マタイによる福音書4章1-11節

まことの神にのみ仕える

 

 明日(8月15日)は巷でいう処の終戦記念日です。かつて多くの犠牲者を出して敗戦を喫した経験は、日本のキリスト教会にとっても悔い改めの契機となって戦後の歩みを方向づけるものでしたが、「戦後」が意識から遠のく世情に合わせて、教会が神の真理に基づいて呼ばわる預言者的な声も小さくなりがちのように思われます。人が好むと好まざるとに関わらず、キリスト教信仰には「闘う」という側面があります。宗教を政治が統御しようとするような場合には、弾圧に対する抵抗として信仰は殉教者を出しながら鮮明なかたちをとります。他方、信教の自由が政治的には確保されているような穏やかな状況下では、信仰の闘いは個人の内面で倫理化して行われがちです。しかし、それらはそれぞれ別の次元にある闘いを指してはおらず、真理を真理とする点において一貫した姿勢を表します。今、私たちが信仰の故の闘いを、時代の流れに合わせて回避しているのだとすれば、再び「戦前」から「戦中」へと向かう時代の中で、キリストの名に相応しい証を立てることはできない身体になっているだろうと思われます。キリストの証を立てることができないということは、もはや教会に救いの根拠はないということです。聖書が伝えるキリストの福音は、神の一方的な恩恵によって罪ある人間が救われ、復活の命に与るといいます。しかし、その福音を唯一の拠り所として、まことの神に従うとの決意と信仰無くして、神の一方的な恵みが届くとは伝えていません。どのような罪人であっても赦して受け入れてくださる憐れみの神は、悔い改める心に新しい人として生きる力を注がれるお方であって、悔い改めない心に「それでいいんだ」と甘く囁く声は神の言葉ではなくサタンの誘惑です。

 

 今朝は、荒野の試みにおいて信仰の闘いを率先して行かれた主イエスのことをマタイ福音書から聞きました。ここには二重の意味があります。第一には、主イエスは私たちを代表して、悪魔の誘惑に遭われ、これを克服された、ということ。第二には、私たちもまた主イエスの模範に従って、この世界の荒野において、悪魔と闘わなければならない、ということです。

 

 サタンとか悪魔とかいいますと時代錯誤と思われるかも知れません。けれどもそれは何かオカルト的なものを指すのではなく、創造者である神と拮抗する力を持つものでもありません。節にありますように、それは「誘惑する者」です。人を罪に誘って神に背かせることを目的として働きます。サタンには人を断罪する力も権限も与えられていません。それは神のみがお出来になることです。ですから、「霊に導かれて」主イエスが荒れ野で遭われた試練についても、神はすべてをご存じです。

荒れ野の40日間は旧約の伝統を踏まえています。かつてモーセがシナイ山で律法を授与されたとき、彼は神の言葉を受け取るために40日の断食を行いました。預言者エリヤもまた40日かけて荒れ野を旅し、シナイ山の別名であるホレブに辿りつき、そこで主の言葉を受け取りました。こうしてイエスは旧約における神の言葉の代表的な担い手たちの系譜に連なります。

さらに、「40」という象徴的な数を辿れば、荒れ野の40年は神の救いを経験したイスラエルが食べ物や水を欠く中で信仰の試練にあった期間でした。イスラエルの民はその困難に際して繰り返し不平を言い、神への不信を表明しました。主イエスもまた40日の断食の後、空腹となられて悪魔の誘惑に遭われます。

 

悪魔の誘惑は3つの段階で行われますが、ここで思い起こしておきたいことは、創世記3章にあるエデンの園での出来事で、蛇が女に語りかけたその語り口です。蛇の質問は人の心にあるものを巧妙に映し出して議論に持ち込みましたが、イエスに対する質問も同じようです。

最初の誘惑は、人の空腹に訴えます。石をパンに変えてみろ、とサタンはイエスに囁きます。神の子なら、その奇跡は訳もなくできるはずだと人は考えます。実際、後にガリラヤ宣教の折に、主イエスはパン五つと魚二匹を五千人以上に食べさせる奇跡を行います(1413節以下)。しかし、荒れ野の試練において、イエスは御自分の腹を満たすために奇跡を行うことはなさいません。かつて荒れ野で飢えを経験したイスラエルであることに留まり、かつて彼らに信仰の教訓として与えられたモーセの言葉をもって答えます。ここは元の申命記節以下の言葉を紹介しておきます:

 

あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(2-3節)

 

神の子であるイエスは、人の子になられました。この荒れ野の試練において、イエスは人の子の一人として、悪魔の囁きに耳を貸すことを拒否して、聖書の言葉に服従されました。

 

 第二の誘惑は、第一の誘惑とも関連します。「神の子なら」という条件が繰り返されて、奇跡を行うことを要求します。先の石をパンに変えるという奇跡と併せて、ここには神の子=メシアに対する人々の期待が反映されているようです。メシアは終わりの日に聖なる都の神殿に現れるはずと信じられていました。その期待に合わせて、神殿の屋根から飛び降りて見せれば、人々も熱狂的にイエスに従うはずではないか。そのような奇跡であれば、後に主イエスは弟子たちの前で湖の上を歩いて見せたりもします。けれども、イエスは人となった神の子として、悪魔の囁きを退けます。

この二回目の誘惑では、第一回目を受けて、悪魔は聖書の言葉を利用します。引用されているのは詩編9111節と12節ですが、節からお読みしましょう。

 

あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。

あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。

主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。

 

神への完全な信頼を歌うこの詩編を取って、実際に試してみたらどうだ、とサタンはイエスを誘いました。しかし、それは聖書をもつ人々が時々陥る御言葉の悪用です。神への完全な信頼とは疑わないこと。ですから、詩編のその言葉を聞いたなら素直に主に信頼すればいい。その信頼を命じる神の言葉をイエスは再び申命記から採って、サタンに反論されました。申命記16節ですが、数節続けてお読みします。

 

 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。(6:16-19)

 

敵はまさに主イエスの目の前にいるのですが、ここでも主は人の子として聖書の言葉に全く服従しておられるのが分かります。

 

 誘惑の最終段階は、もはや神の子であることを条件としていません。むしろあえて隠しているかのようにも思えます。悪魔は自分に対する服従を条件に、全世界を支配する権限をイエスに与えると約束します。

果たしてこの言葉に信憑性はあるでしょうか。世界のすべての国々とその繁栄ぶりを自分のものにしようと、イスラエルの傍らにあった帝国の王たちは生涯に亘って領土の拡大に努めました。人生の様々な領域で世界の頂点に立ちたいとの野心が頭をもたげる時、人はサタンに心を売り渡してしまいます。

或いは、繁栄する世界の魅力とは別に、実際に悪魔がこの世界を支配していると思わせる絶望もあります。平和を実現するとの名目で強大な力の行使に踏み切った人間が手にしたものは、実にサタンから渡されたものだった、というような経験が私たちの世界では幾らでも経験されているように思います。

 

もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。

 

私たちはどのようにこの誘いに答えたらよいのでしょうか。イエスの答えは明瞭で、断固としています。「退け、サタン」。聖書の神を信じるならば、サタンの約束は端的に嘘です。神はサタンに世界を与えはしませんでした。人が自由であるのと同様に、サタンにも一定の自由が与えられていますが、世界のすべては神のものです。そして、それを治める権限は、そもそも創造の時点で人間に委ねられたものでした。人となられた神の子である主イエスには、父なる神によってそのすべてが約束されています。サタンに服従する理由は一つもありません。最後の返答もまた、イエスは聖書の御言葉によってなさいます。

 

  あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ

 

申命記13節にある、旧約聖書を知っている者なら誰にでも馴染みのある御言葉です。十戒の第一戒とも同じ内容です。

 こうして主イエスは荒れ野の試みにおいて近づいてくる悪魔を退けられ、新しい人間として神の律法に完全に服従されることを証されました。ここから十字架に至る道のりでイエスが獲得された義、神の御前で完全に正しい者とされる神の義は、主イエス・キリストが私たち罪人の為に勝ち取ってくださったもので、主イエスを神の子キリストとして、世の救い主として信じるすべての信仰者にはこの義が無償で与えられます。

 この、生ける神の子に示される人の道は、人間の内なる欲望に訴えてくる、サタンの様々な誘惑を神の言葉によって退けながら、十字架へと続いていきます。人が神の子に期待したものは、人を驚かせる奇跡や、神のものともサタンのものとも見分けのつかない力による軍事的圧倒と支配でしたけれども、イエスが切り開いた新しい人の道は力を捨て、謙遜に聖書の言葉に聞き、神に寄り頼みながら、神の義を願いつつ歩む道です。

 私たちキリスト者が、主イエス・キリストに仕えて、まことの神のみを礼拝することには「闘い」が生じます。絶えざるサタンの誘惑との闘いが私たち個人の心の内と外で、また教会を取り巻く社会の中で行われます。それは信じることの一部ですから、信仰者ならば誰も避けることは本来できません。

私たちの信仰の「闘い」は、御言葉と共に働く聖霊の促しによって、静かに、しかし断固として行われます。そのために私たちに求められるのは、キリストによって私たちを御自分のもとへと召してくださった、まことの神への信頼、私たちの心を神に明け渡して、他の者の支配を受け入れないようにすることです。この点で、先の大戦中、日本の教会はとても弱かったことを告白せざるを得ません。何故、あの時、日本の教会が同じ主イエスに結ばれているはずの韓国・朝鮮の教会と手を結ばずに、軍事国家の為すがまま、むしろ教会を迫害する側に廻ったのか。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」との言葉が50名以上の殉教者を出し、二千以上の教会を閉鎖に追い込んだお隣の韓国に比べて、殆どそうした犠牲を払わなかった日本の教会には何が欠けていたのか。そのような歴史的な反省は、この国にキリストの教会を真剣に建てようとするならば、戦後が過ぎ去ったように見える私たちの世代にとっても、問われずに済むことはないと思います。「退け、サタン」との声が、あの時、教会には響かなかった。

信仰の闘いは、いざというときに覚悟すればよいという性質のものではなくて、日毎の私たちの生活の中にあります。明日は8・15集会がもたれます。大きなことをそこで考えている訳ではありません。西部中会という教会の交わりの中で、地道に継続的に行われる信仰の証の一つと考えていただいてよいと思います。過去に傷をもつ日本のキリスト教会が、罪の悔い改めをして、まことの神のみが実現することのできる平和を祈るために集います。できるだけ多くの兄弟姉妹の参加を願います。

かつての教会の歩みに重ね合わせて、私たち自身の信仰生活に、もしも何か欠けがあると気付いたのなら、一つ一つ、私たちの出来るところから、信仰生活の質を変えていくことから始めたいと思います。

 

祈り

 

天の父なる御神、御子イエスが人となられて、私たちのために十字架に至る服従を果たしてくださったのにも関わらず、地上に建てられた教会はあまりにも容易くサタンの誘惑に心を奪われてしまいます。どうか、あなたの御言葉を私たちの教会の内に確かに据え付けてくださり、その恵みと力とに真に生かされる信仰へと導いてください。また、孤立したままで打ち倒されてしまうことがないように、互いに励まし合い、協力し合うことができるよう、すべてのキリスト教会と、そこに集う兄弟姉妹との間に、主にある交わりを固く保たせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。