ヨシュア記24章1ー33節「シケムの契約」

 

シケムへの集結

 『ヨシュア記』の終わりに至ってイスラエルの民に差し向けられた呼びかけは、「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」との信仰の決心への促しです(15節)。「わたしとわたしの家は主に仕えます」とヨシュアの態度ははっきりしています。ヨシュアは指導者としてイスラエルを統率して来ましたが、すべての役割を終えて世を去るに当たって、人々に主なる神への信仰の強要はしません。それはあなたが選び取ることだ、と各々の決断に委ねます。

 私たちは信仰さえ神の賜物であることを聖書の他の箇所から学んでいます。救いは神の恵みによるのであって、人が救われるのは私たちが神を選んだからではなく、神が私たちを選んでくださったからだと聞いています。しかし、同時に信仰はひとり一人が自由な決心によって神との契約に入るものでもあります。神が私たちを選んでくださった、ということは、私たちの側に何の応答もなされないことを意味しません。むしろ、自分の心に、神に従おうとする確かな決意があることが、神の選びを証します。イスラエルはこの時、「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」との信仰告白をして、神との契約に入りました。

 旧約聖書の歴史の中で、神と民との契約は繰り返されます。初めにモーセを介して結ばれたシナイ山での契約がありました。そこでイスラエルは律法を与えられて、神の民として聖別されました。ヨルダン川の手前のモアブ平野にたどり着いた時、モーセは世を去るにあたって、イスラエルの民に『申命記』の説教を行い、これを書き記させてシナイの契約を更新しました。そして、ヨシュアもまた次の世代への受け渡しとして、シケムに民を集めて契約の更新をします。

 『ヨシュア記』では、ここまでシケムにはそれほど重要な役割は与えられていませんでした。むしろ、ギルガルやシロに拠点が置かれていました。ここで最後にシケムが選ばれているには何か理由があるに違いありません。創世記12章では神の言葉に従って旅立ったアブラハムが、カナンに到着して最初に立ち寄った場所がシケムであり、そこで「あなたの子孫にこの土地を与える」との約束を賜っています。そうしますと、ヨシュア記24章で契約が結ばれる場所としてシケムが選ばれているのには、アブラハムに対する約束がそこで成就したことが意味されているものと思われます。

 また、創世記33章によりますと、シケムには族長ヤコブが、ハモルの息子たちから百ケシタという代金で買い取った地所がありました。ヨセフは天に召される前に、自分の骨をエジプトから携えて上るようにと子どもたちに命じており、荒れ野を旅する間、イスラエルの民はヨセフの骨をずっと持ち運んでいました。出エジプト記13章19節には次のように記されています。

 モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。

そして、神がイスラエルを顧みてくださって、約束の土地を与えてくださった時に、今日の32節にありますように、ヨセフの骨はようやく先祖の土地に葬られることになったわけです。このように、シケムはアブラハムからヨシュアに至る、選びの民の歴史を振り返って、イスラエルの上に与えられた神の恵みを思い起こすのに相応しい場所です。そこで、改めて救い主なる神に信仰告白をなし、与えられた安息の地で御言葉に従って行きて行く誓いをなします。

神の御業の回顧

 2節から13節にかけて、イスラエルに土地が与えられるまでの歩みを導かれた神の恵みが回顧されます。創世記12章からヨシュア記に至るまでの神の業がまとめられています。ここからしますと、『五書』ではなく『六書』だと言った旧約学者の見解も分かるように思います。この24章はまさしく『六書』を総括するような内容です。

 2節以下の記述を丁寧に読めば、すべて主なる神が何をしたかが書かれていると分かります。契約には恵みが先立ちます。イスラエルの民が神と契約を結びますと、それによって契約の義務を果たすこと―つまり律法の遵守―が求められますが、そうした義務の履行に先立って、神が一方的に与えた救いがあります。これは、聖書を一貫する救いの理解です。人間は救われるために善い行いをするべきなのではなくて、救われたから善い行いに喜んで励むようになります。

 神の救いの業を述べたこのところも、イスラエルの古い信仰告白であったと言えるかも知れません。申命記26章にもこのような信仰告白がありましたが、どちらも神がどんな良いことをしてくださったかが歴史を振り返って思い起こされます。今日の私たちが「使徒信条」によって三位一体の神の御業を思い起こすのと同じようにです。

 ここには他の箇所にはない独自の記述がありますので、簡単に触れておきます。まず、2節に「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた」とありますが、そうしますと、駆るデアのウルを出発した時、アブラハムの家族は異教徒だったことになりますが、創世記にはそのようには書かれていません。ここではっきりするのは、イスラエルの選びはアブラハムの選びに始まる、というイスラエルの信仰の出発点です。

 また、4節に「エサウにはセイルの山地を与えた」とありますが、神がイスラエルの民以外に土地を与えたとするのは珍しい記述です。エサウはイスラエルの隣国エドムの祖先です。エドムの土地もまた神が彼らに与えたものだというのは、ヤコブとエサウは兄弟であることに基づく穏健な姿勢です。

 7節に「主はエジプト軍との間を暗闇で隔て」とありますが、こうした記述は出エジプト記には記されていません。ここにある「暗闇」という語もここにしか出て来ない特別な単語です。

 12節にある表現は、以前の翻訳と違っていますのでそこだけ注意しておきます。「わたしは、恐怖をあなたたちに先立たせ」とあるところの「恐怖」という語は、口語訳や新改訳では「クマバチ」となっていました。これは、申命記7章20節でなされたモーセの言葉に基づいています。

熱情の神との契約

 このようにして、神の救いの歴史が回顧された上で、イスラエルには主に仕える決心が求められます。16節から18節で、その民の決心が述べられていますが、彼らは正しく神の恵みを告白しています。しかし、「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と述べるその決意の程に対して、ヨシュアは19節で「あなたたちは主に仕えることができないであろう」と未来の躓きを予告します。

 このやりとりは、福音書の中でイエスと弟子たちとの間で交わされたやりとりに通じます。十字架におかかりになる前、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆つまずく」と言われますと、弟子のペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と答えました。するとイエスは、こんな鶏が二度なく前に三度わたしを知らないと言う、とペトロの躓きを予告しました(マルコ14章27節以下)。

 イスラエルがヨシュアの後の時代も神の言葉に忠実であるかどうかは、その後の歴史の中で試されることになります。イスラエルが「主に仕えることができない」その理由は、神が聖なる方であり、熱情の神であるからです。そして、人間は、その神の聖性と熱情に絶えきれない弱さをもっているからです。イスラエルはやがて先祖たちに示された神の恵みを忘れ、異教徒たちの神々に心を引かれて、主なる神と結ばれた契約を自ら破ってしまいます。

 神がイスラエルに求めたのは「外国の神々を取り除くこと」でした。それは、遠くにある神々と対決することよりも、内なる神々を取り除くことと言われています。神は聖なるお方です。つまり、他のものとは比較出来ない、ご自身だけの完全さを保っておられるお方です。ですから、他の神々を認めることは、神の聖性を汚すこととなります。また、神は熱情の神です。古い訳でいえば「妬む神」です。人間がご自身に誠実さと情熱をもって近づくことを求めるお方です。ですから、他の神々に人の心が傾くことは、神の情熱的な嫉妬を呼び起こします。

 もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。(20節)

一旦、神と契約を結んだならば、それは結婚の誓約を果たしたのと同じように、相手に対する忠実さを守ってゆくことがどこまでも求められます。裏切れば、神の熱情によって滅ぼされる。

 こうした契約に望んで、イスラエルは「主を裏切るはずはない」と自分の確信の強さを述べましたけれども、しかし、それでは契約は保たれないことは後に明らかになります。神は「あなたたちの背きと罪をお赦しにならない」とヨシュアは語りましたけれども、もしも本当にお赦しにならないのであれば、イスラエルは滅びる他はありません。そして、人間は、聖なる神の前に、聖ならざる者として、救われる道を閉ざされます。

 赦しの道は、イスラエルがその情熱的な神の裁きを経験した後に、あらためて預言者たちを通して告げられます。イエスの弟子たちが、イエスの十字架による赦しを受けた後、新しい霊を受けて立ち直ったように、イスラエルは国が滅びるという大きな代償を経て、神の赦しを受けて、信仰に立ち返ります。

 真の神を選ぶ決心を私たちも求められます。自分の心の内と生き方とを支配している神々を取り除いて、聖書から告げられる神の声に従う決心をして私たちは神との関係に入ります。御子イエスをお与えになった神の情熱に答えて、私たちも愛をもって神に従うことを確かにしなくてはなりません。けれども、そうした私たちの決心を支えているのは、私たちの自負心や自分の強さではありません。私たちには「主に仕えることの出来ない」弱さがあります。私たちの罪は、私たち自身がなしたはずの誓いを破ります。けれども、神はそうした私たちを、キリストの十字架の故に赦してくださっていますから、私たちは悔い改めて、やり直すができます。

預言者ヨシュアとその埋葬

 ヨシュアはここで預言者であるかのように語っています。「イスラエルの神、主はこう言われた」との呼びかけはまさに預言者の語り口です。ヨシュアはモーセの後を継いで、モーセの道を完全に歩み通しました。そして、生涯、モーセに忠実であることを通して、「主の僕」と呼ばれる者たちに連なります。ヨシュアは百十歳で生涯を終えます。それは、モーセの百二十歳に僅かに劣る年齢です。ヨシュアと共にイスラエルを指導したアロンの子エレアザルも死んで葬られました。

 ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた御業をことごとく体験した長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた。

と記されている通り、ヨシュアとエルアザルの時代は、モーセの律法を忠実に守って、主に仕えることのできた世代でした。次なる世代に求められているのは、自らの内に信仰の証しをもって、神との契約に忠実に行きることです。そして、神が与えてくださった安息の土地を聖なるものとして神にささげるために身をささげてゆくことです。

 人には神を選ぶ自由が与えられています。しかし、どの神を選ぶかによって人生の行く末は変わってきます。聖書を通して御自分を知らせておられる神は、情熱をもって人間を求めているお方です。このお方を選ぶならば、その全能の力に頼って、私たちはこの世界に希望をもって行きて行くことができます。私たちひとり一人は小さな者に過ぎないのですけれども、私たちの罪をも赦して、主イエスと共に生かすことで、神が愛と平和の道を私たちの前に切り開いてくださいます。『ヨシュア記』はイスラエルを通して語られたその証しの書物です。

祈り

天の父なる御神、あなたの聖なることと、あなたの情熱的であることを忘れたこの世界は、未だ罪の混沌の中にあり、その不正義のために滅びを招きかねない状況にありますけれども、あなたが主イエス・キリストにお示しになりました赦しと愛は取り去られず、私たちに立ち返りを求めています。どうか、私たちがあなたの赦しの中に立ち、聖霊によって信仰告白をなし、自らの内に証しを持つことによって、あなたの御国が来るために、お仕えすることができますように。そうして、世に希望を示す光とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。