ヨシュア記18章1ー28節「シロの幕屋」

 

シロの幕屋の建設

 イスラエルの人々の共同体全体が集会に招集されるのは、神がお立てになった指導者を通じて新たな命令が出される時です。かつてはシナイ山の麓でモーセがイスラエルの人々の共同体全体に幕屋の建設を命じましたが(25章、35章)、ヨシュアは土地の分配に当たってシロに幕屋を建てるよう命じました。

 「幕屋」は「臨在の幕屋」とも言われる礼拝施設です。契約の箱が聖所の内奥に設置されて、祭壇で犠牲がささげられます。そのために必要な道具が整えられ、聖別されたレビ人がそこで奉仕します。今日の箇所でも、7節で「レビ人にとっては、主の祭司であることがその嗣業である」とある通りです。「祭司であること」とは祭司としての職務を指します。

 「臨在の幕屋」は以前の翻訳では「会見の幕屋」とされていましたが、王国成立以前のイスラエルの共同体全体が、そこで主なる神の御前に集って御言葉を聞き、宗教的・軍事的な決議を行う場所でした。運搬可能な可動式の幕屋を伴ってイスラエルは荒れ野を旅して来ましたが、それは主なる神が民の中におられることの証しでした。ヨシュアの時代には初めギルガルに拠点が置かれたようですが、土地の分配に至ってはシロにこの聖所が設置されて、後にその機能がエルサレム神殿に移管されるまで、シロが12部族を統括する中心地となります。

 シロの聖所は後に祭司エリのもとで預言者サムエルを生み出します。シロでは毎年主の祭が行われ、全国から巡礼者が訪れていました。しかし、エリの時代に聖所は腐敗し、ペリシテ人との戦いの中で神の裁きによってシロの権威は地に落ちます。歴史書の中にはシロの町全体の破壊について記すところはありませんが、詩編やエレミヤ書にはシロの没落について述べる箇所があり、王国に対する警告のしるしとされています。

 出エジプト記35章でモーセによって幕屋の建設が命じられた時、イスラエルの民は「自ら進んで」寄進をなし、御言葉どおりの幕屋を建て上げたことが報告されています。シロでの幕屋の設置にどれほどの新たな寄進が必要であったかは分かりませんが、神がご自身の契約に忠実に恵みを施してくださったその時に、シナイ山の時と同様に、民の側からの積極的な信仰の服従が求められたことは変わりがないはずです。

土地の登録と取得

 残りの7つの部族に土地が割り当てられるときにも、ヨシュアは民の積極的な行動を求めました。3節でこう呼びかけています。

 あなたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ。

もはやカナンの支配は主の手に渡っており、その配分もまた主によって定められているのですけれども、イスラエルの各部族が嗣業の土地を取得するのは彼ら自身の行動によらねばなりません。17章の終わりで、先きに割当を定められたヨセフの子らが、土地にはカナン人がいて彼らは鉄の戦車を持っているので手強いと述べていたように、各部族の土地取得も戦いは避けられなかったものと思われます。「土地を取りに行くだけ」とは言っても、落ちているものをただ拾うだけの容易いことではないはずです。ヨシュアが訴えるのはイスラエルの信仰に対してです。すでに主があなたがたに与えた、との確信があれば、あなたがたは必ず嗣業を手にすることができる。だから、ためらっていてはならない、とのことです。「ためらう」とは、ぐずぐずする、自分で自分を放っておく、怖じ気づいている、というようなことです。

 7つの部族への配分に際しては、詳細な土地の調査が命じられました。各部族から3人の代表が選ばれて、嗣業の土地が巻物に登録されました。かつてヨシュアがカナンの土地に斥候を送った際には2人の証言者でしたけれども、3人であることは、かつてカナンに逗留するアブラハムのもとに3人の神の使いが訪れて来たことに対応しています。3人ずつの代表は、それぞれ神からの使命を帯びて土地を登録しに出かけていくのでしょう。

ベニヤミンの所領

 ユダとヨセフの子らに続いて土地の割当を受けたのはベニヤミン族です。ヤコブの家族にあっては、ベニヤミンはヨセフの弟に当たります。創世記49章にあるヤコブの祝福の詞によれば「ベニヤミンはかみ裂く狼」と歌われます。この部族の中から後に士師エフドが登場し、さらにキシュの子サウルがイスラエル最初の王として選出されます。従って、ベニヤミン族は後に王家を生み出す高貴な家柄となるはずですが、士師記が伝えるところによれば、彼らはイスラエル12部族の恥と痛みをもたらした部族でもあります。

 士師記は王を持たないイスラエルが、カナン住民との戦いと同化によって、罪の深い闇に落ち込んで行く過程を記していますが、その最後のエピソードが伝えるのはイスラエルの内部に起こった、ベニヤミン族による犯罪です。ソドムとゴモラにも似たその堕落ぶりはイスラエル全体に驚愕をもたらし、悔い改めないベニヤミンとの間で内戦が生じます。それによってベニヤミン族は滅びる寸前にまで至りますが、一つの兄弟が失われるのを悲しんだ他の兄弟部族はある救済措置をとってベニヤミンが生き残る道を残しました。

 そうしたベニヤミンが受け取った土地は、南のユダと北のエフライムの丁度中間にあり、12節から20節に描かれている境界線は、既に報告されたユダとエフライムとの境界線と一致します。フランシスコ会訳聖書に分かりやすい地図が掲載されていますから、そちらをご覧下さい(コピー)。

 21節以下にはベニヤミンの所領に属する町の名が並んでいます。ヨシュアが最初に攻略したエリコの町が最初に現れています。25節にはヨシュアを騙して契約を勝ち取り、破滅を免れたギブオンの名があります。そして、エブス人の町エルサレムもまた、初めはベニヤミン族の所領の内に数えられていました。先きに触れたベニヤミン族による犯罪が行われた場所は、エルサレムの次に挙っているギブアです。

「とりに行くだけ」の宣教

 こうして、くじによって示された土地と町々へ、各部族はそれを取りに出てゆかねばなりません。それが必ず与えられると信じて進む勇気が求められています。それは、すべての信仰者に通じます。神はイエス・キリストの支配する御国へと信じる者たちを召されました。キリスト者すべてに与えられる嗣業はすでに定まっています。ですから、神の定めに即して言えば、私たちはそれをただ取りに行くだけです。実際には何かものを拾うように、気楽なことではありません。イスラエルはそれを命懸けで闘い取らねばならないわけです。それを知りつつヨシュアは「とりに行くだけ」と言います。ここに信仰が求められます。神が約束された安息の地はすでにキリストによって勝ち取られて確保されています。それを信じて歩む私たちの道は、それをとりに行くだけの道程です。道は決して平坦ではないのですけれども、信じて進む私たちの歩みは神に守られて必ず嗣業に行き着きます。

 嗣業の土地は、そして私たちの宣教の地である、ということもこれまで聞いて来ました。神がご自身のものとされた土地はすでに定まっていますので、教会はそれぞれに導かれた土地で「ただとりに行く」だけの宣教に地道に取り組みます。宣教が難しいなどといって、ぐずぐずしているのならば、鉄の戦車に怯えて出てゆくのをいつまでもためらっているイスラエルと同じになってしまいます。そういうところで私たちに求められているのは主への信頼です。決して容易くはないことでも、神の御旨の内に定まっていることが私たちの場所で実現します。糀台、狩場台、竹の台、春日台、美賀多台などと、私たちの帳面にも嗣業の地名がリストアップされています。それらを主のものとして受け継いでいるのがこの西神教会ですから、「とりに行け」と促されている言葉に励まされて、伝道の働きを続けてまいりたいと思います。

祈り

天地の造り主であり、御子イエスにすべての御支配を与えておられます、父なる御神、あなたが私たちに賜った嗣業の地は広大でありますけれども、そこはすでに主が御支配なさっている土地ですから、私たちも安んじて福音を伝える働きを続けることができます。どうか、人を恐れるのではなくて、あなたの裁きを恐れ、あなたの選びの確かさを信じて、福音を語ることができるように私たちを強めてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。