マタイによる福音書5章17-20節

「律法を完成する方」 

 

 主イエスが山上の説教を通して弟子たちに教えられました内容は、一見して非常に高い道徳を語っています。それだけに、ここにあります主イエスの教えは、一般にも多くの人の心を捉えます。そのことが、福音に慣れ親しんでいる者たちには改めて大切なのではないかと近頃考えています。主イエスの教えの高さは、いわば極端でして、普通の人には近づき難いほどです。具体的には、この後に続いて述べられますが、一番有名なものは、「敵を愛せ」という教えです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という風に、やられたらやり返すのではなくて、自分を攻撃する者をも愛せといいます。そうはいっても無理だとも思うのが普通でしょうが、まずは主イエスの言葉を真っ直ぐに受け止めることが大切です。

「敵を愛せ」という教えは一つの事例になりますが、主イエスが弟子たちに山上の説教で求めておられるのは「完全であること」です。それは、章の終りで説教の結びとして次のように述べられています(48節)。

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい

 

私たちはこの福音書にある主イエスの説教から、神の御前にある私たちの生活について教えられます。そこにある完全さは、今日の段落の言葉でいいますと、20節にありますとおり、律法学者やファリサイ派の人々に優る義、となります。そこで、まず「律法」についてお話をしておいた方がよいと思います。

当時のユダヤ人たちの信仰と実践は、モーセの律法にかかっていました。17節に「律法や預言者」とありますが、これは旧約聖書を指しています。ですから、「律法」とあるところを、「旧約聖書」とまず理解していただいて構いません。正確に言いますと、「律法」とは旧約聖書の初めにあるつの書物を指しておりまして、伝統的には「モーセ五書」とも呼ばれます。このモーセの権威の下に纏められた書物は、神に救っていただいたイスラエル民族が、シナイ山の麓で、神と契約を結んで神の民とされた時に、モーセを通して神から与えられた掟を中心に含んでいます。モーセの十戒は、その時に二枚の石の板に刻まれた契約の言葉でして、イスラエルの信仰と生活の基準が十の掟に纏められたものです。

今でもキリスト教会では、この十戒の教えを受け継いで大切に学ぶことにしています。礼拝の中で十戒を唱和するかどうかは教会によって異なりますが、ウェストミンスター信条やハイデルベルク信仰問答など、信仰告白で用いる文書には十戒の解説が含まれています。旧約聖書では、出エジプト記20章と申命記章の二箇所に十戒が記されています。若干の違いがあるのですが、教会では主に出エジプト記の方を用います。

 

*そこをお読みしますので、お手持ちの聖書で開ける方はどうぞご覧ください。

神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 

この十戒の前半は主に礼拝に関する掟です。イスラエルをエジプトから救ってくださった、唯一の神を信じ、正しい礼拝をささげることが命じられています。安息日もまた、神の創造の御業を記念する日として、完全な休息によって神を礼拝することが求められます。そして、12節からの後半は、隣人に対する義務を定めた掟です。神を礼拝するようにされた民は、隣人に対して義を尽くす者でなくてはならないとされます。これは実に簡潔な形で、イスラエルの信仰と生活に指針を与えていますが、他にも多様に記される旧約聖書の掟は、概ねこの十戒の展開とみることができます。また、旧約聖書の預言者たちは、後の時代にもっと自由に神の言葉を語っている向きがありますが、しかし根本的にはこの十戒の精神に反して語ることはありません。掟の源は神ですから、その根本の精神においては一致しています。

 ユダヤ人は、この律法に従って生きる民です。エジプトで奴隷でありましたところから、神によって自由へと解放していただいて、神と契約を結んだイスラエルとして、歴史を歩んできた人びとです。律法に従って、掟を守って生活するのは、契約という神との絆を保証するためでした。神と共に歩むということが、生活としっかり結びついていました。掟に従って生活をし、それを破れば罰則が適用される、ということでは戒律主義だと言えます。しかし、その遵法精神は今日の私たちの社会にも通じるところがありまして、私たちもまた市民社会の中で様々なルールに従って生活をしていますから、まったく想像出来ないことではないと思います。市民に適用される法は罰するためにあるのではなくて、市民を守るためにあります。法によって保護されていない人々がいかに寄る辺ないか、を考えてみればよく分かります。無法の恐ろしさを、旧約聖書の人びとはよく知っています。

ですから、イスラエルに律法が与えられたのは神の恵みです。自分自身を法として暴力的な抑圧を行う支配者から解放されて、神の法によって社会の秩序を与えられて、イスラエルは自由な民として神の御前に生きるようになりました。先ほど一緒に確認しました十戒の文言をみますと、その掟は、何か個人の霊性を高めるための、聖人になるための修練の手引きではないと直ぐに分かります。それは共同体の倫理を形作るための知恵でして、互いの生命と財産を尊び、平和を生み出すことが目的となっています。それが、神への信仰と一つに結び合わされていて、神の目的が、民の生命を守り、平和を彼らに与えることだと知らされます。

 

律法の概要をお話ししましたが、この神の言葉であり掟である律法を守り、具体的な生活に適用するために知恵と判断とをもたらす役割を担ったのが、律法学者でありファリサイ派の指導者たちです。彼らが後に、キリスト教と袂を分かって新しいユダヤ教を作りました。律法学者やファリサイ派というユダヤ教の指導者たちは、神の言葉を守る点で熱心でありまして、まさに神がイスラエルに与えたもう「義」を確立することが彼らの目標でした。その点で、主イエスは彼らに完全に同意されます。18節、19節の言葉は、そのように理解されます。

 

はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

 

主イエスがこうして律法を承認されていることは、今日の私たちが旧約聖書を重んじる一つの理由となります。律法に記されていることは、確かに、昔のイスラエルの人びとが生きるために、神がモーセや預言者たちを通じて教えられた、その時に有効な知恵であり、生活の指針ですが、十戒にも明らかなように、旧約聖書には時代によっても変わらない普遍的な教えが蓄えられていて、私たちもそれを信仰と生活の指針として受け取ることができます。

聖書によって与えられる信仰は、神と契約を結ぶことによって成り立つ信仰です。それは、私個人の人格と生活の全体をかけて神との関係に生きることを表します。

また同時に、契約は、神と個人と結ばれるものではなくて、いつでも民を対象としています。神はご自身の民をこの世界に造られて契約を結ばれます。それが教会として形をとるのでして、契約の当事者はイエス・キリストを代表としています。それで私たちも、契約の保証書として聖書全体を受け取って、これを大切に学び、信仰と生活の指針とします。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」との主の言葉を真剣に受け取るために、キリスト教会はユダヤ教から分離した後も、旧約聖書を新約聖書から切り離すことはしませんでした。

 

そうしますと、私たちはユダヤ人と同じように律法に従って、旧約聖書を掟として生活をするよう求められているのか、ということがキリスト教会の問題となります。これはパウロが異邦人伝道をする際に、特別な関心を払った問題でもありました。しかし、この点でも、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に従えとか、彼らと同じようにしなさいとは言っておられません。むしろ、今日の言葉を聞いて気がつくことは、主イエスと弟子たちはファリサイ派の人々に比べてだいぶ自由であった様子が、福音書から伺えることです。安息日にしてはならないとされていたことをしたり、汚れた者たちと付き合ってはならないとされていたのに、一緒に飲んだり食べたりしていた、ということが、ユダヤ教の真面目な人びとの反感を買いました。またパウロもガラテヤ書などの手紙の中で、律法に縛られてはならないということを強く主張しています。そうしますと、それは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない」との主の言葉とどう一致するのかが問題になります。

主イエスは「わたしが来たのは完成するためだ」と言われました。また、20節では、「あなたがたの義がまさる」と言われます。ファリサイ派と同じではなく、それを越えていかねばならない、というのが主イエスの教えです。では、どう越えて行くのでしょうか。

ファリサイ派の聖書に対する信仰と熱心は、主イエスを通して弟子たちにも受け継がれました。しかし、彼らの実践の実情は、必ずしも律法そのものに即したものではありませんでした。12章で出てきますが、ある安息日の問答がなされる箇所で、主イエスはファリサイ派の人々に対して「人の子は安息日の主である」と言われました。マルコ福音書ではそこに説明が加わっておりまして、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と意図がはっきりしています。つまり、律法は、神が人を生かすために恵みとして与えられたものなのですが、戒律を守る熱心さのあまり、或いは、信仰心のなさから宗教が制度化して権益集団になってしまうような状況があって転倒が生じてしまう。こうしたことは、他の事例でも説明がつくかも知れません。本来ならば人間のための会社であるのでしょうが、会社のために人間が消費されるような事態ですとか、本来ならば国民の福祉のために仕える国家機構なのでしょうけれども、国民を犠牲にして国家の体面を保つようになるなど。神への信仰が宗教という習俗になり、文化的な社会制度の一つに成り果てますと、この転倒が生じます。

律法という神の言葉を通して人を生かそうとする神のご計画は変わらない。しかし、ファリサイ派の人々が伝統にしてしまって、自己批判を欠いた信仰のあり方は、律法の目標を完成することはできない。神の言葉を忠実に守っているという自負心が、信仰の内実になってしまっていて、そこに最も重要なものが抜け落ちてしまう。それは何かといえば、十戒の板にも書き記されていた、唯一の神に従う熱心と、隣人に対する義務を果たす忠実さの結びつきです。神に対する自分ひとりの熱心では、律法は完成しない。「隣人を自分のように愛しなさい」という掟において全うされなければならない。さらにその「隣人」という枠組みが、血縁集団や同じ民族同士の、仲間意識に支えられたものを越え出て、「敵」をも含むところまで広がって、初めて律法は完成を見ます。主イエスが弟子たちに教えられたところの「あなたがたの義」とは、まさに、主イエスがその御生涯を通して、とりわけ、十字架に向かう苦難のご生涯において差し出される自己犠牲の愛を指しています。

キリストがお示しになる義のあり方は完全で、当時の人びとが言葉の表面で捉えた律法の義をはるかに越えています。その特質は心と業の完全な一致です。外側からのアプローチは比較的容易いものです。人は社会の中で規則を学び、それを自然に身に付けます。しかし、そうして獲得された規範は、見せかけの正しさに過ぎない危険があって、時に隣人に対する愛を裏切ります。貧しい者を憐れまず、疲れている者を休ませない「義」は一部の者に利益を独占させるだけで、神の完全さからは遠い。キリストが弟子たちに求めておられるのは、そういう人間の自己正当化から来る義ではなく、神の完全な義です。そして、人にそれをもたらすのが本来の律法の役割であり、神の恵みです。主イエスは弟子たちに無理な要求をされたようにも思えますが、そうではなくて、まず、主が御自分の命をささげて、弟子たちのために神の義を獲得してくださいます。その完全な義を弟子たちは無償で受け取って、自分の不甲斐なさを許していただきながらも、主イエスと共に愛の道に歩んで行きます。それが天国に至る神の備えたもう道であって、弟子たる者の光栄です。

 

祈り

本来ならば決して入ることのできない天の御国へと、深い愛をもって私たちを導いてくださる、父なる御神、私たちの命のはかなさ、私たちの言葉の愚かさに比べて、あなたは決して滅びない、真の言葉をお示しになりました。主イエスの愛の掟を心に刻んで、私たちを主のもとで新たに造り替え、あなたのご計画であります、自由と平和とを世にもたらしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。