マタイによる福音書27章45〜66節

イエスの死と埋葬

 

神の沈黙

 イエスが人々の嘲笑の中、息を引き取られるまでの3時間、刑場は暗闇に包まれた。預言者アモスはこう記す。

 その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする。(8章9〜10節)

神を見失った人々の間で、罪なき人が十字架の上で晒し者にされ、血と汗と唾液にまみれて死んで行く。人間の罪に対する神の怒りは神の子イエスに注がれる。預言者が語った「独り子を亡くした悲しみに襲われる、苦悩に満ちた最後」は、エリヤを見物しようという暢気な罪人たちの知らないところで、神御自身が引き受けられる。

 イエスの叫びは詩編22編1節の言葉による。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とは、神に全面的に信頼する信仰者の叫びである。信じない者は初めから希望を持たず「神などいない」と吐き捨てる。しかし、神を知っているからこそ、「なぜ」と問う。苦難の義人ヨブは、身に覚えのない苦しみの故に神を告発する。それは、神に対する不遜ではあっても不信ではない。

 しかし、神は沈黙しておられる。闇が世界を覆い、罪のない人の声が絶望的に響き渡る時、果たして神は聞いておられるのだろうかと誰もが問わざるを得ない。旧約聖書の時代にエルサレムに対する裁きが戦争によって始められた時、預言者エゼキエルは倒れ臥してこう大声で叫んだ。

  ああ、主なる神よ。イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか(11章13節)

神が沈黙を続けるならば無惨に滅びる他はない。神に見捨てられたのならば世界に救いはない。イエスの叫びに答える天の声は聞かれなかった。人々が噂したエリヤも天からやって来なかった。人間の絶望の中で、ついにイエスは息を引き取った。それで終わりであれば聖書は書かれなかった。イエスの死は、罪なき神の子の死であり、神の沈黙の前で死んでゆく多くの人々を代表して神の裁きを受けた人の死である。この死によって人間と世界の運命が変わった。

終末のしるし

 イエスの死は不思議な現象をもたらした、と福音書は告げる。しかし、これは弟子たちの目撃した歴史を記す書き方ではなく、旧約聖書の言葉を用いて時代のしるしを告げるものである。神殿の幕が二つに裂けたのは、神殿の時代が終わったことを指す。ヘブライ書が記すように、こうして新しい時代が到来して、人はイエスの犠牲によって大胆に神に近づくことが出来るようになった。もはや神をたたえるために動物であろうと人であろうと命を犠牲にする必要はなくなった。地震が起こり、岩が裂ける。エルサレムは石灰岩の台地である。これは預言者たちが描いた神の支配を表わす描写である。神は創造者であり、全能であって、世界はその力によって覆る。その神の力が人の命に働くとき、墓は開き、死者が復活する。復活の初穂はイエスである。その後、多くの信仰者が復活してエルサレムの都に現れた、と福音書は人々が語ったままを今日に伝えているが、そこに告げられたのはイエス復活による新しい時代の夜明けである。キリストを信じる者は、死んでも生きる。

仕える者と逆らう者

 イエスの死は、周囲の者たちに異なる反応を引き起こす。第一に挙げられる最も大いなる反応は、百人隊長他の兵隊たちによる信仰告白である。先にも異邦人の信仰がユダヤ人に優ってたたえられる例が、やはり百人隊長の信仰として取り上げられた。8章に記されているカファルナウムで出会った百人隊長は、僕の病いの癒しを願ってイエスに近づき、イエスの言葉の権威に従う信仰を「イスラエルにも例を見ない」信仰だと認められている。もはや血肉によらず、「本当に、この人は神の子だ」と恐れをもって言える人間が新しい世界の十人として受け入れられるようになった。

 また、十字架上のイエスを看取ったのは女性の弟子たちであった。「世話をしていた」とあるが、つまり奉仕者たちである。命を賭ける、などと口先で言っていた男弟子たちはどこかへ身を隠してしまった。それに比べて婦人たちは、遠巻きにではあるものの、イエスから目を離さないでいた。埋葬に際してもそうである。女性たちは墓に遺体が収められても尚、墓の方を向いて座っていた。そこで何かが起こるのをひた向きに待っているかのようだ。これもイエスの死に際して明らかになった信仰の姿である。

 アリマタヤのヨセフは隠れた弟子だった。他の福音書によれば身分の高い議員だったと言うが、マタイはイザヤ書53章9節にある苦難の僕についての預言と重ねあわせて「金持ち」と表現した。59節に「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み」とあるが、原文では「遺体」ではなく「体」である。身分を明らかにしたヨセフの大胆な奉仕によって、イエスの体はきれいな布に包まれ、新しい墓に収められ、新しい次の段階へ進むよう整えられている。これらの人々はイエスの死によって信仰に目覚めた人と言ってよいだろう。特に弟子であった者たちは、「私は三日後に復活する」というイエスの言葉を覚えていたに違いない。

 片や、イエスを死に追いやった「祭司長たちとファリサイ派の人々」も、同じように三日後の復活予告を聞いていた。しかし、彼らにとってイエスは「人を惑わす者」であり、イエスを人々の意識からも完全に排除するために働く。ピラトは相手にしないが、この罪なき人の血を流した犯人たちは自らの罪に封印するがごとく、イエスの墓を封印し、弟子たちが遺体を盗まないように監視する。つまり、彼らは未だに闇の住人なのである。神の沈黙の中で見捨てられているのは彼らである。そして、その事実に彼ら自身が気づいていない。

沈黙は破られる

 果たして、その封印は効力をはっきするだろうか。自らの罪を永遠に封じ込めることができるだろうか。神の言葉を聞かなかったことにすることができるだろうか。ルカ福音書の19章で、ロバに乗ってエルサレムに入城するイエスを人々がメシアの到来とほめたたえた時、それを不快と訴えたファリサイ派の人々に対して、イエスが「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と言われたことがあった。イエス抹殺を謀ったエルサレムの指導者たちは、弟子たちが「イエスが死者の中から復活した」と宣伝して回るのを恐れた。しかし、それは墓石に封印を施すことで黙らせることはできない。人間は神の力を封じ込めることは出来ない。人間の言葉に操られる他の神々のことは知らない。しかし、神が人間の内に働く時、言葉をもって働かれる時、命を生じさせるその力を誰も封印することは出来ないのである。

 神はイエスに対して沈黙しておられた。それは、神に見捨てられたかのように非業の死を遂げた人々が聞き取った沈黙であった。しかし、神は決して耳を塞いでいたのではない。神がイエスを見捨てたのは、他の者たちの声を聞いておられたからである。十字架のイエスに沈黙されたのは、そのイエスが神の声として聞かれるためである。神は闇に包まれた終わりの世界に対して、決して沈黙してはおられない。イエスがそこで十字架にかかっておられる。私たちに代わって死んでくださっている。神は大声で叫んでおられる。「あなたの罪は許された」と。その声を封じようとすれば、きっと石が叫ぶ。

 墓石の封印は解かれてイエスは復活された。新しい命の時代がそうして始まった。弟子たちは復活したイエスに会って、死への恐れを取り除かれ、死者の復活を大胆に告げる宣教者に変貌した。神は私たちを見捨ててはおらず、沈黙してはおられない。十字架で死んだイエスと共に神はおられ、イエスの命によって私たちを生かしてくださる。この世に執着して神を見失ったファリサイ派の人々のようにではなく、遠くから見つめていた女性たちのように、また、恐れを振り払って大胆にイエスに近づいて奉仕をしたヨセフのように、十字架のイエスから目を離さないでいよう。そして、復活のイエスが私たちの命となられたことを感謝して受け入れよう。人間の力では、神の言葉を閉じ込めることはできないと信じて私たちの歩みをここから始めよう。

祈り

天の父なる御神、あなたは御子イエスの十字架と復活を通して、この世の終わりを私たちに知らせ、信仰の応答を求めておられます。どうか、私たちがあなたの御業の傍観者になってしまわないように、主イエスの十字架の意味を深く心に留めさせてください。そして、あなたがキリストにあって始められた新しい世界の建設に希望をもって、私たちの人生を終わりまで歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。