マタイによる福音書24章36節-25章13節

目を覚まして時を待つ

 

 今朝も私たちは終末についての教えを聖書から聴きました。こうして、イエス・キリストが世に来られてから今日に至るまで、世の終わりはすでに私たちが知ることの出来る事柄です。地震や飢饉などの大きな災害、戦争や人間関係の不和など、人を悲しませる出来事を知らされるたびに、私たちはそこに終末の徴を見て取ります。イエス・キリストが、もう、いつ再臨されてもおかしくはない。世の中がお終いになってもおかしくはない、と思わされます。そうして、教会は、イエス・キリストが来られてから今に至るまで、終わりを待つ時代を生きています。私たちの生活は次の一瞬一瞬が終わりに向かっている、といってもよいと思います。

 しかし、今朝もイエスが言っておられますように、その時がいつ来るのか私たちには知らされていません。徴が見えたとはいっても、それを手がかりに予測することさえできません。天の神だけが終わりの時を定めておられます。そうしますと、なんだか間延びしてしまった気がするかも知れません。キリストが世に来られてからもう2000年近くも経ちましたし、私たち自身のことを考えても、自分が生まれてからこれまでなんとかこうして生き延びて、今ある年齢まで達したのですから、世の終わりなどといっても、たぶん自分が生きている間にはそんなことはないだろう、というのが実感ではないでしょうか。

 しかし、主イエスが「あなたがたはその日、その時を知らない」と言われるのは、いつか分からないほど遠い時期にその日が訪れるだろうということではなくて、今その時が来てもおかしくはない、ことを私たちが心得ておくためです。キリストが再び来る準備がすでにできている。だから、あなたがたは備えて待っていなさい、というのが、ここでイエスが語っておられる、私たちへの勧めです。いつでも主イエスをお迎えできるように心構えをしているのが、教会の相応しいありかたです。

 終わりを待つのですから随分と緊張感があるはずです。今日の譬えでいいますと、大洪水が来る、あるいはもっと卑近な例では、泥棒が我が家にやってくる。そういうことが前もって分かっていたとしたらどうか、とイエスは言います。大洪水に備える、などということはちょっとやそっとではできません。創世記に書かれていますノアの洪水の場合は世界が飲み込まれてしまったわけですから、どうにも逃げようがありません。ただ、ノアとその家族は「箱船を造るように」という神の言葉をいただいていましたので、その日に前もって備えることができました。一刻の猶予もない緊張の中で箱船を造りました。もっとも神は、それが仕上がるまできちんと待っていて下さったのですが。

 泥棒の場合はどうでしょうか。脅えながら緊張して息を殺して待つ、ということもあるでしょうが、近所の人々に呼びかけたり、警察に連絡して泥棒などさせはしまい、むしろ、捕まえてやろうと備えて待つことと思います。ともかく、そうして分かっていれば、それなりの対処の使用があって、また大変なことにならないように注意していることができるわけです。

 イエス・キリストはすぐにも来られる、だから緊張して、その時に必要な備えをしておくことが必要です。キリストは来ない、などとたかをくくっていては、取り返しのつかないことになります。

 終末ということで、歴史の終わりについてだけ考えてみても、あまりに事が大きすぎてピンと来ないかも知れませんが、終末の教えは私たち一人一人のいのちに関する教えでもあります。つまり、それは、私たちの人生の終わりにも関わってくる。自分が死ぬということ、私の人生には終わりがある、ということは、まさしく世の終わりに関わります。私たちは自分が死ぬであろう「その日、その時」を知りません。それは天の神だけがご存じです。そして、それは必ず来る。今、この瞬間かも知れない。そのことをわきまえて、備えているようにとの勧めでもあります。

 もう一度洪水の譬えに戻りますと、ノアとその家族以外の人々は、大洪水が来るなどとまったく知らずに、飲み食いをしていた。嫁いだり、娶ったり、めでたい、めでたいと言っていた。けれども、そこへ突然洪水が襲ってくる。すべてが水の中に飲み込まれてしまう。

 イエスが来られるときも同じようです。私たちが死ぬときもそうです。私たちの人生は、私たちの意のままにならぬばかりか、大洪水と同じような神の裁きに直面しています。ですから、それに相応しい備えをしていなければ、救いを取り逃がしてしまいます。ここで思い起こすのは、ルカ福音書でイエスがお話になっている一つのたとえ、「愚かな金持ちのたとえ」です。

 ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分にいってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。』と言われた。

 或いは、ノアの洪水を前にして、このように考えていた金持ちがいたかも知れません。キリストが再臨される前も同じように思っている人がいるだろうと思います。しかし、人のいのちも、歴史の終わりも、その時を定めているのは神お一人です。私たちは、自分の人生に対しても、世界に対しても、本当の主人にはなれません。

 私たちの本当の主人はイエス・キリストです。そのことを教会はよく知っているはずです。ですから、「主イエス」と私たちは呼ぶことができます。私たちの人生に対して、他の誰かが私の主となることはできません。私の代わりに生きてくれる人はいません。けれども、イエス・キリストは別です。私自身でさえもままならない、私たちの人生の行方を、正しく神の恵みのもとに導いてくれるのは主イエス・キリストです。

 イエス・キリストは私たちのために十字架にかかって、命をかけて私たちを罪から救い出してくださいました。それを信じるならば、イエスは私たちの主人です。そうであるならば、私たちが待っているのは、私たちの主人です。知らない人がやってくるのではありません。主人が戻ってくるのをお迎えします。それに相応しい、教会の準備の仕方がある。私たちは、ただ恐ろしくて、緊張して世の終わりを待つ、人生の終わりを待つのではなくて、主人にお会いするのを待つ僕として、落ち着いて、楽しみにして、その時を待ちます。

 「主人を待つ」ということで、イエスは二つの譬えをお話になりました。最初の譬えの中で大切な言葉は、「忠実で賢い僕」です。私たちに、そうあるようにと主イエスが求めておられます。私たちは、いわば、留守番をあずかっている僕です。どんな指図をされて主人が出かけたかは書かれていませんが、家をきちんと管理するようにと言い残して行かれたに違いありません。私たちで言えば、聖書に書いてあるとおり、私たちの教会と、私たちそれぞれの生活といってよいと思います。もっと大きく広げて、私たちはこの世界を神からあずかっている、ということもできます。それを忠実に守ることが私たちに命じられた仕事です。けれども、いつ主人が帰ってくるか分からない。でも、いつ帰ってきてもいいように、しっかりと言いつけを守って、主人が帰ってくるのを今か今かと待っているのが、忠実で賢い僕です。それだけ、主人のことを信頼して、愛している、と言ってよいでしょう。ところが、そうでない場合も考えられる。悪い僕だったらどうだろうか。主人はいつまでたっても帰ってこない。「主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている」などという酷いことになっている。そういうところへ主人は帰って来て、しまった、予想もしなかった、ということにならないように、といいます。確かに「遅い」と待ちわびることはあるかも知れません。けれども、その時を決めるのは私たちではありません。「仲間を殴り始める」とは、ずいぶん乱暴な事態ですけれども、「互いに愛し合いなさい」と言い残して行かれたイエスの言葉を思い起こしますと、そんな掟はどこかへ吹き飛んでしまっている様子を表わしています。それで仕事をうっちゃって酒飲みと一緒に飲めや歌えやの毎日。かなり誇張した表現ですが、多かれ少なかれこれと大して相違ないような状況がこの世の中にありますし、教会の中であってもうかうかしていられません。忠実で賢い僕として、快く主人を迎えたいものと、これを聴いて教会の誰もが思うはずです。

 もう一つの「十人のおとめ」のたとえも同じです。それぞれ五人の賢いおとめと愚かなおとめが出てきますので、「忠実で賢い」と言われる、その「賢い」ことがここでは中心に取り上げられます。ここでは主人は花婿です。そして、ここでも花婿の到着が遅れます。イエス・キリストが来ない、という再臨が遅れた場合のことが考えられています。そこで、おとめたちは皆眠り込んでしまう。灯火を用意していたのですから、夜も遅くて、本当に眠かったのでしょう。ここで、おとめも灯火も教会のたとえによく用いられることを思い起こします。イエス・キリストを待ちわびて、眠り込んでしまう教会もある。それも仕方のない、人の弱さをもった教会の姿でしょう。しかし、そこへ花婿がやって来ます。呼びかける声に飛び起きて、出迎える準備をする。そこで、二つのグループの差が出てくるわけです。片や、すぐに火を灯して、花婿を迎えに行くことのできた5人のおとめたちがいます。彼女たちは花婿とともに婚宴の席に入って行きます。いよいよ、待ちわびた華やかな婚礼が始まります。けれども、その一方で、取り残されてしまった5人のおとめがいる。愚かなおとめたちは、油を切らせてしまっていて、あたふたと慌てて買いに出かけたのですが、それではもう間に合わなくて、とうとう婚宴から締めだされてしまいます。「わたしはお前を知らない」とは冷たい仕打ちのように聞こえますが、どうしようもありません。賢いおとめたちの賢さは、たとえ自分たちが眠り込んでしまったとしても、いつ花婿が到着しても良いよう準備を怠ることがありませんでした。それだけの注意が日頃から身に付いていたのでしょう。それだけ、花婿の到着を心待ちにしていたとも言えると思います。

 忠実で賢い僕、また、花婿を待つ賢い花嫁であるために、私たちはどうしたらよいでしょうか。42節でこう言われています。

 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである。

「目を覚ましていなさい」との主の命令が、今日のところで繰り返されています。もちろん、これは信仰のことです。主がいつ来られてもおかしくはない、とわきまえて、準備をして待っていることです。私たちは日頃の生活の慌ただしさや、「食べたり飲んだり」という身体のことで、私たちの主人であるキリストのことを忘れてしまいがちです。信仰が眠ってしまいます。その刹那は思い通りにふるまえて楽しいかも知れません。眠ってしまえば楽かも知れません。けれどもそれは、神なくして生きている状態です。今朝の例えにありました、悪い僕、愚かなおとめには後悔しか残りませんでした。

 では、教会が忠実で賢くあるというのは具体的にはどのようなことでしょうか。それは次の14節以降で話される主題でもありますが、今確認しておきたいと思います。それは、主人の家を賢く忠実に管理することです。つまり、教会生活を大切にすることです。教会とは、建物のことばかりではありません。礼拝を中心とした私たちの交わりです。私たちが主の日の礼拝を重んじるのは、まさしく「目覚めている」ためです。私たちは、この礼拝を捧げることを通して、主が来られるのを待っています。いわば、これは、その日のための予行演習です。実際にはそれ以上の意味がありますが、それでよいと思います。毎週、毎週、私たちはここで花婿を迎えます。そういう思いでここに集っているならば、主イエスがすぐに来られても、私たちは何も慌てる必要はありません。

 他にも私たちそれぞれの日常生活についてもここから教えられます。私たちには祈りの生活が必要です。聖書に日毎に親しむことが必要です。それは、私たちの信仰が眠り込んでしまわないための、忠実さ、用意周到さに相当します。そのような日課が苦行になってしまうとしたら、それはまだ主人のことをよく弁えていないためではないでしょうか。私たちには日毎に備える手段が豊富にあります。祈りをささげ、御言葉に聞き、礼拝に集う。そして、主イエスのものとしてすべての人と交わり、働きに出かける。そうした毎日のなかに、主イエス・キリストは、おそらく当たり前のようにやって来て下さいます。目覚めた信仰で主を待ち望む姿勢も新たにして、これから年末に向かう教会生活を共にしたいと願います。

 祈り

 

教会の主である、イエス・キリストの父なる御神。私たちを愛し、命を与えて下さるあなたのもとで、世の終わりが定められ、私たちの人生が定められていることは本当の慰めです。どうか日々、主イエスの約束を思い起こして、あなたの恵みを忘れることがありませんように、様々な恵みの手段を用いさせてください。私たちがこうして集う礼拝の祝福を増して下さい。また、一人一人の生活の中に、祈りと御言葉とを据え付けて下さい。そうして、あなたがいつ来られても、私たちが戸惑うことがありませんように。私たちの人生が終わる時にも、やすらかに働きを終えて、あなたのもとに帰ることができますように。どうか忠実で賢い僕として、愛する兄弟姉妹とともに過ごさせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。