マタイによる福音書12章33〜37節

責任ある言葉

 

 主イエス・キリストは、その教えと癒しの業を通して、神が聖霊の力によって、世の人々を罪の支配から解放されることを、鮮やかにお示しになりました。そのようにして、神の国、神の救いが及んだ世界が、この罪の暗さが覆うこの世界に、光のように差し込んだと聖書は告げています。その光を光として受け止めるのは私たちの信仰です。今朝は振起礼拝としてこの月初めの礼拝をささげています。私たちの内に光を与えてくれる主イエスの教えに耳を傾けて、心を新たにしていただいて、聖霊が開いてくださる救いの道へと導かれたいと願います。

 イエスの証を見ても聞いても信じないのが人の心の暗さです。その暗さがいかばかりかということも福音書は隠さず語っています。ファリサイ派の人々はイエスの行った救いの業を見て、それを悪魔の仕業と看倣しました。そのように、人の心は嫉妬や憎しみによって真黒になってしまうことがあります。主イエスは人の心と体とを悪の力から解放してくださるお方です。しかし、そこに働く聖霊の力を拒んでしまえば、人は間の中に沈み込んでしまいます。

 聖霊の働きを悪霊だと言い放つた、ファリサイ派の人々の悪意ある発言をきっかけにして、主イエスは今日の箇所で心と言葉の関係について教えておられます。人の心と言葉は、ちょうど木と実の関係にある、との例えです。33節でこのように言われています。

 

 木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。

 

甘い実を約束する木は人々に尊ばれます。実を結ばなかったり、実っても食べられないような木は、誰も見向きもしませんし、切り倒されてしまいます。そのように、人は実によって本を判別するように、人の言葉はその人自身を知る手掛かりです。

 聖霊を冒漬したファリサイ派の人々に対して、主イエスの非難は容赦がありません。「蝮の子らよ」と呼びかけます。マタイ福音書でも回この呼びかけがなされます。「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」。あなたたちは良い実を結ばない悪い木だ、悪い人間だ、と断定しておられます。

 他方、35節では心が倉にたとえられます。

 

 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。

 

 倉には良いものも悪いものも蓄えることが出来ます。そこで善い人の倉には善いものが一杯詰まっている。逆に、悪い人の倉には悪いもので一杯になっている。このたとえはそのままでも一般に通じるのではないかと思います。いい人の心には優しい言葉が詰まっているから、その日から出てくる言葉に癒される。悪い人の心は毒で満たされているから、その日から出てくる言葉には棘がある。ただここは、もう少し聖書に則して理解したいところです。

 「倉」という言葉は「宝物蔵」を指していて、時折「宝」とか「富」とも訳されます。20節にありました「富を天に積みなさい」とある、その「富」です。そうしますと、善い人の倉とは神のおられる天にある、ということが出来ます。21節には「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」とありました。つまり、善い人の心は天の神のもとにあって、そこから幾らでも善いものを持ち出すことが出来る。

 もう一つ有名な聖句ですが、第ニコリントの節に、キリストを信じる私たちは、土の器に宝を収めている、とあります。その宝とは、イエス。キリストに顕わされた神の栄光を悟る光だとパウロは言います。つまり、聖霊のことです。

 35節の主イエスの言葉は一般的なモノのいいですけれども、そこに込められた真理は、善い人の心には天から注がれた聖霊の恵みが満たされるのであって、その心の内に蓄えられた、キリストに顕わされた神の知恵と知識が、聖霊の実りとして、言葉に溢れて来る。「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出す」というのは、聖霊の恵みによって可能になる信仰者の在り様です。ですから、この善い言葉を生みだすのは聖霊のお働きなのであって、これを拒んだ人々のような人のところでは善い実は期待できない、ということになります。

 これは単純に、キリスト者は悪い言葉を吐かない、未信者の方々は善い言葉を語ることが出来ない、ということではないことを予めお話ししておきます。これは、一般的な善し悪しの話ではなくて、神の目に適う善悪の問題です。勿論、神が善いと認められることは、たいていは誰にでも善いものと映る筈です。しかし、人が神の御旨に適った善い言葉に生きるようになるというようなことは、キリストにしか期待できないことです。

 36節によりますと、「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」と言われています。「つまらない言葉」とあるところは、「無益な言葉」「不注意な言葉」と翻訳聖書によって色々な訳が付けられます。直訳しますと「怠惰な言葉」です。つまり、人の口から出る悪い言葉とは、聖霊のお働きに対して怠惰な言葉になります。神の願っている意図を果たさないのですね。そうしますと逆に、善い言葉とは、私たちの耳に心地いいかどうかが基準ではなくして、きちんと神の目的に沿った働きをする言葉、ということになります。ある注解者は、「つまらない言葉」とは、「愛の業を生みだすことのないような言葉」だと言っています。善い言葉は聖霊に用いられて人の内に愛を育みます。

 このような自分の言葉に対する人の責任は重大だということを、主イエスはここで語っておられます。誰もが自分の語った言葉の責任を、最後の審判の時に問われます。人を贋かせたことのない人は幸いですが、多くの人は心の内にある悪い思いを口にしてしまったことがあるのではないかと思います。私たちは言葉の罪を避けようもなく暮らしています。

 ここでの主の御言葉によれば、言葉は心の表れです。心は清らかなんだけれども、言葉は悪くて仕方がない、とか、心は真っ黒なんだけれども言葉づらでは綺麗事ばかりを並べている、などという心と言葉の捻じれた関係について、ここでは問題にしていません。つまり、神が人に求めておられることは、善い心から善い言葉が出てくるという真っすぐな両者の関係です。それに適わない者はすべて、終りの裁きの前に立たされます。

 「人は生まれながらにして悪いのだ」とは、ノアの洪水の後に聞かれた神の言葉でした。心に罪を宿す人間は、日毎に善いものを願いますけれども、悪い実をみのらせてしまう木のようです。人は誰も自分で善い言葉を生みだしたから、それで正しいと認められる訳ではありません。罪によって堕落している私たちの心には、善いものと悪いものが入り混じつています。神はそのような私たちを御覧になっていて、私たちが悪い本でありながらも切り倒さずに生かすことにしてくださいました。そして、私たちのためにキリストが十字架にかかってくださって、罪の贖いを果たしてくださいました。ですから、私たちは、そのキリストによって神に義と認めていただきます。悪い実を結ぶ木なのですけれども、それを活かしておいて、善い実を結ぶように特別な手入れをしてくださるのです。

 善い実を結ぶようになるのは信仰者の内に働く聖霊によります。信仰を通して私たちに約束されているのは、私たちは元々悪い木であってもキリストに接木された善い木となり、必ず良い実を結ぶことが出来ることです。私たちの言葉についての責任は、もはや裁きを恐れて沈黙したり、言葉を美しく飾ったりすることで果たされるものではなくなりました。聖霊の働きを願いながら、心と言葉を一つにして神にささげることが、私たちに求められている務めです。

 言葉の罪については、1518節に一覧がありますが、使徒パウロも手紙の中で度々述べています。例えば、ローマ書の29節以下には「悪徳表」と呼ばれるものがあります。それは言葉の罪だとは断り書きをしていませんが、それが言葉と心から出て来るものであることは一覧から明らかです。パウロはこう言っています。

 

 あらゆる不義、悪、むさばり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。(29-31)

 

 このように、罪の一覧が示されるのは、私たちが自分の言葉に注意深くあるためです。言葉は心を吟味する手立てになります。

 また、言葉には積極的な働きがあります。信仰者の日から発せられる言葉は、キリストにささげられた自分自身です。「つまらない言葉」に留まっていないで、「働きかける言葉」を持つことが出来るように、私たちの内なる倉を、聖書の善き言葉で満たされたいと願います。

 

祈り

  天の父なる御神、あなたは人に言葉を与え、御自身の御旨を果たしてくださいます。躓きの多い私たちですが、どうか聖霊によって清めてくださって、あなたの御旨に適う言葉で隣人と共におらせてください。呪いの言葉で満ちているこの世界に、どうか、あなたの癒しの御手を差し伸べてくださり、その傷ついた心をあなたの善いもので満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。