエスの弟子であることができるかどうかが吟味されます。そして、「羊の群れは散ってしまう」との御言葉どおりになると主は言われたのです。ちなみに、これはゼカリヤ書13章にある預言です。

主は先立って行かれる

 主イエスは過越の食事を通して、新しい契約を弟子たちと結んでくださいました。その契約に留まることが、天の父の国で新たな葡萄酒を飲む終わりの祝福につながります。しかし、その契約に留まるために、弟子たちひとり一人の信仰が問われます。同じパンと杯を分け合った仲間が、主を裏切る、などということが弟子たちの間で起こります。今日の午拝で学ぶことになっている御言葉の中に、パウロがコリント教会の兄弟姉妹に対してこう言っている箇所があります。

 エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。

イエス・キリストに召されて、新しい契約の中でキリストに従う者とされて、約束の命に生かされている私たちではありますけれども、私たちの信仰はまだ完成されてはいません。主イエスがご存知であり、使徒パウロが心配したように、私たちは蛇のささやきに時に翻弄されて、キリストへの忠誠を失ってしまうかもしれない弱さがあります。私たちの罪は赦されますが、それで私たちを悩ますことが無くなったわけではありません。最後の晩餐が思い起こさせるように、罪は痛みを伴います。それを痛みと感じることが無くなれば、私たちはもはやキリストを知らないと言えるでしょう。最後の晩餐の記事が私たちに告げるのは、そこに示された弟子たちの決心です。契約に対する誓いの言葉です。しかし、主はそこで弟子たちの躓きを予告されて、実際そのように弟子たちは躓いて身を隠した、のでした。

 私たちがここから学ぶのは、今日の聖餐式にも示される主の救いの真実です。主イエスは弟子たちの裏切りや躓きをご存知でありながら、彼らを家に迎え入れられて、神の救いを記念する過越の食卓を開いてくださいました。弟子たちの熱意が拙いもので、罪ある者の弱さゆえに容易く挫かれてしまうとしても、その熱意を受け止めてくださって、弟子たちを愛し抜いて命をささげてくださるのが主イエスです。人間の側からなされた忠誠への誓いが、そのまま果たされたことは無い、ということは旧約聖書のイスラエルが証明済みです。神との契約が結ばれるたびに、「わたしはあなたに従います」と誓い続けたイスラエルの民でしたけれども、その誓いを自ら破って度々ひどい災いに見舞われて、滅びる寸前にまで至りました。

 イエスは弟子たちに予めこう伝えました。

 今夜、あなたがたは皆、わたしにつまずく。....しかし、わたしは復活した後、あなたがたより 先にガリラヤに行く。

ガリラヤとは弟子たちの故郷であり、主イエスのお働きの出発点です。そこから主イエスと歩んだすべてが始まりました。主は復活した後、そのガリラヤで待っている。或いは、ここは、ガリラヤへあなたがたを先導して行く、というふうにも読めます。躓くのですけれども、復活した主イエスがそこからもう一度、新しく出直すことができるようにしてくださる。そのところから、主イエスの弟子として召された本当の歩みが始まります。

 信仰には躓きは避けられません。私たちは完全ではありませんから、何度も主イエスの十字架から逃れてしまうことがあります。けれども、聖餐式の度に思い起こしたいと思います。主イエスはそういう私たちをすべて知っておられて、それでも私たちのために御自分の命を捨てて、十字架に上ったのです。そういう私たちに「取って食べなさい、これはわたしの体です」とパンを差し出してくださるのは、私たちを赦しておられるからです。

 聖餐式の席では、最後の晩餐の席でその場に集められた弟子たちがそうであったように、私たちの信仰の吟味が求められます。しかし、その意味は私たちの信仰がどれ程強くて確かであり、揺るがないかを確認するということではなくて、私たちがどれほど不確かであり、自分の信仰に対する自信にどれほど根拠がないか、ということを静かに深く省みることでしょう。ペトロはそのための手本にされた第一の弟子です。大胆に率直にイエスにしたがって、派手に躓いた人でした。その率直さが主から愛されて、教会の柱とされた使徒です。

 復活の主が共に生きてくださる時、主イエスの弟子は「あなたのことを知らない」などとは言えなくなります。今を生きる弟子たちは、復活された主イエスの体と血を分け合う、一つの命に生かされるからです。私たちは躓きを覚えるたびに、御自分の食卓に招いておられる主の愛と信頼を思い起こしたいと思います。信仰の弱さを覚える時こそ、聖餐式の恵みに与りたいと願います。そこで、いつも変わらずに私たちを愛していてくださる主の御旨を、パンと杯を通して受け取りたいと思います。そして、復活された主を見上げて、私たちを確かな信仰へと導いてくださるとの約束を受け取りたいと思います。

祈り

天の父なる御神、主の食卓に示されたあなたの救いのご計画と大きな憐れみのゆえに御名をほめたたえます。私たちの記念する主の食卓が、いつも御前に真実なものであり、そこに与る私どもひとり一人が、真の悔い改めの信仰をもって主イエスによる救いを確かに内に保つことができるようにしてください。信仰の躓きを多く抱える私たちですけれども、あなたが私たちの内に備えてくださった聖餐の恵みによって、復活の希望に立ち返らせてください。聖霊の変わらない導きを願って、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。