マタイによる福音書12章1~14節

安息日の主イエス

  今朝の御言葉では、ある安息日に起こった事件が二つ記されています。この事件の結果は重大です。イエスを敵対視するファリサイ派の人々は、このところからイエスを殺す計画を立て始めるからです。イエス・キリストが十字架におかかりなった経緯には、神の側に深遠な御計画があった一方で、人の側にも複雑な力が働きましたが、その中で安息日を巡る問題はファリサイ派の人々とイエスとの間にあった対立の根を浮き彫りにします。

 私たちがここから学ぶのは、安息日そのものの意義ではなくて、神が人に与えた掟である律法に対するイエスの態度です。そこには今日の教会に対する二つの指針が与えられます。一つは、聖書の読み方について。もう一つは、イエスの態度に示される神の御旨について。この二つは別のことではなく、互いに関連し合っている事柄です。イエスがお示しになった神の御旨を前提として、正しく聖書の言葉を聞きとることが今日の教会には求められます。ファリサイ派の人々はそれを承服することが出来なくて、イエスの処刑に加担することになりました。

 安息日の規定がどうしてそれ程問題になるのか、という点は、実際に安息日厳守を信条として生活している人でないとなかなか分からないと思います。今日のユダヤ教徒に引き継がれている安息日厳守の信仰は、旧約のイスラエルにとって命がけのものでした。安息日の規定は出エジプト記20章にある十戒の中で、また23章にある「契約の書」の中に見出されます。そして3112以下では、さらに入念なかたちで次のように記されています。

  主はモーセに言われた。あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることが出来るが、七日目は主の聖なる、最も厳かな安息日である。誰でも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。(12-16節)

安息日の掟を破る者は必ず死刑に処せられると二度も繰り返される程ですから、その重要度が分かります。安息日遵守は神とイスラエルとの間で結ばれた「永遠の契約」のしるしであって、信仰の証しがそこにかけられていたわけです。

 ですから、旧約の律法からすれば、イエスを殺そうと謀ったファリサイ派の人々の動機も分かります。勿論そこには、罪ある人間としての嫉妬や憎悪も働くのですが、安息日の戒律を破ることは死罪に値すると律法に書いてありますから、それをそのまま実行しようとした、ということになるでしょう。

 では、イエスはどのような律法違反を犯したのでしょうか。今朝の御言葉が伝えるところでは、ある安息日に一行が麦畑の中を通行中、空腹だった弟子たちが麦の穂を摘んで手でもみほぐしながら食べたということです。勝手に人の畑の収穫物に手を出してよいのか、と疑問をもたれるかも知れませんが、これは申命記2326節で許可されている行為です。こんな風に書いてあります。

隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。

収穫の実りは天の神が人々に祝福を与えたものですから、それを人が自分のものと強固に主張するような厳格さは主の御旨に沿いません。だからと言って、人が労苦して得たものを無遠慮に自分のものにするような態度も、盗みに通じることです。その辺の微妙な線引きを申命記の律法はここで施しているのでして、神の言葉が人の生活に触れてくる際の細やかさがこうした処から伺えます。自分の利益のために目くじら立てて法や権利を持ち出す現代人の感覚とはどれ程異なっていることか、と思います。

 ですから、イエスの違反は次の点にあります。まず、それが安息日に行われたことだったということ。そして、イエス御自身がそれを行ったのではなく、弟子たちの振る舞いであった、ということです。イエス御自身は、直接的には律法に対する責めを負わせられません。

 しかし、安息日に弟子たちのしたことが果たして違反であるかどうかも定かではありません。ユダヤ人の言い伝えによって安息日に禁じられていた行為は全部で39個に上りますが、そこに麦の穂を手で摘んで食べてはならないという直接的な禁止事項は含まれていません。おそらく、それが、刈入れを禁じる規定に抵触すると看做されたのでしょう。厳しく違反を取り締まる、との関心で人の行いを監視するようになりますと、それに近似する行為や違反の可能性をも厳しく取り締まるようになります。ともかく、ファリサイ派の真面目な人々が普通しないことを弟子たちがしてしまった点で軽率だったのかも知れません。それが、師であるイエスを訴える口実を、イエスの敵対者に与えてしまいました。

 主イエスは、こうしてファリサイ派の人々からなされた安息日違反の訴えに対して正面からお答えになっています。

 イエスがここで論じておられる論じ方には特徴がありまして、当時のラビたちのように聖書の事例をもとにした議論を展開されます。ただ、これを聞いてファリサイ派の人々が納得できたかどうかは疑問です。といいますのも、イエスのお答えの中で前提になっているのは、イエスと弟子たちの特別な立場だからです。それは、旧約のダビデとその従者たちのように、また、神殿で奉仕をする祭司たちのように、弟子たちは神の選んだ僕である、ということをイエスは主張なさっています。

 最初に引かれている事例は、サムエル記上21章に記された出来事です。サウルのもとから逃れたダビデはノブという町の祭司アヒメレクを訪ねました。必要なものをそこで調達するためでしたが、ダビデはアヒメレクから、落ち合う仲間たちのためにパンを求めました。そこには一般の者が手を出してはならない供え物のパンしかありませんでした。律法によれば、供え物のパンを食べることが許されているのは聖所で奉仕する祭司たちだけでした。けれども、祭司アヒメレクは聖所から取り下げた5つのパンをダビデに手渡しました。旧約のメシアのひな型であるダビデでさえ時に律法に反することをして、それが咎められてはいない、という事例がここにあります。

 そして節では、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪ならない」とありますが、これについては民数記28章が触れています。つまり、神殿にいる祭司たちには安息日にささげものをささげる奉仕が命じられていて、その日だからということで仕事を休まなくてはならないという掟には縛られていません。安息日は本来、神を礼拝するために一日を聖別して仕事を休む日です。その礼拝を司る祭司たちの働きは一般の仕事とは区別されています。

 そこで問題は、これがどのように、祭司ではないイエスの弟子たちと関連するかということですが、弟子たちは神の働きのために世に使わされたイエスと共に旅をしているとの理由で、神殿で働く祭司たちと同等の立場に置かれます。むしろ、節では、「神殿よりも偉大なものがここにある」とありますから、イエスに仕える弟子たちの方が上の立場でしょう。

 さらに、節で引用されている言葉は、ホセア書節にある御言葉です。マタイ福音書では、既に13節でも引用されていました。イエスが徴税人や罪人たちと食卓を囲むのを快く思わなかったファリサイ派の人々に向かって、「わたしは罪人たちを招くために来た」と仰った時に、同じ聖句が引用されました。預言者ホセアはこの言葉を、神の言葉を真剣に聞いて義を行うことをせず、形ばかり豪華になった礼拝をささげて自己満足をしていた、当時のイスラエルに向けて告げました。神が人に求めているものは、神殿ではなく人間自身です。神は人間の犠牲によって御自身を喜ばすお方ではありません。そのことを聖書から正しく知るならば、律法をたてにしていたずらに「罪もない人たちをとがめる」ような、振舞いには出なくてよいはずです。

 「人の子は安息日の主なのである」とイエスは言われます。「人の子」とはイエスが御自身を指して言われる言葉です。安息日は主イエスによって人間が罪の支配から解放される日です。神の憐れみがイエス・キリストを通して人に注がれる日です。イエスは、安息日の主として、ファリサイ派の人々が自ら科していた重い軛をこうして取り外されます。安息日の意義が無効にされたということではないのですが、安息日が安息日らしく、神のものとなるように、すなわち、神の御旨に従って人に憐れみが注がれる日となるように、イエスは弟子たちに「無罪」を宣告されます。

 節以下の出来事では、イエス御自身の振舞いを通じて、同じ問題が扱われます。厳格な安息日遵守の立場では、安息日に病気を治すことも禁じられていました。その日に医者の処へ行っても、明日にしなさいと言われてしまいます。萎えた手を癒すのは、緊急の必要ではなかったと思います。次の日でも十分だったはずです。けれども、イエスは敢えてそれを安息日の会堂で行われました。

 ここでの議論は、周囲の人々の常識に訴える形でなされています。自分がもっているたった一匹の羊が穴に落ちたら、安息日だから放っておくなんてことは誰もしないでしょう、ともかく引き上げて挙げるでしょう、と言われます。羊ですらそうなのだから、まして人間だったら、助けないなどということはありえない。先に示されました「憐れみ」に即して言えば、それが当然ということになります。イエスのお答えは、「安息日に善いことをするのは合法だ、とのことです。

 イエスは安息日そのものをここで廃棄するとは仰っていません。むしろ、その本来の意義をここで教えておられます。これは安息日だけに関わるものではなく、律法全体に関わることです。かつて旧約のイスラエルの人々はエジプトで奴隷でした。休むことなく働くことが義務づけられ、人間としての尊厳も奪われて、虫けらのように死ぬばかりでした。けれども、主なる神がモーセを送って彼らを自由へと解放してくださって、イスラエルは尊厳ある国民とされました。この力のない民が、神の祝福を得て生きながらえるために、神はモーセを通じて律法をくださいました。神の知恵に満ちたこの律法が、イスラエルが神と共に生きて祝福を得るための手立てになりました。こうして、律法には本来、神の憐れみが示されています。安息日の規定がことさら厳格なのも、人の世はその定められた安息をいとも簡単に反故にしてしまうことを、神がご存じだからです。

 同時に人は、本来その律法に現わされている神の憐れみをも忘れてしまいます。法律の文言だけに囚われて、それが本来何を意図していたものかを問うことをしなくなります。そういう「原理主義」的な聖書の読み方は、聖書の言葉を生ける神の言葉ではなく、石に刻まれた死んだ文字にしてしまいます。そうして、その文字によって生きた人間の命を封じ込めようとします。イエス・キリストは、生ける神の子として世に来られて、律法の心を御自分の働きによって教えてくださいました。その心とは、罪ある人間を赦して、御自分のもとへ立ち返らせる、神の憐れみです。

安息日の規定にしろ、律法の他の条項にしろ、それを杓子定規に共同体の生活に当てはめるのは間違いです。時代が変わり、人が変わるに従って、聖書が私たちに与える指針も新しくなります。聖書を正しく読む手立ては、主イエス・キリストに現わされた神の憐れみを信じて、聖霊がその御言葉を正しく生活に適用させてくださることを祈り求めながら、為すべきことと避けるべきことをその都度聞き分けることです。

安息日遵守は私たちピューリタンの伝統をも受け継ぐ改革派教会の信仰の特質でもあります。『ウェストミンスター信条』にみられるその信仰生活の姿勢は、教会が信仰を培う生命線として大切にしてきた一日の聖別が、他の何ものかによって奪われたことがあるという経験に基づいています。安息日の聖別の意義は、神が御自身の民に安息の恵みを施すために一日を聖別をされたというところにあります。人が勝手に曜日を選んだり、礼拝したいときに時間を適当に設定するということでは、そうした上からの恩寵は確保できないと思います。神が聖別した一日が、神から人間のところへやってくるとすれば、人間はこの恩恵から逃れることはできません。

ユダヤ教の神学者であるA.ヘシェルは、安息日を「神が時間の中に建てた宮殿」だと言いました。私たちにとっての安息日は、主イエスが復活の栄光を受けられた日ですが、やはりへシェルが言うのと同じように、神が時間の中に建ててくださった礼拝所が、週ごとに私たちのもとを訪れるのだ、ということは出来ます。私たち花嫁である教会は神の時間がやって来たことを受けて、その日、主イエスを花婿としてお迎えします。私たちは、この婚礼の席に出席するために毎週教会の礼拝に集います。それは、本当にイエス・キリストが再び来られる終末の時への予行演習ということもできようかと思います。

信仰のあるところでだけ実現する、この主の日のお祝いを、私たちの日曜日に見いだすことができれば、安息日の課題は一つずつ乗り越えていくことができます。私たちの信ずる「キリスト教安息日」が、「~してはならない」日から「~せずにはいられない」日になれば幸いです。主の日の聖性が私たちの生活の中にあって輝くかどうかは、イエス・キリストが私たちにとってかけがえのない存在かどうかの、その度合いにかかっています。ウェストミンスター信条を告白した先輩の兄弟姉妹たちは、そのような生ける神への信仰に支えられて、安息日の自由と恵みを奪おうとする力と勇気をもって闘いました。その遺産を受け継ぐ私たちは、それをどのように実現していくのかが教会として問われています。私たち一人ひとりが、安息日の主イエスに出会って、その恵みと平和を確かめるために、この礼拝の場に集うことが出来るように、聖霊の助けを祈りましょう。

祈り

永遠の昔から変わらない憐れみをもって私たちを知っていてくださり、私たちのために善いものを備えていてくださる、天の父なる御神、私たちはあなたから自由のしるしである安息日を受け取っていながら、その恵みに感謝せず、むしろそれを裁きの手立てとしてまうことに深い罪を覚えます。あなたが平安を約束しておられるその日を私たちが軽んじて、この世の罪の支配の中で安心してしまうことが無いように、また、信仰をもって主イエスのもとにある魂のやすらぎをその日一日満喫することが出来るように、そうして、やがてこの世に来たりたもう主イエスと共に、真の安息の成就する終わりの日を待ち望ませてください。主イエスのもとにある、真の意味での平安を失って、すべての時間を虚しく働き続けて命をすり減らしている、世の人々を憐れんでくださって、礼拝の憩いの場へと導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。