ヨシュア記10章1〜43節「ヤシャルの書」

 

アブラハムの面影

 9章の初めに、ヨルダン川西岸に国を構える王たちがヨシュアの率いるイスラエルと対決しようと終結した模様が伝えられていました。この10章では、そのうち南部の諸地域がイスラエルの手によって滅ぼされ、土地が征服されたことが記されます。戦闘のきっかけはギブオンから救援の知らせが届いたことにありました。9章にありましたように、ギブオンはイスラエルと講和条約を結んで生き延びる道を選びました。10章の2節によりますと、「ギブオンはアイよりも大きく、王をいただく都市ほどの大きな町であり、その上、そこの男たちは皆、勇士だった」と言われます。戦力からすればイスラエルに勝つことも出来たのではないかと思われますが、ギブオン人はかつてイスラエルと共に戦った主なる神を恐れて和平の道を選び、イスラエルの神に帰依したのでした。カナンの王たちはこの知らせを聞いて震えおののくのですが、ギブオンと同じ道を辿ろうとはしませんでした。それが、彼らの運命を決定します。

 カナンの王たちは、ここで5人のアモリ人の王として紹介されています。アモリ人と言えば、モーセと戦って破れたヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグと同じ民族です。その筆頭に立つのはエルサレムの王アドニ・ツェデクでした。エルサレムという町の名は旧約ではここで初めて登場します。この時はまだイスラエルが占領する前ですから、アモリ人の支配下にある町です。別の記述ではエルサレムは元々エブス人の町であって、ダビデがこれを奪ったとも記されています。歴史の詳細はともかく、ここでは神の約束に従って、ヨシュア率いるイスラエルがアモリ人の王たちを滅ぼし尽くしたことが伝えられます。

 アドニ・ツェデクの呼びかけによって集結した、エルサレム以下、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たちは、裏切ったギブオンを成敗するために軍を差し向けますが、彼らと契約を結んだイスラエル軍はこれを迎え撃って夜の内に彼らを蹴散らしました。「わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」との主の言葉によって、イスラエルはもはや向かうところ敵無しです。1節から11節に記された戦いの記述は、創世記14章にあるアブラムの戦いを想い起こさせます。かつてアブラムが甥のロトと共にカナンの地に移り住んだ時、東方の4人の王がカナン征伐に兵を進めて来たことがありました。その時、ソドムとゴモラを始めとするカナンの5人の王が同盟を組んで戦闘が始まりますが、東方の軍の前にあえなく蹴散らされ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトの一族も連れ去られてしまいます。アブラムはその頃、アモリ人と契約を結んでおり、ロトの救出のために僅かな兵を率いて東方の王たちを追撃します。そして、アブラムの勇士たちは夜襲によってロトとその財産・家族を奪い返すことに成功します。戦いから戻ったアブラムを迎えたのはサレムの王であり祭司であるメルキ・ツェデクでした。メルキ・ツェデクはアブラムをパンと葡萄酒でもてなし、天の神の祝福を与えます。それに対して、アブラムは十分の一の献げ物をして王に感謝を表わしました。

 「サレム」とはエルサレムの古い呼び名です。「メルキ・ツェデク」とは「義の王」という意味の名です。今日の箇所に現れる「アドニ・ツェデク」の場合は、「義の主人」です。アブラハムの頃の出来事を思わせながら、ヨシュアによる征服が記されているのがここからも分かります。創世記14章に続く15章で、神はアブラムに子孫の繁栄を約束されて、恵みの契約を結ばれました。そして、後の子孫たちについて、四代後の者たちがカナンの土地へ帰ってきてアモリ人の罪を罰すると告げられ、「エジプトからユーフラテスに至るまで」の土地を子孫に与える、と確約されました。それが、このヨシュアの下で実現するくだりがヨシュア記10章1節から11節にあたります。ヨシュアは罪の極まったアモリ人たちの王たちを滅ぼし、さらに、マケダ、リブナ、ラキシュ、ゲゼル、エグロン、デビルといった南方の町々を聖絶して神にささげ、モーセの律法を完遂します。

ヤシャルの書〜太陽と月の静止

 12節から14節にかけて、この戦いの最中に起こった特殊な出来事のことが加えられています。ヨシュアが「日よとどまれ、月よとどまれ」と主に向かって叫びますと、その通りに太陽と月の運行が止まった、とあります。これを奇跡というなら、聖書中最大の奇跡がここに現れたことになります。「主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった」と14節にある通りです。太陽と月が運行を止めたのは、「民が敵を打ち破る」ため、つまり、聖絶が完了するまで一日が終わらないようにするためでしょう。この日は創造者なる神の力が発揮されて、一日の業が果たされるために備えられていて、ヨシュアがそれを実行した、のでした。

 ここに『ヤシャルの書』という書物への言及があります。「ヤシャル」というのは、「真っすぐ」「正しい」ということで、訳して言えば『義人の書』です。この書物についてはサムエル記下1章18節でも取り上げられています。

 ダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠み、 「弓」と題して、ユダの人々に教えるように命じた。この詩は『ヤシャルの書』に収められている。(17-18

 ここから私たちは、聖書の編纂について一つの手がかりを与えられます。『ヤシャルの書』なるものはもはや私たちの手元には残されていません。勿論、ユダヤ人たちのところにも保存されてはいません。歴史から失われてしまった書物です。聖書が編纂される過程で、そういう失われた書物が幾つもあったであろうことは、他にも証言があります。たとえば、歴代誌には『預言者シェマヤと先見者イドの言葉』(下12:15)とか『預言者イドの解説』(下13:22)という書物の名が挙っていますし、『ダビデ王の年代記』(上27:24)とか『ソロモンの事績の書』(王上11:41)という資料がイスラエルの歴史を書き記す際に用いられていることが知られています。旧約聖書はそうした古代の民が語り継いだ主の御業を、様々な書物に書き記した後で、イスラエルの書記たちの手によって一綴りの書物に編集して出来上がった書物です。また、そうした古い資料を機械的につぎはぎにして綴ったのではなくして、神がイスラエルの上に表わされた救いの御業を一連の歴史として書き記そうとの意図の下で編集されていったものです。『ヤシャルの書』も、それがどんなものであったか、全体像は誰も知ることができませんが、そういう古代の資料としてヨシュア記を記す編集者の手によって用いられたものの一つです。聖書による啓示は、主の御業を語り伝える召命を受けた者たちが、それを意識していたかどうかによらず、聖霊に用いられて御言葉を書き記し、伝承していく過程の上になされていったものです。これは聖書の使信を正確に理解する上で弁えて置きたいことです。

 例えば、それを踏まえて「太陽と月の静止」という出来事の意味を考えてみますと、本当に止まってしまえばそれが止まった瞬間に地球には大変動がおきて地上に生物はいなくなってしまうことでしょう。そういう「真実」をここに求めても、地動説を知らない昔の人々ならまだしも、今日の私たちには意味は通じません。『ヤシャルの書』に文学的に書き留められたその文句が、ヨシュア記の中で示している意味は、ヨシュアの祈りに主なる神が応えられて、天体にも力を及ぼされたということ、そうして、神御自身がイスラエルのために力を尽くして戦われた、ということです。自然法則に人間は逆らうことができないかも知れませんけれども、ここには自然法則をも自由にすることができる創造主なる神の権威と力が啓示されています。また、歴史の行方を定めるために人間は力を振るうのかも知れませんけれども、歴史を意のままに導くのも神である、ということがここに示されます。人が生きるも死ぬも、世界が存続するのも滅びるのも天の神の御旨次第だ、ということの前に、人は謙遜にならないでは生きて行くことができない、ということをここから聞いているわけです。

地上の王たちの屈服

 「主がイスラエルのために戦われた」と、14節と42節に繰り返されます。それが10章に記された出来事の伝えていることです。ヨシュアとイスラエルの上に神はアブラハム以来の約束を果たして下さいます。神は、イスラエルのために自ら戦ってくださる方です。自分の力を頼りにするのではなく、神の力を頼りにすることによって、命を与える神の祝福が地上にもたらされます。

 アモリ人の王たちは、ほら穴に逃げ込み、木に架けられて処刑され、再び穴に投げ込まれて大きな石で蓋をされてしまいます。聖絶によって滅ぼし尽くされた町々と共に、ここには聖書で言うところの「神に逆らう者」たちの最後が示されます。「アモリ人」とは実在の民族で、歴史的にも考古学的な調査が進められています。ですが、聖書が記すのは、その特定の民族が劣悪な血統や文化や民族性をもっていたがためにイスラエルに滅ぼされた、ということよりも、神に敵対する人間は恥多き死と滅びを免れえない、ということのモデルとして、イスラエルに対面した民族の一つに選ばれたのに過ぎません。私たちが旧約聖書のこの部分から聞くべきことは、天体の動きをも、また歴史の流れをも越えたところで、真の権限をもっておられる神の前で、信仰による選択をすることで命に至る、というメッセージです。真の王の権限は地上の権力にあるのではない、と今日の御言葉は語ります。イスラエルの前に引き出されて「首を踏みつけにされる」王たちの惨めな姿がそれを告げています。穏やかな現代人からすれば、酷いことをするものだ、という感じ方をするのだろうと思います。ですが、神の前に傲り高ぶる人間の諸権力はこのようにされる、との強いメッセージの前に、私たちは現代の世界を見る目を与えられるように思います。グローバルなネットワークで結ばれた私たちのこの時代は、まさに地上の王たちが結束して神に立ち向かうような時代です。しかし、神はそういう世界の恥多き敗北と滅びを昔から聖書を通して告げています。

 そして、私たちが救いを得る手だては、真の神がお示しになったイエス・キリストによる他はありません。今日の御言葉にあったアモリ人たちが辿ったのとほぼ同じ末路をもってキリストは木に架けられ、墓穴に放り込まれて、罪人の一人に数えられました。そのおぞましい最後は、実に神に逆らって生きていた私たちの運命でした。しかし、キリストはその運命を変えるために、私たちの死をそうして引き受けてくださった救い主です。キリストは、墓穴に蓋してあった大きな石を取り除いて、復活されました。キリストを信じる私たちは、その復活の新しい命に生かされます。旧約聖書の御言葉は優しくはありません。しかし、キリストにある救いへ導く確かな道標として、今も私たちに語りかけます。

祈り

天の父なる御神、真の義をもっておられるあなたの御前にあって、私たちは罪の故に滅びる他は無い定めにありましたけれども、あなたがお選びになったイスラエルによってあなたの救いを知り、また、罪を滅ぼすために戦われるあなたの御旨を知らせていただいて、私たちはキリストによる救いに与ることができます。どうか、謙遜に御前に進み出て赦しを受け取る信仰の内に私たちを留めておいてください。あなたとともにある時に、私たちは雄々しく、世の罪に立ち向かって行けることを信じさせてください。どうか、あなたを顧みないで自ら滅びを招いてしまうこの世界を憐れんでくださって、力を持つものたちの目に、主の十字架による救いを明らかに示してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。