マタイによる福音書5章33-37節

言葉の真実は何処に

 

主イエスによる誓いの禁止

 今朝の箇所では、「一切誓いを立ててはならない」と、誓いの禁止命令が与えられています。誓うこととは、神さまや他人、或いは自分自身を保証人として立てて、固く約束することと辞書にあります(「広辞苑」)。私たちの日常生活で「誓いを立てる」ような場面はそれ程頻繁ではないにしても、結婚式で誓約をされた方も多いでしょうし、一般的にも「天地神明に誓って私は無実です」などという決まった言い方があります。

旧約聖書では、ユダヤ教徒たちが熱心に守っていたモーセの教えの中に、誓いに関する規定があります。旧約聖書では、誓いを立てること自体は禁じられてはおりませんでして、民数記の30章には誓願を立てる場合の具体的な二つの方法が次のように記されています。

 

人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。

すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。(2節)

 

第一の方法は、神に願い事をしまして、それがもし御旨に適って実現するようなことになりましたら、私はこれだけのことをします、と約束をすることです。例えば、創世記28章で、ヤコブが叔父のラバンのところへ向かう旅すがら不思議な夢を見ましたときに、彼は次のように言いました。

 

神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。(2022節)

 

もう一つの方法は、「物断ちの誓い」と呼ばれるものでして、断食などの苦行を己に課して、願いが叶うまで自分に何かを禁じることです。これも旧約聖書の例で言いますと、サムエル記上14章でサウル王が戦の前に部下たちに命じまして、戦いに勝つまでは何も食べてはならない、といったことなどが挙げられます。詩編132編にも、神の聖所を建てるまでは決して寝床に入らない、とのダビデの誓いが歌われています。

 

今朝の最初の節には「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という昔のユダヤの教えが引用されていますが、誓いについて旧約聖書がおもに語っていることは概ねそういうことでして、主イエスを取り巻く人々もそのように理解していたはずです。またそれは、私たちの常識にも適ったことではないかと思います。

ところが、主イエスは「一切誓うな」と言われます。「一切」ですから、「誓うこと」自体が禁じられます。

 主イエスのこうした教えを、教会は文字通り実践的に捉えようとしたところから、聖書の解釈を巡る長い混乱も生じてきました。

 

誓いに関する教会の理解

 マタイの山上の説教に示されている「誓うな」との主の命令は、ヤコブの手紙にもほぼ同じ文言で現われています。初めの頃のキリスト者は主イエスの教えを深く心に留めて、「誓いの禁止」を実践しながら、その教えの真意を問うていくことになりました。主イエスが「誓うな」と仰ったのだから絶対だ、という単純なことでは済みませんでして、きちんとその意図を理解することが求められました。といいますのも、あるところではパウロが次のような発言をしているからです。

 

神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。

 

これは第二コリント書の23節ですけれども、他にもローマ書やガラテヤ書など数箇所で、パウロは誓いの言葉を添えて教会に手紙を書き送っています。そうしますと、問題は誓いの取り扱い方であって、誓うこと自体が教会に禁じられているのではないのではないか、という判断になります。

 ところが、このところの主の言葉を文字通りに捉えて、誓いそのものを拒否した人々もキリスト教の歴史の中にはありました。有名な人物としては作家のトルストイがいます。宗教改革の時代には、誓約は教会においても国家においても重要な意義を持っていました。ですから、誓いを一切禁じる再洗礼派の人々に対して、カルヴァンは次のように言いました。

 

むしろ、われわれの誓いは、それが主の栄誉を守るため、あるいはわれわれの隣人を援助するためのものであるならば、正当な必要に仕えるものである。

 

カルヴァンは旧約聖書の教えを重んじて、誓約そのものは違法ではないとしました。誓いにおいて禁じられているのは、それによって神の御名を汚すことであって、天を指したり、地を指したりして、軽率に誓いの言葉を吐くような、信仰的に不誠実な態度が戒められている、と理解しました。主が求められたのは、互いに誠実に語り合うことだ、と今日の箇所についてまとめています。

 「誓ってはならない」という教えについては、今日でも混乱が残っているかも知れません。ですから、聖書に基づく教会の理解ははっきりさせて置きたいと思います。聖書全体からする「誓い」に関する理解は、『ウェストミンスター信仰告白』の中で一章が設けられていまして、第22章に「合法的宣誓と誓願について」という項目があります。長いので全部を紹介することができませんが、最初の1節だけお読みします。

 

1 合法的宣誓は、宗教的礼拝のひとつの部分であって、宣誓においては、正当な場合に、宣誓者はおごそかに誓って、自分の断言または約束の証人となり、その誓いの真偽に従って自分のさばき主となりたもうよう、神を、呼び求めるのである。

 

誓いは神の名においてのみ合法であり、しかも、礼拝行為の一つとして行うことが求められます。ですから、神への信仰を持たない者が「天地神明によって誓う」などと形ばかりの誓約を口にすることは、信仰者からすると恐ろしいことです。第節もお読みしておきましょう。

 

2 神のみ名だけが、それによって人が誓うべきものであり、宣誓において神のみ名は、全くきよい恐れと尊敬をもって用いられるべきである。それゆえ、あの栄光ある恐るべきみ名によって、みだりにまたは無分別に誓うこと、あるいは少しでも何か他のものによって誓うことは、罪深く憎悪すべきことである。とはいえ、重要な事柄においては、宣誓は旧約におけると同様に新約においても、神のみ言葉によって保証されているので、合法的宣誓が合法的権威によって課せられるならば、そのような事柄においては行なわれるべきである。

 

キリスト教会では、このように誓約を礼拝の中で行う場合があります。洗礼式や加入式、信仰告白式などを行う時には、新しく教会員になるための誓約を求めます。また、教会役員に任職される場合にも、神と教会の前に誓約をする必要があります。そして、教会で行う結婚式でもまた、神と証人の前に結婚の誓約をします。誓ったならば、それを果たすべく最大限の努力をすることは言うまでもありません。

 

主イエスの語られた誓いの禁止について、もう一度簡単に纏めて置きます。まず、誓いを偽ってはならないということ。これは、十戒にも通じます。十戒には、「主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。もとよりこの十戒の教えは礼拝全般に関わることですが、「神の名にかけて誓う」のですから、その誓いの言葉をいいかげんな思いで口にするのは神に対する冒涜となります。誓ったならば、必ず果たさなければなりません。

さらに、これは十戒にある「隣人について偽証してはならない」という教えとも関係します。法廷における証言は、神の御前で真実を語ることが求められます。そこで偽りの証言をすることは、やはり神の名を偽って用いることになります。レビ記の19節では、端的に次のように言われています。

 

わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。

 

主イエスの教えのラディカルさ

 「一切誓うな」という主イエスの教えを、教会と社会の実践に合わせて応用すれば、以上述べたような理解になります。しかし、それだけだとしますと、主イエスの教えは完全に旧約の範囲内に収まってしまいますので、ラビたちの反対に遭うこともなかったでしょう。(あなたがたがしているように)天を指して誓うな、と主は言われましたので、そこには、当時の学者たちの律法理解を越える、主イエスの大胆な語りかけがやはりあったことを認めざるを得ません。

 「一切誓うな」とは、ですから、まずは文字通りのことです。それを実践可能かどうかとすぐにその御言葉を自分の近くに引き降ろしてしまう前に、主が語っておられることの高さをまず考えるべきです。

 「一切誓うな」と主が言われることの背景には、さらに旧約聖書の別のことを見なくてはならないでしょう。誓いに関する掟は先に見たとおりですが、実際に誓いをなした事例を旧約から探しますと、幾つか印象的な実例が見出されます。

 例えば、士師記11章にあるエフタという士師の話です。エフタは神に選ばれてイスラエルの救世主となった英雄ですが、彼は敵との戦いに出て行く前に、神に誓願を立てました。どのような誓願であったかと言いますと、もしも自分が生きて無事に帰ってくることができたら、家から迎えに出てきた最初の者を犠牲として祭壇でささげる、ということでした。切羽詰った時の決死の覚悟での誓願です。そして、エフタは主の助けによって、見事敵を打ち破り、自分の村に帰って来ることができました。すると、家から最初に飛び出てきて彼を迎えたのは、彼の愛する一人娘でした。エフタは神に誓った手前、誓いを破るわけにはいかなくなり、娘もそれを承知して、祭壇の上で犠牲になりました。

 先にサムエル記のサウル王の話に触れました。戦いに出るに当たって、王が断食の誓いをし、兵士たちに命じたという例です。その続きを見ますと、実に息子のヨナタン王子がその父の命令を知らずに、野で蜂蜜を口にしてしまいます。王の無茶な物断ちの誓いのために兵士たちは戦いにも力を振るうことができず窮地に陥りますし、ヨナタンは誓いを破ったかどで死刑に処せられるところでした。幸い、兵士たちが彼をかばったので、命は取り留めました。

 これらの例は、誤った誓いが悲劇を招くという警告として読むことができます。そして、それは誓いに対する警告であるばかりではなく、そもそも誓いを果たしえない人間の愚かさ弱さを聖書は教えています。新約聖書にもその見事な事例が見出されます。主イエスに従ったペトロのことです。マタイは26章で主が十字架におかかりになる直前の彼の姿を次のように報告しています。

 

ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。(マタイ26章71節以下)

 

誓いを立てる人間の無残な姿が、これ程まで悲劇的に描かれることもありません。神にかけて神を知らないと誓う。主イエスが「一切誓ってはならない」と言われるのは、人間には本来、神にかけて誓うことなど出来ないからです。人間には真理の言葉はありません。それを持っておられるのは神だけです。

 誓いについて聖書をよく調べてみると分かるのは、誓うのは人間よりも神の方が多いということです。神だけがご自身にかけて真の誓いを為すことがおできになります。その誓いとは例えば次のようなものです。

 

わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。(イザヤ書4523節)

 

 聖なるわたし自身にかけて/わたしはひとつのことを誓った/ダビデを裏切ることは決してない、と。(詩編8936節)

 

神はご自身にかけて罪人の救いを果たすと誓われ、それを主イエスにおいて実行されました。神だけが真実の言葉をもっておられます。人間は、ただ神に許されて、主に願い求めることができるだけです。

私たちにも誓約が求められる場面があります。先ほど述べましたような、礼拝として行われる諸々の式がありますし、聖餐式もまた献身を誓う場所となるでしょう。しかし、そこで求められているのは、私たちの場合は律法ではありません。私たちは誓約をしても、それを確実な言葉として自分に課すことはできません。むしろ、私たちの誓いは、主がそれをなさせてくださるとの信頼によってなされます。私たちは信じて、決心して、その思いのありのままを神に申し上げます。それを、主が支えて下さいます。私たちの誓いは、主イエス・キリストへの信仰に基づいて可能になるものです。

主イエスが「誓ってはならない」と語られたことの今日的な意義をそこに見出すことができると思います。安易な誓約が巷に蔓延る時代は、かえって言葉が信頼されないことの裏返しのようにも思います。そこへ、「誓うな」と言われ、「Yes」と「No」だけでよいとされる。つまり、真実を語れ、ということです。或いは、自分の言葉に対する責任を負う、ということでしょう。

神の御前にあって、真実のみを語るということは本来不可能です。これは先の幾つかの命令と同じことです。「殺すな」「姦淫するな」ということを心の奥底まで見通して言われる主の言葉です。心の奥底にある偽り、軽率、思い上がりが言葉の水準で扱われています。私たちは言葉においても神の御前で日々罪を犯します。

けれども、神は主イエス・キリストを通して、言葉の真実への道を開かれました。信頼すべき確かな言葉は神だけのものです。私たちはそれ以上に確かな言葉を自分の内にもちません。私たちは真実である神の言葉に頼って、許されながらですが、主イエスと共に真実が語られる世界を目指して進みます。その道に、謙遜に従って来るようにと、主は私たちを召しておられます。

 

祈り

 

御子の贖いにおいて誓いを果たされ、言葉の真実を顕されました父なる御神、人に言葉を与え、それによって生かしてくださるのはあなたです。偽りと真実との区別がつかない私たちの言葉を、どうか聖霊によって清め、真実を語り合うものとなさせてください。また私たちのなす誓いが、御旨に適ったものとなりますように、信じて誓った事柄を、どうかあなたの助けによって果たさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。