マタイによる福音書12章38~45節

神の言葉への信仰

 イエスに反感をもつ人々が、イエスが行った悪霊祓いを目にしまして、あれは悪霊の頭の力でやったことだ、と言ったことから、イエスは人々の心の暗さを指摘されました。人を病から救い、悪霊から解放する力は聖霊によるものでした。イエスの言葉と業の内に、神の聖霊の働きを認めないばかりか、それを悪霊として捨て去る人の心には救いがないとイエスは語られました。聖霊を汚す罪は決して赦されない。人は自分の口が発したその小さな言葉一つについても終わりの裁きの日には責任を問われると主は教えておられます。

 このことは逆に、イエスの内に聖霊の働きを認めて、神がイエスを通じて人の罪を赦されることを信じるのならば、人は救われることを意味しています。イエスを救い主と信じて、聖霊を受け入れて悔い改めるのならば、言葉についても責任を負いきれなくて裁きを招いてしまう自分の罪も、主イエスの十字架によって赦していただけるのでして、終りの裁きをも免れることができます。罪人である私たちに必要なことは、ですから、聖書に記されている主イエスの言葉と業を信じて、聖霊を内にいただくことです。

 イエスに反感をもつ人々は、尚もイエスに反論し続けます。イエスが真の救い主であるならば、その証拠として「しるし」を見せよと要求しました。「しるし」とは、一般的に言えば奇跡です。神の力を現わすような目覚ましい奇跡が起こったら、あるいは人はイエスを信じるようになるかも知れません。そして、確かに、イエスは障害を持った人々の体を癒し、悪霊にとりつかれた人を解放し、死んだ人を生き返らせることさえして見せましたから、大勢の群衆がイエスの後を追いかけました。しかし、イエスに反感を持つ律法学者やファリサイ派の人々は、それらの「しるし」を見ても信じませんでした。

 ユダヤ人にとって、「しるし」は単なる奇跡ではありません。神が引き起こす出来事には必ず神の言葉が先立ちます。それは、力ある神の言葉が真実であることの「しるし」でした。イエスに反感を持っていた人々が、一体どんな「しるし」を期待していたのか分かりませんが、旧約聖書では、この「しるし」によってイスラエルを解放した第一人者はモーセでした。エジプトで強制労働に服していたイスラエルの民に自由を与えるため、神はモーセをエジプトの支配者ファラオのもとにお遣わしになって、数々のしるしを行わせました。モーセがファラオの前で行って見せた「しるし」は、自分の思うがままに人前で奇跡を行うような神通力ではなくて、神がモーセに一つひとつ指示を与えて、それを行わせたものでした。自分が手に持っている杖を投げて蛇に変えて見せるという他愛無いものから、疫病を流行らせてエジプト全土の家畜を絶滅させるという破滅的なものまで、モーセが行った「しるし」はすべて神の言葉が実現させたものでした。イエスにしるしを求めたユダヤ人たちは、或いはそうしたモーセの行ったような奇跡であったかも知れません。エジプトを出る際、最後にモーセが行った「しるし」は過越しの出来事でした。終りの日の夜、主なる神がモーセを通じて予めファラオに告げていた通り、神はエジプトで生まれた長男を、家畜に至るまでことごとく打たれました。ただ、家の門に羊の血を塗り付けたイスラエルの家庭だけが神の裁きを免れて、イスラエルはモーセに導かれてエジプトから荒れ野に向けて出発しました。ユダヤ人たちは、新しい支配者であるローマ帝国の軛から民族を解放する、モーセのようなメシアを待ち望んでいて、そのしるしを欲していたのかも知れません。

 イエスは「しるし」を与えました。それは、預言者イザヤを通して神がお語りになった言葉の成就として現わされた、罪人の癒しの出来事でした。そこに、神が「貧しい者」であるイスラエルを顧みてくださったことの証しがありました。イエスに反感を持つ人々が、その「しるし」を受け入れなかったのは、彼らが預言者の言葉と共になかったからです。そして、「貧しいイスラエル」と共になかったからです。

 イエスは、39節で、御自身が語っておられるその時代を「よこしまで神に背いた時代」だと言われました。45節でも「この悪い時代」と繰り返しておられます。「神に背いた時代」とは、元の言葉では「姦淫の時代」です。姦淫とは夫婦の間で不貞を働くことですが、聖書では真の神を裏切った選びの民の罪が「姦淫」と言われます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」のは、神との関係がもはや不確かになってしまったから、神がまだ生きて働いておられることの証拠が欲しいということでしょう。ある注解者はこう例えています。夫や妻が日々の交わりでお互いを確認できなくなってしまって、お互いに愛の証明を求めるようになった時、二人の愛はもはや終わっているでしょう、と。そのように、「しるし」を求めることは信仰が終わっていることを意味している。人が誰かから保証を要求するのは、信頼がないからでしょう。そうして、神から「しるし」を要求し、保証を要求する自分は、神を征服しようと試みていることになる。

かつて荒野でサタンはイエスを試みて、お前は神の子なのだから石をパンにしたり、神殿の屋根から無事に飛び降りることぐらい平気だろう、と誘いました。サタンの目論見は、「私にひれ伏すなら世界のすべてを与えよう」との最後の言葉に現れています。

 十字架におかかりになったイエスにも人々は罵声を浴びせながらこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:43)。

「しるし」を求める人々の心はサタンの支配下で暗澹としていて、本気で神を信じようとしている訳ではないことを、イエスはよくご存じでした。

 ですから、イエスは、神の御旨に従って人々を癒すお働きをする他に、敢えてしるしを見せて御自身が神の子であることを証明するようなことはなさいません。ただ、一つのしるしをここで約束しておられます。それは、ヨナのしるしです。

 「預言者ヨナのしるし」については、イエス御自身が40節で解説されます。

  つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。

 旧約聖書の『ヨナ書』には、イスラエルの預言者ヨナが神に命じられてアッシリアの都ニネベに送られる物語が記されています。ヨナは預言者ですから、神に命じられた通りニネベへ向かわねばなりませんでしたが、敵国に神の言葉を告げることを拒否して、行き先とは反対方向に向かう船に乗り込みます。しかし、神はヨナを逃さず、嵐を起こして船からヨナを放り出させ、海に呑み込まれたヨナを大きな魚に飲ませて三日三晩腹の中に置き、そして、岸に吐き出させて再びニネベに派遣しました。この、ヨナの奇跡が人の子にも起こる、とイエスは御自分の身に起こる奇跡について知らされます。

 神への真の信頼が潰えた時代に、人々は救いの「しるし」を求めて彷徨います。しかし、与えられる「しるし」は一つだとイエスは言われます。それは、十字架で死んで葬られたイエスが、三日目に死人の中から甦られたことです。そのすべての御業が果たされるまで、イエスに敵対する人々は、弟子たちと共に、「ヨナのしるし」には気が付きません。しかし、主イエス・キリストが神の力によって復活された後に、弟子たちはその「しるし」一つをもって、神の救いを世界に伝えます。

 ヨナ書に触れた関連から、神に背いて、しるしを求める、悪い時代を裁くものが二つある、と41節と42節に続きます。まず、ヨナが派遣されたニネベの人々が、神に背いた今の時代の人々を裁く、と言われます。勿論、最後に罪を裁くのは神御自身ですから、ニネベの人々にその権限があるわけではありません。ニネベの人々が裁きを免れて赦されるのに比較して、それとは正反対に今の時代は裁きを免れ得ない、ということです。「今の時代」とはイエスを拒んだその時代ですけれども、それが後の、イエスを拒み続けるすべての時代にも当てはまるものとして私たちは自分たちをも含めて受け取る必要があります。何故、ニネベの人々は赦されるのか。それは、「ヨナの説教を聞いて悔い改めたから」です。「説教」とありますが、「宣教」とも訳される「ケリュグマ」という言葉です。預言者ヨナが語った神の言葉を指しています。その神の言葉を、異邦人であるニネベの人々は真剣に受け止めました。ヨナは「あと40日すれば都は滅びる」と神の言葉を告げました。それに対する都の反応は、王を初めとするすべての人々が、心から悔い改めて灰をかぶったとのことでした。「今の時代の者たち」、すなわち、イエスを取り囲む敵対者たちには、イエスに現わされた神の言葉を見ても聴いても、悔い改めることはありませんでした。そして、イエスに現わされた神の言葉は、ヨナの説教にまさって神の真理を告げていました。

 もう一つは「南の国の女王」です。ダビデの子であるソロモン王にまつわる物語としてよく知られている「シェバの女王」のことです。これは列王記上10章に記されています。シェバの女王はソロモン王の名声を聞いて遠く旅をしてエルサレムを訪問し、ソロモンの知恵に感銘を受けて多くの贈物をささげました。その箇所に依りながら、イエスは「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」と評価しています。「ソロモンの知恵」とは単に彼が学んで得た知識や才能ではありません。それは、彼が王になったとき、イスラエルの民を公正に裁くために、神に願って得た知恵でした。ですから、ソロモンの知恵は神の言葉に等しいものです。南の国の女王は、神の言葉に耳を傾ける謙遜さを、その遠方からの旅によって証しました。

 こうして「今の時代の者たち」に欠けているものが明らかになります。それは、神の言葉を真剣に耳を傾ける謙遜さです。旧約の昔から、神の言葉である聖書には神の義が語られていました。聖書から教えられることは、人は神の言葉に従って生きる他に、祝福を勝ち取る術はないのだということ。また、イスラエルが経験した試練の歴史から教えられるように、人は罪を犯したために神の憐れみによらなければ救いがないということでした。律法学者やファリサイ派の人々は、毎日聖書を読んでいたのに違いありません。それこそ、暗記するほどにその言葉に習熟していただろうと思います。それでも、その時代の人々がイエスに躓いたのは、聖書に示された神の言葉に打ち砕かれて、自らの罪を悲しみ救いを求めることがなかった為です。

 「今の時代」に対する警告は、教会の内でも外でも真剣に受け止められねばならないことですが、私たちの間では、自分のこととして受け止めたいと思います。教会で行われる説教は一体何のために行われるのでしょうか。恵みを受けるため、とよく言われます。イエス・キリストにそこで出会って慰めを得るためとも言われます。それを説教者もよく心がけていて、力の及ぶ限りキリストの恵みと慰めを伝えたいと願ってもいます。けれども、説教を聞いて家に帰るとき、「ああ、今日の説教は良かった」とか「今日は慰めがなかった」などと話をしている時、私たちはニネベの人々のように神の言葉を聞いたのでしょうか。そもそも礼拝の初めから、神の言葉を是非自分の耳で聞いておかねばならないとの志をもって、南の国の女王のようにこの場へ向かって来たのでしょうか。礼拝生活というものは、いつもそんな風に力んだものではないのだと思います。キリストの福音は、もっと自由に私たちの心に聖霊を吹き込んで、内からの促しをもって信仰生活を歩ませてくれます。けれども、いつしか私たちの言葉に「今の時代」の軽薄さが現れるようになってはいないかとも問いなおすことは必要なのではないでしょうか。私たちを真剣に御言葉に向かわせる「しるし」の他に、自己本位な信仰の証しを多く求める隠れた不信仰の中に、私たちは埋もれてはならないはずです。

 43節から「汚れた霊」の働きについてイエスは語っていますが、ここから、ベルゼブル論争から始まる話がずっと聖霊を問題にしていることが分かります。悪霊にしろ、聖霊にしろ、霊の住処は人間自身です。悪霊は人のうちに出たり入ったりしている様子がここで描かれています。先に主イエスが聖霊の力によって悪霊を追い出されたことを思い起こせば、イエスが悪霊を追い出された後、そこに聖霊が宿るようになれば、家である人間の内側は空き家にならずに済みます。けれども、きれいに掃除をして表側を清めたり、美しく飾ったりはしても、そこに聖霊を迎え入れることなく放っておけば、やがて悪い霊がもっと数を増してやってくる、と言います。

 この「掃除をして、整えられていた」とはファリサイ派の人々を揶揄するものと思われます。表面的な行いは立派できよい生活を送ってはいても、内側は空っぽであったり、悪い霊が沢山住んでいる、という状態です。自分たちは罪人や徴税人たちの仲間ではないと区別して、厳格な掟に生活を従わせていながら、貧しい人々を憐れむ心をもたず、イエスを邪魔者として殺そうと企んでいる。そうして時代はもっと悪くなる、とイエスは予告されます。

 神の言葉に真剣に向き合わないで、悔い改めを持たないでいる信仰者も未信者も、そのまま放っておけば悪霊の住処になりかねない。実際、そのようになるだろうとイエスは言っておられるわけです。そうならない為には、イエスによって悪霊を追い出していただかなくてはならない。私という人間を、サタンの支配に任せておいてはならないのでして、聖霊の支配に委ねてしまわなくてはならない。このところずっとマタイ福音書から私たちが学んでいるのは、イエスと対決したファリサイ派の人々の事例を通して、その後にイエスに従って行く弟子たちがどのような躓きを信仰に持ち得るかということです。ユダヤ人がイエスを十字架につけたという歴史的なことは、そこからすればあまり重要なことではありません。神を信じていると思っていながら、実際には「時代」に呑み込まれてサタンの支配下に自分を置いてしまうという事態が、教会にも生じると言うことです。ですから、悔い改める信仰を私たちは確かにしなければなりません。ここから言えば、私たちはニネベの人々のように、悔い改めるために説教を聞くのです。

 この「悔い改め」は、「ヨナのしるし」と密接な関係があります。ヨナのしるしとは、ヨナが魚に飲まれて三日三晩過ごしたことでした。それは、彼が神に背いて海に飲まれて、海中深く沈みこんだこと、つまり、死んだことをも暗示します。ですから、ヨナは、一旦、神に飲まれて死んで、しかし、神の御手によって、神の救いの手段である魚を通して、三日目に甦ったのでした。ヨナのしるし、とは死んで、甦ることです。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活を予め示すものですが、更に、イエス・キリストを信じる際に、信仰者に起こる後の事態をも示すものです。パウロも述べているとおり、信仰者は、キリストと共に一旦死にます。私たちは主イエスと共に自分の罪のために死んで葬られます。けれども、私たちはイエスと共に復活する。新しい命へと、キリストと結ばれて神の子として生きる新しい命に甦ります。体の甦りは未来に属することですが、魂は主と共にあって信じたその時に甦ります。悔い改めとは、この信仰の事態を指しています。罪に死んで、キリストに結ばれた新しい命に甦ること。それが、私たちに与えられたヨナのしるし、悔い改めに生きる私たちの命です。この悔い改めに絶えず立ち戻るために、私たちは説教を聞きに来ます。そして、そのために説教を聞きます。

 悔い改めもまた聖霊の働きです。御言葉に真剣に向き合うならば、それは、神が聖書を通して私たちに語ってくださることを謙遜に受け止めることですが、御言葉に真剣に聴くならば、聖霊が私たちに働いて、私たちを真の悔い改めに導いてくれます。

 私たちの暮らすこの時代はますます悪くなって行くように感じられます。けれども、「悪くなって行く感じ」などに囚われないように、異邦人に過ぎない私たちが聖霊をいただいて、新しい命に生かされていることにいつも感謝していたいと願います。イエス・キリストは、私たちをサタンに引き渡さないように、神が送ってくださった救い主です。私たちが願うならば聖霊は与えられます。

 

祈り

聖霊によって私たちを悔い改めに導き、罪を清めてくださる、父なる御神、私たちが悪い時代に取り込まれてしまわないように、いつも御言葉を通して真の悔い改めに導いてください。聖霊なる御神が、私たちを住まいとしてくださり、あなたを信じる喜びと光栄が私たちの生活に満ちるようにしてください。今日、改めて与えられた、ヨナのしるしを、洗礼の恵みと共に思い返しつつ、今週の歩みを進ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。