ヨシュア記23章1ー16節「ヨシュアの告別」

 

主の戦いを思い起こす

 「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となった」ことはすでに13章で告げられていましたが、イスラエルのすべての部族に対する土地の分配が完了して、いよいよヨシュアの役割も終わろうとしています。申命記の終わりでモーセがの告別の辞を述べたことにならって、この23章でもヨシュアの最後の説教がなされます。これまで経験して来た神の恵みを思い返して、これからの将来が次の世代に引き渡されます。

 「あなたたちの神、主があなたたちのために、これらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見て来た」(3節)と言われる通り、イスラエルの民は神の御業を目の当たりにしてきました。「土地を与える」と父祖たちと交わされた約束は見事に果たされて、イスラエルは安住の地を獲得しました。ここで次の世代が心に留めるべきことは、ヨシュアと父たちがどれほど勇敢に敵と戦ったか、ではありません。「あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった」ことです。人の力がこれを成し遂げたのではなく、神がご自身の言葉に忠実に振る舞われて、すべての恵みを果たされました。イスラエルに求められる信仰の服従は、すべてそこから始まります。説教の締めくくりに当たる14節以下でも初めにこう述べられます。

 あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。

私たちが聖書から教えられるのは実にこのことです。神が人に与える救いはいつも恵みが先行します。人が何かをなし得る前に、神が自ら行動されて救いは果たされます。人が神に従って良いことへと向かうのは、その後です。

 イスラエルの次世代の将来は、恵みの神への信頼にかかっています。すべてを言葉どおりに成し遂げてくださった神に、どこまでも固い信頼をおくならば、嗣業の土地は完全に自分たちのものになります。土地の分配はなされましたが、まだ未征服の土地が残っているのが現状です。しかし、神が自ら戦ってくださったことを思えば、これから先もすべてを神に期待することができます。

 あなたたちの神、主は、御自ら彼らをあなたたちのために押しのけ、あなたたちのために追い出される。あなたたちの神、主の約束されたとおり、あなたたちは彼らの土地を占領するであろう。(5節)

 あなたたちは一人で千人を追い払える。あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである。(10節)

御言葉への服従

 ヨシュアの世代に示された救いの恵みに基礎付けられて、イスラエルの民には神への服従が求められます。ヨシュア自身がモーセの律法に忠実な僕の姿を体現していたように、与えられた土地で律法を守って、神の御旨を実現することがイスラエルの新しい生活です。

 だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。(6節)

  だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。(11節)

「だから」と繰り返されるのは、主が私たちのために戦ってくださった、また、戦ってくださるから、との理由をはっきりさせるためです。律法から救いへ至のではなくて、救いから律法へ向かいます。律法には多くの掟が含まれていますけれども、その心は十戒に要約されていますように、神と隣人を愛することに尽きます。

信仰の純潔

 そこで注意が差し向けられているのは、「あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民」(7、12節)のことです。「これらの国民」の存在については、土地を分配するに当たって逐一指摘されていました。律法を遵守せよとの命令と相俟って、ここに表明される純血主義の受けとめ方に注意したいと思います。7節では「これらの国民」すなわち異邦人との交わりが禁じられ、12節ではそれが婚姻関係として具体的に示されています。キリスト教会の歴史にあっても人種差別を是とする人々の間では、これらの聖句が証拠聖句として引用されてきたと言います。しかし、ここにある問題の本質は、交流そのものでも結婚でもなく、それらがイスラエルにもたらすところの偶像崇拝にあります。7節では「その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない」と言われます。異教の神々に対する宗教的な習慣を混入させることで、イスラエルの心が主なる神から離れることが問題です。13節ではこう言われます。

 彼らはあなたたちの罠となり、落とし穴となり、脇腹を打つ鞭、目に突き刺さるとげとなり、あなたたちは、あなたたちの神、主が与えられたこの良い土地から滅びうせる。

異国の妻たちを迎えて国に偶像崇拝を導入したのはソロモンを始めとするイスラエルの王たちの罪であったと『列王記』は記しています。そして、終わりの16節で警告されている通り、南北イスラエル王国は神との契約を破って滅び去ってしまいます。求められたのは血の純粋さではなく、信仰の純血です。「今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ」「あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」。神に選ばれ、救われた身であることを感謝して、心から主に対する信仰の純血を守ることが、問題の本質なのであって、異邦人との間にある障壁は、『ヨシュア記』の中でも既に事例が見られる通り、絶対的なものではありません。

教会の純潔

 この23章に記された「告別説教」は『ヨシュア記』の要約とも言われます。ここに私たちは新約の福音の原型を見ます。神は主イエス・キリストにおいて、私たちのために戦ってくださいました。私たちにはすでに主にあって獲得された永遠の安息があり、私たちは御子と共に御国の嗣業を分け与えられています。キリスト者としての私たちの生活は、そうした神の真理に基礎付けられて、つまり、神の恵みを出発点として、聖書に示された神の御旨に忠実であるように、神と人とを愛する毎日であるように進められます。私たちの日常は、私たちの救いの根拠であるキリストへの純潔を脅かすような道具立てに囲まれています。それを軽く見積もらないことが、個々にも教会にも必要な心構えでしょう。

  あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。(11節)

と、契約の厳かさが訴えられている通りです。私たちもまた、旧約のイスラエルと同じような環境に置かれて、同じ弱さをもっています。キリストに対する心の純潔を守るために、よく注意して、教会の礼拝と交わりとを作って行かなくてはなりません。

 私たちの内に生じるすべての良いことは、神が御自分の力で実現してくださることを、今日聞きました。私たちもまた、『ヨシュア記』を通じて、神の御業をことごとく見て来ました。ヨシュアは今日、私たちに神への信頼と愛を呼びかけています。福音に約束されたすべての良いことが、聖霊を通して、神の力によって、私たちの間でことごとく成就するのを、私たちの将来にも期待しつつ教会を主にささげてまいりたいと願います。

祈り

天の父なる御神、すべての良いことはあなたの御旨に従い、あなたの力によって私たちの間で実現します。誘惑の多いこの世の中で、私たちが主イエス・キリストにのみ目を注ぎ、純潔を守って、あなたの御旨が果たされることを期待することができるように、聖霊を送ってください。そうして、愛によるあなたのご支配が、さらに一歩でも世界に広がりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。