マタイによる福音書14章1~12節

十字架の予兆

 はじめに

 主イエスはたとえ話を用いて天国の秘密について人々に語りました。それは、人からは隠されている宝であって、見つけたならば全財産をつぎ込んでも、或いは、全生涯をささげても惜しくはない、他の何よりも価値のあるものだと明かされました。天国とは、イエス・キリストによってもたらされる、神と共に生きる人の命のことです。誰もがそれを手にすれば幸せになることが出来る。逆に言えば、それをもたないでいるから、人は罪ある世の中で道を見失っている。そういう天国、または神の国が、神の子キリストによって人にもたらされのでして、イエス・キリストを信じて従う弟子たちには、もれなくその秘密が明かされ、その恵みが天の賜物として与えられます。

 問題は、ですから、イエスの言葉を信じるかどうかです。その天国の価値を、最高の宝として認めるかどうかです。その答えは、聖書の話を聞いた一人ひとりが自分で答えるより他はありませんけれども、福音書はその処で、人々の躓きを記して、私たちに対する範例としています。今日の箇所に先立つ13章の終りには、イエスが故郷のナザレを訪れた時のことが記されていました。そこで福音書を記すマタイが伝えているのは、イエスが会堂で説教されたにも関わらず、村の人々はイエスの育ちを知っていたために、イエスを信じることができなかったことです。

 イエス・キリストが救い主であり、この世に神の国をもたらすお方であると信じることは、人には容易ではない、ということは聖書の中で既に語られていることです。今日の我々も同様です。聖書を開いて読んでみたからと言って、すぐに心に光が差し込んで、神の国のことが分かるという訳ではありません。説教を聞いたからといって、誰もが永遠の命を信じるようにはなりません。人が神を信じて、キリストの十字架によって救われるのは、神が私たちの心に働いて、真理を悟らせてくださる他に道はありません。しかし、そうであれば、必ず人はイエスの言葉を信じて、罪の赦しと永遠の命をいただくことができます。真剣にイエスのもとを訪ねて、救いを乞うのであれば、神が私たちに信仰を与えてくれます。むしろ、そのためにキリストは世に来られたのです。私たちが一人も滅びないで天国に行けるように、キリストは世に来て、人の救いのために御自分の命をささげて働かれます。

 今日の箇所では、主イエスは周辺に退かれて、洗礼者ヨハネの話が語られています。けれども、福音書がこれを記すのは、主イエスに対する関心からです。洗礼者ヨハネは主イエスの前触れとして世に来た預言者でした。そしてその最後は、時の権力であるヘロデ王による処刑でした。これは、それに続いて、イエス・キリストがポンテオ・ピラトによって処刑されることの前触れだったとマタイは記します。そのようにして、洗礼者ヨハネは最後までイエス・キリストを指さして、地上の生涯を終えます。

 ただ、洗礼者ヨハネもまた今日の話の中心には姿を現わしません。スポットが当てられているのはヘロデ王です。

 このヘロデは、クリスマスに登場するヘロデ王の息子で、ヘロデ・アンティパスと言います。父の死後、領土を分与されて、ガリラヤ方面の領主となりました。彼はイエスの評判を聞きつけて、洗礼者ヨハネが生き返ったと恐れます。何故なら、彼は既にヨハネを自ら処刑してしまっていて、そのことについて良心の呵責を覚えていたからであろうと思われます。ヘロデはイエスの評判を聞いて、イエスの内に神の力が働いていることを認めます。死者の中から人が生き返ることも信じています。それならばイエスを救い主と信じる信仰に近いのではと思われますが、そうではなく、ヘロデはその恐れから、今度はイエスを殺す側に廻ります。政治権力の持つ恐ろしさ、また、権力を手にした人間の脆さがここによく出ています。政治に携わる方々を特別に悪く言うつもりはないのですが、権力は人を殺す力を持ちますから、そこには世の暗さがまざまざと映し出されます。

 ヘロデがヨハネを殺すことになった経緯は次のようなものでした。幾らか背景を説明しながら、マタイの伝えるところを振り返ってみます。

 ヘロデ・アンティパスには兄弟があって、同じく父であるヘロデ大王から領土を分け与えられていました。その一人がフィリポでして、ヘロデ・アンティパスはその兄弟の妻ヘロディアと不倫を犯して、元の妻を追い出して彼女を新しい妻にしてしまいました。このことは政治問題にも発展して後には戦争が起こるのですが、その前に洗礼者ヨハネが王の結婚は宗教的にも違法だと批判したわけです。ヘロディアは兄弟の妻であるばかりか自分の姪でもあって彼らの結婚は近親相姦にもなります。レビ記18章にはそれが違反である旨が記されています。

 それでヘロデはヨハネを殺したいと思っていたようですが、彼を預言者と認める民衆の手前それが出来ないでいました。9節では「王は心を痛めた」とありますから、ヨハネを殺すのは不本意だったことになりますが、マタイがここで5節のように記すのは、ヨハネに対する殺意が、イエスに対するユダヤ当局の態度と共通することを表すためでしょう。21章46節をみると同じ表現が出て来ます。

 実際、ヨハネを殺そうと強く願ったのは、新しい妻のヘロディアの方でした。ヘロデは自分の誕生祝賀会で、おそらくローマ風の華々しいパーティで会ったのでしょうが、連れ子であったヘロディアの娘が舞台で踊るのをみて喜び、たぶん酔いも廻っていたせいか、「願うものは何でもやろう」という軽はずみな約束をします。子どもと思って高をくくったのかも知れませんが、そこへ母が入れ知恵をして、娘にヨハネの首を刎ねることを求めさせます。誓いは解こうと思えば解けるのですが、客の手前もあって、王が約束を果たさないなど恥ずかしいことですから、娘の願いどおり、ヨハネの首を盆にのせて運ばせることとなりました。少女の舞いと盆の首という残酷なイメージが「サロメ」という少女の名を冠したオペラになるなど、ヨハネの最後のシーンは十字架に匹敵するほど強烈です。

 こうして福音書を通して知らされることになった洗礼者ヨハネ殺害の事件は、真の神への立ち返りを求めて神の下から送られてきた預言者を、イスラエルの民が拒否し続けて来た歴史の一コマを形づくります。聖書はこのように、神がお選びになったイスラエルの民の地上での歩みを通して、人間が如何に神に背き続けているかを訴え続けています。ヘロデとそれを取り巻く人々の狂態はどれ程でしょうか。違法な結婚をし、それに対する批判を暴力で取り除こうとやっきになり、酒宴の席で軽率な誓いを為し、面子を気にするがために預言者を殺す羽目になったヘロデは、この話を聞く者に卑小な権力者の姿を見せつけます。陰湿な恨みを抱いて、恐るべき要求を果たすために自分の娘を利用するヘロディアの醜さ。華麗な舞を踊る少女の手に生首が手渡されるおぞましさ。こうして形づくられる光景が、詩編の歌うところの神に逆らう者の集いであり、光のさし込まない闇ではないでしょうか。そして、私たちはこうしたおぞましい世界が、今の私たちの暮らす社会の一面であることをも、実際に自分で体験しているのではないにしても、薄々感じ取っているのではないかと思います。

この闇の中で、神の預言者たちは血を流し、葬られて行きました。しかし、預言者たちは死んでも、彼らが語った言葉は失われることがありません。神の言葉は生きて必ず目的を果たします。洗礼者ヨハネの役割は、神が預言者たちを通して語られた救いがこの人によって果たされると、メシアを指し示すことにありました。ヨハネはイエスに洗礼を授けて公の生涯へと送り出しましたが、最後はイエスのもとに弟子を送って自らの死を報告させます。おそらく、間違いなく、彼らはイエスの弟子となったのでしょう。ヨハネ福音書には洗礼者ヨハネの弟子たちがやがてイエスの後をついて行ったことを記しています。

こうして血を流して死んでいった預言者たちの最後に洗礼者ヨハネが置かれ、そしてイエス・キリストの十字架が続きます。自らの欲と面子のために人の命を奪うことも辞さないこの堕落した世界は、本当は神によって滅ぼされてしまっても仕方がないのかも知れません。かつて神は、この地上を御覧になって、人の思いがことごとく悪いのに心を痛めて、生きとし生けるものを洪水で一掃する決断をされたことがありました。創世記に記されているノアの洪水のことです。また、ソドムとゴモラの堕落ぶりが天から硫黄の火を降らせて町の全住民と草木を焼き尽くした、ということもありました。ヘロデの宮廷で行われた惨劇に対しても、神はそうした旧約の事例と同等の怒りを発しておられるはずです。

けれども、洪水の中でノアの家族が救われたように、天から降り注ぐ炎の中でロトの家族が救われたように、滅びに瀕した人間の罪の中から、生き延びてゆくものたちが必ず現れます。そこには、神が用意しておられる逃げ道があります。彼らは罪人の中から選ばれた者たちです。彼らは神の言葉を信じて、それに従って命を得ました。ヘロデの下でヨハネが死んでいった時、神は沈黙しておられるかのようでした。また、イエスが十字架におかかりになった時、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶその声に、神はお答えにはなりませんでした。けれども、それは救いが無いこと意味してはいません。その沈黙の中で預言者たちが死に、キリストが十字架にかかって死んでいった処で神の御旨が果たされます。

 ヘロデも、ヘロディアもその娘も、暗闇の中で裁きを待つ身でしかありません。その中で、自分が何をしているかもわからずに、罪を重ねてもがいています。彼らもまた、本当は救いを必要としている人間であるに違いはありません。彼らが悔い改めて立ち返ってキリスト者となったという記録はありません。けれども、神はそうした罪人たちのために一時の猶予をお与えになって、御子の十字架による赦しの道を備えられました。終りの日には裁くものがあります。その時にはもはや猶予はありません。己が罪から離れずに、神に敵対するままでいた者たちは、永遠の滅びに引き渡されます。しかし、人は誰でも、たとえヘロデのようなものであっても、自分の罪を悔いて、イエス・キリストのうちに救いの道を見出す者は、滅びを免れて生き延びることが出来ます。十字架にかかって死んだイエス・キリストが、今猶予を与えられているこの時に、救いを手にする唯一のチャンスです。

 今朝はこれから聖餐式に共に与ります。この聖餐の交わりは、私たちがこの世の罪のしがらみから解放されて、神がキリストによって結んでくださった命の交わりです。この食卓のために、主イエス・キリストは不信仰な人間の手によって十字架にかかって死なれました。しかし、それは不信仰な人間がこの食卓に招かれるための神の御旨でありました。私たちはただ、神の力によって、聖霊の恵みによって、この食卓の座に着かせていただきます。その恵みに感謝して、尚も世の救いがここにかかっていることに希望を持って、パンと杯を通して主の体にあずかりたいと願います。

 

祈り

天の父なる御神、私たちの暮らすこの世界は、あなたの御前にあって救い難い罪深さを持っておりますが、あなたはこれをお見捨てにならず、信仰による救いの道を開いて、お選びになった者たちを招き続けておられます。先に主イエスとの交わりに加えられた私たちが、尚も感謝して主イエスの弟子として地上の生を全うできるよう信仰の支えをお与えくださると共に、どうか、その罪の中で道を見失った者たちを憐れんでくださり、あなたの御力で信仰の目を開かせてください。次週は伝道礼拝を行いますが、あなたのお選びになった方々を、どうかここに召し集めてくださいますようお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。