イザヤ書2章1-5節「江古田の丘の上に立つ教会」

 

 教会設立60周年を迎えた記念すべき機会に、今回もお招きいただいて、御言葉を一緒に聞くことのできる恵みを主に感謝します。50周年の機会にもお招きいただいてお話ししたのがついこの間のように思われますが、あれからさらに10年の年月を過ごして今日の江古田教会に至るのですね。すでに天に召された兄弟姉妹が多くあって、江古田に遣わされた牧師たちも皆、今は主イエスのもとで復活を待っておられますが、私もそう遠くない時期にそこへと還ることを思いながら、残りの生涯を主にささげたいと願っています。

 60年というとほぼ私の年齢と同じです。今年で私も58歳になりました。「のんちゃん」と呼ばれて皆さんに可愛がっていただいた頃のことは昨日のことのように覚えていますが、もう初老と言われる年齢になりました。ガチコミの収録で坂井孝弘先生から「先生はもう初老でしょう」と言われてショックを受けたのですが、鏡を見ると確かに白髪も増えて人生も晩年に入ってきた自分を認めざるを得ません。

 私の人生にとって江古田教会とは何であったかと思い起こしますと、沢山の思い出がありますが、確かにここが地上で私に与えられた嗣業の地、分け前であったかなあと思われます。私が生まれ育ったのは世田谷区の上北沢でしたが、そこでの学校生活と、中野区江古田/江原町での地域とのつながりは同じぐらいの濃いものでした。父や青年会の先輩方と一緒に地域の看板立てやチラシ配りに出掛けたり、朝拝の後は近所の公園でCSの仲間と遊ぶのが私の日常でしたが、それによって江古田は私のホームグラウンドになりました。世田谷の友人たちと教会をつなげることができなかったのが牧野の家の伝道的な弱さだったかなと思い返すこともありますが。

 江古田教会の古い昔を思い出させてくれるのは、旧会堂を解体する間際に相場郁郎長老が撮っていた白黒の写真です。その画像には私が生まれ育った教会の思い出が幾重にも重なっていて、靴が散らばった玄関に並ぶスリッパだとか、会堂をほの暗く照らしていた照明だとかが、その頃の礼拝の雰囲気そのものを伝えていました。子どもの頃、私にとって礼拝は修行のようなもので、重苦しくて毎週疲れ果てていました。それを救ってくれたのはその頃の青年会の皆さんと一緒に礼拝に出ていた子どもの仲間たちで、信仰に目覚めて、喜んで礼拝に臨むようになった頃には、そのすべてが財産として手元に残っていました。御言葉に情熱をささげた牧師たちがいて、それを支える長老たちがいて、疲れていようとなんであろうと、それに耳を傾ける信仰をいただいた兄弟姉妹たちが、江古田教会の礼拝を作り続けて来たことは、今に至るまで変わりがありません。

 私は今、東部中会に戻って長野佐久伝道所に赴任して5年目になります。東部中会の伝道委員会から教会設立を目標にということで招聘を受けまして、その際に佐久伝道所と長野伝道所を合併して5年が経過したことになります。今年、長野佐久伝道所は年間標語に今朝の御言葉を選びました。長野佐久伝道所は、佐久伝道開始以来、来年70周年を迎えます。佐久は私の母の故郷ですので、その70年にも特別な感慨がありますが、その長い期間教会を通して主イエスが何をなさったかを考えています。江古田教会と同じような、あるいはさらに激しい紆余曲折があったことを知っていますけれども、一つ間違いなく言えることは、どのような問題が起ころうとも、主の日毎に礼拝をささげる集会と、そこに召し集められた教会員の証を通して、福音が地域に語り続けられてきたことです。人の出入りは多くて、その初めからを知っている人はほとんどいなくなりました。伝道を続けるにも、礼拝を維持するにも、苦労の多い歩みだったに違いありません。牧師が躓きになったこともあったかもしれません。けれども、罪に滅びゆく人に復活の命を語り続ける営みは、今日に至るまで途絶えることなく、佐久と長野で続けられて来ています。そしてそれが、主イエスご自身が私たちを選んだ目的であり、地域に対する教会の存在の意義ではなかったかと思い返すことができます。そして、これからも私たちは、そこから流れ出る命の水の源であることを止めることはありません。一体いつまでそこに会堂が建ち続けるかは主の御旨次第です。教会の寿命は60年と言われてきました。そうしてその生涯を終えた教会も幾つも見てきました。新約聖書にしるされた使徒たちが建てた教会も今はほとんど残っていません。そうして、私たちの会堂もいつかは寿命が尽きるかもしれません。それは神の御計画の中にあります。しかし、教会が建ち続け、礼拝が続けられる限り、ここに命の水の源があり、ここから流れ出る主の教えによって、ある人の罪は赦され、信仰に導かれた者には復活の命が与えられ続けられます。

 預言者イザヤは「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と神の民イスラエルに呼びかけました。神は旧約の時代も新約の時代も、御自分のお選びになった民に対して、光に照らされた明るい道を歩むよう絶えず呼びかけておられました。今日の教会に対しても同じように「光の中を歩みなさい」と励ましています。

 預言者イザヤがイスラエルに神の言葉を語った昔も平和な時代ではありませんでした。国際関係は大国間の緊張のもとにあり、兄弟であった北の王国イスラエルは歴史に初めて登場した帝国アッシリアの勢力に飲み込まれて地上から消えました。政治的には弱小国家に過ぎないユダ王国の指導者たちは、何とか生き残りを謀って、バランスをとろうと内外の政策を打ち立てたのでしょうけれども、アッシリアの後に現れたバビロニアや古くからの強国エジプト、また、国境を接するアラムやエドム、モアブ、ペリシテなどとの競合も決して安定してはいませんでした。政治的な問題以上に預言者の目に留まったのは国内の宗教的社会的状況でした。神を畏れぬ指導者たちの横行によって貧富の差が拡大し、人々の宗教心は揺らぎました。人類の歴史が始まって以来、真の平和が実現した時代が果たしてあったのかどうかは疑問です。一部の地域ではあったかも知れませんが、神の目にとまった世界の全体からすれば、人類の平和は最初の段階で既に破られていて、罪を犯した初めから人間は悪いものだと聖書は語っています。この地球上では、いつでもどこかで戦争が行われています。高度な文明社会が発展して人類の知識も技術も飛躍的な発達をした今日でも、平和のために英知を結集することができないばかりか、「平和のため」と称して殺人を容認しています。日本もまた米国の言いなりになって戦争のできる国づくりに躍起です。それがわかっていて岸田首相もいやいやウクライナへ出かけていったのかもしれません。台湾と中国の有事が想定されていますが、それに巻き込まれることを予想して、兵力の整備や法的な整備が陰で進められています。

 希望のないように思えるこの世界の中で、預言者は神の幻を見せられます。それは、神が人類に与えた終わりの幻です。イザヤが見たその光景は、ユダ王国のエルサレムの都を映し出していました。山の上に神殿をいただいたエルサレムは、およそ標高800メートル程の小山に過ぎませんけれども、終わりの幻の中ではどの山々よりも高く堂々としており、世界の民が川の流れのようにそこを目指して巡礼に集いました。そして、巡礼者たちは口々に主の道について語り、エルサレムからもたらされた神の教えが世界中の国民に尊ばれて、真の平和が訪れています。

 箴言29章18節に「幻のない民は滅びる」との有名な言葉があります。神が与えた幻は、人類がそこを目指して歩んで行くための未来への希望です。その、やがて来る未来を信じることのできない世界は、自らの罪の中に落ち込んで生きる力を失います。イザヤが語った幻は、選びの民イスラエルにとっては地理的にも民族的にも直接的なものです。「山々」とか「峰」とかは、聖書では互いに対句となって、政治的・宗教的権威の所在を指しています。主の神殿の山が他のどの山よりも高くそびえ、堅く立つのは、その権威が他のものを凌駕することを意味します。「国々」は異邦人たちですから、エルサレムが世界の中心となり、世界中の異邦人たちの崇敬の対象となる、ということです。

 ここにはユダヤ民族主義の一つの原点がありまして、異邦人である他民族からすれば余計なお世話と聞こえるでしょう。しかし、ここで語られた「ヤコブの家」たるイスラエルの自己意識は、民族の優越性を掲げて他国を不当な支配で抑圧するような卑屈で歪んだ性質のものとは違います。エルサレムを目指して大河のような流れをつくる異邦人巡礼者たちが目指すのは、神殿の荘厳な建物ではなくてそこに住まわれる主なる神です。人々はヤコブの神の家で主の教えを賜ることを目的として続々とエルサレムに集まります。彼らの目的は「主の道を歩む」ことにあります。その教えが、エルサレムに発し、世界の国々に正しい裁きをもたらし、ついに戦争を終結させる。イスラエルの民族的自覚には、こうした世界規模の目標があるのがわかります。つまり、世界の平和のために、主がこの山を選ばれ、道を敷かれたのだ、ということです。イザヤが告げる「道」「教え」「御言葉」「裁き」「戒め」-これらはすべて人類を平和に導く神の言葉を指しています。エルサレムが世界の頂点に立つのは、その神の言葉の卓越性を世界が認めるがためです。そして、真の平和が、その言葉によって実現します。

 預言者イザヤを通してイスラエルに語られた預言の幻は、彼らに平和への召しを告げるものでした。そして、この幻は、やがて来るメシア到来への先触れとなりました。終わりの日の出来事は、イエス・キリストの到来によってエルサレムで実現します。イエス・キリストは、神がユダヤ人のためだけでなく、すべての人のために世に送った「真理であり、道であり、命」です(ヨハネ14:6)。イザヤが幻に見た通り、主イエスは山上で神の教えを語り、人が行くべき道をお示しになりました。エルサレムの山でイエスは十字架にかかり、すべての民族の罪を負って神の裁きを受けました。神はイエスにあって世界をお裁きになりました。そして、神はイエスを復活させて、復活の命に至る信仰の道を世界に示しました。人々は今や、その十字架と復活の福音を目指して、イエスのもとに終結し、神の赦しと愛に生きる、平和への確かな道を教わりました。

  彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。

  国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。(4節)

この有名な聖句が、ニューヨークにある国連広場の壁に刻まれているように、平和への召しは今やイスラエルを越えてすべての国民に与えられています。それは、戦いの止まないこの世界に与えられた人類の希望であり、目指すべき目標です。「平和を実現する者は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とイエスは山上の説教で語られました。戦争の技術開発を止めることを目標に努力する者たちが神の子です。その資格は、神が示した幻に希望を置くものすべてに与えられます。世界の政治的な現在の状況では、剣や槍を農具に打ち直すことはお互いに難しいようです。キリストが再び来られる世の終わりまで、幻は一息に実現はしません。一歩ずつ、諦めないで、お互いに振り上げた剣を下ろすための交渉をしてゆく取り組みをする他はありません。日本が原子力エネルギーに未だに頼らざるを得ないのは、核の脅威を近隣諸国に誇示するためであるのは明らかです。溢れる程に蓄えられたプルトニウムは核ミサイルの原料です。日本もまた世界の戦争ネットワークの只中に既に組み込まれています。私たちはこういうしがらみの中で平和への道を模索しなければなりません。

  ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

イスラエルに呼びかけられたこの声は、今、キリストに結ばれた教会にまず呼びかけられています。もはや戦いを学ばないで済む未来への歩みを、主イエスと共に私たちが率先して進まなければなりません。キリストの十字架の尊い犠牲の故に、私たちはもはや戦いを学びません。その愛の道を歩む私たちを通して、神はこの世界に平和への希望を示しておられます。その召しを覚えて、主の光の中へ共に進みたいと願います。

長野佐久伝道所では、来年教会設立を果たしたいと希望して、その計画を主にささげました。そして今年はその前年にあたる備えの年です。本当にそれが御心に適うのであれば、江古田教会に倣って、私たちも教会設立を果たすことができるでしょう。しかし、本当にそれに相応しいかどうかは人間の判断には難しいところです。キリスト教会の教会形成や伝道が順風満帆に見えた時代は過ぎて、日本の社会では宗教が信用されない時代に来ています。統一教会やエホバの証人たちの後継者問題が明らかにされていますが、伝統的なキリスト教会も全体的に高齢化して、今後の存続が危ぶまれる中で伝道方針が模索されています。私たち日本キリスト改革派教会も近年伝道方針を変えて、再び首都圏中心の教会形成に焦点を戻すようになり、地方に出て行って教会を設立しようという意欲には少し陰りが見えています。東部中会の熱心によってこれまで推し進められてきた甲信伝道ですが、来年からは今までのようにも行かなくなります。そうした時期にあって、私たちは意気消沈してろうそくの灯が消えるように教会の終わりを待つほかはないのか。それとも御言葉に希望を託して、キリストへの献身の思いを新たにして、次の世代に進むのかが、このところで問われます。今のところ来年度の計画に変更はありませんが、高齢の兄弟姉妹方の加齢も進んで、集会への出席者が減少し、さらにはコロナによる活動の縮小などが相まって、私たち自身の内に明るい見通しがあるわけではありません。

ただ、今日の御言葉にありますように、「さあ、光の中を歩もう」との励ましの言葉が、私たちの歩みを前へと進ませてくれます。私たちが日ごろ接する近隣の方々に、日本の社会に、変化を待ち望む人々に、主の教えが必要とされていることは間違いありません。私たちが教会として受けてきた数々の恵みを思い起こして、その喜びをこれからの方々とも分かち合うことができるように、60周年を記念するこの日に希望をもって、次の10年の歩みを始めたいと願います。

祈り

御子キリストの十字架において世をお裁きになった平和の御神、あなたの内に、真実な愛と平和を人々が信じますよう福音の力をお示しください。絵空事の力のない平和に甘んじることなく、あなたの召された教会がそのために愛の業に生かされ、世の希望をつなぎ止める役割をすることができますように、聖霊の励ましをお与えください。尚も私たちを暗闇に引きずり込むサタンの誘惑が強く迫って来ますけれども、天地万物の主権者であられるキリストが私たちと共にあって守ってください。これから新しい10年を歩む江古田教会の日々にあって、あなたの望んでおられる平和への思いを強くすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。