ルカによる福音書10章25-37節

災害ボランティアとキリスト教

 

あいさつ

 今朝は秋の特別伝道集会としてこの礼拝を行なっています。私たちは毎週日曜日にこうして会堂に集まって、世界をお作りになった神に礼拝をささげています。ここに私たちキリスト者の信仰の証があります。キリスト教会は、イエス・キリストによって命を救われた人の集まりです。「命を救われた」とは、特別な体験をしたわけではないのですが、聖書を通じてイエス・キリストに出会って、そこに書かれている福音によって救われたということです。死に定められた混沌とした世界で生きてきた私の命が、イエス・キリストによって新しくされて、神とともに生き始めたところに、私たちの救いがあります。

 今朝は、初めて礼拝に出られた方をお迎えする機会ですので、イエス・キリストを紹介するつもりでお話しします。そこで、今回は「災害」をテーマに選びました。今年も台風や地震が各地で起こってニュースになっています。西日本の被害もまだ大きな傷跡を残したままのようです。今のところ長野県に住んでいる私たちはその被害を免れていますが、テレビで見ている限り、なかなかその大変さは実感できないのではないでしょうか。あるいはこの中には災害に実際に遭ったことのある方もおられるかもしれませんね。先の戦争を経験した方もそれと同じ苦労をなさっただろうと思います。

「災害」の悲惨さを通して命の大切さを知る、ということもありますが、今朝ご一緒に考えたいのは、災害を通して知った助け合いの精神です。そこに私たちはイエス・キリストを通して知った神の心を見ることができます。

良きサマリア人のたとえ

 先ほど読みました箇所は、『ルカによる福音書』に書かれている有名なイエスのたとえ話です。ユダヤ人の学者が、イエスに「永遠の命」について質問しました。つまり、人が生きるために最も大切なことは何か、ということです。まず、それは聖書に書いてある、とイエスはお答えになります。聖書には全身全霊を込めて神を愛すること、そして、隣人を自分のように愛することが、最も大切だとあります。「隣人を愛する」ですから、「人間を愛する」とはちょっと違いますね。そこで学者は、「隣人」とはいったい誰のことだ、と改めてイエスに問います。それに答えてイエスがお話になったのが、「よきサマリア人のたとえ」です。

 ある人が強盗に襲われて道に倒れて死にそうになっている。これは同じ民族である同胞だという前提でのお話です。するとそこへ、祭司が通りかかる。「祭司」とは、神を礼拝する神殿で働く上級公務員です。いつもは人に宗教や道徳を説いている偉い人です。けれども、彼はその怪我人を見て見ぬ振りをして通り過ぎていった。気がつかなかった、などと後で言い訳するかもしれませんけれども、「その人を見ると」とちゃんと書いてあります。続いて、レビびとが通りかかった。「レビびと」も祭司と同じで神殿で働く公務員です。神にお仕えする人のことです。そして、彼も先の祭司と同じで、「その人を見ると」道の反対側を通って行ってしまった。死にかけている怪我人からすれば絶望的な状況です。都会ではありがちな光景ですが、中込(柳原)ではそういうこともないかもしれませんね。私もこちらに来て1年になりますが、最初に感じたのは町の人の人情の厚さでした。

 3番目に通りかかったのはサマリア人です。ここは、このお話の背景を知らないと分かりづらいところですが、当時のユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲でした。ユダヤでの出来事ですから、そこにいるサマリア人は差別を受けていたマイノリティーです。サマリアはユダヤの隣にある地域でした。今でも日本では嫌中・嫌韓などと言ってお隣の中国や韓国の方を嫌う人がいますけれども、「サマリア人」はそういう人としてここに登場します。

 そのサマリア人は、口ではいつも偉そうなことを言っている同胞の祭司とは全く違う行動を取りました。33節以下にこうあります。

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

このサマリア人の振る舞いは、完全な救助と看護ですね。個人的にここまでできる人はあまりいないんじゃないかと思います。このたとえ話をした後で、イエスは学者に問いました。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36節)。答えは明らかです。サマリア人です。神が聖書で教えておられる最も大切なことの一つである「隣人を愛する」とは、たとえ隣人がナニじんであろうと、どういう関係の人であろうと、困った時には助けてあげることだろう、ということです。

 イエスがお話しになったこの譬え話は、単純に道徳の話なのではなくて、まず、ここに神の愛が示されています。怪我して死にそうになっていた人は私たちのことです。人間誰もが罪に覆われたこの世界で死にそうになっている。一度災害に出会えば、誰も見向きもしてくれないような冷たい現実が待っている。けれども、そんな私たちからは遠い存在である神は、サマリア人のように、私たちのもとへ駆け寄ってくださるお方なんだとイエスは言うわけです。実に、イエス・キリストが世に来られたとはそういうことです。神が私たちを憐れんで、かわいそうに思って、イエスを私たちのもとに送って来られた。そして、万全を尽くして私たちの命を助けてくれました。

 神はイエス・キリストをこの世界に送って、私たちに近づいてくれました。そして、イエスは私たちの罪を背負って十字架で死なれ、神の力によって復活しました。それによって私たちが、キリストの新しい命によみがえるためです。こうして、「よきサマリア人のたとえ」は、まず、神の愛を私たちに伝えています。

 次に、イエスが「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)と言われたように、人が永遠の命を得るための、最も尊い生き方がここに示されます。それは、隣人を愛することです。私たち自身が、口先だけではなく、助けを求めている誰かのもとへ行って、できる限りのことをするという姿勢に表れます。イエスは別のところでは「あなたの敵を愛しなさい」と教えておられます。それは普通の人間にはできないことですけれども、聖書を通して神を知って、イエスとともに生きていこうという決心が与えられますと、そのように生きていこうとする新しい命が私たちの内に宿ります。そうして神は私たちの生活の全体を救ってくださるわけです。

阪神淡路大震災の経験から

 近年の大きな災害に直面して私たちキリスト教会が学んだことがあります。それは、今そこで苦しんでいる誰かを助けること、そのこと自体がキリスト者の生き方に結びつく、ということです。教会は、実際、学び続ける学校のようなところがあって、いつでも聖書を学び、教理や歴史を学んでいます。もちろん、教会は学のある人もない人も尊ばれる場所ですから、学歴などで人が差別されることはありません。また、子どもから大人まで無償で学び続けることができる特別な場所です。けれども、そういう性質から、勉強して知識ばかり増し加わって、神が望んでおられるような愛の働きが疎かになってしまうことがあります。それはキリスト者一人一人が生活の現場で実践すればよいことですが、教会としてもそのための学びをし、励ましを送るのを怠るような場合もあります。私たちのようなオーソドックスな教会には、そういう面が多々あるのを正直にお話ししておきます。

けれども、近年、私たちだけではなく、世界のキリスト教会は、そのような自分の弱さにだいぶ自覚的になってきました。イエス・キリストは、神の愛についての知識だけを私たちに与えるのではなくて、隣人愛の働きへと私たちを促しておられると気づきました。

 私自身、かつて大地震に見舞われたことがあります。1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こった時、私はまだ牧師になるための勉強をしていた神学生で、神戸市灘区にある神学校の寮にいました。早朝5時47分、ベッドの布団の下からズズンという深い音がしたかと思うと、激しい揺れの波が一気に押し寄せました。揺れは建物全体を巻き込んで、すべてを縦に上下に攪拌しながら10秒ほど続いて、昨日まで平穏であった神戸の街をあっという間に破壊し去りました。幸い、私がいた寮の建物は特別に頑丈で、屋根の瓦が一枚落ちただけでしたけれども、神学校の周囲にある木造の建物は完全に潰され、隣にある十数階建ての高層マンションは大きく捻れていました。学生会で写真係をしていた私は、カメラを持って外の街へと出てみました。地元に馴染みのあった近所の古い模型屋は、2階がそっくり道路に落ちて1階部分が潰れていました。前の晩に仲間と立ち寄ったお好み焼き屋は屋根を残して完全に倒壊していました。同じく前の晩に入った近所の銭湯は、正面の壁と煙突を除いて全てが崩落していました。いつも声をかけてくれていた番頭さんとすれ違ったのですが、枕一つを胸に抱えて呆然と避難所に歩いて行きました。少し下ったところにあるJR六甲駅は、高架の駅舎が潰れて、一階に常駐していた駅員の方が亡くなりました。町中にガスの臭いが立ち込めていて、薄曇りの空には黒い煙が幾筋も立ち上っていました。

 山手の下にある街道や商店街の被害は甚大でしたが、神学校よりも上手にある住宅街では倒壊を免れた家が多くありました。安全はお金で買うものだ、という声がよく聞かれました。また、神学校には杉坂さんという大工さんが営繕担当として住んでいました。この方は関西で5本の指に入る宮大工で、外部の仕事も引き受けていました。地震の後、杉坂さんは、自分の手がけた建物は一つも倒れなかったと語りました。神学校の建物が頑丈だったのは、古い建物であるがための堅実な設計と施工であったためです。戦後、物資が不足するなかで、アメリカの教会がお金と資材を送ってくれて、建設作業が進められました。施工を手がけたのは最初期の頃の竹中工務店です。関西中から腕の立つ職人が集められて工事がなされました。30センチもの厚みのあるコンクリートの壁に鉄骨と言っていいほどの太い鉄筋が狭い感覚で打ち込まれていました。ですから「戦車の大砲でも穴は開かない」と言われていました。いつしか、建設の技術は簡略化され、宮大工の知恵も隅にやられて、神戸の街は華やかに装われましたけれども、そのツケは大地震の被害によって支払われることになりました。単純に、お金のあるものが安全を手にしたのではなくて、人々は命の安全のためにお金を費やさないようになったのではないかと思います。

 神学校は、地震直後から2週間ほど通常の授業を中止して、周辺の方々のための避難所となりました。隣の捻れたマンションから逃げて来た家族や、近所の方々と一緒に、十数名の学生たちは、水もなく、電気もないところでの生活を続けることになりました。毎日、朝と夜に礼拝をささげました。讃美歌を歌い、聖書の言葉を聞きました。そして、日々生きるのに必要なことのために、作業を分担して働きました。下水のための水を川へ汲みに行き、庭に風呂小屋を建て、保存して合った食材を用いて炊き出しを行いました。家族や家を失った方々の話を伺うと胸の潰れるような思いがします。商店街でお店を開いていた高齢の男性は、これで3度目だと言いました。最初は空襲、その次は台風、そして今度は地震。そのすべてを自分は経験したけれどもまだ生き残っている。その表情は決して暗いものではありませんでした。そうした生活の中で、私は何か純粋なものを感じていました。日々を生きるために力を合わせて働くことの中には、大きな災いの中にある慰めをも感じました。そこには、また、神をたたえる讃美歌と、私たちに語りかける聖書の言葉がありました。

 被災者のための支援活動はやがて終息して行きましたが、そこには難しさもありました。被災者に対する行政の支援も十分なものではありませんでしたが、ボランティアで行っている教会の活動にも限界がありました。いつ、どのようにして活動を打ち切って通常の業務に戻るのかについては、教会の内部で議論もありましたが、いずれにせよ、その時はやってきました。この震災は巷では「ボランティア元年」とも呼ばれますが、与えられた課題が多くありました。

 そして、2011年3月11日の東日本大震災がありました。ついこの間のことのように思えますけれども、もう7年が過ぎています。あの地震があった時には、私は東京の実家にいました。関西の経験がありますから、昼間に地震が起こった時はまたかとすぐに身構えました。幸い東京は震度5の揺れで済みました。東北の様子はテレビで見ていましたが、津波の深刻さはすぐには伝わって来ませんでした。2017年に仙台で私たちの教派の全国大会が開かれて、その機会に津波の被害の大きかった宮城県名取市の閖上地区に行って見ました。今では観光名所にもなっていますが、海辺の広大な土地が、建物のないまっさらな工事現場のような土地になっていて、そこがかつては住宅や商店で賑わっていた街とは思えませんでした。この地震の時は、教会の動きは速やかでした。直ちに救助のための委員会が設置されて、仙台に拠点ができました。アメリカの姉妹教会からも支援部隊が派遣されて、壊れた会堂の修復作業が始まりました。この震災の時の特徴は、地域ごとのボランティア活動がそれぞれの教会を拠点に始まったことです。阪神淡路大震災の時にも神戸市須磨区にある板宿教会で行われたことがあったのですが、仙台市にある東仙台教会を初めとする幾つかの教会がそれぞれ独自に地域の救援活動に当たり、津波の被害にあった家屋の修復を手伝ったり、仮設住宅に避難している方々の訪問に出かけたりするようになりました。その中で気がつかされたのは、教会が布教のために、つまりキリスト教を広める宣伝のためにそうしたボランティアを買って出ているのではない、ということでした。様々な宗教団体がこの時ボランティアに人を送っていました。その中で宣伝活動を積極的にするような団体もあったと言います。しかし、支援を受ける側からすれば、それはありがたいと同時に迷惑でもあります。そうした、被災した方々の気持ちを察した上で、自分たちは教会としてどうしてそのように見ず知らずの人たちに対するボランティアをするのかと考えさせられました。そして気がつかされたのは、それがイエス・キリストのなさったことだからです。キリストは道端に倒れている人を見過ごしにはしませんでした。聖書で語られている隣人愛の働きを口先だけで語る人ではありませんでした。むしろ、神の心の表れとして、救助のために自らを投げ出して、苦労することを良しとされました。これは単純なことですが、私たちもそうしたいからそうするのだ、ということに気がついたのです。神が、キリストの教会にいる私たちを、被災者の方々のために送っておられる。だから、私たちはボランティアをする。そう知らされて、今に至る長い期間、教会は東北でのボランティア活動を続けて来ました。これまで多くの教会員がそこを訪れ、時間と労力をささげて来ました。

 もう一つの新しい展開は、キリスト教会が互いに協力してボランティア活動のための組織を作り上げたことです。「東北ヘルプ」という団体が震災後間もなく立ち上がりました。これは、私たちのような「日本キリスト改革派」という一つの教派の働きではなくて、教派を越えて作り上げた支援団体です。そこに全国から寄せられる支援金や、ボランティアを行っているグループの情報が集められて、被災地の救援と復興のための努力が今日に到るまで続けられています。震災から1年が経った時、東北ヘルプを代表していた日本キリスト改革派教会の吉田隆牧師が次のような挨拶を送りました。

"あの日"から一年が経とうとしています。この一年間、私たちは毎月11日を迎える度に「あれから何カ月」というふうに数えてきました。しかし、今年の311日を境に「あれから何年」というふうに数えるようになるのでしょうか・・・。東北ヘルプは、あの混乱の一週間の中で設立されました。以来、右も左もわからぬまま、無我夢中で被災支援活動に取り組んでまいりました。当初二ヵ月程でその使命を終えるはずだった働きが、曲がりなりにも今日まで続いてまいりましたのは、ひとえに主の憐みと皆様方の熱いお祈り、そして尊い御支援によるものです。改めて心よりの感謝を申し上げます。

私たちは、三重の被災をした方々及び被災地域のための活動を、教派教団を超えた協力により、東北地方にある諸教会を通して支援していくために労してまいりました。初期の緊急支援活動の3本柱として定めた情報や物資のネットワークの構築・教会を通しての地域支援・ 被災教会や信徒のための募金はそれぞれ豊かな実を結び、とりわけ7000万円を超えた国内外からの義捐金を被災諸教会にお届けできたことは大きな喜びであり感謝でした。9月からは事務局を法人化して、直接支援にあたる団体や教会のネットワークを後方支援する体制を整え、外国からの献金の受け皿も作りました。こうして展開されてきたプロジェクトが、複数の仮設住宅における支援活動・「心の相談室」や弔いによるスピリチュアルケア・食品放射能計測所開設・外国人被災者支援などの活動です。

良いスタッフに恵まれ、国内外の様々な教会や団体、何より東北の諸教会の皆様と共に働くことができる喜びをかみしめています。他方、この種の働きには、少なからぬ困難や試みがあることも事実です。その意味でも、私共の働きは、祈ることなしには成り立ちません。主の御守りと導きの中で、許されて為す働きなのだとつくづく思わされます。

忘れてはいけないことは、愛する御家族を失った方々にとって、時間は"あの日"で止まったままだということ。そして、放射能被害にさらされ続けている方々にとって、"あの日"は未だ現在進行形だということです。私たちは、このあまりのギャップにとまどうばかりです。しかし、このことこそが、私たちがこれからも働き続けなければならない理由なのだと思います。どうぞ今後とも皆様のお祈りのうちにお覚えいただければ幸いです。そうして、未だに苦しみの中を生きている方々のために、何らかのお役に立てればと心より願っております。

皆様の上に神様の豊かな祝福と平安を祈りつつ。主の2012127日、東北ヘルプ代表 吉田隆。

こうした教会の働きを振り返って、確かに今、私たちは誇らしく思うところもあるのですが、何よりも神がキリストの働きを教会になさせてくださったことを嬉しく思います。「行って、同じようにしなさい」とイエスは仰いました。その言葉に促されて、隣人を愛する生活に進んでゆけたらと思います。この世界には多くの悩みや苦しみや孤独があります。けれども、神は決して私たちを見放してはおられません。イエス・キリストを世に送って、私たちと共に生きようとしてくださっています。

祈り

天の父なる御神、あなたは主イエスの御言葉によって、私たちを身元に招いてくださっています。どうか、その招きに答えることができるように、一人一人の心に働いてください。私たちが、あなたの御旨に叶って、キリストに相応しく、隣人を愛してゆくことができますように。私たちに勇気を与え、志を与えて、多くの人々の隣人とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。