マタイによる福音書8章28~34節

ガダラの豚

 

 主イエスと共に舟に乗った弟子たちが辿りついた「向こう岸」は「ガダラ人の地方」でした。マタイの伝えるところでは、イエスは本来イスラエルに遣わされた方ですから、今回は道を外れた旅になります。ガリラヤ湖の南端から少し南東へ行ったところにある「ガダラ」は異邦人の町です。

 マルコやルカが伝えるこの話では「ゲラサ」という別の町が舞台となっています。どちらが正確なのかは今では分かりませんが、二つの町の名が後の教会には伝えられることになりました。また、他の福音書に比べてマタイが伝えるこの部分はとても簡潔にまとめられています。その違いを弁えながら、今朝の御言葉から示されることを受け止めたいと思います。

 ガダラの町で、イエスと弟子たちは悪霊に憑かれた二人の人に出会いました。弟子たちのことは、ここでは何も触れられていません。また、その二人の人の、人となりについてもマタイは他の福音書のように詳しく語りません。関心は、イエスと悪霊たちとの関係に集中します。

 「悪霊に取りつかれる」ということを、「精神障害」と翻訳する現代語訳の聖書がありますが、これは古代世界の人々の表現です。心の病を負った人がそのように呼ばれたことも確かにあったでしょうけれども、何でも医学で説明しようとする現代の私たちよりも、もっと幅の広い内容をもっていると見た方がよいでしょう。そうでないと、私たちの周りでそうした障害や病をもった人を、「悪霊に取りつかれている」などと言って差別したり、悪魔祓いに頼ったりする誤りに巻き込まれます。

 イエスの癒しの奇跡が続けて語られている場面ですから、これも癒しの一つに数えてもよいとは思います。けれども、ここに見られるのは、心身の病の背後にあって人を苦しめるものの存在です。「悪霊」は「霊」ですから目に見えない力です。今日では「悪」と置き換えた方が分かり易いかも知れません。それは、私たちに病気を引き起こすばかりでなく、ここに出てくる二人のように、時に「狂暴」にもさせる、この世界に働く目に見えない力です。

 今日でも悪魔祓いに類するようなことは様々な宗教で実践されていて、因習の深い地方には伝統的な儀式などが残っているのかも知れません。だからと言って、聖書の記す「悪霊憑き」が、現代の世界に暮らす私たちにはもう無関係かといえばそうも言えないのではないかと思います。特に、悪霊と主イエスとの関係を見るときに、そこで意図されているのは、目に見えないながらも私たち個人や社会を内側から拘束して生きることそのものを難しくするような力ですから、いろいろと思い当たることが身の回りにもあります。それを「悪い時代」とか「流れ」と人は表現するのでしょうけれども、聖書はそこに「悪霊」の勢力を見てとっています。

 今日の箇所で出て参ります、悪霊に取りつかれていたこの二人は、町の人々が普通に暮らしている生きた世界から切り離されて、死者の世界を表す墓場に閉じ込められていました。悪霊の力はまさにここにあります。ですから、道行く人に誰かれ問わず襲いかかる彼らの狂気は、単に病気では済まされないものがあります。

町の人々と彼らとの関係について、マタイは他の福音記者たちのようには何も説明を加えていません。おそらく、この二人は異邦人の地であるガダラを象徴する人物と看做されているのでしょう。先の22節で、主イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者たちを葬らせなさい」と弟子たちに言っておられます。羊の群れではなく、汚れた豚の群れを飼う異邦人の町ガダラは、悪霊たちが自由に力をふるう、「死んでいる者たち」の世界でした。

 そこへ乗り込んで来られたイエスとぶつかって、悪霊たちはパニックに襲われます。彼らはイエスが誰であるかを知っていました。彼らの口から「神の子」という告白が聞かれます。その意味するところは、イエスは定められた最後の裁きにおいて悪を滅ぼす権威をもったお方である、ということです。まだ、その終りの時が来たはずはないのに、地獄の責め苦を自分たちにもたらそうとするのか、という動揺が悪霊たちの叫びに表れています。そして、彼らが生き延びる手立てとして、「豚の中に入る」という提案がなされたわけです。

 豚はユダヤ人たちの間では不浄の動物でした。それは時に、異邦人を表す隠語にもなりましたけれども、ここではガダラ人が神から離れた人々であることを象徴しています。悪霊たちの計算では、汚れた豚の中であればユダヤ人たちは近づかないであろうし、誰に危害を加えるのでもないのだから放っておいても構わないだろう、ということだったのでしょう。イエスはそれを許可されて、悪霊は豚の群れに入りました。ところが、悪霊にとって豚は安全な住処ではなく、それらは豚もろとも湖になだれ込んで死んでしまいました。こうして、水に飲まれて悪霊は滅びた、とのことです。

 イエスはこうして悪霊に取りつかれた二人の人を、その支配から解放されました。それは墓場からの解放です。主イエス・キリストには死が支配する力から人を命へと還す力と権威とがあります。

 実際に、豚の群れが湖へなだれ込む光景は想像を絶する恐ろしさがあります。レミングの群れが過剰な繁殖の結果、崖から海へとなだれ込むことはよく知られていますが、豚ならば大きさも勢いも違ったことでしょう。それを目撃した豚飼いたちは恐怖に囚われて町へ逃げ出して、起こった出来事の一切を町の人々に報告しました。ここには、イエスを通して神が引き起こされた出来事に接して人が捉われる「驚き」があって、それを伝え聞いた人々がやはりイエスのもとへ大勢押し寄せます。けれども、この異邦人の地では、「驚き」は恐怖にしか結びつかず、悪霊が正しくも指摘した「神の子」イエスは、ガダラの人々には受け入れられませんでした。

 私たちはここに、悪霊たちを追い出す権威をもった主イエスの姿を認めます。それは、嵐を静める奇跡を通して、自然をも支配下に置かれる主イエスの権威に続いて私たちに示されるものです。そして、マタイが記すこの箇所で、主イエスが言葉を発しておられるのは、32節にある「行け」の一言でした。ギリシア・ローマ世界には悪魔祓いのために呪術が用いられたと言います。それは、ギリシア文化に染まったユダヤ人たちの間にも見られたものです。しかし、主イエスはそうした専門家にしか分からない言葉の複雑な技術を用いて、天から力を引き出すようなことはしません。先に百人隊長が信じて告白したように、「行け」といえば「行く」のが権威ある言葉の作用です。主イエスが「出て行け」とお命じになれば、悪霊は出て行かざるを得ません。

 一緒に舟に乗ってガダラに渡った弟子たちも、この一切の出来事を見ていたことと思います。弟子たちには、主イエスの内にある神の子としての権威に信じて従うことが求められています。彼らが聞いて来た御言葉には、命を奪おうとする自然の諸力にも、人を狂気と死に追いやろうとする悪の力にも、真に打ち勝つ力があるということを、小さい信仰の内に留めておくことが求められます。

 ガダラの人々は、今回その機会を逃してしまいました。まだ時が来ていなかった、のでしょう。これと並行する記事を載せるマルコ福音書の章では、ここで癒された人がそこからデカポリス地方に宣教したとありますが、マタイのこのところでは異邦人宣教についての関心は見られません。むしろ、これまでの脈絡から考えたいことは、ガダラの人々が二人の人の癒しにはまるで関心を示さずに、主イエスを追い出すことになったか、ということです。

出来事に接して彼らが感じた「恐れ」は、信仰には結びつきませんでした。むしろ、彼らはそこに「危険」を察知したのではないかと思われます。先の20節には、「弟子になりたい」と近づいて来たユダヤの律法学者に対して、主イエスが「人の子には枕するところもない」と答えられたとありました。つまり、主イエスを信じて従うことには、それまで自分が身を置いていた安全な場所から離れて、イエスを信じるが故に引き受ける危険を覚悟することだと、弟子たちに諭されているわけです。ガダラの人々は悪霊をも支配されるイエスの力を目の当たりにしたのですが、彼らにとっては豚の群れが失われることの方がより脅威であったのではないかと思われます。イエスがガダラの人々の宗教的・経済的生活を覆してしまうのを彼らは恐れた。だから、自分たちの町に来ていただくよりも、「出ていってもらう」方を選びました。

つまり、イエスを得て豚を失うか、豚を得てイエスを失うか、どちらを取るかと迫れたとき、ガダラの人々は豚を選んだといってよいかと思います。これは、イエス・キリストへの信仰に伴う選択として誰にも問われます。そして、その問いに答えて後をついて来たのが弟子たちでした。ペトロやアンデレがイエスに声をかけられて従ったとき、二人はすぐに網を捨てて、つまり仕事を捨てて、イエスに従いました。ヤコブとヨハネの時も同じでした。彼らは舟と父をその場において、イエスの後に従いました。この世の貧しい人々の間にイエスが身を寄せたとき、病める人々が大勢イエスに従ったのも、彼らには誰かが保証してくれる「安全」など他には無かったからです。ですから、今の生活に満足している人々は、イエスの業や言葉に心を動かされたとしても、それを信じることの利害を考えて、あえて危険を冒しはしません。教会がキリストの福音を宣べ伝えて、真の救いを提供したいと考えてもなかなか上手くいかないのは、主イエスがこの世に来られた時から変わりません。

主イエス・キリストがもっておられる権威は、人が人を利己的に支配するために行使する権威とは異なっていて、その言葉によって命を確実にもたらすためのものです。何ものにも代えることのできない、私の、そして私たちの、大切な命の源がそこで保たれます。ガダラで二人の人が悪霊から解放されたとはいえ、イエスを拒否したその町全体にはまだ悪霊の諸力が働いていて、人々が「墓場」から解放されたわけではありません。私たちの暮らすこの町、また日本の社会、世界も同じではないでしょうか。見えない力に抑圧されて、生きる価値を見出せなくて、自分で命を絶つ人の群れが、日本ばかりでなく世界の先進諸国に見られます。雪崩打って海に飛び込むといえるほどの数の多さに圧倒されます。その原因については、社会学的に、病理学的に、何らかの説明がつくのかも知れませんが、そこに働く目に見えない力を「悪霊」と言っては憚られるでしょうか。墓場につなぎ止められているように、生きて活動している社会から締め出されている無数の人々もあります。そして、その同じ社会に暮らす人々の生活も、「豚を失う」ことを恐れて、死んでいる人々の世界から抜け出せないでいるように思えます。

イエス・キリストは、弟子たちを伴って、そこへと舟をこぎ出して行かれるお方です。それは、悪霊の支配に終わりをもたらすためにです。悪霊に対する裁きは、世の終わりにとって置かれることなく、イエス・キリストが世に来られた時から始められています。悪霊を追い出し、人を墓から解放するのは、神の権威をもった主の御言葉です。私たちが信じるイエス・キリストは、この世界に働くあらゆる諸力を越えた権威をもったお方です。それは、私たちが最終的に信頼を置く、唯一の拠り所です。その信仰によって私たちは目に見えない世の力から解放されて、御言葉に従った指針をもって人生の終わりまで歩むことが出来ます。

私たちが福音宣教に召されているのは、人の命を拘束する死の力から、主イエス・キリストが御自身の福音によって解放されるためです。確かに、私たちが「出て行け」と叫んだからと言って、自分や隣人の心の病が癒されるわけでもありません。神の権威をもっておられるイエス・キリストの奇跡を私たちが再び演じて見せることが宣教の手段や目的ではなくて、主イエスが聖書に託された御言葉が、私たち個人や、また私たちが暮らすこの町や日本の社会や世界を悪霊から解放することを信じて、これを語り伝えます。力ある御言葉を、主イエスは先に山上の説教として弟子たちにお語りになりました。そのように、「敵を愛せ」という言葉がこの世に愛を生みだすということが起こります。「赦しなさい」ということばが憎しみ合う間柄に和解をもたらすことが起こります。そうして、墓場に縛り付けられていた人々が、神によって生かされる本当の命に目覚めさせていただきます。そういうことを、真剣に信じて従うのがキリストの弟子に召された私たちです。主イエスはそういう私たちと同じ舟に乗って、私たちを連れてあちこちの岸辺に向かわれます。小さい信仰といわれる私たちは嵐に怯えたりしながらも、主が率先して行かれる癒しの業についていって、そのお働きに仕えます。そして、最後は天の国の岸辺に共に降り立つのです。

悩み苦しむ隣人たちと接しながら時代の重さを感じる時に、私たちは御言葉の内にある神の権威に心を目覚めさせられて、希望を失わないでいたいと願います。「あなたが信じた通りになるように」と主は言われます。それを信じて聴くということ、また信じて語るということが、実際に実りを生みます。キリストの言葉による解放を待つ多くの方々の処へ、私たち自身が福音をもって出かけて行って、キリストの弟子たる務めを果たしたいと思います。

 

祈り

天の父なる御神、この時代の閉塞感の中で、目に見えない力に抑え込まれて生きる力を失う多くの人々があることをあなたはよくご存じです。言葉に力のない私たちをどうか憐れんでくださって、あなたがお示しくださる真理の言葉をお与えくださり、救いを求める隣人のもとへとお遣わしください。聖霊のお働きによって、私たち自身をまた主の教会を命の活力に満ちた場所としてくださり、心から主イエスに従う信仰をもって、世に働く悪霊の力に打ち勝たせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。