マタイによる福音書21章23-32節

権威と信仰

 

権威を巡る間答

 先ほど一緒に交読しましたイザヤ書の御言葉の中に、「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」とありましたように、主イエスはエルサレム神殿に入られまして、そこに集う人々に向かつて説教をなさいました。その内容は、旧約の預言者たちが語ったのと同じような、エルサレムに対する神の審判です。このところで、エルサレムの指導者たちとイエスとの対立は決定的となりまして、完全にやり込められてしまった祭司長や民の長老たちはイエスの抹殺を決意します。

 歴史的な関心からしますと、こうしてイエスとその教えに従う弟子たちがユダヤ教から分離してキリスト教が誕生したと説明されます。それでキリスト教の母体はユダヤ教であって、ユダヤ教にはより旧い伝統が受け継がれていると一般的には言われます。けれども、私たちキリスト教会の信仰の立場からするとそれは不正確なものの言い方です。旧い契約の信仰を継承するのはイエス・キリストも教会もユダヤ教徒も同じであって、むしろ、生ける真の神との契約を正しく引き継いだのは、イエス・キリストを介して契約を更新したキリスト教会だと私たちは自覚しています。ユダヤ人に伝えられた旧い信仰は、紀元70年にエルサレム神殿がローマによって崩壊させられたことで、一旦解体させられます。そこから、モーセの律法に基づく新しいユダヤ教が再出発し、同時に、イエスを真のメシアと信じるキリスト教会が地中海世界に広がってゆくことで、ユダヤ教とキリスト教という二つの宗教が互いに袂を分かつて成立します。歴史的な評価からすれば、ユダヤ教とキリスト教は旧約聖書という同じ幹に連なる二つの枝だと言った方がより正確です。

 今朝の箇所では「権威」が問題となっています。エルサレムの指導者たちは、イエスの語っている言葉にある権威の所在を問うています。ユダャ人にとって真の権威はイスラエルの主である真の神をおいて他にはありませんが、神から発する言葉の権威はモーセと預言者に置かれていました。「何の権威で教えているのか、誰の権威で語っているのか」との質問は、祭司長や民の長老たち自身のこととしては自明のことです。彼らはモーセと預言者の権威のもとで、神殿を中心とするユダヤの信仰を自分たちが管理していると信じています。そこで、他所から来たイエスの権威を問いただしたわけです。

 イエスはその質問には直接お答えにはなりませんでして、逆に問い返しておられます。何故ならば、そのように「権威」を口にする彼らの欺晴に気づいておられたからです。そこでイエスは、洗礼者ヨハネがもっていた権威について指導者たちに問いました。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも人からのものか」。そう問われて論じ合う、祭司長や長老たちの言葉から明らかなことは、彼らは洗礼者ヨハネを神から遣わされた預言者だとは信じていなかつたことです。洗礼者ヨハネを信じて、罪の悔い改めを表わす洗礼を受けた人々が数多くありました。けれども、エルサレムの宗教的指導者たちはヨハネの言葉を聞いても心動かされることなく、罪を悔い改めてメシアを待ってはいませんでした。彼らが洗礼者ヨハネを公に否定しなかったのは、ただ、群衆を恐れてのことでした。

 洗礼者ヨハネは、イエスを来るべき神のメシアと指し示すために、先に現れた預言者でした。ですから、洗礼者ヨハネを預言者と認めない彼らが、イエスの権威を受け入れるはずもありません。そもそも、エルサレムの指導者たちは本当に神の権威を問題にしていたのかどうかが問題です。むしろ、ここでは自分たちの権威を脅かす者としてイエスに立ち向かっているように見えます。イエスは彼らの自尊心に対抗するようなかたちで、御自身のもつている神の子としての権威を高々と掲げるようなことはなさいませんでした。

信仰とは神の権威に従うこと

 イエスの権威を問うたエルサレムの指導者たちは、次の例え話で逆に自分たちの信仰が問われます。

 ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。(28-31)

ここに、本文の問題がありますから、ひとこと説明しておきます。これまでの口語訳聖書や新改訳聖書の翻訳と比べますと、この部分の兄と弟の役割が入れ替わっています。新共同訳聖書では評価されているのは兄の方ですが、従来の訳ですと後で考え直して出かけたのは弟になっていました。これは、元のギリシア語の本文に二種類あるからで、今日では、ここにある新共同訳聖書のように書いてある方がオリジナルだろうと判断されています。弟の方が評価される、という方が「後の者が先になる」聖書の通例に相応しいかと思われますが、かえってそういう思いが写本の修正に及んだものと考えられます。どちらにしても、例えの意味に変わりはありません。

 この例えのポイントは、「後で考え直す」かどうかという点です。父の命令に対して「嫌です」と答えた兄は、明らかに反抗の態度を示していますが、「後で考え直して」出かけたのですから、結局は父の権威に従ったことになります。他方、弟の方は、口では「承知しました」と言って父に従っていますが、実際には命令を無視しているわけですから、その権威を蔑ろにしています。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」一つまり、父の権威に服従を示したのはどちらかといえば、これはもう明らかで、「あなたたちはどう思うか」と問われたエルサレムの指導者たちも「兄の方です」と正しくその点を認めました。これは例え話の一つの効用ですけれども、つまり、イエスはここで、彼らが口先だけで父を敬っておきながら、実は父を蔑ろにしている弟に等しいことを指摘なさったのでした。

 「何の権威でそうするのか」と鼻白んだ指導者たちは、自分が今手にしている権限のことは気にかけてはいても、真の権威のよりどころである父なる神のことは真剣に受け止めてはいないのが実情でした。本当に神の権威を恐れて、それに仕えて、民に奉仕をするのであれば、神の願っておられることを実行する筈ではないか、と主イエスは問います。ここに、神の権威を帯びて、真の預言者として語っておられる、主イエスの言葉による裁きがあります。

 エルサレムの指導者たちが陥っていたのは、本当に神を恐れることのない、不信仰でした。ですから、罪の悔い改めを求める洗礼者ヨハネの言葉は彼らには届きませんでした。洗礼を受ける民衆の姿を見ても心の中で蔑むだけでした。真の権威を問題にするならば、その権威に従う信仰が伴わなくてはならないはずですが、指導者たちの内にはそれがないことをイエスは指摘しておられます。

己が道を考え直す

 イエスは「祭司長や長老たち」のグループに対して、「徴税人や娼婦たち」のグループを立てて、彼らの方が先に神の国に入ると言われました。それは、先のグループが預言者の告げた「義の道」を信じて悔い改めなかったのに比べて、後の罪人のグループの者たちが、それを信じて、悔い改めたからです。「神の国」に入るには、つまり、神に命を救っていただくためには、神に背いて生きている今の道をよく考え直して、神が御言葉にお示しになった「義の道」に立ち返る信仰が必要です。

 ここで言う信仰とは、神の権威に従うことです。「義の道」とは、神の御旨を行って、愛と正義に生きる人の道です。洗礼者ヨハネがそれを示したと主は言われましたが、それは旧約の律法にも新約の主イエスの御生涯にも示された神の御旨です。天の神は、真の権威者として、そのような義の道を人にお示しになったのですから、日先で御名をたたえるばかりでなく、その道を実際に歩むことで神の権威を敬うことでなければ信仰とは言えません。

「権威」は「支配」をも意味します。指導者たちのエリート・グループを支配していた権威は、この世の権威ではなかったかと思います。彼らがエリートとして背負っていたものは、先祖から受け継いだ、守らなければならない伝統であり、神殿を中心に確立した宗教生活であり、それを保持することでユダヤ民族の政治的・社会的安定が保たれるのですから、責任は重大であつたはずです。けれども、そうしたこの世の社会的な秩序の安定や経済的な繁栄を追い求める一方で、「徴税人や娼婦たち」のような罪人たちを切って捨て、「目の見えない人や耳の間こえない人」を脇へ追いやり、「寡婦や孤児」を顧みない社会であるならば、そこに支配しているのは「神の義」ではなくて、「人の利」に違いありません。旧約の預言者たちもまさにそうした弱い者たちを顧みない、社会的な正義を失ったイスラエルに対して神の裁きを告げていました。

 神の権威を敬わず、神の支配を受け入れないところには、別の何かが支配しています。それはこの世の様々な霊であり、サタンの支配とも聖書では指摘されています。主イエスが荒れ野でサタンの誘惑に会われた時、サタンは三つの誘惑をもつてイエスに近づきました。最初のものは、「石をパンに変える」ことでした。作家のドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、大審問官の口を通して、民衆はこのパンの誘惑に勝てない、と言いました。人は、石をパンに代えて養ってくれる指導者に喜んで自らの自由を明け渡すに違いない、と書いています。第二の誘惑は、神殿の屋根から飛び降りて天使の加護を試す、ことでした。神の神秘による絶対安全の確保、つまり、神が守ってくださるから私には絶対に災いは起こらないと信じさせてしまう自分本位の信仰です。大審問官はこれを「神秘」と言いますが、「宗教」と言つてもよいかも知れません。勿論それは、聖書から私たちが受け取る真理の道ではなく、人間が内なる宗教性に基づいて自分から作り上げる世俗的な宗教のことです。第二の誘惑は、全世界を手にすることのできる権力です。しかし、それを得るにはサタンの支配に屈することが条件でした。自分を支配しようとするあらゆる権威の上に立つために、自分自身が最高権力の座につくことは結局サタンに究極の支配を委ねることになる、ということでしょうか。サタンは神の支配に対抗するために、自らが神になりかわって人が心に願うものを何でも与えることが出来ます。人は自らの自由を盾に、こうした誘惑に勝つことのできる見込みが無い。だから、罪深く弱い民衆を憐れむために、サタンの支配に自分の自由を喜んで差し出して、この世の幸せを何とか確保する他はない、と言って、先の大審問官はキリストを退けました。

「サタン」とは聖書が私たちに語るところの見えない霊の力です。私たちの心と体を、また日常生活を支配するものは一体何か、と問うてみますと、無意識のうちに、依存している権威が実際のところ幾つもあるのではないかと思います。私たちに道を説くのは、世の中の常識でしょうか、日本の伝統でしょうか、民族意識でしょうか、それとも飽くなき経済的な発展を目指す人間の欲望でしょうか。それらに囚われている時に、預言者の説く「義の道」は見過ごしにされて、神が差し出された救いの御子には十字架刑という惨い排斥の仕打ちが用意されます。

「権威」という今日では抑圧的にも聞こえる言葉の響きによって、それが意図することの本質を見逃さないようにしたいと思います。神の権威は、肉をとり、貧しい様で来られたキリストの低い姿の中に現れます。それは、権威ある言葉と行いによって、光を失っていた者に光を与え、命を失っていた者に命を与える、神の力として示されます。真の信仰によって神の権威に服従するとは、そうして働く神の力が実際に信じる者たちの生活に効力を発揮することを意味します。ですから、信じることは力です。主イエスが批判したエルサレムの指導者たちの口先だけの信仰とは信仰とは呼べません。神の権威に服従するものではなくて、この世を支配する霊に囚われてしまっている、力の無い信心です。「徴税人や娼婦たち」は、その罪のために一見、神の国から閉め出されてしまったようですが、イエス・キリストを信じる信仰が、そうしたサタンの支配から彼らを解放して、彼らを真っ先に神の国ヘ送り込みました。

 洗礼者ヨハネは罪の悔い改めを求めました。主イエスはそこに義の道があると言われます。悔い改めて義の道を行くことは、かつて自分を支配していた、また、今も自分を絡めとろうとしているこの世の権威を一旦否定して、神の支配に身を委ねて、神の御旨を求めて生きることです。

 この世界が悪の支配によって滅びてしまわないように、神は平和を保つための社会秩序をも恵みとしてお与えになり、そこに権威をも備えておられます。権威主義の問題は、一個の人間に過ぎないものがこの世の制度に依存して、自分自身の権威を絶対化するところにあります。しかし、神が世の中に認めておられる権威は、神の御旨を正しく果たすために用いられる手段に過ぎません。

 罪人たちは神を一旦拒んだわけです。しかし、思い直して、従うならば、神の御旨に適います。信仰は、そうして悔い改めから始まります。今まで生き方を思い直してみて、神の権威をイエス・キリストヘの信仰を通して受け入れて、神の御旨に従って生きるところに、サタンの支配に打ち勝つ神の支配が実現します。

 義の道に生きることは、裁きを恐れて神の掟に従う律法主義とは違います。義の道に生きる希望が示されて、そこに自由に立ち返ることが許されたから進んで行くことの出来る道です。「徴税人や娼婦たち」が招かれて入ることができた道です。誰でも望むのなら入れていただけます。

 最初に引用したイザヤ書の御言葉にもう一度触れたいと思います。2章2節からお読みします。

 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコプの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かつて剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコプの家よ、主の光の中を歩もう。

 今の時代、イエス・キリストの権威を、私たちは自分の生活の中でどのように受け止めることができるでしょうか。福音主義者たちの間では、キリストの低い謙遜な姿に目を留めて、罪深い人間の弱さをそのまま受け止めてくださる神の愛に慰めを見出してきたように思います。けれども、イエス・キリストの十字架は、人生のすべてを神の御前に投げ出して、全身で神に服従をしてゆく積極的な姿でもありました。また、十字架に至る主イエスの受難に見られる謙遜なお姿は、神の御前に自分を低くすることができない人間の愚かさに対する信仰の模範を示すものでもあります。一方で、「人間は罪深いのだから仕方が無い」として、罪があるままの私を受け入れてくださる神の寛大な慈しみがあります。しかし、それともう一方には、私たちに信仰を与えて積極的に御自身の義の道に生かそうとする、キリストの権威ある力が信仰者には働きます。自分の弱さを言い訳にして、信仰の内に働く聖霊の力を否定するような態度は、結局、エルサレムの指導者たちに組する立場になってしまいます。「徴税人や娼婦たち」は、自分の弱さを知るがために、神の赦しと憐れみに頼って、「思い直して」神の支配を受け入れます。神の支配を受け入れるということは神の権威が生活の上に力となって及ぶことですから、彼らは決して卑屈ではありませんし、人目には弱く罪深く見えても、信仰によって強くされています。だから、預言者イザヤの語る平和には希望があります。エルサレムから発する主の言葉が権威を帯びて人に働く時、それは力となって平和をつくりあげます。争いの止まない世界に対して、主は裁きと戒めを与えます。その権威に従う人間たちが、戦の道具を打ち直して畑を耕す道具にする。「国は国に向かつて剣をあげず、もはや戦うことを学ばない」。キリストの権威の及ぶところには、その実質的な実りがあって、それが最後には真の平和を実現する、と預言者は告げています。そうした、実りのある信仰を私たちも与えられていることを確かにしたいと思います。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と呼びかけられています。自分自身の弱さに気づくことは信仰の出発点です。しかし、それを神に受け止めていただいたからには、私たちはその弱さの中に留まっていることはできません。キリストの光の中で、罪に負けない力をいただいて、積極的に主の御旨に叶う働きに召されたいと願います。神の国はそこからしか始まりません。

祈り

 

 天の父なる御神、かつて主を拒んだ人々が、あなたの御支配を思わず世の思い煩いの中で光を見失ったように、私たちの時代もまた、真の主権者であるキリストのことを思わず、空しい誇りと生活の欲を追い求めて、生命の活力を失いつつあります。どうか、福音によってあなたの御前を歩むようにされた私たちが、主イエス・キリストの主権のもとで生き生きとした信仰を保ち、分け与えられた賜物を十分に用いて、あなたの御旨を行うことができるように、聖霊の助けをお与えください。自分の弱さに負けそうになったときに、主にあって、勇気を奮い起こすことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。