マタイによる福音書13章1~23節

神の言葉は実を結ぶ

はじめに

 日本のキリスト教伝道がなかなか上手く進みませんで、これから私どもの教会はどうなってしまうんだろうと心配にもなります。私たちも伝道所から独立して教会設立を果たしたいと祈って準備を進めていますが、これからもっともっと教会員が増えていかないと独立どころか存続さえ危ういのではないかと不安になります。けれども、御言葉を宣べ伝える働きに、決して気落ちしてはならないことを主イエスは弟子たちに語っておられます。イエス・キリストがこの世に来られて始まった、神の国の進展は、神御自身の計画の中にあることなので、語られた御言葉は必ず実りをもたらすことを信じなさいと、主イエスは励ましておられます。チラシをまいてもホームページを作ってもなかなか効果は見られないのですけれども、また、家族や知人など周囲の人々に呼びかけてもなかなか教会に足を運んではくれないのですけれども、諦めないで、御言葉を伝えるものでありたいと願います。私たちの教会が新しく来られる方々をお迎えするために、必要な賜物を祈り求めながら、出来る限りの力を合わせて参りたいと願います。

 また、私たち自身、周囲の人々に受け入れられないからということで、御言葉そのものの価値を見失わないようにしたいと思います。聖書に対する関心が私たちの内から失われてしまうようであれば、私たちの信仰も効き目のない塩のようになってしまいます。私たち自身が御言葉に生かされる信仰を活き活きと保っていなければ、隣人にそれを伝える力も湧いてこないでしょうから、まず、私たちは聖書の言葉を神の言葉として尊んで、その言葉に頼る日々の信仰を確かにしたいと思います。今朝、福音書で主イエスが語っておられるのは、神の言葉は必ず実を結ぶ、しかも豊かな実りを期待して良い、ということです。私たちはその言葉を信じて、私たち自身の内に御言葉の豊かな実を与えられたいと願いますし、伝道の働きにも積極的でありたいと願います。

 

イエスが譬えを用いる理由

 伝道が上手くいかない状況は、私たちの周りにだけ特有のなにか事情があるからではなくして、主イエスが弟子たちと共に働かれたその最初からそうでした。罪ある人間は心も体も神から離れて生活していますから、神の言葉を聞き分ける耳などもってはいません。それを聞いて受け入れるということ自体が奇跡的なことです。主イエスが「神の国が近づいた」と呼ばわって人々の間に来られた時にも皆がそれを有り難く拝聴したわけではなかったことは、これまでのところでマタイが十分語っていました。多くの群衆は「癒し」を求めて集って来ましたけれども、その信仰の程はどれほどのものか分かりません。ファリサイ派の人々はかえってイエスを警戒しまして、イエスが語れば語るほど敵意を露わにして、ついには殺す相談さえするようになりました。イエスの家族もイエスの本当の御姿には気づいていません。主イエスにとって伝道が困難なことは初めから判っていることです。御言葉を語ってすぐに人が悔い改めるようであれば、何も主イエスは十字架におかかりになる必要もなかったことでしょう。神の言葉を聞くことができないで、そのまま滅びに向かって行く罪人たちが、罪の赦しを得て、神に立ち帰って、御言葉に頼って生きることが出来るように、十字架にかかって死ぬために主イエスはこの世に来てくださいました。

 今朝の箇所では、多くの群衆を前にして、主イエスはたとえをお話しになりました。この13章には神の国のたとえが集められていますが、今朝の御言葉はその一つです。「種まきのたとえ」はマルコやルカにも記されていて、イエスのたとえ話の中でも特によく知られています。イエスが多くのたとえをお語りになったことは、福音書の中にそれが見出されることから知られています。たとえによって語ること自体は、当時のユダヤ教の教師たちと変わりがありません。たとえを用いることは当時のユダヤ人たちの説教の一つの型でした。今日の牧師たちも説教の中で例話をよく用いますから―私は苦手なんですけれども―特別な語り口ではないだろうと思います。

 しかし、イエスは、ただ当時の習慣でたとえを用いたのではありませんでした。そこに積極的な意図があったと今日の処では明かされています。まずは10節から17節に記されていることを心に留めておきたいと思います。

 何故、人々には譬えでお話しになるのか、と弟子たちはイエスに問いました。そこでイエスはお答えになります。

あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

 まず、イエスに召された弟子たちとイエスのもとに押し寄せて来た群衆との間には違いがある、と言われます。イエスがお召しになった弟子たちである「あなたがた」には「天の国の秘密を悟ることが許されている」と言われます。「天の国の秘密」とは、神の御旨の内に隠されていた救いの御計画のことです。その神の御計画に従って、神の子キリストが世に来られ、十字架と復活の御業を果たして、罪人の救いを達成します。この、イエス・キリストによる救いの御業を信じて、天の神を父と仰いで、イエスに結ばれた兄弟姉妹たちが、イエスの真の弟子であり、家族として、天の御国を受け継ぎます。こうした救いの御計画が、イエスを信じる弟子たちには明かされます。その秘密を弟子たちが本当に悟るのは主が復活された後に、聖霊を受けてからのことです。けれども、マタイ福音書はこの所で、復活前の弟子たちとその後の区別をしていません。弟子たちには、イエスに従う信仰を通じて、天の国の秘密が直接語られます。けれども、イエスを神の子・救い主と信じていない群衆には、その秘密は隠されたままです。なぜならば、イエスを救い主と信じて、罪の赦しを願ってついて来る者でなければ、十字架も復活も、神の国も永遠の命も、理解し難いことだからです。

 このことは私たちの伝道にも関わることと思います。聖書や説教で語られる「神の国」とか「永遠の命」などということは、キリストを未だ信じていない一般の人々には何のことかはさっぱり分からないと思います。ですから、それをそのまま人に告げても、言葉がその人に残るということはあまり期待できません。或いは誤解されてしまう可能性もあります。

近頃の流行歌にはキリスト教的な言葉がよく用いられていて時々びっくりします。「祈り」「感謝」「恵み」「罪」などの言葉が歌詞に含まれていてさらっと歌われたりします。その中で「永遠」という言葉も時々聞かれます。「永遠の愛」とか「永遠の命」とかですが、それが、永遠なんてもういらない、と否定的に歌われることが多いようです。キリスト教的思想の影響もあって「永遠」への憧れを漠然として抱いて来た時代はもはや過ぎ去って、今の現実に自分の手にしたもの、手にできるものがすべてとなっている、現実的で、刹那的な人生観を生きる若者たちの時代を感じます。「永遠」だとか「愛」だとか実体のないものには、もう信頼をおかない。もっと自分で確かだと感じ取れる何かを手掛かりに生きたい、ということではないでしょうか。これは若い人たちの感性の問題ではなくて、物質中心主義に生き、言葉への信頼を疎かにしてきた現代社会の中で育てられた世代の傾向なのだと思います。空虚な言葉よりも実質が欲しいと率直に歌う感性には、私はむしろ共感を覚えます。

しかし、それで「永遠」や「愛」が捨てられてしまっては困ります。神が聖書で約束しておられる「永遠の命」も「愛」も、実質を欠いた虚ろなものではありません。神の永遠は、信じるところから始まります。永遠のご存在である神が、私たちの命に触れてくださることによって、私たちが永遠に神と共にあるようになることが、永遠の命です。それは、私たちの毎日の命そのものの中で確認されることです。ただ、信仰無くしてはこれは判りません。神の永遠をこの世の何ものかの尺度で測ることはできないからです。人間が歴史の中で経験した事柄ではありません。これはどうしても永遠の神を信じることが先に立ちます。

「神の国」も一般には理解し難いことに違いありません。「神の国」とは神の御支配を表す、と教会では説明されますが、神の御支配と言ってもそれで分かったとは言いかねることだと思います。王国時代であれば、この世の政治制度に則して神が王となる事態を幾らか想像することが出来たかも知れません。メシアを待ち望んだユダヤ人たちの多くはローマ皇帝に匹敵する王がいずれ登場して、その権力を打倒し、神の御旨を完全に行う支配を確立してイスラエルの新しい王国を統治すると考えました。けれども、キリストがお語りになった神の国はそのようなものではありません。神の国は、三位一体の神を信じる信仰から始まります。聖書に「三位一体」という記述はありませんが、天の神と、子なるキリストと、聖霊のお働きによる、神と人との生きた関係が、神の国を造ります。天の父なる神の御旨に従って、キリストに贖われた罪人たちが、聖霊によって御言葉に生かされ、互いに愛の交わりを保つところに神の支配が実現します。神の国は、ですから、決して実体を欠いたものではなくて、キリストへの信仰によって一つに結ばれた教会の交わりの中で信じることのできるものです。これは、ですから、信仰を通じてでなければ理解できないことです。理屈で幾ら話を聞いても、信じてそれを生きることがなくては感じ取ることができません。

ですから、イエスはまだ信仰も分からない群衆に向かって、こうした神の国の説明を丁寧にすることは未だなさいませんでした。イエスはたとえをお用いになって、神の国に関する事柄を間接的に人々に伝えました。その中で、キリストを信じて従う者たちは、このたとえを思いだして、神の国の真理を悟ることになる筈です。しかし、信じないで、舟の中にいるイエスに近づくことができず、岸にたたずむだけの群衆には、神の国は隠されたままです。

 たとえはこうして信じるものと信じないものを区別する働きをします。その時、「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われます。つまり、信仰を、或いは神が送ってくださる聖霊を持っていれば、その人の信仰はたとえから学んでいよいよ豊かになるけれども、聖霊を持っていなければ、かのファリサイ派の人々のように、自分が持っていると思っていた信仰まで取り上げられることになる、とのことです。

 今朝は詳しくお話しすることは出来ませんが、イエスのたとえ話を詳しく研究することから今日明らかにされたことは、福音書が伝えるこのたとえの持っている働きは、聖書全体の理解にも示唆を与える、ということです。聖書は信仰を持って読むのでなければ実りをもたらすことはありません。処世訓として役立つとか、教養を積むなどの効用はあると思いますが、「永遠の命」や「愛」や「神の国」について、信仰無くして学ぶことは出来ません。聖書を正しく読むために必要なことは、イエスの弟子となって、教会に働く聖霊を信じて、そこから神がお語りになる声に耳を傾けることです。

 イエスがたとえをお用いになる理由について、もう一つのことが14節と15節に記されています。そこで引用されているのはイザヤ書節と10節です。イスラエルの神、主が預言者イザヤを召されて御自分の民のところにお遣わしになる時に語られた御言葉です。預言者イザヤの務めは神に背いた民に神の裁きを告げ知らせることでした。けれども、預言者が語れば語るほど、王を初めとする人々の心は頑迷になり、神の言葉を受け入れようとはしなくなります。それを判った上で、それも御言葉を語り告げる働きの一つとして自覚して事に当たれと、預言者イザヤは命じられました。

 イエスはその箇所を用いて、御自分の働きに当てはめます。つまり、人々がイエスの言葉を信じようとせず、やがては十字架にかけて殺すことになるのも、すべて天の父がご存じのことであって、それも天の国の秘密に含まれた、神の御計画であるとのことです。ですから、人々がイエスと弟子たちを受け入れないからと言って恐れてはならない。その否定を通じて、神の御旨が実現すると信じなさいとの促しに通じます。5章で学んだ山上の説教では次のように言われていました。

  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。(11節)

イエスに従った弟子たちに求められている信仰は、体の病や心の苦しみから解放してもらうための信仰だけではありませんでした。むしろ、信仰のゆえの苦難をも喜んで引き受けるような本当の信仰です。その点で、弟子たちと群衆とは一線を画しています。群衆の信仰は、自分の願いに応えて欲しいとの期待です。ですから、それが叶えられてしまえばそれで終わってしまうかもしれない類のものです。他方、弟子たちの信仰は、神の期待に応えたいとの願いです。罪人でありながらも裁きを赦されて、イエス・キリストと共に生きる光栄に与ったのだから、何があってもこのお方から離れないとの信仰です。

 このような弟子たちの信仰について、あなたがたは幸いだ、とイエスは仰います。16節と17節、

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。

 メシアの到来を予告した預言者たちや、メシアの救いを待ち望んだ義人たちは、自分たちの目で見ないものを信じて神に従いました。しかし、今、主イエスに出会った弟子たちは、旧約の信仰者たちが待ち望んだ救いの到来を、イエスの内に実際に見て、その言葉を聞くことのできる光栄をいただいています。「幸いだ」とは幸せな気持ちではなくて、聖書では「祝福されている」という意味です。神がその人を祝福してくださっている。その人の人生を良いものだと認めてくださっている。それ故の喜びを持つことが出来る、ということです。イエスを救い主として信じて従う弟子たちにとって、イエスのお話しになる神の国の譬えは、信仰に生きる者の現実を指す言葉として、活き活きと受け止められます。

 種まきは伝道です。神の言葉を人々に伝える働きです。種が土地を選ばずに、幾分無造作に気前よく蒔かれるように―これは当時のパレスチナの農業の例えです―神の言葉もすべての人に伝わるように、気前よくどこででも広められます。けれども、種の落ちた土地の具合が様々であるように、御言葉を受けとめる人の心も実に様々です。畑の事情に則して、人の心のあり様が見事に譬えに描き出されています。ある種は道端に落ちました。固く踏みしめられた地面の上に種は晒されたままです。鳥たちが群れをなして飛んで参りまして、あっというまに一つ残らず平らげてしまいます。イエスの働きを見て「悪霊の頭の仕業」と呼んだファリサイ派の人々の心は、固く踏みしめられた地面のように福音の種を撥ねつけてしまいました。

 片や土の薄い石地に落ちた種がありました。この地面の特徴は、熱しやすく冷めやすいことです。御言葉を聞いて直ぐに受け入れるのですが、御言葉が根をおろして信仰生活に深く根ざすようになる前に、直ぐにも躓いて信仰を捨ててしまいます。こうした軽薄な人の心の在り様は、宣教に付きものではないかと思います。今日のキリスト教会は19世紀に始まる大衆伝道に勢いづけられて世界に広がりました。一息に大勢の信徒を獲得しようとの試みは、生活そのものに深く根ざすことのない熱狂的な信仰者を教会に多く生み出すことになりました。先進国の経済力を背景に世界規模でばら蒔かれた福音の種は、キリストに従うが故の困難や迫害を乗り越えて行くだけの、本当に地面に根をしっかりおろした苗に成長したかどうかが問われることと思います。

 三つ目の土地には茨が潜んでいました。種を蒔いた時点では見えなかったその土地に、種の成長より早く茨がわさわさと茂ってまいります。この茨とは「世の思い煩いや富の誘惑」です。この世の生活に対する気遣いと、生涯に亘る安楽な生活を第一とする富への執着によって、心が二つに分かれてしまう状態です。キリストへの信仰は二心ではないということは、先にも家族にも優先するとの事例で主がお示しになった通りです。結局、茨に囲まれた苗は成長できずに塞がれてしまう。茨が「覆い塞いで」しまうとありますが、これは「窒息して死ぬ」という言葉です。

 サタンが取り去るにしろ、日に焼かれるにしろ、窒息して死ぬにしろ、どれも御言葉の種は死んでしまう。それが実って命をもたらすことはありません。それが、人の心の在り様であって、この世の実情であることを、主はこのたとえでお示しになりました。

 たとえの強調点は通常最後にあります。種は簡単には実らない。だからと言って、自分自身や人に失望しないように、御言葉を信じなさいと、主イエスはこの譬えで呼びかけます。よい土地に落ちる種があります。それは、百倍、六十倍、三十倍の実りを見るのだと言われます。当時のパレスチナの農業では、よく実ってせいぜい七倍だとも言われます。そうすると、百倍はかなり極端な数字だと判ります。このたとえを聞いていた農民たちは笑ったことでしょう。人の思いも及ばない豊かな実りが神に約束されている、ということを、主イエスはこうした数字で強調されました。

 御言葉を聞き入れない頑なさ、御言葉を表面的にしか受け止めない軽薄さ、この世のしがらみの中で御言葉に一途になれない二心、こうしたことは、聖書の言葉を聞く私たちの誰もが持っている弱さであろうと思います。イエスの弟子たちですら、十字架を前にして信仰の真実が問われた時、身の危険を避けるためにイエスを裏切ってしまいました。御言葉が百倍の実りをもたらす良い土地を、私たちが自分で見出すことは出来ません。

 しかし、主イエスの目には、その土地が見えています。その目で弟子たちをお選びになっています。弟子たちは十字架に躓いてしまいます。けれども、その後、復活の主にお会いして、聖霊によって豊かな実を結ぶ信仰者に変えられました。御言葉を聞いて判ったつもりであった昔は過ぎ去りました。聖霊を与えられて、天の国の秘密が明らかになりました。神の言葉が確かであり、御言葉に従う生活の内に命があることを信じることが出来るようになりました。主イエスは、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」だと言っておられます。この「悟る」という言葉がこのたとえのキーワードです。聴くだけではだめなのです。聖書が判ったつもりでは実らないのです。聴いて悟ること。悟るとは、実を結ぶことに対応しますが、聴いて実践することです。御言葉に従って生きることです。

心からキリストに従うことを願う弟子たちは、神が選んだ良い土地です。その土地には百倍の実りが約束されています。六十倍かも知れない。いや、三十倍かも知れません。その違いはあっても、どれも想像を越える豊作です。自分は良い土地ではないと思うのであれば、御言葉の聴き方に注意してみたいと思います。御言葉を聴いてよく理解し、実践する信仰であるかどうかを自分で見直すことはできると思います。そこで、私たちに求められることは、聖霊を願うことです。神の霊が注がれる人の心は良い土地に変えていただけます。それは神だけがお出来になることです。聖霊の賜物を願って、御言葉を聴いて実をみのらせる信仰をもって、伝道の働きにも希望をもって出て行くものとされたいと願います。

 

祈り

天の父なる御神、私たちの心に御言葉を与えてくださる、あなたの恵みに感謝します。どうか、聖霊のお働きで、私たちの心に蒔かれた御言葉の種を、豊かな実りに至るまで成長させてください。そして、人の状況に依らず、いついかなる時も失望しないで、御言葉が必ず豊かな実を結ぶことを信じて、伝道の働きへと私たちを送り出してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。