マタイによる福音書8章1~17節

イエスの言葉が人を癒す

 

 主イエスが語られた説教によって、天の国へと向かう道がこの世界に開かれました。その言葉には、死の闇に閉ざされた人の生に命をもたらす力があります。人々はその言葉に権威を認めました。それはこの世が与えたものとは異なる、神の権威です。イエスの語った言葉は、神の言葉でした。そして私たちが聖書を通して聞いているのも、私たちの上に絶対的な力を及ぼす、権威ある神の言葉です。

 神の言葉を公にした後、山の上から降りてくるイエスの姿には、かつてシナイ山で神の律法を受け取り、イスラエルの民の処へ戻ったモーセの姿が重なります。イスラエルは神の言葉をモーセから聞くことで、神の民とされて、約束の土地を目指す荒れ野の旅に出かけました。イエスが山を下りられると、大勢の群衆が着き従い、新たな民がそこに形を現わしました。ここに新たなイスラエルとなるキリスト教会が映し出されていることは福音書記者の意図として汲み取ることが出来ます。

 マタイ福音書はここから新たな段落に入って、主イエスが行った10の奇跡を記します。出エジプト記にはモーセによってエジプトに下された「十の災い」の奇跡がありますが、それに倣った配列の仕方です。その初めの三つを一まとめにして、今朝は御言葉を聴きました。その三つに共通するのは、どれも癒しの奇跡であることです。初めが、らい病、続くのは中風、三番目が熱病、最後のまとめに当たる部分では悪霊の追い出しも加えられています。

イエスは神の言葉を語っただけでなく、御自身でも神の御業を行われて、天の国に至る道を切り開いて行かれます。私たちはそこに、神が与えたもう救いへの招きと証しを受け取っています。終わりの17節に置かれているのはイザヤ書53節の引用です。「患いを負う、病を担う」との表現は、十字架による贖罪の比喩とも読まれますが、「負う、担う」という元の言葉には「取り去る」という含みがありますから、イエスによる癒しの御業がそのままこの預言に対応します。

 これらの癒しの奇跡は、この後に続くものも合わせて、キリストによる啓示に相当する出来事ですから、聖書にそれが証言された後の時代に私たちの処で繰り返されるものではありません。病が癒されて体の健康が回復されることが神の救いの目的ではなく、罪に苦しむ魂の救済こそがキリストの御業が本来目指すものです。癒しはそのための徴に他なりません。

 けれども、救い主として来られたキリストにとって、癒しの業が付け足しに過ぎなかったかといえば、そうではないでしょう。キリストの御業は、病に苦しむ人々を神が憐れんで顧みてくださったことの証しです。一日の仕事が終わる夕方になっても、イエスのもとには大勢の人々が助けを求めて押しかけました。主イエスはそれらの者たちを、一人残らず皆癒されたとあります。それが、主の積極的な意志でした。

 これらの癒しの記事の中に、イエスに従う人々に対する信仰の導きが与えられています。今朝、私たちが心に留めたいのはそのことです。大きく分けて二つの主題がありますが、順に確かめたいと思います。

 まず、らい病を患っている人の癒しの記事では、主イエスとその患者との関係が明瞭です。彼のイエスに対する姿勢をよく見てみましょう。その患者は自分からイエスに近づいていきました。「らい病」という翻訳はこれまで議論が続けられているところです。旧約聖書では「重い皮膚病」との訳が当てられています。必ずしもそれは「ハンセン氏病」を指してはいません。この病の問題は「穢れ」にあります。正式な病名は何であれ、皮膚に症状が認められて感染の恐れがあるこの病に罹ると、その人は宗教的に「穢れている」と判定されて共同体から隔離されます。祭司がその病者を看取ることが定められていましたが、孤独に放置されて死を待たねばならない辛い病でした。ですから、「大勢の群衆」の中にそのような人が紛れ込んでいたのが驚きです。たまたまイエスの近くにいたのではなくて、必死の思いで「イエスに近寄った」ものと思われます。そして、イエスの前で彼がとった姿勢は次のようでした。

 彼は「ひれ伏した」とあります。これは礼拝を表す行為です。病のために地に打ち倒された人ですが、彼はその自分を神の権威をもった方の前に晒します。彼の言葉はどうであったでしょうか。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。「主よ」という呼びかけは、「先生」とは異なって、救い主に対する特別な呼びかけです。「御心ならば」とありますが、「あなたがお望みならば」とあるのが元の言葉です。そして、「わたしを清くすることがおできになります」と、病を癒す主の力に全く信頼しています。

また、「清くされる」ことが彼の望みでした。体の苦痛ばかりではない、穢れた者とされた苦しみが彼の人生を覆っていました。彼の病を診断したのは医者ではなく祭司です。ならば、彼を清めることができるのも神の権威に他なりません。彼はそれをイエスに託しました。

 主イエスはその求めにどう答えられたでしょうか。主は手を伸ばして彼に触れました。きっとそのように触れていただいたことはこれまで無かったに違いありません。彼は「穢れた者」でしたから。彼の「隔離」はこうしてまず破られました。そして、イエスの言葉が発せられます。「よろしい。清くなれ」。「よろしい」とは文脈を踏まえた訳ですが、そのままでいいますと「私は望む」となります。「お望みならば」と患者が申し出たのを汲んで、「勿論、望むよ」とお答えになった。そして、「清くなれ」とお命じになりました。イエスの言葉はそのまま実現して、その人の病は癒されました。

 その後、「誰にも話さないように」と主がお命じになったのには、彼が社会復帰をするために祭司の証明をもらうのに、イエスのことを語ると障害になる可能性があったからかもしれません。彼が清くなったことの公的な証明は、律法に定められた所定の手続きをすればそれで済むことで。そうして彼は、再び生きた人々の交わりに還ることが出来ます。

 ここに示されたのは、地に倒れ伏してイエスの前に完全に無力なものとなり、その権威に服従した者に働いた、神の言葉の作用です。このようにして、神は主イエスを通して、この世の低みで苦しむ者たちへの憐れみをお示しになりました。そして、心から求める者には、言葉が与えられて、その命が回復されることをも表されました。それは単に健康が回復したということではなく、穢れが清められて、彼の人生そのものが御言葉に従う人々の間に取り戻されたことを意味しています。

 最初の事例は次の事例へと続きます。場面は同じくガリラヤ湖畔にあるカファルナウムの町に移りますが、今度はローマの百人隊長がイエスに近づいて懇願しました。百人隊長もまた、ある意味で締め出された人です。何故なら、彼は異邦人だからです。アブラハムの約束が与えられた「御国の子ら」とは違います。彼の悩みは自分自身のことではなく、彼の僕の病についてでした。「僕」とありますが、「子」とも読めますので、或いは百人隊長の息子が病気であったのかも知れません。実際、病に苦しんでいたのはその僕で、彼は中風に罹り、家で伏せっていました。ここにも病のために地に打ち倒された人があったわけです。そして、ここで百人隊長とイエスとの間で交わされたやり取りの中に、先の事例と同じく、周囲の「従う者たち」に対する信仰の模範が表されます。

 イエスは百人隊長の願いに対して、「わたしが行って、いやしてあげよう」とお答えになりました。「わたしが行って癒すのか?」と、彼が異邦人であるが故にひとまず応答を留保されたと読む仕方もありますが、難しい判断ですが、先の事例に合わせて、新共同訳の通りに積極的に主がお答えになったと理解してよいかと思います。重要なのは続く百人隊長の答えです。彼もまた、イエスに対して「主よ」と一貫して呼びかけていますが、彼はイエスの前に謙って、自分はイエスに家に入ってもらう程の価値もないと述べています。それは、自分が異邦人であるが故の、天の国の特権から外れた者であることの自覚の表れなのでしょう。同時に、イエスに対する彼の信仰は、先のらい病患者よりさらに一歩進んだ点を明らかにします。それは、イエスの言葉の権威に対する完全な信頼/服従を彼が言い表したことです。

 イエスに直接来ていただいて、触れていただく必要もない。ただ、言葉をいただければ、それで僕は癒される。百人隊長はそのように信じていました。イエスの言葉が僕の耳に入ることさえ重要ではない。イエスが言葉を発すれば、それが神の決定として働いて、事は決まる。イエスには神の権威があり、その言葉は神の言葉だとの絶大な信頼があります。

 そのことを、百人隊長自身が軍隊での経験を例えにして語ってくれています。軍隊での命令は絶対で、上官の言葉は必ず部下によって実行されねばならない。言葉の権威をそのように身をもって知る彼が拠り所とするのは、この世の何者も逆らい得ない神の命令です。それを異邦人である百人隊長がイエスの内に見ている。イエスはそれを聞いて「感心した」とあります。ここは「驚いた」の方が良いと思います。神的な出来事に接して、人が称賛を禁じえない驚きを抱いた時の心の動きです。百人隊長がイエスに対して示した神の言葉への信仰は、聖書が求めている真の信仰そのものです。そしてそれに対するイエスの称賛は、真の信仰は異邦人の内にも見出し得ることを証ししています。百人隊長の僕は、彼の信仰によって、イエスの言葉が発せられたと同時に病から癒されました。そして、百人隊長自身もまた、イエスの言葉の中で、天の国での宴席に自分の場所を与えられています。

 以上の二つの記事から、私たちに示されるのははっきりしています。天の国への救いをもたらすのは、イエスの言葉に与えられている神の権威に全く信頼を寄せる信仰であるということ。御言葉の権威への完全な服従です。権威といいますと人は法的な拘束力をまず思い浮かべるのかも知れませんが、神の言葉の権威は人の魂、心と体との全体を、罪や病や悪霊による拘束から解き放つ、人に命をもたらす力をもっています。人間が己の誇りのために掲げる卑小な権威主義とは比較になりません。百人隊長が語った軍隊のたとえにしても、飽くまでも例えです。

 三番目に置かれたペトロのしゅうとめの癒しの記事は、もはや多くは語っていません。女性であることが一つのポイントになるかも知れません。女性はユダヤの共同体においては成員の数には数えられない周辺的な存在に過ぎませんでしたが、イエスは彼女をも起き上がらせて、御自分に仕える者にされました。「もてなした」とありますが、そこに含まれた意味合いは「仕える」とのことで、他では執事の働きをも表す「ディアコニア」という言葉がここで用いられています。彼女もまた、イエスによって新しく生きる場を与えられたことが含意されています。

 最後の記述にはイエスの言葉はありませんけれども、そのまとめとして合わせて記されている16節では、際立ってはっきりと「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」と記されています。こうして、今朝の御言葉では、山上の説教に続くところで、そうした主イエスの言葉が実効力をもって癒しの奇跡をもたらしたと告げられているのであって、イエスに従う者たちには、イエスの言葉の権威をどこまでも信頼して、神の力によって天の国での自分の場所を確保するように、神の永遠の光に照らされた人生にあって、本来の人の交わりの中へ帰るようにとの呼びかけがなされています。12節には厳しい言葉も見られます。これもまた、マタイ福音書が繰り返し表明する終末の緊張感だと言えますけれども、最後に外の暗闇の中で泣きわめいて歯ぎしりするようなことにならないように、との警告です。それもすべて、ここに登場した真の救いを得た人々のように、真剣に自分や愛する者の救いのために、イエスの言葉を求める信仰にかかっています。

 イエスの言葉はすでに聖書として私たちに与えられています。これをどのように聞くかが私たちの信仰の問題です。詳細に話そうとすると時間が足りませんが、そこに聖霊が働いて私たちをキリストの命に生かすものとして、聖書が私たちの具体的な生活に指針を与えることを信じて読む姿勢が大切です。そして、あらゆる権威が相対化される今のような時代であるからこそ、神の民を生かし続けて、いつもそこに新しい力をもたらしてきた聖書に真の信頼を置きたいと願います。

 

祈り

天の父なる御神、あなたは私たちから遠く離れておられるのではなく、主イエスの言葉と御業とを永遠に証しする聖書をもって私たちの近くにいてくださいます。どうか、日々、あなたの言葉をもって私たちに生きる力を与え、御国への道を進ませてください。あなたがまずこの世の低くされた人々のところに御子を送られたことを覚えて、御言葉を与えられた私たちを、病や災害や悩みに苦しむ人々の一人として、その傍らにおらせてください。そうして、更にあなたの御言葉に対する確信を強くすることが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。