マタイによる福音書1章1~17節

アブラハム・ダビデ・イエス 神の選びの歴史

 

マタイの語る福音

 今日からマタイによる福音書の御言葉に耳を傾けてまいります。新約聖書の初めに置かれた4つの福音書はいずれも主イエスの地上でのお働き、特に十字架の死に至る苦難と復活を中心にして語り伝えています。そこに私たちが信じて救われる道が開かれています。主の日の礼拝で福音書の御言葉を聴くということは、主イエスの御業と教えとをこの場で受けて、主イエスの後に従って行くことを意味します。私たちの信仰の歩みが、主イエス御自身によって導かれることを願いつつ、これから福音に聞いて参りたいと願います。

 4つの福音書はどれも主イエスの御生涯について語っている点では共通していますが、その語り口はそれぞれ別個に特徴があります。マルコはイエス・キリストにあって神が行われた驚くべき出来事を大胆に告げて、信仰の決心を促します。ルカはキリストの御業を旧約から続く神の救いの歴史の中に位置づけて、御言葉の宣教による罪人の救いを教会の時代に至るまで順序正しく書き綴ります。ヨハネは最後に書かれた福音書として先のものを踏まえながら、より内省的に深く、罪人に命をもたらす神の愛を語ります。そして、私たちがこれから学ぼうとしていますマタイは、主イエスの十字架と復活に至る道程を、主イエスの教えを中心にして語り、私たちを主イエスの弟子として歩むように促します。そして、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」との命令が教会に託されます。

 マタイによる福音書は教会の歴史では「第一福音書」とも呼ばれましたように、福音書の筆頭に掲げられて、よく学ばれた書物でもあります。キリストの十字架と復活は、神が罪人を救うためになされた決定的な出来事で、それによって罪の贖いが果たされたと信じるならば誰もが救いに与ることが出来ます。けれども、福音はその救いの御業を中心にしながらも、その福音と共に生きる人の生き方と深く結び付いています。キリスト教会がマタイ福音書を第一とし、そこからよく学んだのは、主の教えを福音として聴き、主の弟子たるものの道として、それを実践して行く為でした。教会にあって本当の教師はただ一人主イエスだけです。そして、弟子は師の教えに学びます。マタイ福音書の最後にある主イエスの言葉には「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」との命令が与えられています。主イエスの教えは、キリスト者が人生を歩む上で、心に留めておくべき新しい掟です。

 信仰によって神の御前で義とされること、罪が赦されること、新しい復活の命が保証されることは、無償で誰にでも提供される救いです。何らかの代償が私たちから求められるものではありません。ですが、パウロの教えが行き過ぎて、福音のみ、恩恵のみ、ということが、信仰者の無軌道な自由と取り違えられないようにしないといけません。洗礼を受けた者は、主イエスの弟子としてこの世の生涯を送ります。マタイが伝える主の教えは、常識からしても極端なくらい、とても高い倫理的な要求を含んでいます。それを知って、おじけることもあろうかと思います。けれども、主イエスは信じて従う弟子たちを躓かせるために言葉を与えるのではなく、欠けがあっても、失敗しても、何が正しくて、何がそうではないかを見分けながら、律法の完成者である御自身の後をついてくるように招き続けるお方です。

 豊かになったこの世界で、人生に指針を欠いて苦しんでいる人や、自分を貶めている人がどれほど多いことでしょうか。どこかで真の教師に出会った方は本当に幸せだと思います。マタイは、ここにそういう方があると世に呼び掛けています。イエス・キリストは、罪人の救い主であると同時に、他に優る者はない真の教師です。そして、その教えは人間の知識を越えて、神の義しさを語ります。心を開いて、主イエスの教えを受けることのできる人は幸いです。

アブラハムの子イエス

 マタイはその初めに、弟子たちの師となったイエス・キリストとは誰かということについて記します。それが、出生の秘密に先立って系図という形で表されます。初めて聖書を開いた方は驚くかも知れませんが、系図は旧約聖書では馴染みのある文体です。『創世記』では人類の父祖たちの系図が記されて、それが物語の進展を促します。『歴代誌』という歴史書にはダビデの系図が歴史の出来事に先だって延々と書き記されます。系図は血統を表し、その人の出自を語るものですが、聖書ではその系図の上に神の永遠の御計画と歴史に働いた摂理の御業が表されます。

 節に置かれた表題が、この系図を特徴づけています。

  アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 「アブラハム」と「ダビデ」が系図の中から選ばれています。つまり、イエス・キリストは、まずアブラハムの子としてお生まれになった方であることを、この系図は証します。

 アブラハムは神がただ一人お選びになって祝福を与えるとの約束を与えた人物でした。イスラエルの中で「信仰の父」として称えられた人物です。その彼に最初に神がお与えになった約束は次のようなものでした。

わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、

あなたの名を高める/祝福の源となるように。

あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。

地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。

アブラハムに与えられたこの約束は、ヤコブの子どもたちである「ユダとその兄弟たち」に受け渡されました。つまり、イスラエル12部族がアブラハムの名を受け継ぐようになりました。それは、地上のすべての民族が、その名によって神の祝福を受けるようになるためです。しかし、マタイの系図に表されました通り、神の約束は初めのアブラハムから終わりのイエスに至るまで、イスラエル・ユダヤの血統においてのみ受け継がれています。すべての民族へ祝福が広がるという展望は、この中にはまだ示されていません。その約束が果たされるのは、イエス・キリストに至ってからです。神はアブラハムに対する約束を、いよいよイエスの誕生に基づいて世界に向けて実現されます。もはや血筋に依らず、信仰によって、罪あるすべての人々が神の祝福へと招かれるようになりました。祝福の源は、今やキリストとキリストに結ばれた教会に置かれて、全世界に提供されています。

ダビデの子イエス

 そして、イエス・キリストはダビデの子だ、とマタイは証します。節では、ダビデについてだけ「王」という称号が附されています。イエスは神が選んだイスラエルの王の末裔としてお生まれになりました。

 ダビデにもまた特別な約束が与えられていました。サムエル記下章にそのことが記されています。神は預言者ナタンを通じて、ダビデに次にようにお告げになりました。

 主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、 あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。 この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。 わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。

ダビデの王座は永久に揺るがない、そして、子孫の中から神は一人の子を選んで御自身の子とし、彼と契約を結んでイスラエルの王国を確かなものとする。この約束が、バビロン捕囚以降、イスラエルの民から政治的な指導者としての王が取り去られた後になっても、神を信じる人々の支えとして残されました。イスラエルの人々が長い間待ち望んだのは、神がダビデへの約束に基づいて送ってくださるはずの王、メシアであって、マタイはそれがついにヨセフの時代に、その妻マリアから生まれたとここに記します。イエス・キリストは、神が約束されたダビデの子、イスラエルの王として民の救いを実現するお方です。

 ただし、福音書が証するのは、イエスはダビデのような政治的な指導者として民族を解放するメシアではないことです。そこでユダヤ人の期待は裏切られる結果となり、ローマ人の思惑と相まってイエスは十字架におかかりになることになります。イエスはダビデの子として神が約束されたメシアには間違いない。しかし、その王座は天に置かれ、人々の思いを越えた全世界を統治される王として、神の国をお立てになる方です。イスラエルの民の解放は、罪と死からの解放としてイエスの十字架と復活によって果たされます。

 イエス・キリストは、こうして神の約束によって地上にお生まれになった方であり、罪の世界に神の祝福をもたらし、御自分のもとに民をあつめて神の国をつくるお方です。

マリアの系譜

 もう一つ、この系図を特徴づけているのは、旧約時代を生きた名の女性たちの名が特別に記されている事です。マタイは説明を加えていませんから、それが何故であるのかをこちらで考える他ありませんが、これらの女性たちに共通するのは、彼女たちが異邦人であることです。創世記38章に登場するタマルは異邦人であったかどうか、聖書は明らかにしていません。ティムナに住んでいたという出自からそう考えられて、ユダヤ人たちの古い伝承では異邦人とされていました。タマルは本来、ユダの妻ではなく、息子の妻でした。しかし、ユダの息子が死んで、やもめとなったタマルは実家に帰されてしまいますが、義父ユダの不正な態度に対抗して、自ら娼婦を装い、ユダを誘って子をもうけます。ユダはそれがタマルだと気づいて彼女の正当性を認めました。現代の道徳観からしても驚くようなことが、イエスの系図の中に実は込められているわけです。

 ラハブはヨシュア記の章に登場します。彼女はエリコに住む遊女でした。おそらくカナン人でしょうが、彼女はエリコにやってきたヨシュアの斥候人をかくまい、主なる神を畏れてイスラエルに味方した為に破滅を免れます。ラハブがその後、サルモンと結婚したという記述は旧約には見当たりません。これもユダヤ人たちの間で伝承として伝えられていたのでしょう。

 ルツについては『ルツ記』という書物が記されていますから、特に説明を必要としないかも知れません。ルツはモアブ人の娘で、イスラエル人の夫に先立たれてしまいましたが、姑のナオミを慕って主なる神を信仰するようになり、御言葉に誠実に従うボアズと出会って幸せな再婚を果たした女性です。

 ダビデ王には複数の妻がありました。その中で「ウリヤの妻」と名が伏されているのはソロモンの母となったバト・シェバです。バト・シェバも異邦人であったかどうかは明らかでありませんが、夫のウリヤはヘト人でした。サムエル記下11章に事の顛末が記されています。ダビデは人妻と関係し、その子をもうけた上で、事実を隠蔽するために部下であるウリヤを前線に送って故意に戦死させました。マタイの系図の中でその名前を記す代わりに「ウリヤの妻」とあるのは衝撃的です。そこにはダビデの犯罪が表示されているからです。

 これら人の女性には、それぞれに旧約聖書が記したドラマがあり、泥臭い人間社会の実情がそこで描かれます。これらの女性たちは社会的な立場の弱さをそれぞれに抱えながらも、しかし最後は神によって祝福を得た者たちです。彼女たちがイエスの系図に含まれることの意味は一体何かと考えてみますと、そこに最後にマリアが加えられることに結びつくのではないかと思われます。マリアは結婚前に聖霊によって妊娠するという試練を与えられました。それは、神の約束の中で子どもをもうけるために、降りかかる辛い状況を信仰によって乗り越えねばならなかった、かの女性たちと同じ定めにあることを意味します。イエスの誕生をめぐるマリアとヨセフの物語は、この後で記されますけれども、イエスの出生は純血主義に守られた王家の誕生物語ではなく、神の約束が罪ある人を用いて、この世に祝福をもたらす、神の憐れみによる物語なのだと、この系図は予め告げようとしているのでしょう。イエスに結びつけられたこれらの人々の繋がりは、血のつながり以上に、神の憐れみが注がれて来た道筋として大切です。ですから、これから先、イエスに繋がる人々も、血統に依らず、家柄にも依らず、ただ、信仰によってイエス・キリストと結ばれて、神の憐れみがそそがれた痕跡とさせられます。

イエスから教会へ引き継がれる約束と使命

 「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロン捕囚まで十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代」、神の契約は正しく節目をもってイスラエルに受け継がれて、新しい契約の担い手であるキリストに至る、ということが示されます。14という数字にあまりこだわることは必要ないと思います。完全数である7の倍であるということや、ダビデの名に含まれる文字を数字に換算すると14になるとか、キリストまでの42代に、更に次の7代、つまり一つの周期を加えると全部で49代になり、旧約に記された解放の年ヨベルと合致する、つまり終末の解放となる、というような様々な解釈がありますが、どれも確かではありません。これらはすべて神の御計画の内にあった、ということで十分です。

 こうして神は、旧約聖書にあるイスラエルの歴史を通して、御自身の約束の道筋をイスラエルの民に示して来られました。そして、今、福音書を通して、その約束の成就が語られます。イエス・キリストは、神がアブラハムとダビデと、そして多くの預言者たちとを通して約束された救い主であり、神の祝福を地上にもたらす方であり、虐げられた者たちが待ち望んだ真の解放者である王です。このお方を信じて、師と仰ぎ、付き従った者たちには、その救いがすべて約束されています。

 私たちが、真の教師として仰ぐお方は、この世の賢人と比べることのできるようなお方ではありません。人は釈迦とソクラテスとイエス、などと比較しながらその賢い教えに学ぼうとするかも知れません。けれども、キリストの教会では異なります。主イエスの教えは神の言葉です。その言葉に命を求めて聴き、その言葉によってイエス・キリストの弟子となり、その言葉を語り伝えて新たな弟子を生み出すことが、私たちの学ぶ目的です。主イエスに招かれてここに集う私たちもまた、神の御計画の中にあります。熱心に願い求めるところには必ず祝福が与えられると信じて、続けて御言葉に学んで参りたいと願います。

祈り

永遠の御計画に基づいて、主イエスによる救いを実現されました、父なる御神、あなたは地上の優れた人々に目を留めるのではなく、全く自由に憐れみを注がれて、弱さを抱えたイスラエルを選び、そこにあなたの栄誉に相応しい希望を与え、あなたと共に歩む人の歴史を形づくられました。今、主イエス・キリストを介して、そこに名を連ねるようになりました私たちが、御名の栄光に相応しく、主の教えによって信仰の歩みを確かにすることが出来るよう、私たちの内なる心を励ましてください。そうして、あなたの御旨に適った教会によって、あなたの祝福が周囲に及び、洗礼を受ける弟子たちが、いよいよ増し加えられますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。