マタイによる福音書614, 1618

隠された愛

 

 主イエスによる山上の説教が新しい段落に入りまして、この章から章の終わりにかけて、たいへん実践的な教えが語られます。はじめにこうあります。

 

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(1節)

 

「善行」「よい行い」について、主は教えておられるのですが、これに続いて章では順に、施し、祈り、断食、という三つの行いが挙げられています。どれも、個人で、また共同で行うことができる礼拝行為で、神に向かっての善い業です。それから、19節以下の後半にまいりますと、財産の問題を初めとする、日毎の暮らしに関わる思いや振る舞いが取り上げられます。そこで、まず今朝の最初の言葉は、その全体に関わることとして善い行いの原則を告げています。それは、人に見られることを目的として善い行いをしても虚しい、ということです。そういう姿勢は偽善である、と主は言われます。逆にいいますと、神が求めておられるのは偽りのない善い行いです。

 

 「偽善者」という言葉は、元々は俳優を指していたようです。舞台に立って、仮面をかぶって、自分ではない、ある役柄を演じるわけです。それが後々、倫理的に悪い意味に用いられるようなりまして、表面的に偽って振る舞う者、偽善者となりました。

 細かく考えますと「偽善者」にはいろいろあります。カルヴァンによれば、例えば、心の中では自分は悪人だと思っているけれども、人からは善人に思われたいばかりに、必死に自分の悪を隠そうとしている人。或いは、自分には神から完全な正義が備わっていると得意になって語る人(こういう人はあまり見かけませんが)。そして、本心からではなく、神の栄光を求めてでもなく、ただ清く正しいと人から認められたいために懸命に善いことをしようとする人。この最後のものが、主イエスが指摘しておられる偽善だとカルヴァンは言います。

 

 最初の実例が節から挙げられまして、まずは「施し」について述べられます。「施し」とは慈善のための献金でして、教会で制度化される前は個人個人が心がけて行っていたものでした。貧しい者を助けることは、祈りや断食にも並ぶ礼拝行為の一つとして古くから重んじられていました。施しそのものは善い行いに違いありません。施しを受けた者も、何であれそれでそれなりの恩恵を受けます。けれども、そこに偽善が入り込むことを注意しなさい、と主イエスは警告します。

 

 問題は、偽善とされる行いの意図または目的です。このところで指摘されているのは、「人に見てもらいたい」「人からほめられたい」という隠れた本心です。それが何故問題なのか。

 

 節でも節でも、「報い」が問題になっています。そして、節の終わりで結論として、「天の父があなたに報いてくださる」とあります。「報い」ということから考える。そこから、善い行いの本来の動機が示されます。つまり、人から称賛を受けようとしてする善い行いは偽善であって、神から称賛を受ける善い行いが、本来の善い行いである、ということです。

 「人に見てもらいたい」「ほめられたい」という心は、自分のための善い行いを形として生じます。つまり、その心には相手が見えていないわけです。善い行いをささげる相手への配慮も、さらには天の神への関心も、どちらも中途半端、もしくは全く消えてしまうのでして、そういう善い行いは、神の目にかなう「善行」にはならない。

 偽善と言われますが、節にある会堂や街角でラッパを吹きならすがごとく自己アピールをする人のことを考えてみますと、嘘はついていないのだと思います。立派な施しをしたのは事実でしょう。また施しを受けた方も、動機は何であれ、結果として何がしかのものを無償で受けたのですから有難いと思ったはずです。けれども、こうした自分の利益を巡るやりとりには神は関知しておられない。時には計算が、時には政治的な意図が入り込むような人の世のやり取りは、神が人に命じられる善き業ではありません。

 

 では、どのような業が、神に認めていただけるのでしょうか。節と節にヒントがありますが、善行は、人前でひけらかすのではなく、むしろ隠れて行うようにしたらよい。「右の手がすることを左の手に知らせない」ほどにも慎重に。こうして、隠れた業の動機は何かと尋ねてみれば、その業そのものでしかないでしょう。人がどう言おうと、そこにいる人を助けたい、それだけです。そして、それを神だけが見ておられて喜んでくださる。それが私の報酬になる。

 

 神が求めておられる善い行いは、神の御旨を行うことに違いありません。善い行いについて、私たちの信仰告白である「ウェストミンスター信仰告白」には章を割いて、聖書の教えを次のようにまとめています。第16章ですけれども、その最初にはこうあります:

 

1      善い業とは神がその聖なる御言葉において命じておられるものだけであって、御言葉の保証なしに、無分別な熱心からであれ、善い意図を口実にしてであれ、人間によって考え出されるようなものではない。

 

 善悪の基準は天にあり、人間の側が造りだす何かではありません。その神の御旨は聖書に示されていて、私たちは聖書を通じて、何が神の御旨に適ったことであり、何がそうでないかを区別することができます。人間には良心がありますから、幾らかその判別は付きますが、教会は確かな基準として聖書をいただいています。ですから、神に従う思いなくしては、積極的に聖書に基づいて、善い業をなすことは誰にもできません。

 

 人が神に従って、真に善い業をなすことができるのは、イエス・キリストを通して、神が私たちに働きかけてくださるからです。善い業は、私たちの信仰の実りです。聖霊が私たちの心を動かして、キリストに現わされた愛の業へと私たちを送り出してくださる時、周りで誰が見ていようといまいと、神の憐れみが隣人に届きます。それは、無償の行為であって、人からの称賛を求めるものでもありません。

私たちの行動基準は、あの人はこれこれのことをしてくれたから、私もそのお返しをする。あの人は私を愛してくれるから、私もあの人を愛する、というようなものではないでしょうか。しかし、これはこの世の取引ですから、報いはこの世のものに留まります。「お互い様」ということは世間の常識としてあるのでしょうけれども、神の評価はそれとは別です。

善い行いは、そういう取引を前提にしてはいません。誰も見ていないところで、例えば、私の心の内だけで、ひそかに誰かを赦していたり、誰も知らないところで、ひそかに人を援助していたりすることは、たとえ人がほめてくれなくても、神はすべて知っていてくださいます。神はその人と共におられます。

 

ある人は、このところからこう説いています。

 

内面の秘密が必要なのです。誰にも知られない場所を心に持つことは、本当の人のあり方です。人はそこに安易に近づくことができませんが、しかし、神はそこをよくご存じで、すべての思いやわたしの振る舞いをご覧になっています。そこは神から隠そうとする場所ではなくて、人には見えない場所。本当の裁き主であられる、神にだけ知られた場所です。

 街角でラッパを吹く人は、この秘密の場所をもちません。愛されたい思いでもって自分を全部明かさないと気が済まないので、内面はいつでもからっぽです。キリスト者は、神に知っていただく内面を豊かにもっていてよいのです。これがないと、人の見ている時には立派な振る舞いができますが、いざ誰もいなくなると途端に素行が悪くなったりします。

 

善い行いについて、施しという具体的な信仰に基づく行為を通じて、主イエスは偽善という人の心と振る舞いの罪深さに気づかせてくださいます。それと同時に、キリストご自身の私たちに向けられた善い行いの、完全さがここから知らされます。主イエスはこの世に来られて、御自分のためにラッパを吹きならすようなことをなさいませんでした。貧しい人々のところに密やかに来られて、神の憐れみによる癒しと赦しを実現されました。そして、沈黙して十字架に上り、人々の無理解の中、ただ一人神の御旨を果たされました。善い業の模範は、こうして神がキリストの内に示してくださいました。キリストを信じる私たちは、その信仰の故に神の子と看做されます。私たちは、神の子として、キリストの善い行いに生かされます。

 

 先に引用しました、信仰告白の続きの節では、善い行いについてこう告白されています。

 

神の戒めに服従してなされるこのような善い行いは、真の、生きた信仰の実りであり、証拠である。そして善い行いによって信者は、彼らの感謝を表し、彼らの確信を強め、彼らの兄弟たちを建て上げ、福音の公的告白を美しく飾り、敵対者の口を封じ、神に栄光を帰す。信者は、そうするようにイエス・キリストにおいて造られた、神の作品だからである。

 

善い行いは、人に見てもらう手立てではなくて、聖霊の実りとして私たちの内に現れる嬉しい果実です。どれくらいよいかなど人に評価してもらう必要もありません。また、善い行いは、それをしようと無理をするところから生まれるものではなく、「神の御前にある」信仰者の、罪との闘いの中から生じる、自然な振る舞いです。

 

 偽善というこの世の取引から、私たちの振る舞いは信仰によって解放されます。教会に関わる礼拝行為もそう、この世と関わる日常生活もそうです。生ける神が、いつも私を見ています。冷たく監視しているのではなく、キリスト共にある私たちを子として見つめていてくださいます。その信仰に生きることを、神は私たちに求めておられます。

 私たちの振る舞いは、なんでも白黒はっきり区別がつくものでもありません。これも、ある書物からの導きです。私たちの行いは灰色で曖昧です。それでも、私たちがいつも神の御前にあるならば、その中途半端さが受け入れられていると知ります。

 拙いと思われる小さな奉仕も、神への感謝に基づいて、真心からささげられたものは美しい。周りのものが誰も気づかない善い業の内に、神はしっかりとご自身の栄光を表しておられます。

 終わりに二つのお話を加えて置きます。一つは使徒言行録に記されたアナニヤとサフィラのお話しです。初めのころの教会は、福音の喜びに満ちて、皆が持物をもちよって生活をも支え合っていたことが知られています。そうした中で、皆がそうするからという理由ででしょうか、自分の土地を売り払って教会にささげることもあったようです。今でもそういうことは幾つもあります。アナニヤとサフィラもそんな志をもった夫婦でした。しかし、彼らは全部をささげるのはもったいないと思って一部を手元に残しておいて、残りを教会に献金しました。そこでささげるときに、あたかも全額をささげたかのように偽りました。使徒ペトロがそのことを見抜いて二人に問いますが、二人とも口裏を合わせて嘘を語ったために、天罰が下って二人ともその場で息絶えました。サタンに心を奪われ、聖霊を欺いた、とペトロは指摘しています。これは教会にとって厳しい事例となりましたが、ささげものや施しという信仰の行為が、今日見てまいりましたところの偽善で汚されることが、これほどまでに警戒されたことの事例です。祈りに導かれて、自分の心からの喜びと感謝とを、そのまま奉仕にあらわせばよいのであって、周囲の目を気にして、評判を勝ち取るために装うことは教会の信仰を損ねるということでしょう。

 もう一つの例をお話しします。神学生の頃、韓国へ訪問旅行に出かけました。丁度月の初めでしたでしょうか、旧正月とぶつかりまして、ソウルの街には人影が殆ど見当たりませんでした。名のメンバーでしたが、朝早く旅館を出て、どこかへ向かう途中でした。街中は全くの無人で、地下鉄の入り口付近に物乞いの女性が子供を抱いて座っているくらいでした。私たちは朝食を買おうと近くのコンビニへ足を運びましたが、それぞれ勝手に買い物をして表で待ち合わせていると、一人が遅れてやってきました。私はその一人の行動をずっと見ていたのです。彼がコンビニへ入ったのは自分の朝食を買うためではありませんでした。パンと牛乳を買い、一人で表へ出て先ほどの親子の座っているところへ行き、無言でそれを胸に押しつけ、そのまま黙って我々のところへ戻ってきたのです。皆がそれに気づいたかどうかは知りません。そのまま一行は何もなかったかのように先へ行きました。私はその先自分がどこへ行ったかも覚えていません。すべてが沈黙の内に行われた、その彼の鮮やかな行動に撃たれてしまいまして、感動したと同時に深く恥じ入ったのです。我々はその親子を風景の一部にしか見ていなかったのですから。

 真実な行動は心の純粋さに導かれます。聖霊が導いてくださるままに、私たちの心を神に明け渡して、キリストの御業にあるがままの自分を委ねることができたら幸いです。

 

祈り

父なる御神、私たちは自分の罪からあなたの前にあることを忘れ、人からの評価を求めて返ってあなたからの無限の愛を失い、際限のない名誉の奪い合いと孤独へと陥ってしまいます。どうか、憐れんで下さって、いつも主イエス・キリストの御業を思い起こし、生けるあなたの前に立たせて下さり、罪のしがらみから抜け出て、まっすぐにあなたの恵みを受け止めさせてください。聖霊なる御神が、私たちの内に働いて、どうか御旨に適う、隣人への憐れみを、心の内に豊かに保ち、臆せず分け与えて行くことができますように、お願い致します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。