ヨシュア記13章1ー33節「レビの嗣業」

 

占領は未完了

 神がモーセのような主の僕として召したヨシュアに託した仕事は二つありました。それは、約束されたカナンの地の征服と土地の分配です。この13章から19章にかけてはイスラエル12部族への土地の分配が詳細に知らされます。しかし、分配に先立って13章の1節から7節にかけて主からヨシュアに与えられている命令では、「占領すべき土地はまだたくさん残っている」と告げられます。さらに、「わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う」とこれからの戦いについて予告されます。そうしますと、先の11章・12章で、土地の征服は完了し、戦いはすべて終わった、と記されていたことと辻褄が合わないようにも思われます。このようなズレが生じている理由は、ヨシュア記が理念として伝えている事柄と、歴史的な実情との間にズレがあるためです。これまでヨシュア記が語って来た占領の仕方は「聖絶(ヘレム)」による浄化でした。異教徒である敵を完全に滅ぼし尽くし、火で焼いて神にささげる、という宗教行為としての戦争です。そして、ヨシュアとイスラエルはそうして「主の戦い」を戦い、モーセの律法の成就として土地を獲得し、王たちを屈服させて主の支配を実現したのでした。そこに表わされたメッセージは、選びの民イスラエルに対する神の約束の確かさであり、神の義の裁きの完全さです。ここに描かれる指導者ヨシュアの姿は、モーセの律法に完全に従った僕の姿であって、イスラエルの歴史に刻まれる理想的な王の姿を映し出します。後のダビデやソロモン、また宗教改革を行ったヨシヤ王につながる人物像です。

 そこで「土地がまだ残ってい」て「彼らをすべて追い払う」必要があるのは、ヨシュアの後に続く次の世代の課題としてです。1節に「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき」とありますように、ヨシュアはこれから天に召されて行く備えをしなくてはなりません。そこで、まだ占領されずに残っている土地があるのですけれども、そこも勘定に入れながら、次の世代のために前もって配分をし、自分のなすべき働きを成し遂げます。その後のイスラエルの人々は、ではどのように嗣業の土地を確保する努力をしていったのかということは、ここから初めて次の『士師記』に至る記述が明らかにしてゆきます。既に、ここにも一部その様子が伝えられています。13節にこうあります。

 しかしイスラエルの人々は、ゲシュル人とマアカ人とを追い出さなかったので、彼らはイスラエルと共にそこに住み、今日に至っている。

結局、イスラエルはカナンの土地の住民を完全に追い払うことができませんでした。これは、この後で各部族に土地が分配されてゆく中で繰り返し述べられます。また、『士師記』に入りますと、ヨシュアと長老たちとが治めた次の世代のイスラエルの民は、モーセの律法を忘れてカナンの民の偶像崇拝に浸食されて、地元の民族との苦しい戦いを強いられるようになります。土地の配分はイスラエルの旅の終わりであると同時に、神の国を目指す新たな始まりとなります。次世代の課題は、ヨシュアによって分け与えられた土地を、主なる神から賜った嗣業としていかに守って行くかです。ヨシュアとその世代の者たちが身をもって証したように、モーセの律法に従って神への忠誠を守れば、その土地に安らかに住まうことができます。しかし、そこが主なる神にささげられた土地であることを忘れて信仰を失えば、神が植えたものであってもそこから根こそぎにされてしまいます。

嗣業の土地の分配

 「嗣業」という言葉は私たちの日常では殆ど用いられないと思いますが、聖書では大切な意味をもった言葉です。字義どおりには「相続したもの」ですけれども、イスラエルの嗣業とは、神から与えられた財産、特にここで分配される土地のことを表わします。神が定めた分前ですので、それに不服を唱えたり、それを安易に他人に譲渡することは許されません。列王記にある「ナボテの葡萄畑」(列王記上21章)の説話にもありますように、たとえ王であってもイスラエルの嗣業の土地を自分のものにすることはできません。神から賜った土地は、同じ部族の中で代々受け渡してゆかねばなりませんし、もしも借金のかたにとられるようなことになれば、親族のものが買い戻さねばなりません。或いは、ヨベルの年まで待てば、元の持ち主のところへ返さねばならないことになっていました。これが意味するのは、嗣業の土地は神の恵みによる賜物であって、地元の住民たちが考えていたような血縁・地縁に基づく私有財産ではない、ということです。

 もう一つ大切なことは、ここで分前に与る土地は「父と蜜の流れる地」と言われたように、かつてイスラエルが旅した沙漠を思えば、豊かな広々とした土地に違いありませんけれども、そういう物質的な恵みだけをこの「嗣業」という言葉が示しているわけではないことです。それ以上に重要なのは、そこに表わされる神と民との関係です。その嗣業の土地は、神が選んだ民が安心して住まうように用意された場所ですから、そこに住むということは、彼らが主なる神と契約を結んだ民であることと直接的に結びつきます。ですから、その嗣業を失うこと、土地から切り離されることは、彼らがもはやイスラエルではなくなることを意味します。旧約聖書が記すイスラエルの歴史は、最後にその土地が奪われてしまう、捕囚という出来事を伝えますが、それが意味するのは神との契約の断絶です。そして、預言者たちが来るべき救いについて語った時も、罪の赦しと新しい契約を語りながら、それが土地への帰還という形で実現することを語っています。例えばエゼキエル書37章25節にはこうあります。

 彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。

 出エジプト以来モーセに導かれている間、イスラエルは遊牧民でした。嗣業の土地を得てからは、彼らは農民となります。カナンの地元の民は、農耕民族に特有の自然崇拝を主とする多神教でした。しかし、イスラエルが頼るのは雨の神でも豊穣の女神でもなく、自然をも支配しておられる創造主なる神です。その神のもとからすべてをいただく信仰をもって、嗣業を受け継いでゆくのが神の民に与えられた人生です。全能者なる神の恵みの中で、真の神を知り、そのよき賜物を喜んで感謝しながら生きる、神とともにある命が「嗣業」のもつ意味だと言えます。

レビ族の嗣業

 土地の分配に当たって、ヨルダン川東岸に割当られた部族については、すでにモーセの時代に確定していました。そのことが8節以下、本章の終わりまで再確認されています。各部族への分配については、聖書の巻末にある地図の3を見ていただけばよいでしょう。そこで未征服の地域は、北部のレバノン山周辺の地域、それからマナセの所領の中になりますけれども、ガリラヤ湖東部の地域―ここはゲシェル人の居住地です―、そしてヨルダン川東岸のギレアドのさらに東に当たるアンモンの地域、そして、地中海岸のペリシテの所領です。これらは今後ダビデによる支配に向けてイスラエルが戦いとってゆく地域です。

 ルベン、ガド、マナセの半部族に割り当てられた嗣業の地は、既にモーセによって分配がなされています。すなわち、律法によって確定されているわけです。残る部族への分配はヨシュアの下でくじによって割当られます。これは14章から述べられるところです。くじをひくという方法は、神の御旨を問う仕方として、旧約では合法と認められています。

 ヨシュア記のこの辺りの報告は、聖書の中でも最も見過ごしにされてきた箇所とも言われています。地名の羅列は、系図における人命の羅列や犠牲祭儀の詳細を述べるくだりと同じく、現代の私たちにとっては無味乾燥に聞こえます。ここは聖書の地理を勉強するつもりで、巻末の地図を頼りに読んでおく他はありません。しかし、そこにレビ族の嗣業についての特別な注記があります。これも既にモーセの言葉に指示されていたことではありますけれども、ヨシュア記でもそれが確認されています。14節にこうあります。

 ただ、レビ族には嗣業の土地は与えられなかった。主の約束されたとおり、イスラエルの神、主に燃やしてささげる献げ物が彼の嗣業であった。

そして、33節でも別の言い方で繰り返されます。

 モーセはレビ族に対しては嗣業の土地を与えなかった。主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である。

レビ人は聖所で神に仕える特別な職務を与えられていて、モーセとともに働きました。つまり彼らは聖職者たちの集団です。彼らには嗣業の土地は与えられず、それを耕す農業に従事することから免れています。「主に燃やしてささげる献げ物が嗣業であった」ということからしますと、「嗣業」にはそれに相応しい労働が含まれることになりますけれども、レビ人の嗣業は聖所・神殿での奉仕がそれであって、住む場所は他の各部族の所領内にレビ人の町が備えられます。14章4節によりますと、「レビ人は、カナンの土地の中には住むべき町と財産である家畜の放牧地のほか、何の割り当て地も与えられなかった」とありますから、住むべき町はあり、また家畜を財産として所有する事も許されています。

 レビ人の嗣業について改めて整理しますと、彼らには土地は与えられません。代わりに聖所での奉仕と、そこで得られる収入が約束されています。聖所で与えられる収入とは、イスラエルの民衆が礼拝にもってくる献げ物です。民数記18章21節には「見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である」と、その財源が明確に定められています。これは言わば税のようなものであって、レビ族はイスラエルの税金によって養われる、と言ってもよいでしょう。

 そして、「彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である」ということが、申命記を始め幾つかの箇所で繰り返し述べられます。レビ人にとっては主御自身が恵みの賜物であって、聖所で働くその奉仕が嗣業としての人生となります。預言者エゼキエルは少しニュアンを変えてこう言っています。エゼキエル書44章28節です。

 彼ら(祭司たち)は嗣業を持たない。わたしが彼らの嗣業である。あなたたちはイスラエルにおいて彼らに財産を与えてはならない。わたしが彼らの財産である。

国の滅びを経験した後の、一層鋭い霊的・倫理的な言葉で嗣業について述べられる時には、もう住む町や所有する財産のことなどは脇へ置いて、「財産を与えてはならない。わたしが彼らの財産だ」と言われます。イスラエルの聖職者たちが、自分の所有するものについて頓着せず、神御自身を財産として献身することが、悔い改めた民の新しい命にとっては要になりました。

 今日の私たちに神の国のモデルを見せてくれるこの分配表からは、こうしてキリストを信じる私たちへの嗣業のあり方が示されます。信仰によってキリストと結ばれた私たちの嗣業は、キリスト者としての人生であり、教会生活であり、将来に約束されている復活の命です。それは昔、イスラエルの民が夢見た「乳と蜜の流れる地」より遥かに優る、私たちへの嗣業です。信仰を通して、既に分け与えられている賜物に忠実でありたいと願います。ひとり一人の生活もまた嗣業です。イエスが教えてくださったタラントとの譬えにあるように、私たちそれぞれに備わっている賜物を神にささげて、神の御栄光を表わしたいと思います。そして、私たちが共に分かち合う賜物は教会です。一つ一つの部族に固有の土地が与えられたように、私たちには西神ニュータウンという宣教の地が与えられて、ここでの開拓が嗣業です。「祈れば何でも与えられる」ということの意味がここから分かります。「嗣業」とは神からくる恵みの業です。ですから、私たちの教会に与えられた宣教の業は、神御自身の業です。そのための必要は、神が用意してくださる。だから、必要と思う時には祈りなさい、ということです。神から授かった嗣業を大切にして、神の祝福がそこに実る事を願って、宣教の働きに、また神のものを神にお返しする信仰生活を日々送ってまいりましょう。

祈り

あなたのお選びになった民に忠実であられる天の御神、あなたから分け与えられたキリストの嗣業を、私たちが大切にすることができますように、日々の信仰の内に私たちを支えてください。何よりもイエス・キリストを私たちの嗣業とし、目先の欲に動かされることなく、あなたの御栄光によって世の罪に立ち向かわせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。