ヨシュア記9章1〜27節「ギブオンの協定」

 

 エリコとアイの征服が果たされた後、ヨシュアに率いられたイスラエルの民はカナンの王たちと全面的な戦争に向かうことになりました。その戦いに先立って、一つの挿話がこの9章に差し込まれます。「ギブオン」という町はエルサレムの北西に位置し、後にベニヤミン族の所領となって重要な聖所が置かれた町です。ギブオン人にまつわる話は後にサムエル記下21章でサウル王との関係でも出てきます。民族の素性としては7節で彼らはヒビ人である、と紹介されています。1節のリストに挙げられていますけれども、申命記で命じられた滅ぼされるべき民の一つです。ヒビ人はイスラエル以前にアナトリア方面からカナンへと移住してきた民族だと言われます。

 このギブオン人は、他のカナンの諸民族とは異なって、イスラエルによる聖絶を免れる道を模索しました。彼らはこれまでのイスラエルの戦いを聞いて滅びを覚悟し、死を免れるために知恵を尽くして策を立てます。そして、彼らが取った方法は、素性を偽ってイスラエルとの協定を結ぶことでした。彼らは自分たちが「遠い国から来た」と偽りの主張をします。それがどういう意味をもっているかといえば、モーセは申命記20章で次のように命じていたからです。

 ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。(10—17節)

ヒビ人である彼らはこの掟によって聖絶を免れることはできません。しかし、彼らが「遠く離れた町々」の住民であると上手く騙すことができるなら、彼らは強制労働に服すことにはなるものの、全滅は免れることができます。そこで、彼らは旅の道具や食糧を偽装し、自分たちがあたかも長旅をして来たかのように振る舞って、ヨシュアとイスラエルの指導者たちをまんまと出し抜いて、協定を結んで生命の保障を得たのでした。

 イスラエルを騙す行為は、神に対する反逆であるかとも思われそうですが、ここではそのような責めをギブオン人に負わせる気配はありません。むしろ、まんまと騙されたヨシュアとイスラエルの軽率さが非難されています。14節によれば、「彼らは主の指示を求めなかった」のでした。その点は、後に指導者たちに対する共同体全体の不平を引き起こしています。それに比べて、ギブオン人たちの行為は、正当な手段ではないにしても信仰的です。9節で、彼らは自らを「僕」と呼びながら、「あなたの神、主の御名を慕って」来たと、信仰の告白をしています。これも偽りかも知れませんけれども、その後に続く主の御業についての告白は、モーセの書に記されている通りの真実です。エジプトでの救いの御業も、荒れ野での導きも、彼らは確かに耳にしています。そして、先に触れました通り、この企て自体が申命記にあるモーセの命令を前提としています。彼らはそれも聞いていた、ということになります。ですから、主の言葉を聞いて、それに対する真剣な態度で応じたのは、ここではイスラエルよりもギブオン人ということになります。

 不正な手段を用いて救いを手に入れるという事例は、ギブオン人に始まったことではありません。創世記38章にあるユダとタマルの例がそれに当たります。タマルはユダの息子の嫁でしたけれども、夫が死んで窮地に立たされたタマルは売春婦を装うという不正な手段を用いて、ユダから子種を奪いました。しかし、そこで不正が問われたのは、嫁に対する正しい処置を怠ったユダの方であって、タマルの行為はユダの家系を存続させる価値ある行動として記念されます。また、ヨシュア記でもギブオンの例に先立って、エリコでのラハブの行動が記されています。ラハブは紛れも無い遊女であって異邦人でありましたけれども、イスラエルの神、主への帰依を明らかにして、賢くエリコの王を騙して斥候を匿ったことから、一族の救いを獲得しました。

 正当な目的のためには手段は問われない、という倫理がここで持ち出されては困るのですが、ここには少なくともイスラエルの自覚として、神は人間の弱さをも用いて御自身の救いを果たされることが表明されています。あるいは、弱い立場の人間に神は特別な関心を払っておられる、ということです。そもそも、不正な手段を用いて神の祝福を奪ったのは、イスラエルの族長であるヤコブでした。ヤコブは父と兄を騙して家長に与えられるはずの祝福をイサクから得ました。しかし、聖書は騙されたエサウの愚かさについて記すものの、ヤコブの不正を糾弾することもなく、むしろ、策略を用いて神の祝福をものにして行くヤコブのしたたかな姿を描いています。それが、実にイスラエルの源になる人物であるわけです。

 ギブオンの策略は、これらの事例の線上に並びます。彼らは滅ぼし尽くされる異邦人でしたけれども、真の神への帰順によって、不正な方法を用いてまで生き残ろうとしたところが受け入れられて、命の救いを得たのでした。それは、まさにイスラエルの家系の源流にあたるヤコブにおいて起こった主の救い、でもありました。神の救いは予め定められた線引きと単純に割り切れるものではなく、真の神の裁きを恐れて、心底救われたいと願って、じたばたするところの人間の努力も顧みられます。真理を求めて探求し続ける努力、ではなくして、聖書の言葉によって真の神を知り、その神へ立ち返って救われるための努力です。

 主イエスはこの旧約の事例を背景に、ルカ福音書16章で「不正な管理人のたとえ」を話されました。注解者たちも解釈に困っている譬えですが、旧約聖書からすればその意味は一目瞭然です。帳簿の不正がバレて主人から懲罰を受ける前に、身の置き場を確保するために顧客たちの借金を帳消しにして回る、その慎ましく馬鹿らしい不正な管理人の賢しらを主人はほめた。それくらい、真剣に自分の救いについて考えなさいということ、そして、そういう真剣さに応えて神は寛大に振る舞うということです。この例え話を聞いてイエスをあざ笑った金持ちのファリサイ派の人々が、その話を理解できなかったのは、旧約聖書のメッセージを聞き逃しているためでしょう。

 ギブオンの協定に関してここで記されていることの意義は、もう一つ、これによってイスラエルに異邦人のいる場所が用意されたことです。これについては先にもラハブの事例や8章末尾の寄留者への言及で確認した通りです。神の命令によれば、カナンの民は完全に滅ぼし尽くされねばなりませんでしたけれども、現実にはイスラエルはその掟を完全に果たすことはできませんでした。そうしたイスラエルの失敗が、イスラエルの民の間に異邦人を残すこととなり、これがやがてイスラエルの王国を滅ぼす偶像崇拝の原因となるのですけれども、その後に明らかになるイスラエル契約共同体には、異邦人がその契約に含まれて信仰共同体を形づくるというヴィジョンが与えられます。今日の箇所によれば、滅びは免れたもののギブオン人は奴隷として扱われるようですけれども、23節と27節で暗示されていますように、「柴刈り、水くみ」は必ずしも奴隷の仕事ではなくて、神殿で奉仕する奉仕者たちの務めです。神殿の奉仕者たちは皆、神の「僕(奴隷)」であるわけです。

 新約聖書で実現される、キリストを介しての神と異邦人との契約は、既に旧約聖書の中に深い根を持っています。神によって命を救っていただけるのは、真の神の前に裁きを恐れて助けを願う者だけです。その信仰だけが、救われるための条件です。選びの民イスラエルはその神の救いを世に示すために召された僕として旧約の歴史を進んで行きます。そこに告げられた神の御業から、真の神への信仰に導かれる人は化誰であっても神の憐れみによって神の民に加えていただけます。

祈り

憐れみ深い天の父なる御神、あなたの裁きの前に、素直に救いを願う信仰を私たちにお与えくださり、聖書に触れるすべての人にお与えください。あなたの寛大な御旨による救いに一人でも多くの者が与れることを私たちは願います。どうか、罪の故に破滅に向かう人々の心に、福音を通してあなたが語りかけてください。私たちの教会の働きを、その口としてお用いになってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。