マタイによる福音書5章1~12節

幸せなのは誰か

 

 今朝からしばらくの間、主イエスの御言葉に耳を傾けます。いわゆる『山上の説教』がここから始まります。『山上の説教』は「人類の最高の倫理」とも謳われたイエスの教えで、キリスト教の歴史を通じて世界に大きな影響を与えて来ました。しかし、内容からしますと、ただ素晴らしいとたたえているわけにはいきません。遠くから眺めているだけならともかく、これを聞く私たちが実践へ押しやられますと、その倫理的な高さが私たちの前に越え難い壁として立ちはだかることにすぐに気がつきます。

私たちはこれを単に道徳のお手本とするわけではありません。私たちはこれを、神の権威をもってお語りになる主イエスの御言葉として聴きます。その教えが私たちの常識を超えて高く聳え立つのは、そこに神の完全さが表示されるからです。神が私たちをこの言葉によって天の国に生かします。その教えを実行できない弱さは私たち自身には如何ともしがたい罪の故です。しかし、そういう闇の中に生を与えられた私たちに、神は主イエス・キリストを通して陽のあたる道を備えてくださいました。ここで語られる御言葉は、主イエスを信じて弟子とされた者たちが、神の憐れみを受けながら歩む、天の国への確かな道を示しています。この道を歩もうとする者を神が終わりまで守ってくださいます。

 

 主イエスのもとへは大勢の群衆が集っていました。それはガリラヤでの宣教の結果でした。病を癒されたものが大勢ありました。そこに、神が預言者たちを通して予め告げておられた救いの時のしるしがありました。神はかねてから約束された通り、世界に散らされていたイスラエルを再び御許に集め始められました。エレミヤ書31章には次のように記されています。

 

そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は/荒れ野で恵みを受ける/イスラエルが安住の地に向かうときに。(1-2) 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し/地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も/身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。(8) 諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め/羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」(10)

 

そして、主イエスが山に上られて座られると弟子たちが近くに集まりました。主が山に上られたのも、そこで座られたのにも意味があります。マタイは、山の上で主が弟子たちと会われる場面を幾度か記しています。17章では、ペトロとヨハネとヤコブの三人の弟子たちが、山上でのイエスの変貌に立ち会っています。そこで主イエスは光り輝く姿で、モーセとエリヤと語りあいました。モーセは律法を通じて、エリヤは預言を通じて、イスラエルに御言葉を伝えた人物でした。主イエスは御言葉の啓示者としての権威と栄光をそこで選ばれた弟子たちにお示しになりました。終わりの28章では、復活された主イエスが山上で弟子たちに会われ、すべての民を弟子とし、洗礼を授けて、御言葉を守るように教えなさい、との大宣教命令を与えておられます。そもそも、初めに神がイスラエルに御言葉を与えたのは山の上でした。奴隷であったイスラエルをエジプトから導き出して、御自分の民とされた神は、シナイ山の麓に彼らを集め、モーセと70人の長老たちを山に登らせてそこで契約を結びました。そして、その契約の言葉である律法をモーセに託して、民を教えるようにさせました。主イエスが山に上られたのは、神の救いを経験して再び集められたイスラエルの民に、新しい契約の言葉を与えるためです。しかし、今度はモーセに優るダビデの子としてお生まれになった救い主が、神の権威をもって王座からお語りになります。「すわる」というのもそのような意味があります。

そして、「人間を獲る漁師」とされた弟子たちが主イエスの近くに集まります。この弟子たちは、主の御もとに集う会衆に主の言葉を伝えるために召された者たちです。マタイが記す「大ぜいの群衆」は、先程引用しましたエレミヤ書にありました「大いなる会衆」と同じ言葉です。まず御言葉は弟子たちに語られ、弟子たちは聞いた教えを会衆に伝えます。そうしますと、ここに教会のモデルがあることがよく分かると思います。

 

 そこで主イエスが最初に教えられたのは「幸い」についてでした。「心の貧しい人々は幸いである、何故なら、天の国はその人たちのものだから」に始まって、8つの種類の幸いな人々が呼びかけられます。これを教会では「八福の教え」と呼んだりします。主イエスは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と呼びかけて宣教をなさいました。そこで、主イエスと共にやってきた天の国に入る人々は幸いだ、と救いを求めて神の国を待ち望んでいる人々に続けて呼びかけられます。ですから、幸いなのは、イエスの呼びかけに応えて悔い改めた人々です。天の国は、罪を悔い改めて神に立ち帰る、主イエス・キリストの弟子たちのものです。

 節から10節に展開される種類の人々は、前のつと後ろのつに分けることができます。前のつは、苦しみの中にあって神の憐れみを受ける人々。後のつは神の御心を宿して忍耐強く生きる人々です。悔い改めの消極的な面と積極的な面といってもよいかと思います。旧約聖書の詩編には、これら貧しい人々が頻繁に登場します。詩編ではダビデを初めとする真の信仰者たちが、敵に追われたり、病に苦しめられたりする苦難の中で、主なる神の助けを求めて祈ります。そこで言われる「貧しさ」は経済的貧困を指すばかりでなく、敵に嘲られたり貶められたりする精神的抑圧をも表します。また、真の信仰者が神の教えに従って歩む決意も度々詩編で表されます。例えば、詩編24編では、聖所で神にまみえるのは心も手も清い人だと歌われています。これら、信仰の故に苦しみ、神に従う正しい道を歩もうと決心している信仰者のことをユダヤの民は「ハシディーム」と呼びました。敬虔な人々、という意味です。イエス・キリストは、真のイスラエルの祈りに応えてついに神が地上にお送りになった救い主です。このお方を神からの救いとして心から受け取った人々が、神に顧みていただいた幸いな人です。

 ですから、山上の説教は一般の倫理でも知恵あるものの道徳訓でもありません。ここから語られるイエスの説教は、キリストによる救いを信じてこそ実現する神の国の具体的なあり様です。どんなに主の教えの崇高さを称賛したとしても、真の悔い改めなくしては誰も実現することがありません。

 

 「八福」と数えられた8つの信仰者の有り様を、一つひとつ心に留めておくことも意義あることと思います。最初に掲げられた「心の貧しい人々」とは、先にも少し触れましたように、心に悩みや苦しみを負う人々のことを指しています。ルカ福音書が記すところでは単に「貧しい人々」ですから、経済的に苦しい生活をしている人々が特に強調されますが、「心」を強調するマタイでは、他人から蔑まれたり、虐げられたりする人々の心の苦しみが前面に出て来ます。直訳すれば「霊において貧しい人」です。一般的に理解すれば、精神力・知力が他人に優る訳でもなく、安定した生活からもたらされる安楽さも欠けている人。もっと信仰的に理解すれば、人に誇るような賜物も持たないこと。さらに進めば、誇りを奪われてしまったが故に、神の前で空っぽにされてしまった人のこと。真の意味で、へりくだる人のことです。「天の国は、その人たちのものである」。

 逆に言いますと、心の豊かな人々は天の国には入れない。この世の価値観と逆行するようですが、何故入れないのかというと、既に豊かで満足してしまっているから。すぐ傍らにいる虐げられた人々に気がつかないから。自分に対する自身や誇りが、真の悔い改めを遠ざけてしまっているから。そういう、人の心にはキリストの入り込む余地がありません。

 天の国を神からいただくのは空っぽの人です。欠けているからこそ補っていただくことができます。主イエスの言葉がへりくだる人の心に自由な場所を見出します。主イエスは貧しい人々のところに幸せをもって来られた救い主です。

 

 「悲しむ人々」とは、嘆いている人々、喪に服した人々のことです。旧約のイスラエルの民は自分の国をもつようになりますと真の神から離れて偶像礼拝に走りました。そこに本当の信心があったわけではなく、世の中の政治・経済の波に乗るために宗教を二次的な事柄に貶めたのでした。預言者たちが度々その罪を指摘し、滅びを招くとの警告を発したのにも関わらず、王を初めとする国民は悔い改めることなく、ついに神の裁きを招いて国は滅びました。敵の軍隊に蹂躙されて壊滅した都から、また祖国を負われた捕囚民たちから発せられた嘆きの声には、ようやく悔い改めの兆しが見えるようになりました。こうして罪の裁きに服した民の嘆きに応えて、神は預言者を通じて慰めを語りました。

 悲しむ人々は貧しい人々です。命すら自分のものにはならないことを知っています。しかし、嘆き悲しむ人は命を与える神によって慰めていただけます。キリストは、神の下から来られた真の慰めです。

 

 「柔和な人々」とは、日本語で感じ取られるような物腰の柔らかい優しさを直接指してはいません。旧約聖書では「貧しい」ことと同義です。そして、「謙遜」とも訳されます。モーセは地上の誰にもまさって謙遜であった、と言われる時の、「謙遜」という言葉が「柔和な人々」にも用いられています。また、柔和であるとは本来の言葉のニュアンスから言えば、必ずしも積極的に評価されることでもありません。柔和な人々とは、謙遜という徳を身につけたというよりも、貧しくされた、苦しめられた、卑しくされた人のことです。ある注解者の説明を借りますと、柔和な人々とは、「抑圧された状況にあって、力を持たず、それゆえ自分の意志を貫徹できない」人々を指します(ヴェーダー)。暴力を振るおうにも、振るうことすら出来ない無力な人々が「柔和な人々」です。

マタイはこの「柔和」という言葉を大切なところで用いています。1128節以下で、主イエスはこう言われました。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

 

マタイの記すところでは、「柔和な人」のモデルは、まず主イエスです。主イエスは疲れた者に重い軛を負わせてこき使う暴君ではない「柔和な人」です。その軛は「休ませるため」のものですし、主ご自身が、柔和な、無力にされたという意味での、やさしいお方です。

 それは見かけ上の弱々しさを意味してはいません。宣教活動の始まりに、山で断食をして、空腹を覚えられて、サタンの試みに遭われた主の姿には、人間としての本来の力のなさが表れています。また、主はその誘惑に屈して力を、サタンに与して力を欲しはしませんでした。積極的に弱いままでありました。さらに、ゴルゴダの丘で十字架につけられた主イエスは人間の惨めさを剥き出しにしています。それは、まさに無力な姿であって、人の暴力に打ちのめされながらも、力による抵抗を試みようとはなさいませんでした。「柔和な人」の代表は、主イエスご自身です。それは力を誇示したり、権力に与することとは無縁な、人間の弱さを自ら知る人です。その弱さを受け入れ、主イエスと共に生きる決意をする者たちは、「地を受け継ぐ」と約束されます。つまり、神が創造された善き世界は、子どものようなこの人たちのものだ、ということです。

 

 「義に飢え渇く人々」とは不正に苦しむ人々です。食糧の欠乏から来る飢え渇きにも似た、不正義のために生命と尊厳が失われる危機にある人々です。預言者ハバククは、正義を司る法が踏みにじられた時代に、神に対して次のような嘆きの言葉を投げかけました。

 

主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに/あなたは助けてくださらない。暴虐と不法がわたしの前にあり/争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり/正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。(1:2,4

 

義が失われた世界に生きていながら、飢え渇きを感じないのが私たちの暮らす社会なのかも知れません。おそらく、それは現代の日本に限ったことではなくて、人の歴史はいつもそうであったでしょう。ですが、それは確実に私たちが身近に触れている世界です。個々の人間の、また人の社会の不正に目を留めますと、義に飢え渇く人々はそのまま絶望に満たされそうです。けれども、主イエスは「その人たちは満たされる」と告げています。義は神の賜物であって、人間にはそもそも義を生み出す力がありません。そこへ神は主イエス・キリストを送ってくださいました。キリストが罪人に代わって完全な義を達成され、人の間に正義を生み出す力となられます。

 

憐れみ深い人々は幸いである」と主は言われます。ここからは、神の言葉をまっすぐ受け止めて生きる人々のことが取り上げられます。「憐れみ深い人々」とは、「憐れむ」ことを知る人々です。翻訳に従って「深さ」を問題にする必要はありません。隣人の困窮に接して、心を動かし、手を伸ばすことができる人。その人々は、真の神を、その「憐れみ」を通して知っています。憐れむ人々は、神と共にある人々であって、神の国がそこに訪れています。そして、憐れみ深い人々が、「憐れみを受ける」。人への憐れみに突き動かされて生きている小さな人々が、神によって蔑ろにされることはありません。

 

「心の清い人々は幸いである」と言われます。この「清さ」で問われているのは、神に向かう心の姿勢です。「空しいもの」や「欺くもの」がそこにあるときには、心が分裂してしまっている。これは清くないわけです。そうした思いに分裂がなく、きれいに一つに纏まって、しっかりと神と向き合っている状態―これが「心が清い」ということです。心の内に、様々な混じり物、雑音がない透明な状態と言い換えれば、これは心が純粋である、ということにもなります。神との間に、何の分け隔ても障害物もない、透明な人の心。

しかし、人は自分で自分を清めることができないと、聖書は昔から語っています。主イエスと議論したファリサイ派の人々はこの真実を認めることができませんでした。罪に汚れた心を悲しんで神の御前に謙ることがありませんでした。その無自覚は、汚れた人々を嫌悪し、切り離そうとする、彼らの信仰的な努力の内にもっとも顕著でした。

宗教改革者のマルティン・ルターは次のように言いました。「人は、神ご自身がそうなさったように、高みに昇ろうと務めるべきなのではなく、深みに至ろうと務めるべきである。神を、悲惨な者達、迷える者達、また苦労している者達の中に捜すべきである。心の清さは、各人が世間の己が持ち場において、神が語ることを考え、自分自身の考えの代わりに、神の言葉を据えること、を意味する」(ウルリッヒ・ルツによる引用)。

 高みを目指し、深み、もしくは低さを見限った、一部のファリサイ派の人々は、神を見ることに失敗しました。つまり、そこにおられる、神を映し出すお方、イエス・キリストを認めることができませんでした。しかし、清い心に憧れながらも、自分の罪の汚れに打ち砕かれた人々は、自分を尋ねてこられたイエスに神を見ました。そして、信じて、罪を悔い改めました。悔い改めは、新しい心の誕生を意味します。神が、そこに「新しく確かな霊」を置いてくださいます。悔い改める心が、清い心の始まりです。その心には、神の姿、イエス・キリストがはっきり見えます。

 

「平和を実現する人々」という言葉は、原語では一つの語でして、「ピースメーカーズ」と英語で言った方が分かりやすいと思います。言ってみれば「平和製作者」です。聖書ではここにしか現れません。平和製作者とは、無秩序・混沌の支配する闇の中に、平和を生じせしめる創造的な働きをする人々です。しかし、まず心に留めておきたいことは、天地創造に表された神の創造行為は、神に独特のお働きであることです。神のほかに、創造を行う者は何もありません。そして、平和をつくるのは、まず創造者なる神ご自身です。

 天地創造において神は平和な世界をお造りになりました。しかし、それは人間の堕落によって腐敗してしまった。そこで世界に再び平和をもたらすのは、やはり神の創造的なお働きによります。神は罪ある世界をも憐れんで、ご自分で始められた創造を終末の完成であるシャロームに導かれます。そうした神の創造的なお働きに参与する人々が、平和をつくる人々、平和製作者です。

 主イエスがその先頭に立って平和をつくってくださいます。主は帝国の指導者たちのように、武力で諸国民を圧倒するという方法は取りません。むしろ、力を棄て、十字架上で命を棄てることで、平和を実現されます。キリストは不義によって目的を達成するという道を選ばず、憐れみと真実に生きて、力のない人々に寄り添い、正義によって平和を実現します。こうして、平和を作り出す者は、キリストと一つに結ばれて、神の子と呼ばれます。

 

最後は、「義のために迫害される人々」です。「迫害」とは、宗教上の理由でいわれのない暴力的な差別を受け、社会的な抑圧や排斥による被害を受けることですが、聖書の言葉どおりに言いますと「追われること」です。迫害の最中にあって、苦しみながら忍耐をして、神への信仰を保ち続けるのは聖書から示される信仰の特質です。そして、そこには神の約束があり、迫害する者への報復が定められていました。神はそこへキリストを送って、神を信じながらも力のないものとされた人々に天の国を保証されました。

「義のために迫害される人々」とは、義のために命をかけた人々に違いありません。そして、その先頭に立つのは主イエス・キリスト御自身です。主イエスは、他の人間では無し得ない、神の律法に完全に従うことで、義を全うされて、そのために命をささげたお方です。罪人たちはこの真の義人をこぞって迫害しましたが、このお方によって神の義が人間にもたらされました。また、主イエス・キリストは、ご自身の復活によって、義人にもたらされる報酬を明らかになさいました。この義は、信じることによって与えられる無償の恵みですから、キリストを信じる人々はすべてキリストの名のもとで、義人とされます。義のために迫害される人々とは、キリストを信じて、キリストの義に生きる人々です。それはキリストが十字架にかからねばならなかったように、人々の迫害を受けます。身に覚えの無いことで悪口を言われ、罪の後ろめたさを抱えた人々から妬まれます。けれども、そうした迫害にあっても、キリストの道を行き始めた義人たちは、この世に義をもたらすために神に召された人々として、善き生活へ向かいます。

主イエスが八つの祝福で教会に生み出されたのは悪に負けないで義に生きる力です。教会が自負心から正しく生きるというのではなくて、キリストの祝福を信じて、罪があるということを自覚しながらも、恵みを信じて、善き生活を守っていく、ということです。そうして、罪深い人間の世界に、神の御前にある正しい人の生き方を根付かせることが、神の救いの働きの一環です。

キリストは、自らの正しさを誇って力を振るう教会に、幸いを歌ったのではなく、報復さえできない、力のない小さな義人たち、信仰に生きる小さな義人たちの生活に、喜びを与えてくれます。貧しい者、柔和な者、心の清い者、憐れみ深い者、平和を作り出す者、キリストの名のうちに、わたしの命よりも大切な本当の価値を見出し、かえって神から新しい命をいただいた小さな者たちが、神の国の主役です。

主イエス・キリストは、こうして幸いを私たちのところに携えてこられた救い主です。信仰の価値はこの世では十分な評価を得られないかも知れません。宗教は怖いなどと言われて、信仰者はさげすまれることになるかも知れません。特に身内で理解されない辛さは、長い、忍耐の要る祈りを要請するかも知れません。けれども、喜びなさい、歓声を挙げなさいと、主は言われます。神を信じることで、あなたは幸せを選んだのだ、ということをキリストは保証しておられます。

 

祈り

貧しい私たちを顧み、キリストによる天の国へと導いてくださる恵みの御神、主が私たちのためにもたらしてくださる幸いを、どうか私たちが受け取り損ねてしまうことのないように、あなたの呼びかけに素直に聞き従って、罪を悔い改めることができますように。そして、主イエスの弟子とされた喜びをいつも保ちながら、様々な困難に直面する信仰の歩みを全うさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。