マタイによる福音書22章34〜46節

最も大切な教え

 

黙らせる神

 イエスのもとへ敵対者たちが次々とやってきては聖書による論争をしかけました。これは主イエスが神から与えられた権威に対する挑戦でした。今朝の御言葉は次のように始まっています。

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集ま った。

ここまでのところで、サドカイ派やヘロデ派というグループがわずかばかり登場しましたけれども、イエスと対決する主なグループはファリサイ派です。直前の議論でイエスはサドカイ派の人々を退けましたが、それを聞いてファリサイ派の人々が最後の挑戦をします。「一緒に集まった」とさりげなく訳されていますけれども、ギリシア語の原文は詩編の一節を思わせる表現です。詩編2編2節にこうあります。

  なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか

「結束して」とここで訳されている言葉が「一緒に集まった」と同じ表現です。ただ集まるのではなくて、神もしくは神の民イスラエルに敵が反抗して一致団結することを指します。ファリサイ派の人々はイエスに挑戦を試みることによって、神に敵対する地上の支配勢力としてここに登場します。

 それに合わせて、敵対する者たちに対する主イエスの立場もここに暗示されています。「イエスがサドカイ派の人々を言い込められた」とありますが、「言い込められた」とは、直訳すれば「黙らせた」ということです。先ほど引用した詩編2編の1節には次のようにあります。

  なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。

イエスの敵対者たちの仕掛けた論争は、神に逆らう者たちのむなしい騒ぎに相当します。そして、神はその騒ぎを黙らせる力をもったお方です。主イエスがかつてガリラヤ湖の上で、弟子たちの舟を襲った嵐を静めたように、主イエスは神の権威と力によって、偽りの権威を笠に着た敵対者たちを沈黙させます。今日の議論の最後はこう書かれています。

 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

イエスは神のメシアとしての権威をもっておられて、聖書の真実をお示しになりました。周囲の者に必要なことは、沈黙してその言葉に耳を傾けることです。

二つの掟

 律法の専門家は問いを提出するだけで、ここではあまり重要な役割を負っていません。主イエスの答えは、それだけで決定的に重要です。ここでは率直に、最も重要な掟を教えておられます。

 旧約聖書の中で最も大切な教えが二つの掟で示されています。最初のものは申命記6章5節にあります。

  あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

これは、当時のユダヤ人たちが毎日の祈りの中で唱えていた文句です。「聞け、イスラエルよ」で始まるこの祈祷文は、人々の心に「全身全霊をもって神に仕える」ことを刻み込むためのものでした。

 ここで言われる「愛する」ということは、口先で愛を語ったり、気持ちで愛するということではなくて、心から仕えることです。パウロがローマ書12章で「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と命じた通り、愛は神と隣人に対する献身です。

 イエスが示された第一の掟は、ユダヤ人からすれば全身全霊をもって神との契約を証する律法の掟を遵守することと理解されて実践されました。ファリサイ派の人々にとっても神への愛は空想ではなく、実質を伴う行為でした。しかし、主イエスはそこにもう一つ別の掟を合わせます。

  隣人を自分のように愛しなさい。

この第二の掟はレビ記19章18節にそのまま記載されています。特に主イエスはこの第二の掟を重要なものとされて実践されました。それは、友を救うために十字架に向かって行く、主イエスの地上での御生涯全体を通して表わされます。パウロもこのことをローマ書の中で次のように語っています。ローマの信徒への手紙13章8節以下です。

 人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(8-10節)

 聖書には様々な教えがあり、特に旧約聖書の律法には神礼拝と信仰に基づく日常生活に関する事細かな規定があります。そうした掟のどれ一つをとっても神の言葉であるのに違いありませんが、それをどのように受け止めて実践するかは、よく考えた上で、皆で取り決める必要がありました。それが、聖書を解釈するということです。初めから行うつもりがないのであれば、自分なりの読み方で適当に読み流していればそれで済んでしまいます。しかし、真面目に御言葉に従おうとすれば、聖書を解釈することがどうしても必要になります。律法に厳格に従うユダヤ人たちばかりでなく、今日のキリスト教会にしてもこれは同じです。主イエスに従う、聖書の言葉に従う、と口先ではなく、心から信仰告白をするのであれば、どのように従うのかとよく考えてみなくては実際に従うことはできないはずです。

 聖書に書いてあるそのままを実践すれば良いのではないか、と字義どおりの実行を説いて解釈を否定する人々が時折現れます。確かに、聖書の重要な部分の多くは書いてあるままを実行すればそれでよいと思われます。しかし、多くの教えや勧めを含む聖書のすべての部分が、読んだまま見事に調和するように書かれていないのも事実です。聖書は歴史的な文書であって、すべてが論理的に整理された教科書のような類いのものではないからです。それを完全に調和した一つの神の御旨として読むのは、教会が行う聖書の解釈によってです。

 イエスは40節で、「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」と述べておられます。つまり、旧約聖書の全体が、神を愛し、人を愛する、生き方へと人を招くために記されているということです。それを具体的に実践するためにモーセの律法も与えられています。逆に言えば、モーセの律法も預言者たちの言葉も、その二つの掟をいつも指し示している、ということです。例えば、律法の要約とも言われる、モーセの十戒を例に取り上げてみます。十戒は二枚の石の板に刻まれた掟ですが、その第一の板には、「あなたにはわたしの他に神があってはならない」から始まる、主なる神に対して果たすべき義務が記されています。それは、神御自身がイスラエルに示された神を愛する方法です。「刻んだ像を造ってはならない」とありますが、だからあらゆる画像を作成することを教会に禁じればそれで済むことかと言えばそうではなくて、見えない神をこの世のなにものかにすり替えるようなことをして、真の神を脇へ置いて自分の思いの中で都合のよい神を勝手に作り上げるような人の心に注意を促しているわけです。ですから、これは真の神に対する愛の問題です。

 十戒の二枚目の板には隣人に対して果たすべき義務がまとめられています。「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない」とありますが、こうしたことであれば大抵の人はそれを守って生活しています。しかし、これらの掟が指し示しているものは、そのようにして隣人を愛し、その尊厳を尊ぶという、より積極的な神の御旨です。マタイ福音書19章16節以下で、金持ちの青年がイエスのもとを訪れて、永遠の命を得るために何をしたら良いかと尋ねた、という記事がありました。そこで主イエスは、「掟を守りなさい」と仰って、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」と十戒の文言を挙げながら、終わりに「隣人を自分のように愛しなさい」と加えられました。つまり、十戒の後半部に記された禁止命令は、「愛する」というより積極的な隣人への関わり方を指し示すための、具体的な行為の事例です。ですから、この神の掟は、金持ちの青年が「そういうことはみな守ってきました」と安直に言ってのけるようなことでは済まないものです。主イエスが青年に対して「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われた通り、隣人に対する愛はこれで十分と自分で決めつけてしまうことの出来ない献身を人に求めます。それを端的に表わしたのが「敵をも愛しなさい」との主の言葉です。

 主イエスはマタイ福音書の7章12節で次のようにも語っておられました。

  人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

隣人を愛するとはどういうことかを、言葉を変えて説明したものと受け止めてよいと思います。

 こうして主イエスは律法の専門家の問いに対して二つの掟を示されて、神が人に求めておられる「愛」という最も大切な教えを明らかにされました。これに優る答えをファリサイ派の人々が求めていたとは考えられません。

 ここに挙げられた二つの掟は、人が神に従うための道徳的基準と受け止められて、教会の信仰告白の中にも取り入れられています。ウェストミンスター小教理問答では問42で、十戒の要約として取り上げられています。神を愛し、人を愛する生き方は、モーセの十戒を手がかりとして今日の教会にとっても有意義なものとされています。全身全霊をもって神を愛するために、隣人の命を自分の命のように大切に守ってゆくために、十戒が信仰生活の指針となってくれます。また、旧約聖書の全体から、私たちは具体的な指針を求めてゆくこともできます。

 しかし、こうして与えられている律法は、人を生かすために神が与えた恵みに他なりませんが、律法と預言者が人の魂を救うわけではありません。人が救われるのは律法によってではなく、キリストの福音によってです。そのことを理解しなかったために、ファリサイ派の人々はイエスをメシアと認めることができず、十字架の死へとおいやり、自ら裁きを招くことになります。

どのようにしてメシアはダビデの子か

 最後はイエス御自身がファリサイ派に質問しています。聖書の解釈に関する試みです。イスラエルを救うメシアがダビデの子であることは彼らも承知していました。ところが聖書には、ダビデがメシアを指して「わたしの主」と呼んでいる箇所があります。詩編110編1節です。新共同訳に即してそこを引用しますと、こうあります。表題に「ダビデの詩」とありまして、

 わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」

「主の御言葉」とあるところの「主」は旧約の神の名です。「わが主」とある方の「主」は「主人」ということです。天地の造り主であられる全能の神が、ダビデの主であるお方に対して、「わたしの右の座に就くがよい」と言われる。神からこうした支配を委ねられたお方は約束のメシア、救い主であるとユダヤ人は信じてきました。そして、そのメシアはダビデの子として生まれることを預言者たちの言葉から学んできました。そうすると、この詩編110編はダビデ自身が自分の子、つまり自分の子孫を主と呼んでいることになりますが、一体それはどういう事態を指しているのか。これは難しい問題です。律法の専門家も一緒にいたはずですけれども、このイエスの質問に答えることのできる者はファリサイ派には一人もいませんでした。こうして、「あらゆる敵の口が封じられた」のは、イエスが御子であることの証であることは最初にお話しした通りです。

 イエスの問いに対する答えは、もはや丁寧に説明はされません。それは、ファリサイ派ではなく、イエスを信じる者たちには明らかだからです。ペトロが信仰告白をしたように、こうしてファリサイ派の口を封じたお方は、「生ける神の子、メシア」である主イエスでした。詩編110編が預言したダビデの主は、イエス・キリストです。その証は、主イエス・キリストの地上での御生涯が雄弁に語っています。主イエスは貧しい力の無い者たちの友となり、神と隣人を愛する愛に徹せられて、十字架に向かって歩まれます。その十字架での死は、すべての者が悔い改めて神に立ち返るための、罪を贖うための死でした。そうして神と人への愛を求める律法への完全な服従を果たされて、イエス・キリストは死者の中から復活させられて、栄光ある神の右の座に着かれました。神に油を注がれた救い主は、旧約の歴史に現れたような人の王国の支配者ではなく、神が愛をもって支配する信仰による王国の支配者として天の王座に着いたお方です。この真実は、選ばれた使徒たちを通して福音によって世界に伝えられ、それを信じて受け入れた者たちの間で明らかにされています。

 旧約聖書の基礎をなす二つの掟は、イエス・キリストの服従によって完成されました。神を愛するためにすべてをささげて、また人を愛するために自分の命をささげて、聖書の最も大切な教えを完全に満たした人間はイエスの他にはありません。しかし、その主イエスのおかげで、私たちは不完全であっても、神の御前に義とみなされます。イエスを信じて、神と人とを愛する、聖書に従う生き方が、そこから新しく始まります。今日、学んだ二つの掟は、私たちの生活をかたちづくる最も大切な教えです。しかし、それは、それによって私たちが裁かれてしまう掟ではもはやなくなって、イエスのお陰ですでにそれを果たしたものと看做されて、従って行くための指針です。神は私たち罪人を憐れんでくださって、自ら赦しを与えてくださいました。それを感謝して受け取る私たちは、喜んで神と人への愛に生きたいと願っています。そう願う私たちの思いを神は受け取ってくださって、聖霊を豊かに注いでくださいます。それによって、私たちは今、愛に生きる勇気を与えられていることに感謝したいと思います。

祈り

天の父なる御神、あなたが聖書にお示しになった尊い教えは、私たちがそれを果たす力を遥かに越えてしまいますけれども、今は主にあって、責められることなく、その素晴らしい掟を人生に刻むことが許されていることに感謝します。あなたの御旨である愛を確かに実現するために、必要な信仰と力を私たちに日々お与えください。聖霊なる御神の力によって、主の御言葉を生活の中に表わすことができるように助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。